上 下
27 / 48

26 高まる想い

しおりを挟む
 夕焼けに染まる空が、凪の湖に橙色の光を反射している。たくさんの刺激を受けて興奮に上気した頬に、少し涼しくなった風が心地良かった。

 湖に程近い砂浜のエリアでは、これから行われるナイトイベントの余興が始まっている。砂浜の特設ステージに設けられた音楽ブースには、ターンテーブルなどの機材が運び込まれ、小気味よい重低音を響かせている。
 音楽ブースの左右には、壁のように設けられた大きなキャンバスがあり、即席のアートエリアが設けられている。まだ人は疎らだったが、何人かがスプレー缶を手にキャンバスの端に思い思いの色を吹き付けているのが見えた。
 普段の生活では、ほとんど触れることのない大音量の音楽に包まれながら、リーリエは無意識に身体全体でリズムを取っていた。

「なかなかいい音だな」

「うん」

 エドガーに相槌を打つリーリエの右手は、さながらスプレー缶を振るような仕草で動いている。それに気づいたエドガーは、リーリエの手を引いて注意を促した。

「やろうぜ」

「いいの?」

 ほとんど意図せず意識から追い出していたキャンバスに注意を向けられ、リーリエは思わず問い返した。

「いいもなにも――」

 エドガーは、リーリエの反応に少し戸惑ったように顔を歪め、それからキャンバスに向かう若者たちの方に視線を移した。

「楽しそうだろ?」

「……ええ」

 スプレーをキャンバスに吹き付ける人々の楽しそうな横顔を見、リーリエも同意する。その同意を確かめてから、エドガーはリーリエの手を引いてアートエリアへと歩を進めた。

「彼氏さん、彼女さんもどうですかー?」

 近づいてくる二人に気づいたスタッフが、スプレー缶を入れた籠を差し出す。

「俺も一緒にやる」

 エドガーはリーリエと目を合わせて微笑んで頷き、迷わずに水色の塗料を取った。リーリエは少し指を彷徨わせ、それから橙色とピンクのスプレー缶を手にした。

「おっ、やる気だな」

「そうかも」

 真新しいスプレー缶を振りながら、キャンバスに描く絵を思い浮かべる。キラキラとした夕陽の光に照らされた湖が、一層眩しく、美しく見えた。

「……っ」

「大丈夫か? ほら」

 夕陽に見とれて砂に足をとられたリーリエの腕を引き、エドガーが身体を寄せる。

「もう子供じゃないのに」

 寄り添うようにゆっくりと歩みを進めて行くエドガーを見上げて、リーリエは軽く頬を膨らませた。

「知ってる」

 エドガーは微笑みながらリーリエの腕から手を外し、代わりにリーリエの手指を絡め取った。

「アーカンシェルの女神だ……」

 キャンバスの前まで進んだリーリエに気づいた人たちが、口々にその名を呟いている。さりげなく場所を空けた人々に導かれるように、リーリエはキャンバスの正面に立った。

「婚約破棄されても、まだその名前で呼んでくれる人がいるのね」

「お前が成し遂げたことは、何も変わらないからな」

 リーリエの呟きに、エドガーは落ち着いた声で返す。

「でも、私は女神なんかじゃないよ」

 リーリエはそう言って吹っ切れた笑顔で笑うと、スプレー缶を振りながらキャンバスを見つめた。

 絵を描くのは――自分を表現するのは、まだ少しだけ怖い。

 それでも、なにを描こうかぼんやりと見えて来るような感覚があった。
 胸を躍らせ、目の前に眩い輝きを広げるあの高揚した感覚が蘇ってくる。胸に手を当て、呼吸を整えると、リーリエは隣に立つエドガーを見上げた。

「二人同時にいい?」

「俺もそう思ってた」

 にっと笑って答えたエドガーが、水色のスプレーを噴射しはじめる。
 リーリエも噴射を始め、そのまま踊るように絵を描き始めた。
 与えられた空白のスペースを自由に使って、周囲の絵と調和するように巧みに、美しくオレンジとピンクの塗料を吹き付けていく。

 それはやがてエドガーが描いた水色の絵を、湖のような波の絵として浮かび上がらせ、そこに写り込む夕陽の姿を映し出した。

「おぉ……」

 刻一刻と暮れていく空とは対称的に、鮮やかに時間を縫い止めたように浮かび上がる絵に、人々の中から感嘆の声が漏れる。
 リーリエは舞うように自由に描き続けながら、その一瞬の時を美しく描き出していく。エドガーも絵を描く手を止め、リーリエの姿に魅入っていた。

「綺麗だ」

「本当に女神みたいだ……」

 人々が口にするその言葉は、特設ステージから響く音楽と一体となってリーリエを包み込んでいく。その場にいる全ての人が、描き続けるリーリエの姿に釘付けとなっていた。
 リーリエは両手に持ったスプレー缶を噴射しながら、ワンピースの裾をはためかせて絵を仕上げて行く。余白の白が雲の姿を浮かび上がらせ、そこに夕陽の光が滲んだその時――

「あっ」

 スプレーが空になり、リーリエの動きが柔らかに止まった。

「ブラーヴァ!」

 エドガーの声が高らかに上がり、それを合図に割れんばかりの拍手が広がっていく。リーリエは空のスプレー缶を手に、きょとんとしたように目を瞬いたが、それから思い出したように照れ笑いを浮かべて深々と頭を垂れた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結済】冷血公爵様の家で働くことになりまして~婚約破棄された侯爵令嬢ですが公爵様の侍女として働いています。なぜか溺愛され離してくれません~

北城らんまる
恋愛
**HOTランキング11位入り! ありがとうございます!** 「薄気味悪い魔女め。おまえの悪行をここにて読み上げ、断罪する」  侯爵令嬢であるレティシア・ランドハルスは、ある日、婚約者の男から魔女と断罪され、婚約破棄を言い渡される。父に勘当されたレティシアだったが、それは娘の幸せを考えて、あえてしたことだった。父の手紙に書かれていた住所に向かうと、そこはなんと冷血と知られるルヴォンヒルテ次期公爵のジルクスが一人で住んでいる別荘だった。 「あなたの侍女になります」 「本気か?」    匿ってもらうだけの女になりたくない。  レティシアはルヴォンヒルテ次期公爵の見習い侍女として、第二の人生を歩み始めた。  一方その頃、レティシアを魔女と断罪した元婚約者には、不穏な影が忍び寄っていた。  レティシアが作っていたお守りが、実は元婚約者の身を魔物から守っていたのだ。そんなことも知らない元婚約者には、どんどん不幸なことが起こり始め……。 ※ざまぁ要素あり(主人公が何かをするわけではありません) ※設定はゆるふわ。 ※3万文字で終わります ※全話投稿済です

[完結]妹にパーティ追放された私。優秀すぎな商人の護衛として海外に行くそうです

雨宮ユウリ
恋愛
癒しやサポート系の魔法に優れ、精度の高いオリジナルの鑑定魔法を使えるサポート魔法師クレア。クレアは妹のエリカとともに孤児として彷徨っていたところ、エドワードという冒険者に拾われ冒険者となっていた。しかし、クレアはエリカに仕組まれ冤罪でパーティを追放されてしまう。打ちのめされるクレアに馴染みの商人ヒューゴが護衛としての仕事を依頼する。人間不信敬語商人と追放された鑑定魔法を持つ魔法使いの二人旅。

突然決められた婚約者は人気者だそうです。押し付けられたに違いないので断ってもらおうと思います。

橘ハルシ
恋愛
 ごくごく普通の伯爵令嬢リーディアに、突然、降って湧いた婚約話。相手は、騎士団長の叔父の部下。侍女に聞くと、どうやら社交界で超人気の男性らしい。こんな釣り合わない相手、絶対に叔父が権力を使って、無理強いしたに違いない!  リーディアは相手に遠慮なく断ってくれるよう頼みに騎士団へ乗り込むが、両親も叔父も相手のことを教えてくれなかったため、全く知らない相手を一人で探す羽目になる。  怪しい変装をして、騎士団内をうろついていたリーディアは一人の青年と出会い、そのまま一緒に婚約者候補を探すことに。  しかしその青年といるうちに、リーディアは彼に好意を抱いてしまう。 全21話(本編20話+番外編1話)です。

変態婚約者を無事妹に奪わせて婚約破棄されたので気ままな城下町ライフを送っていたらなぜだか王太子に溺愛されることになってしまいました?!

