3 / 10
3
しおりを挟む「…あ、起きた?」
ふわ、とした意識の浮上と共に聞こえてきた声に千紘は瞬きを繰り返す。
頬に柔らかな感触を感じて視線を上げると、自分の部屋ではない天井の柄。
千紘は現状を把握仕切れていないのか、のっそりとした動きで起き上がる。
声の主は良一だった。
いつの間にか寝ていたのか、それにソファに居たはずなのにいつの間にか広いベッドの上に千紘は居た。
大丈夫?と尋ねる良一の背後には、座っていたはずのソファに腰掛けている統星の姿。
シャワーを浴びていた彼はいつの間に出てきたのだろうか、服装はホテルのものだと思われる厚手のバスローブを纏いどこか不機嫌そうに手元のパソコンへ何かを打ち込んでいる。
「逢沢さん、どこか気分悪かったりはしない?」
「す、すみません、俺寝ちゃったみたいで」
良一もいつの間にここへ来たのだろうか、千紘は身体を気遣う言葉に大丈夫と頷くと、ベッドから下りて立ち上がろうとするが、良一がそれを制すように千紘の肩に手を掛けてそのまま隣に腰を下ろしてきた。
「こちらこそ長いこと待たせちゃってごめんね、…あっちこっちとバタバタしちゃって」
公害フェロモンのせいで、というそれはきっと多分統星が起こしたラットの事だろう。
「さっきは急なことで説明が出来なかったんだけど…」
そう続けた良一の話はこうだった。
上條 統星は千紘が思っていた通りα性質を持つ、そしてその体質に少し問題を抱えていた。
αの発情、ラットは一般的にある程度のコントロールが可能とされているが統星はそのコントロールが上手く効かないらしい。
更には家系の血なのか、統星のラットは普通のラットよりも香りがキツく、周りに与える影響がとても強い。
それは時にβでも興奮を感じ取ることが出来るほど濃厚な香りなのだという。
「だからさっき、お店の人が倒れたんですか…」
「そうそう。僕みたいなβでも偶に「うわぁ…」って思うくらいのものだからね。さっきはそれに反応しちゃったΩの子が引き摺られるようにヒートしちゃって、俺はその対処もとい公害の後始末をしてたってわけ」
「それはなんて言うか……お疲れ様、です」
はァ、なんて大きなため息を洩らして零す良一に、どれだけ大変な事なのか想像もつかない千紘は言葉だけの労りを送るが「でも、」と良一は再び千紘の肩に手を掛けてきた。
今度は両肩をしっかりとまるで逃がさないとでも言うように掴むと、横並びの体勢から無理矢理向き合う形にされる。
「逢沢さんはそんな統星のラットが効いていない。…僕はね、これはもう運命なんだと思うんだよね」
「へ、?…運命?」
「そう、本来ならば僕みたいな干渉の少ないβが統星の近くに居られたら良いんだけど、僕も仕事が他にあって忙しいし…」
運命だなんてそれはまた大袈裟な。
けれど千紘の顔を覗き込む良一の表情は打って変わって真剣そのものだ。
ここで否定をしても、何か油を注ぎ兼ねないような勢いが背中から見えるような気さえする。
確かに仕事は欲しい。
なぜなら逢沢 千紘は今、絶賛求職中の身。
大学を出てから務めた会社は先日、一身上の都合で最近辞めてしまったばかりである。
我社に是非、ともなれば喜んで馳せ参じたい気持ちは確かにあるが、それが自分の体質と一体どんな関係があるのか。
そんな千紘の中で膨らみつつある不安を知ってか知らずか、きっと後者の良一はニコニコと愛想の良い笑顔で続ける。
「始めはお試しって形で全然構わないからどうかな?統星の身の回りの世話、食事とかその辺をぜひ面倒見て欲しいんだ」
「身の回りの…世話?」
「大丈夫だよ、統星は風呂やトイレは自分で出来る子だから!」
「良、お前俺を一体なんだと思ってんだ」
すかさず良一の後ろから黙っていた統星が不機嫌な色を隠さずに制した。
そりゃあ、あの歳でシモの世話は必要無いだろう…なんて思っても良一を隔てた向こう側が怖くて口に出せない千紘は心の中でそっと呟く。
それにしても紹介する、と言われていた仕事がまさかの家政夫とは思っていなかった千紘は困惑した色を隠せない。
「少し考えさせて…」と切り出した千紘に差し出されたのはスマートフォンだ。
電卓アプリが起動されたそこには数字が羅列されている。
「ちなみに基本給はこれ、更に能力給として割り振られたものとは別の仕事もこなせばプラスでこれくらいで」
「ぜひ、やらせてくださいっ」
前職の営業サラリーマン時代の基本給と同等の数字に、更には上乗せの可能性。
実質収入ゼロの千紘が選ばないはずが無い。
今度は千紘が差し出された良一の手を素早く逃がさないようにスマートフォンごと両手を重ねた。
一連の流れを見ていたのか「…釣られるのか」と、どこか呆れたような声が聞こえた気がしたが何でも構わない。
これは又とないチャンスだと千紘は飛び乗った。
その様子に決まりだね、と良一の表情もどことなく晴れやかなものである。
「それじゃこれが契約書と誓約書。あ、それと印鑑はあるかな」
ぽんぽんと手際よく書類を出してくる良一の手際の良さは流石と言うべきか、ざっくりと目を通した契約の内容は食事や掃除といった簡単なものだ。
これなら一人暮らしの経験もある千紘にとって特に問題も無さそうだと、家政夫の仕事の経験はもちろん家政夫という仕事も全く分からなくても根拠の無い自信が沸いてくる。
「それじゃ、すぐに…とでも言いたいところだけど準備とかもあるだろうし、仕事始めは2週間後でいいかな?」
「勿論です」
実にはっきりとした千紘の返事に、書類を抱え込んだ良一はとても満足そうににっこりと微笑むと記入済みの書類を片付けたのだった。
0
お気に入りに追加
73
あなたにおすすめの小説

