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6 アーカンシェルの女神
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室内の固定電話がけたたましく鳴っている。
屋根に上り、天窓から従機用のエアブラシを下ろしていたリーリエは、慌てて梯子を下り、壁付けの電話から受話器を引き上げた。
「お待たせ致しました。バンクシー・ペイントサービス――」
「ニュースを見たわ、リーリエ!」
「ママ!?」
受話器の向こうからリーリエにそっくりな声を響かせたのは、母親のミシェル・バンクシーだった。
「街から高速道路に上るなんて……。ああ、お前は本当にあの人に似て……」
ミシェルの口吻からは、三年前に亡くなった父親の在りし日の姿が伝わってくる。事実、リーリエの父も高速道路で起きた事故を後続車に伝えようとしたところで、別の事故に巻き込まれたのだ。
「あんな無茶なことは、もうたくさんよ」
「ごめんなさい、ママ――」
「……と言うのは、ママの立場からね」
謝罪の言葉を口にしたリーリエを遮り、ミシェルは興奮を隠しきれない様子で息を吐いた。
「本音を言うと、最高だったわ! あの従機の操縦の腕は、あの人の若い頃を彷彿とさせたし、無事に公爵家の御子息を助けたことも誇らしいわ」
「え……?」
まるで少女のように無邪気に声を弾ませ、ミシェルがリーリエの活躍を讃えている。ニュースを見たというよりも、まるでその現場を見ているような口ぶりだった。
「それにね、なにより『アーカンシェルの女神』が、私たちの娘だなんて!」
「……アーカンシェルの女神?」
耳慣れない言葉をオウム返しにしたリーリエの問いは、突如として響いたドアベルによって遮られた。
「郵便かしら? ちょっと待っていてね、リーリエ」
「うん」
ミシェルが受話器を置き、電話から離れていく。別段することもなく、リーリエは屋根から下ろしたばかりの巨大なエアブラシを眺めながら、受話器に耳を当てて小首を傾げた。
受話器の向こうからは、ミシェルと郵便配達人のやりとりが微かに聞こえてくる。
「まあ!」、「なんてこと!」という驚きの声が響いた後、慌ただしい足音が響き、受話器の向こうからリーリエを呼ぶ叫び声が聞こえて来た。
「リーリエ、リーリエ!」
「聞こえてるわ、ママ」
叫びながら受話器越しに呼びかけられ、耳を離しながらリーリエは苦笑を浮かべた。
「何が届いたの?」
「電報よ! 公爵家からの!」
ミシェルは興奮した様子で息を弾ませている。受話器の向こうで聞こえる紙が擦れた音は、届いた電報を読み返そうとしているせいなのだろう。
「……昨日のお礼?」
「違うわ! ……ううん、お礼はお礼なんだと思うけど、そんな簡単なものじゃないのよ」
興奮を隠しきれない様子で話しながら、ミシェルが息を整える。
「……落ち着いて聞いてね、リーリエ」
「私は落ち着いてるわ」
電報の内容を伝えようとしているのだと察したリーリエは、受話器を強く耳に当て、母親の次の言葉を待った。
「パパの借金を、公爵家が返済してくださったの」
「えっ!?」
伝えられた言葉には、リーリエも驚きを隠すことが出来なかった。その言葉が本当ならば、アルフレッドはたった一晩でリーリエの素性を調べ上げ、借金の存在を知ったということになるのだろうか。
この街を統治している公爵家の子息とはいえ、予想外の行動にリーリエの腋を冷たい汗が流れた。
「……どうしよう。私、そんなつもりじゃ……」
相手が誰であろうと、見過ごすことが出来なかった。ただ、それだけだ。
身に余る厚意を前に、リーリエが戸惑いの声を上げると、今度はミシェルが落ち着いた声を返した。
「わかっているわ、リーリエ。ちゃんと続きがあるの」
「続き?」
「そう。元々はパパのお金だったのよ!」
電報の他にもう一通手紙があるのだろう。ミシェルが電話口で忙しなく紙を捲っている。届けられた手紙によって、新たに判明した事実を告げられたリーリエは、にわかには信じられずに目を瞬いた。
ひとつめは、リーリエの父は、自身の死後のことを考え、自由都市同盟の商業組合で新たに発足した遺族への保険金制度に加入し、保険料を納めていたこと。
もうひとつは、事故の相手方の貴族が事故の原因を高速道路上の歩行と訴えていたことから、保険支払いの要件を満たさないとされ、遺族には保険金のことが知らされなかったこと。
だが、これらの事実は、公爵家の再調査ですぐに判明し、昨晩のうちに全ての手続きが進められたということらしい。事故の原因の捏造などは、それほど杜撰なものではあったが、事故から三年が経つにも拘わらず、今日までリーリエら一介の市民では知る由もなかったのだ。
「それを、アルフレッド様が?」
「ええ。借金を相殺した後の、保険金も入るそうよ」
ミシェルはいつの間にか涙声になっており、受話器の向こうからは鼻を啜るような音が響いている。
「私たち、やっぱり愛されていたのね……。なのに、何も知らないで、こんな――」
紡ぎ掛けた言葉をそこで切り、ミシェルは大きく息を吐いた。リーリエも受話器を握りしめて頷き、声を震わせた。
「私、アルフレッド様にお礼を言わないと」
「是非お願いするわ。あなたからも伝えた方が、きっと感謝の気持ちが届くはずよ」
電話向こうの母親に見えるはずもないが、リーリエは大きく首を縦に振った。受話器から母親が微笑む時の息遣いが聞こえる。リーリエもつられて微笑んだ。
自分たちの枷となっていたものは、もうないのだ。
そう思うと、心が軽くなり、リーリエは天窓から差し込んだ光を仰いで目を細めた。母親との会話が止まり、その耳に外の喧噪が聞こえてくる。と、聞き慣れた声が自分の名を呼んでいることに気づいた。
「リーリエ! リーリエ!」
まだ朝の早い時間にもかかわらず、アスカの声が響いている。
「アスカだわ。呼んでるみたい」
「人気者ね」
「リーリエ、早く来て!」
大学の課題で徹夜明けといったところだろうか。課題が仕上がって興奮しているかのような声音にも聞こえる。
「ママ、ありがとう。また後で」
急かすアスカの声にリーリエは苦笑を浮かべ、受話器を置いて外に出た。
「見てよ、リーリエ!」
店の前では、新聞を広げたアスカが興奮した様子で小さく跳ねている。
広げられた新聞の全面に、従機を操作し、壁を上りながら高速道路に迫るリーリエの姿を連続して捉えた写真が載せられている。その勇姿は、大見出しで『アーカンシェルの女神』と評されていた。
「アーカンシェルの女神だって!」
「女神……、私が?」
「リーリエに決まってるでしょ! ほら、アルフレッド様がそう言ったって!」
アスカが色鮮やかな塗料で染まった指先で、アルフレッドの写真の部分を指差している。そこには確かに、彼の言葉として『アーカンシェルの女神』の文言が描かれていた。
「それからね、もうすぐ始まるんだよ。見て!」
アスカが新聞を翻し、商業区の街頭映写盤にリーリエの視線を促す。この時間は消灯しているはずの映像盤が不意に点灯し、司会の女性による短い紹介の後、壁伝いに高速道路へと軽々と迫っていく従機の姿が映し出された。
「私……?」
「そっ。昨日のリーリエの活躍を、貴族の美大生がたまたま記録映像に残したんだって!」
大学の情報網からそのことを仕入れたらしいアスカが、誇らしげに映像盤を仰いでいる。リーリエは、映像盤に映し出された自分の姿を見つめながら、そっと頬をつねった。
だが、それは決して夢などではなく、新聞と同じ『アーカンシェルの女神』という文言が映し出されると、昨日と同じような万雷の拍手が、街の至るところから起こり、リーリエをあたたかく包み込んだ。
屋根に上り、天窓から従機用のエアブラシを下ろしていたリーリエは、慌てて梯子を下り、壁付けの電話から受話器を引き上げた。
「お待たせ致しました。バンクシー・ペイントサービス――」
「ニュースを見たわ、リーリエ!」
「ママ!?」
受話器の向こうからリーリエにそっくりな声を響かせたのは、母親のミシェル・バンクシーだった。
「街から高速道路に上るなんて……。ああ、お前は本当にあの人に似て……」
ミシェルの口吻からは、三年前に亡くなった父親の在りし日の姿が伝わってくる。事実、リーリエの父も高速道路で起きた事故を後続車に伝えようとしたところで、別の事故に巻き込まれたのだ。
「あんな無茶なことは、もうたくさんよ」
「ごめんなさい、ママ――」
「……と言うのは、ママの立場からね」
謝罪の言葉を口にしたリーリエを遮り、ミシェルは興奮を隠しきれない様子で息を吐いた。
「本音を言うと、最高だったわ! あの従機の操縦の腕は、あの人の若い頃を彷彿とさせたし、無事に公爵家の御子息を助けたことも誇らしいわ」
「え……?」
まるで少女のように無邪気に声を弾ませ、ミシェルがリーリエの活躍を讃えている。ニュースを見たというよりも、まるでその現場を見ているような口ぶりだった。
「それにね、なにより『アーカンシェルの女神』が、私たちの娘だなんて!」
「……アーカンシェルの女神?」
耳慣れない言葉をオウム返しにしたリーリエの問いは、突如として響いたドアベルによって遮られた。
「郵便かしら? ちょっと待っていてね、リーリエ」
「うん」
ミシェルが受話器を置き、電話から離れていく。別段することもなく、リーリエは屋根から下ろしたばかりの巨大なエアブラシを眺めながら、受話器に耳を当てて小首を傾げた。
受話器の向こうからは、ミシェルと郵便配達人のやりとりが微かに聞こえてくる。
「まあ!」、「なんてこと!」という驚きの声が響いた後、慌ただしい足音が響き、受話器の向こうからリーリエを呼ぶ叫び声が聞こえて来た。
「リーリエ、リーリエ!」
「聞こえてるわ、ママ」
叫びながら受話器越しに呼びかけられ、耳を離しながらリーリエは苦笑を浮かべた。
「何が届いたの?」
「電報よ! 公爵家からの!」
ミシェルは興奮した様子で息を弾ませている。受話器の向こうで聞こえる紙が擦れた音は、届いた電報を読み返そうとしているせいなのだろう。
「……昨日のお礼?」
「違うわ! ……ううん、お礼はお礼なんだと思うけど、そんな簡単なものじゃないのよ」
興奮を隠しきれない様子で話しながら、ミシェルが息を整える。
「……落ち着いて聞いてね、リーリエ」
「私は落ち着いてるわ」
電報の内容を伝えようとしているのだと察したリーリエは、受話器を強く耳に当て、母親の次の言葉を待った。
「パパの借金を、公爵家が返済してくださったの」
「えっ!?」
伝えられた言葉には、リーリエも驚きを隠すことが出来なかった。その言葉が本当ならば、アルフレッドはたった一晩でリーリエの素性を調べ上げ、借金の存在を知ったということになるのだろうか。
この街を統治している公爵家の子息とはいえ、予想外の行動にリーリエの腋を冷たい汗が流れた。
「……どうしよう。私、そんなつもりじゃ……」
相手が誰であろうと、見過ごすことが出来なかった。ただ、それだけだ。
身に余る厚意を前に、リーリエが戸惑いの声を上げると、今度はミシェルが落ち着いた声を返した。
「わかっているわ、リーリエ。ちゃんと続きがあるの」
「続き?」
「そう。元々はパパのお金だったのよ!」
電報の他にもう一通手紙があるのだろう。ミシェルが電話口で忙しなく紙を捲っている。届けられた手紙によって、新たに判明した事実を告げられたリーリエは、にわかには信じられずに目を瞬いた。
