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1 失意の円舞曲

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 窓から夜気をはらんだ風と、調律の音が流れてくる。

「もう時間がないわ。先に行って、アルフレッド」

「だけど、リーリエ。君を置いては行けない」

 婚約者アルフレッドの言葉に、リーリエはかぶりを振り、黒の染料で無残に汚された純白のドレスを一瞥いちべつした。
 一般市民であるリーリエと、公爵家の子息アルフレッドの婚約を快く思わない者の嫌がらせであることは、明らかだった。

「このままでは、お客様の前に出られないわ」

「それでも、今夜の舞踏会を欠席することは出来ない。父上の顔に泥を塗ることになる」

「ええ、でも――」

 このドレスを着て出席しても同じことだ。リーリエの身の回りの世話をしている側付きのメイドは、昼過ぎから姿を見せていない。

「父上が君の画才を高く評価して、婚約を認めてくれたというのに……」

 亡き父の跡を継ぎ、塗装看板店を営むリーリエは、アートを活かした街づくりの一翼を担っている。アルフレッドの父、クロード公爵は、根強い偏見によって対立を生み出している現代アートと古典アートの架け橋となる役割をリーリエに見出したのだ。

「一体、どうしたら……」

 アルフレッドは低く呟き、親指の爪を噛むような仕草をしたが、歯が爪に触れたところで我に返り、慌てて手を下ろした。
 普段は温厚なアルフレッドが、焦りと苛立ちに顔を歪めている。婚約者の苦しげな表情を目の当たりにしたリーリエは、努めて明るく微笑んだ。

「大丈夫、どうにかして間に合わせるわ」

「でも、舞踏会はもうすぐ始まる。新しいドレスなんてどこにも――」

「私には、これがあるもの」

 リーリエは微笑みをたたえたまま、壁にかけられた一つの絵を視線で示した。そこには、リーリエとアルフレッドの共作がかかっている。リーリエは、エアブラシで鮮やかで華やかな光を、アルフレッドはその光を浴びて健やかに伸びるアイビーを描いた。リーリエは光を太陽に見立て、アルフレッドの笑顔に重ね、『誓い』のメッセージを込め、アルフレッドもまた、光の中にリーリエの笑顔を見出して、『永遠の愛』の花言葉を持つアイビーを描いた。
 二人の永遠の愛を誓う絵を見、アルフレッドは僅かに目尻を下げた。

「君はいつも私を助けてくれるね。命の恩人というだけではない、尊き伴侶だ」

 アルフレッドがリーリエの手を取り、その甲にそっと口付ける。

「アルフレッド……」

「君を信じるよ、リーリエ」

 アルフレッドは深く頷き、ゆっくりとリーリエの手を離すと、踵を返して階下へと向かった。
 リーリエは、机に置かれた道具箱の中から使い慣れたエアブラシを手に取り、黒染めにされたドレスをまとったトルソーを見つめ、おもむろにトリガーを引いた。





 リヒテンブルグ家の広々とした舞踏場には、既にドレスや燕尾服などの正装に身を包んだ多くの貴族らが集っている。部屋の中央で踊る人々のみならず、隅に配置されたテーブルの周囲で軽食や談笑を楽しむ招待客も、優雅な音楽に合わせてゆったりと身体を揺らすように動かしていた。

 一曲目の舞曲カドリーユの旋律に会わせ、四人一組になった若い男女が四角を描くように踊っている。
 招待客らの視線は、ちらちらと開け放たれた扉に向けられており、この日、二曲目の円舞曲ワルツの前に発表されるという、子息アルフレッド・リヒテンブルグの婚約者の登場を待ちわびているように思われた。
 舞曲は演奏者の機転によって引き伸ばされ、長々と続いている。リヒテンブルグ家の当主クロード・リヒテンブルグが、二杯目の葡萄酒で唇を湿らせながら一人息子のアルフレッドへ視線を向けた。

「呼んで参ります」

 事態を重く見たアルフレッドが、やや顔を青ざめさせながら頭を垂れる。

「怖じ気づいて逃げ出したのかもしれませんよ」

 アルフレッドの母、エリザベートが扇で口許を隠しながら静かに呟いたその時。
 舞曲の演奏を人々のざわめきが掻き消した。

「なんだ、あれは……」

 驚嘆とひそひそとした蔑みの声がアルフレッドの元にも届く。

「……リーリエ?」

 婚約者の到着に気づいたアルフレッドは、招待客らの隙間を縫うように入り口へと駆けた。

「アルフレッド……!」

 リーリエは、アルフレッドを見るなり、泣き出しそうな笑顔を見せた。

「リーリエ……」

 アルフレッドは、遠巻きにリーリエを見守る人々の輪に加わり、信じられないものを見るような目で、リーリエの名を呼んだ。
 黒く染められたドレスの上に、幾多もの塗料が吹き付けられている。明るい花のような絵が描かれていたが、婚約発表を兼ねた舞踏会という場では明らかに異色だった。

「どうにか、この場に似合うものをと思ったのだけど……」

 アルフレッドの視線を受け、リーリエは俯いた。今や舞曲の演奏は途切れ、ざわめきと侮蔑の声がひそひそと輪を成してリーリエを取り囲んでいる。

「――残念ですが、この婚約に異を唱えないわけにはいかなくなりました」

 カツ、と冷たい音を響かせてアルフレッドの母エリザベートが進み出る。アルフレッドは、リーリエを庇うように彼女の前に出て、母親と対峙する。

「リーリエ」

 クロードの低く重い声が、リーリエの名を呼んだ。酷く冷たい声に、リーリエはドレスの裾を掴むように握った。

「君への教育不足を痛感している。とても遺憾だ」

 招待客のざわめきは収まり、リーリエが発する言葉に注目が集まる。だが、リーリエは何も言うことが出来なかった。

「……これで全てがはっきりしました」

 エリザベートがリーリエのまとう塗料で奇抜に彩られたドレスを忌むように見つめ、招待客らの方にゆっくりと向き直った。

「あなた――」

 エリザベートは、夫であるクロードに視線を移し、その頷きを待って口を開いた。

「お集まりの皆さまには大変申し訳ありません。アルフレッド・リヒテンブルグと、リーリエ・バンクシーとの婚約は、只今をもって破棄致します」

「お母様!」

 アルフレッドが思わず叫び、すがるような視線で両親を見つめる。だが、その決定を覆すことはおろか、異を唱えることすら許されなかった。クロードはアルフレッドとリーリエを厳しい目で見つめ、重々しく首を横に振る。
 それが、リヒテンブルグ家の答えだった。

「さあ、どうぞご退場くださいな」

 エリザベートが高慢にリーリエに告げると、扉に控えていた従者がリーリエの元に寄り、退場を促した。

「リーリエ――」

「アルフレッド、残りなさい」

 リーリエについていこうとするアルフレッドを、咎めるような口調でエリザベートが阻んだ。
 リーリエは震える身体をどうにか動かして片足を斜め後ろに引き、膝を曲げて、静かに頭を垂れると、背筋を伸ばしてゆっくりと踵を返した。
 涙が溢れそうなのをじっと堪え、どうにか扉をくぐり抜けると、従者によって扉が閉ざされた。
 扉の向こうからは、アルフレッドと華々しく踊るはずだった円舞曲ワルツが流れ始めた。
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