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第五章:“星”の欠片

46:親が望むこと

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「……ケネット商店だ……」

 お昼のピークを過ぎた頃、私はケネット商店の前で立ち尽くしていた。今日はケネット家の皆さんに挨拶をするために来た――のだが、店に入るのが怖い。

 そう、バーバラさんだ。私が顔を出したらお店が爆発四散するほどお怒りになるのではなかろうか。恐怖心が足首にまとわりついて、一歩踏み出す力を奪っている。

 ――そういえば、アレンくん。アーサーの手紙は読んでくれたのかな。

 思えば手紙を渡してから、アレンくんとはちゃんと話していなかった。イアンさんと一緒に怒られたときはそれどころじゃなかったから。その辺も、ちゃんと話せたらいいな。だったらお店に入らないとね、怖がっている場合じゃないですよ。

 店の扉に手を伸ばす――が、触れる手前で勝手に開いた。自動ドアだっけ? そんなこともなく、顔を見せたのはアレンくんだった。

「あ、アレンくん……こんにちは」

「あはっ、なにその他人行儀な挨拶? おかえり、リオ」 

「そ、そうだね。えっと、ただいま……」

 後ろめたさから、ぎこちない挨拶になってしまう。それでもアレンくんは温かい笑顔を向けてくれた。ご両親は休憩中かな? と思ったら、カウンター内にいらっしゃるじゃないですか、ご両親。つい心臓が跳ねる。

 旦那さんはいつも通りの優しい笑顔。バーバラさんは般若の如き――と思いきや旦那様と同じ、柔らかい笑顔を見せた。

「おかえり、リオちゃん」

「あ……えっと、はい。ただいま……」

 これはいったいどういうことだ? カンカンに怒っているかと思っていたけど、そうでもない? アレンくんがなにか言ったのか? どうしてこんなに優しい顔で私を迎えられる? 本当に意味がわからない。

 呆然としている私の手を、アレンくんが握った。男の子の手だ、若い子の手だ。ハッと我に返る。

「えっと……?」

「上で話そ」

「ゆっくり話す時間もなかったしねぇ。あんた、売り場お願いね」

「わかったよ。リオちゃん、二人と話しておいで」

「は、はい……」

 みんなのこの表情から、悪い話をされるわけではないように思える。でもこれが演技だったら? 私、殺される?

 いやいやまさか、ケネット家の皆さんは優しい血をしている。騙すようなことはしない。大丈夫、気を張るな。警戒心を抱くのは止めなさい。

 二階に上がると、なんてことはない一般家庭のリビング。どうしてか、すごく安心する。これが実家のような安心感か……なんて馬鹿なことを考えていると、座るように促された真向かいにはバーバラさん。否応なしに体が固まる。

 緊張の限界を迎える私を見て、バーバラさんがおかしそうに笑った。この笑い声も、懐かしいしほっとする。この世界のお母さんは、間違いなくこの人だと思った。

「なに固くなってんだい、悪いことしたわけでもないのにさ」

「へ……? でも私、たくさんご迷惑をおかけして……」

「そういう気遣いするんじゃないよ。言ったろう、家族みたいに思ってくれていいって」

「え……えっと?」

 バーバラさん、やっぱり怒ってない。この世の地獄を体現しているものだと思っていたが、どうしてこんなにいつも通り――下手をすればいつもより穏やかになれる? アレンくんがなにか言ったにしても、これは妙だ。

 状況についていけない私に、アレンくんが紅茶を淹れてくれた。どうしていいかわからないのかな、笑っている。

「リオ、そんなに警戒しないで。オレたち、怒ってないから」

「はぇ……?」

「そういうことさ。話し始めていいかい?」

「は、はい……どうぞ……」

 怒っていないなら、いったいなんの話をするつもりだろう。アレンくん、アイドルになる話をしたのかな? バーバラさんは紅茶を啜って、口を開いた。

「アレンから聞いたよ。この子、歌って踊るグループに誘ったんだって?」

「勝手な真似をして大変申し訳ございませんでした!」

 椅子から滑り落ちる流れで両手は床に、叩きつけるようにこうべを垂れる。そういえばお見せしたことはございませんでしたね。これが日本人の誠意の証、ジャパニーズ・ドゲザです。