ひとつめは、リーリエの父は、自身の死後のことを考え、自由都市同盟の商業組合で新たに発足した遺族への保険金制度に加入し、保険料を納めていたこと。
もうひとつは、事故の相手方の貴族が事故の原因を高速道路上の歩行と訴えていたことから、保険支払いの要件を満たさないとされ、遺族には保険金のことが知らされなかったこと。
だが、これらの事実は、公爵家の再調査ですぐに判明し、昨晩のうちに全ての手続きが進められたということらしい。事故の原因の捏造などは、それほど杜撰なものではあったが、事故から三年が経つにも拘わらず、今日までリーリエら一介の市民では知る由もなかったのだ。
「それを、アルフレッド様が?」
「ええ。借金を相殺した後の、保険金も入るそうよ」
ミシェルはいつの間にか涙声になっており、受話器の向こうからは鼻を啜るような音が響いている。
「私たち、やっぱり愛されていたのね……。なのに、何も知らないで、こんな――」
紡ぎ掛けた言葉をそこで切り、ミシェルは大きく息を吐いた。リーリエも受話器を握りしめて頷き、声を震わせた。
「私、アルフレッド様にお礼を言わないと」
「是非お願いするわ。あなたからも伝えた方が、きっと感謝の気持ちが届くはずよ」
電話向こうの母親に見えるはずもないが、リーリエは大きく首を縦に振った。受話器から母親が微笑む時の息遣いが聞こえる。リーリエもつられて微笑んだ。
自分たちの枷となっていたものは、もうないのだ。
そう思うと、心が軽くなり、リーリエは天窓から差し込んだ光を仰いで目を細めた。母親との会話が止まり、その耳に外の喧噪が聞こえてくる。と、聞き慣れた声が自分の名を呼んでいることに気づいた。
「リーリエ! リーリエ!」
まだ朝の早い時間にもかかわらず、アスカの声が響いている。
「アスカだわ。呼んでるみたい」
「人気者ね」
「リーリエ、早く来て!」
大学の課題で徹夜明けといったところだろうか。課題が仕上がって興奮しているかのような声音にも聞こえる。
「ママ、ありがとう。また後で」
急かすアスカの声にリーリエは苦笑を浮かべ、受話器を置いて外に出た。
「見てよ、リーリエ!」
店の前では、新聞を広げたアスカが興奮した様子で小さく跳ねている。
広げられた新聞の全面に、従機を操作し、壁を上りながら高速道路に迫るリーリエの姿を連続して捉えた写真が載せられている。その勇姿は、大見出しで『アーカンシェルの女神』と評されていた。
「アーカンシェルの女神だって!」
「女神……、私が?」
「リーリエに決まってるでしょ! ほら、アルフレッド様がそう言ったって!」
アスカが色鮮やかな塗料で染まった指先で、アルフレッドの写真の部分を指差している。そこには確かに、彼の言葉として『アーカンシェルの女神』の文言が描かれていた。
「それからね、もうすぐ始まるんだよ。見て!」
アスカが新聞を翻し、商業区の街頭映写盤にリーリエの視線を促す。この時間は消灯しているはずの映像盤が不意に点灯し、司会の女性による短い紹介の後、壁伝いに高速道路へと軽々と迫っていく従機の姿が映し出された。
「私……?」
「そっ。昨日のリーリエの活躍を、貴族の美大生がたまたま記録映像に残したんだって!」
大学の情報網からそのことを仕入れたらしいアスカが、誇らしげに映像盤を仰いでいる。リーリエは、映像盤に映し出された自分の姿を見つめながら、そっと頬をつねった。
だが、それは決して夢などではなく、新聞と同じ『アーカンシェルの女神』という文言が映し出されると、昨日と同じような万雷の拍手が、街の至るところから起こり、リーリエをあたたかく包み込んだ。
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