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17 失意の夜

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 あの日の夜に描かれた絵は、リーリエの自室に運ばれた。
 互いの想いを確かめ合い、想いを重ねるように描いた絵は、リーリエの強い支えとなった。言葉では伝えきれない想いが、絵を通じて訴えかけてくる。

 ――愛している、と。

 そうして迎えたお披露目を兼ねた舞踏会の日。
 二人を嘲笑うかのような事件は起こった。

「なんということを――」

 トルソーに着せられた純白のドレスが黒い塗料で染まっている。床には無数のスプレー缶が転がり、塗料が吹き付けられた跡は床の絨毯の上や壁にも及んでいた。

「もう時間がないわ。先に行って、アルフレッド」

 祝福の象徴であった白いドレスの姿を無残に変えてしまっている。このままでは、舞踏会に出席することは叶わない。

「だけど、リーリエ。君を置いては行けない」

 側付きメイドのナタリーは田舎から戻っておらず、臨時のメイドもドレスの準備を終えると同時に返されてしまっている。替えのドレスを用意しようにも、誰にも頼めない。
 追い打ちをかけるように、調律の音が響き始める。

「このままでは、お客様の前に出られないわ」

「それでも、今夜の舞踏会を欠席することは出来ない。父上の顔に泥を塗ることになる」

「ええ、でも――」

 ナタリーがいてくれたら、どんなに心強かったか。そう言いたかったが、リーリエは途中で言葉を切った。その力添えは、今は望めない。それこそが、ナタリーを田舎に帰した誰かの思惑なのだから。

「一体、どうしたら……」

「大丈夫、どうにかして間に合わせるわ」

「でも、舞踏会はもうすぐ始まる。新しいドレスなんてどこにも――」

 リーリエは頭を振り、アルフレッドと描いた『誓い』の絵を視線で示した。

「私には、これがあるもの」

「……君はいつも私を助けてくれるね。命の恩人というだけではない、尊き伴侶だ」

 アルフレッドがリーリエの手を取り、その甲にそっと口付ける。

「君を信じるよ、リーリエ」

 リーリエの手をそっと解きながら、アルフレッドはもう一度彼女を抱き寄せて頬に口付けた。
 短い抱擁を交わし、アルフレッドが階下の舞踏場へと向かっていく。

 リーリエは、床に散らばったスプレー缶を拾い上げると、目を閉じた。
 アスカと踊ったダンスパーティーの夜。漆黒の空を煌めかせた花火の光。胸を去来する沢山の想いと愛しいという気持ちを思い描いたリーリエは、それを目の前のドレスの上に表現した。

 一曲目の舞曲カドリーユの旋律が、何度も繰り返されている。心の中で詫びながら速乾作用のある塗料を仕上げに吹き付けたリーリエは、トルソーからドレスを剥がすと、急いで身に着け、舞踏場へと駆けた。





 だが、舞踏場に現れたリーリエを歓迎する者は誰ひとりとしていなかった。
 皆が怪訝な顔でリーリエを見つめている。驚嘆とひそひそとした蔑みの声が、リーリエの耳にはっきりと届いた。

「……リーリエ?」

 駆け寄ってきたアルフレッドでさえも、リーリエを見て落胆の表情を浮かべている。

「どうにか、この場に似合うものをと思ったのだけど……」

 なんとか笑おうとしたが、上手くいかなかった。
 舞曲の演奏は途切れ、ざわめきと侮蔑の声がひそひそと輪を成してリーリエを取り囲んでいる。そのざわめきを止めたのは、アルフレッドの母エリザベートの冷たい声だった。

「……これで全てがはっきりしました。お集まりの皆さまには大変申し訳ありません。アルフレッド・リヒテンブルグと、リーリエ・バンクシーとの婚約は、只今をもって破棄致します」

 誰も意を唱えなかった。アルフレッドもリーリエと目を合わせようとしなかった。
 それが、リヒテンブルグ家の答えの全てだった。





 促されるまま、舞踏場を去ったリーリエが自室に戻ると、ベッドの上に見慣れないトランクが置かれていた。中には、リーリエの私物が詰め込まれている。

 アルフレッドとの絆を象徴するあの誓いの絵は、婚約破棄を言い渡されたリーリエを嘲笑うかのように黒く塗り潰されている。
 無残に心を踏みにじられ、リーリエは声もなく泣いた。

 悲しくて、悔しかった。言葉では言い表すことが出来ない感情に打ちのめされ、リーリエはトランクの蓋を閉めると廊下に出た。

「こちらへ」

 壮年の従者が有無を言わさぬ口調でリーリエのトランクを取り上げ、屋敷の外へと誘う。蒸気車両に詰め込まれたリーリエは、失意のまま屋敷を離れた。
 煌びやかな明かりの屋敷が、涙で滲んで見えなくなる。遠くで雷鳴が轟いたかと思うと、ばらばらと降り出した雨が冷たく窓を打ち始めた。

 震える手を握りしめ、きつく唇を噛んだ。
 悪い夢に落ちていくときのように、視界がぼやけていく。
 何も見えず、何も見たくなかった。 
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