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8 突然のプロポーズ

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 用意された軽食や菓子を摘まみながら、紅茶を飲むうちに、会話は進み、和やかに打ち解けていく。

「突然だけどリーリエ、ここで絵を描いてみないかい?」

 上段の砂糖菓子とチョコレートを残すのみとなった頃、アルフレッドが温かな紅茶を淹れながらリーリエに切り出した。

「君が絵を描くところを見てみたいんだ」

 申し出にリーリエは目を瞬いたが、アルフレッドは微笑みながら紅茶を注いだカップを置くと、返答に迷うリーリエの顔を覗き込むように見つめた。

「本当に?」

「もちろん本気さ。絵を頼まれるのは、そんなに意外?」

 アルフレッドの問いかけにリーリエは頷き、どう伝えたものかと思いながら、結局は思ったままを口にした。

「貴族のみなさんって、私たちが描く絵のことも落書き程度にしか思っていないと、思ってたから」

「それは誤解だよ、リーリエ」

 返答にリーリエは頭を振った。事実、一般市民街では人気のリーリエ親子が手がけた看板は、貴族街に程近い場所では反対運動に遭い、設置には到っていない。街の景観を損なうという保守派の根強い意見により、リーリエの仕事もそのほとんどが商業区域に集中しているのだ。

「その……快く思わない人間がいることも知っている。父上も私も、君と君の御父上が商業区域に新たな息吹を吹き込んだことに注目しているんだ。それに、私と君との出逢いは、そうした誤解を解く切っ掛けになるんじゃないかと――」

「出逢い……?」

 熱っぽく語るアルフレッドの言葉に、リーリエは思わず声を上げた。

「運命的だと私は思っているよ。迷惑かな?」

 どう答えたものか迷ったが、恋愛感情と結びつけるのは意識しすぎている気がし、リーリエは無難な答えを選んで微笑んだ。

「……い、いいえ。私たちの描くものに興味を持ってもらえるのは、この街の住民としても嬉しいことよ」

「わかってくれて嬉しいよ、リーリエ」

 アルフレッドは柔和に微笑み、部屋の奥へとゆっくりと移動した。

「でも、ごめんなさい。今日は道具を持ってきていないの」

「心配ないよ」

 アルフレッドが微笑みながら、暗幕のようなカーテンを引く。カーテンが晴れると、部屋の奥が露わになり、大きなキャンバスやリーリエの仕事道具と似たエアブラシなどが露わになった。
 奥の部屋は今居る部屋よりも少し天井が高く、天井に回転羽根が取り付けられている。二重構造になった屋根の頂点には、雨を凌ぐ大きな屋根が被さっており、吹き抜けになっている回転羽根の付いた屋根をゆったりと覆っていた。

「急ごしらえだからまだ未完成だけど、君のために用意したアトリエだよ。どうかな、気に入ってもらえたかな?」

 回転羽根が、吹き込んでくる風を受けて、くるくると回っている。

「ええ、でも――」

「これは私が勝手に用意したもの。使うも使わないも、君次第だ。もちろん、君の気が進まないのならば――」

「いいえ、アルフレッド」

 アルフレッドの誤解を解こうと、リーリエは慌てて頭を振った。

「ああ、どっちの意味かは聞かないよ。でも、それだけでも嬉しい」

 アルフレッドは微笑み、リーリエに向けて手を差し出した。リーリエはアルフレッドの手のひらに指先を乗せると、アトリエに歩を進めた。

「……ありがとう。とても素敵……」

 揃えられた道具を見ただけでも、アルフレッドがリーリエの描くスプレーアートのことを理解しようと努めていたことがわかる。慣れ親しんだ塗料と同じものが並んでいることに感嘆の吐息を漏らしながら、リーリエはそのなかの一つを手に取った。