元ベータ後天性オメガ
桜 晴樹
BL
懲りずにオメガバースです。
ベータだった主人公がある日を境にオメガになってしまう。
主人公(受)
17歳男子高校生。黒髪平凡顔。身長170cm。
ベータからオメガに。後天性の性(バース)転換。
藤宮春樹(ふじみやはるき)
友人兼ライバル(攻)
金髪イケメン身長182cm
ベータを偽っているアルファ
名前決まりました(1月26日)
決まるまではナナシくん‥。
大上礼央(おおかみれお)
名前の由来、狼とライオン(レオ)から‥
⭐︎コメント受付中
前作の"番なんて要らない"は、編集作業につき、更新停滞中です。
宜しければ其方も読んで頂ければ喜びます。

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。
【完結】何一つ僕のお願いを聞いてくれない彼に、別れてほしいとお願いした結果。
N2O
BL
好きすぎて一部倫理観に反することをしたα × 好きすぎて馬鹿なことしちゃったΩ
※オメガバース設定をお借りしています。
※素人作品です。温かな目でご覧ください。
表紙絵
⇨ 深浦裕 様 X(@yumiura221018)

Ωの不幸は蜜の味
grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。
Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。
そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。
何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。
6千文字程度のショートショート。
思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。

成り行き番の溺愛生活
アオ
BL
タイトルそのままです
成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です
始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください
オメガバースで独自の設定があるかもです
27歳×16歳のカップルです
この小説の世界では法律上大丈夫です オメガバの世界だからね
それでもよければ読んでくださるとうれしいです

孤独を癒して
星屑
BL
運命の番として出会った2人。
「運命」という言葉がピッタリの出会い方をした、
デロデロに甘やかしたいアルファと、守られるだけじゃないオメガの話。
*不定期更新。
*感想などいただけると励みになります。
*完結は絶対させます!

被虐趣味のオメガはドSなアルファ様にいじめられたい。
かとらり。
BL
セシリオ・ド・ジューンはこの国で一番尊いとされる公爵家の末っ子だ。
オメガなのもあり、蝶よ花よと育てられ、何不自由なく育ったセシリオには悩みがあった。
それは……重度の被虐趣味だ。
虐げられたい、手ひどく抱かれたい…そう思うのに、自分の身分が高いのといつのまにかついてしまった高潔なイメージのせいで、被虐心を満たすことができない。
だれか、だれか僕を虐げてくれるドSはいないの…?
そう悩んでいたある日、セシリオは学舎の隅で見つけてしまった。
ご主人様と呼ぶべき、最高のドSを…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる