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26 高まる想い
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夕焼けに染まる空が、凪の湖に橙色の光を反射している。たくさんの刺激を受けて興奮に上気した頬に、少し涼しくなった風が心地良かった。
湖に程近い砂浜のエリアでは、これから行われるナイトイベントの余興が始まっている。砂浜の特設ステージに設けられた音楽ブースには、ターンテーブルなどの機材が運び込まれ、小気味よい重低音を響かせている。
音楽ブースの左右には、壁のように設けられた大きなキャンバスがあり、即席のアートエリアが設けられている。まだ人は疎らだったが、何人かがスプレー缶を手にキャンバスの端に思い思いの色を吹き付けているのが見えた。
普段の生活では、ほとんど触れることのない大音量の音楽に包まれながら、リーリエは無意識に身体全体でリズムを取っていた。
「なかなかいい音だな」
「うん」
エドガーに相槌を打つリーリエの右手は、さながらスプレー缶を振るような仕草で動いている。それに気づいたエドガーは、リーリエの手を引いて注意を促した。
「やろうぜ」
「いいの?」
ほとんど意図せず意識から追い出していたキャンバスに注意を向けられ、リーリエは思わず問い返した。
「いいもなにも――」
エドガーは、リーリエの反応に少し戸惑ったように顔を歪め、それからキャンバスに向かう若者たちの方に視線を移した。
「楽しそうだろ?」
「……ええ」
スプレーをキャンバスに吹き付ける人々の楽しそうな横顔を見、リーリエも同意する。その同意を確かめてから、エドガーはリーリエの手を引いてアートエリアへと歩を進めた。
「彼氏さん、彼女さんもどうですかー?」
近づいてくる二人に気づいたスタッフが、スプレー缶を入れた籠を差し出す。
「俺も一緒にやる」
エドガーはリーリエと目を合わせて微笑んで頷き、迷わずに水色の塗料を取った。リーリエは少し指を彷徨わせ、それから橙色とピンクのスプレー缶を手にした。
「おっ、やる気だな」
「そうかも」
真新しいスプレー缶を振りながら、キャンバスに描く絵を思い浮かべる。キラキラとした夕陽の光に照らされた湖が、一層眩しく、美しく見えた。
「……っ」
「大丈夫か? ほら」
夕陽に見とれて砂に足をとられたリーリエの腕を引き、エドガーが身体を寄せる。
「もう子供じゃないのに」
寄り添うようにゆっくりと歩みを進めて行くエドガーを見上げて、リーリエは軽く頬を膨らませた。
「知ってる」
エドガーは微笑みながらリーリエの腕から手を外し、代わりにリーリエの手指を絡め取った。
「アーカンシェルの女神だ……」
キャンバスの前まで進んだリーリエに気づいた人たちが、口々にその名を呟いている。さりげなく場所を空けた人々に導かれるように、リーリエはキャンバスの正面に立った。
「婚約破棄されても、まだその名前で呼んでくれる人がいるのね」
「お前が成し遂げたことは、何も変わらないからな」
リーリエの呟きに、エドガーは落ち着いた声で返す。
「でも、私は女神なんかじゃないよ」
リーリエはそう言って吹っ切れた笑顔で笑うと、スプレー缶を振りながらキャンバスを見つめた。
絵を描くのは――自分を表現するのは、まだ少しだけ怖い。
それでも、なにを描こうかぼんやりと見えて来るような感覚があった。
胸を躍らせ、目の前に眩い輝きを広げるあの高揚した感覚が蘇ってくる。胸に手を当て、呼吸を整えると、リーリエは隣に立つエドガーを見上げた。
「二人同時にいい?」
「俺もそう思ってた」
にっと笑って答えたエドガーが、水色のスプレーを噴射しはじめる。
リーリエも噴射を始め、そのまま踊るように絵を描き始めた。
与えられた空白のスペースを自由に使って、周囲の絵と調和するように巧みに、美しくオレンジとピンクの塗料を吹き付けていく。
それはやがてエドガーが描いた水色の絵を、湖のような波の絵として浮かび上がらせ、そこに写り込む夕陽の姿を映し出した。
「おぉ……」
刻一刻と暮れていく空とは対称的に、鮮やかに時間を縫い止めたように浮かび上がる絵に、人々の中から感嘆の声が漏れる。
リーリエは舞うように自由に描き続けながら、その一瞬の時を美しく描き出していく。エドガーも絵を描く手を止め、リーリエの姿に魅入っていた。
「綺麗だ」
「本当に女神みたいだ……」
人々が口にするその言葉は、特設ステージから響く音楽と一体となってリーリエを包み込んでいく。その場にいる全ての人が、描き続けるリーリエの姿に釘付けとなっていた。