「せっかくだから、一緒に何か描いてみない?」

 黄色の塗料が入ったスプレー缶を取り、アルフレッドを振り返る。

「私に? 描けるものかな?」

「これだけの画材を用意出来ているなら、絵心はあるんじゃないかしら?」

 謙遜した様子のアルフレッドの目を見つめて問いかけると、彼は苦笑を浮かべて顔の近くで両手を挙げた。

「ああ、君にはお見通しなんだね。多少ならば……。だけど、君の絵の邪魔になったりはしないだろうか?」

「共作にしない?」

「共作だって? いいのかい?」

 提案に意外そうに問い返したアルフレッドが、戸惑いの表情を浮かべている。リーリエは微笑んで頷き、まだ真っ白なキャンバスを仰ぐようにして眺めた。

「ええ。そうすれば、あなたのことがもっとわかる気がするの」

 このキャンバスにアルフレッドが何を描くか。そのことを考えるだけで胸が躍った。

「面白いことを言うね。それはどうして?」

「私が描くアートは、壁画文化に似てるの。言葉で上手く伝えられないことも、絵の中でなら自由に自分らしく表現できる。私のことも知ってもらえるかもしれないから」

 自分の中では、何を描くべきかはもう決まっている。リーリエの脳裏には、アルフレッドの笑顔を、光に喩えたイメージが既に浮かんでいた。

「なるほど。非言語によるコミュニケーションというわけだね」

 アルフレッドの上品なその笑顔は、見ているだけで太陽に照らされた時のように温かな気持ちになる。もっと見ていたいと思わせる不思議な魅力を備えている。それはまるで、あたたかく周囲を照らす太陽のようだとリーリエは思った。

「現代美術のメッセージ性にも通じるところもあるし、独創的で、実に素敵だ。……そういうことなら、喜んで」

 リーリエの説明で合点がいったように、アルフレッドが深く頷く。彼は青みがかった黄緑色の缶を手に取ると、手首をスナップさせるようにして上下に振った。
 リーリエも彼に倣って缶の蓋を外すと、慣れた動作を繰り返して目を閉じた。

 キャンバスの残影に、自分の頭の中にあるイメージを重ねる。そのイメージが重なる瞬間を待ち、リーリエは弧を描くように黄色のスプレーを噴射した。
 踊るように全身を動かしながら、左右の手で自由にキャンバスを彩り始める。白の余白には更なる光を見出し、リーリエはあたたかく微笑むような太陽の絵を描いていく。
 アルフレッドもリーリエに倣い、疎らにスプレーを噴射する。それはやがて芽吹くように蔓を伸ばし、瑞々しい葉となって光の中で手を伸ばした。
 キャンバスの端から端へと移動したリーリエが、目を閉じて息を吐いた。

「やはり、君は最高だよ、リーリエ!」

「きゃっ」

 まるで舞台の幕が下りたときのように頭を垂れたリーリエを、アルフレッドが強く抱きしめる。
 リーリエは驚きのあまり短い悲鳴を上げ、塗料で濡れた手を慌てて引っ込めようとしたが、アルフレッドは退かなかった。

「汚れてしまうわよ、アルフレッド」

「構わないよ。その方がもっと君を感じられる。君が帰った後もね」

 アルフレッドが息を弾ませながら言い、リーリエの目を見つめる。

「アルフレッド……」

 目を合わせて彼の名を呼ぶと、アルフレッドは頷いてリーリエにひざまずき、その手の甲に口付けた。

「アルフレッド……?」

「リーリエ、唐突なのは承知の上で言わせてくれ。……私と結婚してくれないか?」

「…………」

 真摯な目で見つめられ、答えようにも声が出なかった。アルフレッドはリーリエの手を取ったままゆっくりと立ち上がり、瞳を見つめて続けた。

「一目惚れなんだ。死を覚悟したあの日、君が颯爽と現れて私の手を取ってくれた。あのときほど、私の心を動かしたものはない」

 アルフレッドの心に偽りがないことは、その視線からも伝わってくる。生まれて初めて向けられた真っ直ぐな好意の言葉に、リーリエは瞬きさえ忘れてアルフレッドの瞳に魅入った。

「君さえよければ、どうか、私の元に来てくれないか?」

「その……。気持ちは嬉しいのだけれど――」

「身分なんて関係ない。大事なのは私と君の気持ちだ。違うかい?」

 やっと声を出せたが、やはり答えは出せそうにない。手を握って距離を詰めてくるアルフレッドから、リーリエはやっと視線を逸らして絞り出すように声を発した。

「……ごめんなさい……。急すぎて、ちょっと今は、わからないわ……」

 突然の告白に困惑を隠せなかったが、リーリエの胸はアルフレッドの言葉に高鳴っている。目を見つめられてばそれだけで、頬が熱くなる感覚があった。

「ああ、済まない。それはそうだろう……。その、望みを持っても良いのならば、待たせてもらえないかな?」

「え、ええ……」

 気持ちを確かめるようにそっと握りしめられた指先は、アルフレッドと離れたあとも、ずっと熱いままだった。
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