utsugi
恋愛
私、こんなにも婚約者として貴方に尽くしてまいりましたのにひどすぎますわ!(笑) 妹に婚約者を奪われ婚約破棄された令嬢マリアベルは悲しみのあまり(?)生家を抜け出し城下町で庶民として気ままな生活を送ることになった。身分を隠して自由に生きようと思っていたのにひょんなことから光魔法の能力が開花し半強制的に魔法学校に入学させられることに。そのうちなぜか王太子から溺愛されるようになったけれど王太子にはなにやら秘密がありそうで……?! ※適宜内容を修正する場合があります

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

婚約破棄から始まる恋~捕獲された地味令嬢は王子様に溺愛されています

きさらぎ
恋愛
テンネル侯爵家の嫡男エドガーに真実の愛を見つけたと言われ、ブルーバーグ侯爵家の令嬢フローラは婚約破棄された。フローラにはとても良い結婚条件だったのだが……しかし、これを機に結婚よりも大好きな研究に打ち込もうと思っていたら、ガーデンパーティーで新たな出会いが待っていた。一方、テンネル侯爵家はエドガー達のやらかしが重なり、気づいた時には―。 ※『婚約破棄された地味令嬢は、あっという間に王子様に捕獲されました。』(現在は非公開です)をタイトルを変更して改稿をしています。  お気に入り登録・しおり等読んで頂いている皆様申し訳ございません。こちらの方を読んで頂ければと思います。

現聖女ですが、王太子妃様が聖女になりたいというので、故郷に戻って結婚しようと思います。

和泉鷹央
恋愛
 聖女は十年しか生きられない。  この悲しい運命を変えるため、ライラは聖女になるときに精霊王と二つの契約をした。  それは期間満了後に始まる約束だったけど――  一つ……一度、死んだあと蘇生し、王太子の側室として本来の寿命で死ぬまで尽くすこと。  二つ……王太子が国王となったとき、国民が苦しむ政治をしないように側で支えること。  ライラはこの契約を承諾する。  十年後。  あと半月でライラの寿命が尽きるという頃、王太子妃ハンナが聖女になりたいと言い出した。  そして、王太子は聖女が農民出身で王族に相応しくないから、婚約破棄をすると言う。  こんな王族の為に、死ぬのは嫌だな……王太子妃様にあとを任せて、村に戻り幼馴染の彼と結婚しよう。  そう思い、ライラは聖女をやめることにした。  他の投稿サイトでも掲載しています。

領主の妻になりました

青波鳩子
恋愛
「私が君を愛することは無い」 司祭しかいない小さな教会で、夫になったばかりのクライブにフォスティーヌはそう告げられた。 =============================================== オルティス王の側室を母に持つ第三王子クライブと、バーネット侯爵家フォスティーヌは婚約していた。 挙式を半年後に控えたある日、王宮にて事件が勃発した。 クライブの異母兄である王太子ジェイラスが、国王陛下とクライブの実母である側室を暗殺。 新たに王の座に就いたジェイラスは、異母弟である第二王子マーヴィンを公金横領の疑いで捕縛、第三王子クライブにオールブライト辺境領を治める沙汰を下した。 マーヴィンの婚約者だったブリジットは共犯の疑いがあったが確たる証拠が見つからない。 ブリジットが王都にいてはマーヴィンの子飼いと接触、画策の恐れから、ジェイラスはクライブにオールブライト領でブリジットの隔離監視を命じる。 捜査中に大怪我を負い、生涯歩けなくなったブリジットをクライブは密かに想っていた。 長兄からの「ブリジットの隔離監視」を都合よく解釈したクライブは、オールブライト辺境伯の館のうち豪華な別邸でブリジットを囲った。 新王である長兄の命令に逆らえずフォスティーヌと結婚したクライブは、本邸にフォスティーヌを置き、自分はブリジットと別邸で暮らした。 フォスティーヌに「別邸には近づくことを許可しない」と告げて。 フォスティーヌは「お飾りの領主の妻」としてオールブライトで生きていく。 ブリジットの大きな嘘をクライブが知り、そこからクライブとフォスティーヌの関係性が変わり始める。 ======================================== *荒唐無稽の世界観の中、ふんわりと書いていますのでふんわりとお読みください *約10万字で最終話を含めて全29話です *他のサイトでも公開します *10月16日より、1日2話ずつ、7時と19時にアップします *誤字、脱字、衍字、誤用、素早く脳内変換してお読みいただけるとありがたいです

処理中です...