リーリエは両手に持ったスプレー缶を噴射しながら、ワンピースの裾をはためかせて絵を仕上げて行く。余白の白が雲の姿を浮かび上がらせ、そこに夕陽の光が滲んだその時――
「あっ」
スプレーが空になり、リーリエの動きが柔らかに止まった。
「ブラーヴァ!」
エドガーの声が高らかに上がり、それを合図に割れんばかりの拍手が広がっていく。リーリエは空のスプレー缶を手に、きょとんとしたように目を瞬いたが、それから思い出したように照れ笑いを浮かべて深々と頭を垂れた。
湖に程近い砂浜のエリアでは、これから行われるナイトイベントの余興が始まっている。砂浜の特設ステージに設けられた音楽ブースには、ターンテーブルなどの機材が運び込まれ、小気味よい重低音を響かせている。
音楽ブースの左右には、壁のように設けられた大きなキャンバスがあり、即席のアートエリアが設けられている。まだ人は疎らだったが、何人かがスプレー缶を手にキャンバスの端に思い思いの色を吹き付けているのが見えた。
普段の生活では、ほとんど触れることのない大音量の音楽に包まれながら、リーリエは無意識に身体全体でリズムを取っていた。
「なかなかいい音だな」
「うん」
エドガーに相槌を打つリーリエの右手は、さながらスプレー缶を振るような仕草で動いている。それに気づいたエドガーは、リーリエの手を引いて注意を促した。
「やろうぜ」
「いいの?」
ほとんど意図せず意識から追い出していたキャンバスに注意を向けられ、リーリエは思わず問い返した。
「いいもなにも――」
エドガーは、リーリエの反応に少し戸惑ったように顔を歪め、それからキャンバスに向かう若者たちの方に視線を移した。
「楽しそうだろ?」
「……ええ」
スプレーをキャンバスに吹き付ける人々の楽しそうな横顔を見、リーリエも同意する。その同意を確かめてから、エドガーはリーリエの手を引いてアートエリアへと歩を進めた。
「彼氏さん、彼女さんもどうですかー?」
近づいてくる二人に気づいたスタッフが、スプレー缶を入れた籠を差し出す。
「俺も一緒にやる」
エドガーはリーリエと目を合わせて微笑んで頷き、迷わずに水色の塗料を取った。リーリエは少し指を彷徨わせ、それから橙色とピンクのスプレー缶を手にした。
「おっ、やる気だな」
「そうかも」
真新しいスプレー缶を振りながら、キャンバスに描く絵を思い浮かべる。キラキラとした夕陽の光に照らされた湖が、一層眩しく、美しく見えた。
「……っ」
「大丈夫か? ほら」
夕陽に見とれて砂に足をとられたリーリエの腕を引き、エドガーが身体を寄せる。
「もう子供じゃないのに」
寄り添うようにゆっくりと歩みを進めて行くエドガーを見上げて、リーリエは軽く頬を膨らませた。
「知ってる」
エドガーは微笑みながらリーリエの腕から手を外し、代わりにリーリエの手指を絡め取った。
「アーカンシェルの女神だ……」
キャンバスの前まで進んだリーリエに気づいた人たちが、口々にその名を呟いている。さりげなく場所を空けた人々に導かれるように、リーリエはキャンバスの正面に立った。
「婚約破棄されても、まだその名前で呼んでくれる人がいるのね」
「お前が成し遂げたことは、何も変わらないからな」
リーリエの呟きに、エドガーは落ち着いた声で返す。
「でも、私は女神なんかじゃないよ」
リーリエはそう言って吹っ切れた笑顔で笑うと、スプレー缶を振りながらキャンバスを見つめた。
絵を描くのは――自分を表現するのは、まだ少しだけ怖い。
それでも、なにを描こうかぼんやりと見えて来るような感覚があった。
胸を躍らせ、目の前に眩い輝きを広げるあの高揚した感覚が蘇ってくる。胸に手を当て、呼吸を整えると、リーリエは隣に立つエドガーを見上げた。
「二人同時にいい?」
「俺もそう思ってた」
にっと笑って答えたエドガーが、水色のスプレーを噴射しはじめる。
リーリエも噴射を始め、そのまま踊るように絵を描き始めた。
与えられた空白のスペースを自由に使って、周囲の絵と調和するように巧みに、美しくオレンジとピンクの塗料を吹き付けていく。
それはやがてエドガーが描いた水色の絵を、湖のような波の絵として浮かび上がらせ、そこに写り込む夕陽の姿を映し出した。
「おぉ……」
刻一刻と暮れていく空とは対称的に、鮮やかに時間を縫い止めたように浮かび上がる絵に、人々の中から感嘆の声が漏れる。
リーリエは舞うように自由に描き続けながら、その一瞬の時を美しく描き出していく。エドガーも絵を描く手を止め、リーリエの姿に魅入っていた。
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「あっ」
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