 初めての動きに驚いただろう、アレンくんが思い切り私の肩を持ち上げた。男の子、力持ち。

「リオ、リオ! 怒ってないんだって! だから顔上げて! ね!?」

「ご両親の許可を得ずに未成年と契約するなんて言語道断! 最早詐欺! 誠意を、誠意を示させてください!」

「落ち着きなさい、リオちゃん。あたしは怒ってないから」

「しかし! しかし! ……って、え? 怒ってない、ですか……? なぜ……?」

 私、考えすぎていた? でも、バーバラさんが怒っていない理由がわからない。さんざん怒られてきたのに、どうしていま怒られないんだろう。

 これも社畜時代の遺産か……? 怒られるという前提のもとで生きるの、良くないかもしれない。

 バーバラさんは困ったように笑っている。確かに、私の質問も妙だったかもしれない。どうして怒っていないか、なんて説明のしようがないだろうに。ごめんなさい。

「なぜって言われたらねぇ……アレン、ちょっと売り場に降りてなさい」

「え? うん、わかった。じゃあリオ、行ってくるね。本当に大丈夫だから」

 私の肩を優しく叩いて売り場に戻るアレンくん。爽やかな仕草だね、ってそうじゃない。いまは目の前に集中しなさい。息子が階下に降りたのを確かめて、バーバラさんが喋り出す。

「あの子ね、小さい頃はずっと歌いたいって言ってたのよ。いつからか言わなくなって、子供の気まぐれだったって思ってたけど……父さんの足が悪いから楽させてあげたい、だから諦めたっていうじゃないか」

「……優しいお子さんだと思います」

「馬鹿だねぇ、まだ十七のガキンチョが一丁前に親を気遣うもんじゃないんだよ。甘えていいし、わがまま言っていいんだ」

 呆れたような声のバーバラさん。親としては、そういうものだったんだろう。親ってきっと、子供に頼られたいんだ。

 聞き分けのいいアレンくんだが、心配でもあったのだろう。ご両親のことを考え、夢を諦めた彼。それが優しさであることも知っているはず。だからこそ強くは言えなかったのかもしれない。

「だけど最近ね、話があるって。歌いたいって言ったんだ。そのときリオちゃんがスカウトしたって聞いたのよ。あたしもあの人も、嬉しかったんだ。ようやく素直になったって。あたしたちは止めるつもりなんてなかったよ。リオちゃんにはありがとうって言わないとねぇ」

「そ、そんな……私はただ、アレンくんの歌声を世界に届けたいと思っただけで……」

「それがあの子にとって、あたしたちにとってどれだけ嬉しいことか。アレンを本気にさせてくれて、ありがとうね」

 その声は、微かに震えていた。本当に嬉しかったんだろう。子供の成長を見守るって、こういうことなのかな。バーバラさんは目元を頻りに拭っている。それを見て、覚悟は決まった。

 彼の両親が背中を押した以上、アイドルとして絶対に成功させなければならない。アレンくんの歌を埋もれさせはしない、世界が彼の虜になる日を見届けなければならない。そう思わされた。

「約束します。アレンくんを絶対に、最高のアイドルに育てます」

「言うじゃないか。あたしを最初のファンにしておくれよ?」 

「お任せを。必ず成し遂げて見せます」

 差し出されたバーバラさんの手を力強く握る。もう中途半端は許されない。

 世界よ、いまに見ていろ。どれだけ泥にまみれても、私が見つけた原石たちはいずれ唯一無二の宝石になる。

 迷いも躊躇も全部捨てて、この世界を輝きで満たすために。社畜の本気を見せてやる。やるといったらやるんだよ。
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