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3巻
3-2
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「失礼します」
ゼリーを食べていると、白衣を着たカトリーヌさんが部屋に入ってきた。
「あら、スピカさん。お目覚めになったのですね。よかったです」
相変わらずお淑やかで、その所作は優雅だ。
「あ、ありがとうございます……母共々お世話になりましたので……」
スピカが慌ててゼリーを置き、床に手をついて謝ろうとする。
「なんでもかんでも土下座しなくていいんだ、スピカ。普通にお礼を言えば大丈夫だ。カトリーヌさんがびっくりするからな」
「は、はい。努力します」
俺たちのやり取りを見て、カトリーヌさんは首を傾けて苦笑した。
「レヴィンさんもいらっしゃっていたなら、よいタイミングですね。私なりにアイシャさんの容体を調べてみたのですけれど……」
俺たちはカトリーヌさんの報告に耳を傾ける。
「結論から言うと、彼女はなんらかの毒物を投与されています」
「毒物を……?」
カトリーヌさんによれば、その毒は生き物を仮死状態にする非常に特殊なものだという。
「せめて毒の種類が特定できれば、解毒方法も模索できるのですが……私が持つ本には該当するものがないようでして……」
難しそうな表情で、カトリーヌさんが分厚い書物に目を落とす。
図鑑だろうか?
横から覗いてみると……『毒を愛する全ての人に送る、オールカラー猛毒事典決定版』と書かれていた。
悶え苦しむ人々の周りを蛇や蜘蛛が取り囲むという、なんともおどろおどろしい表紙が印象的だ。
……本当にこの本で大丈夫なのだろうか?
「あ、レヴィンさん、怪しんでますね?」
「い、いえ、そんなことは……」
「この本は、大陸で最も治療術の研究が進んでいる機関、エルディア聖教会が刊行したものなのですよ。大陸中の主要な毒物の情報が、フルカラーで分かりやすく記載されていて、治療術を学ぶ者にとっては必携の本なのです‼」
「な、なるほど……」
カトリーヌさんがかつてないほど熱弁を振るっている。
どうやら、治療術に通じる人の間では有名な書物らしい。
しかし、そんな本にも記載されていないとは。よほど珍しい毒なのか?
「この本でも特定できないということは、未発見の毒物の可能性があります。たとえば、人類がまだ足を踏み入れていない秘境で採れるとか、あるいは他国との国交がほとんどない地域のものであるとか……」
スピカたちを捕らえた魔族は、遠い昔に滅んだと伝えられてきた存在だ。
現に俺たちは、ゼノンが正体を現すまで魔族が生きながらえていたことを知らなかった。
そうなると、彼らは人目につきにくいところに拠点を構えている可能性がある。今回の毒も、そうした特別な場所で採取したものなのかもしれない。
「毒の特定ができないと、治療は難しいかな?」
「間違いなく時間はかかりますね……ですが、このまま手をこまねいているつもりはありません。アイシャさんの容体を見つつ、治療法を探してみせます」
専門的なことは俺には分からない。こればかりはカトリーヌさんに頼るしかないのだ。
「お願いするよ、カトリーヌさん。治療術に関しては素人だけど、俺にできることがあればなんでも言ってくれ」
「ふふ。ありがとうございます。いざという時は、お手伝いをお願いしますね」
ひとまず、アイシャさんのことはカトリーヌさんに任せよう。
彼女ならきっと、解決策を見出しくれるはずだ。
「あ、あの……えっと……」
何か言いたげな様子で、スピカがもじもじする。
「その、すみません……こ、こんな私たちのために……ここまでしていただいて……」
スピカは心の底から申し訳なさそうだ。
かつて俺たちを襲い、竜大陸やクローニアに甚大な被害を出したことを気にしているのだろう。気持ちは分からなくはないのだが……それにしても彼女は自分を卑下しすぎる気がする。
「こういう時は『ありがとう』って言った方が、カトリーヌさんも嬉しいんじゃないかな」
「あ、すみま……あっ……」
またしても「すみません」と言いかけ、スピカがしどろもどろになる。
そんな様子を見て、カトリーヌさんは優しく笑った。
「スピカさん、ここにはあなたを責める人は誰もいませんよ」
「すみません……癖になってて……その……あの人たちのところにいた時は、何か失敗するたびに、罰としてお母さんが痛めつけられたから……」
スピカが絞り出すように話した。
「無理に事情を話す必要はないよ。思い出してもつらいだけだろうし……」
俺たちはクローニアによるエルウィンへの侵攻を止めるために動いていたので、スピカとアイシャさんを助けることになったのは結果論だ。ただ、こうして竜大陸で保護しているのにはちゃんと理由がある。
たとえスピカが竜大陸を脅かした存在であっても……ゼノンたちに利用されていた分、ここでは穏やかに暮らしてほしい。そう思ったから、俺は二人の身柄を預かったのだ。
「そうだな……もし、竜大陸で世話になることに罪悪感があるなら、俺たちの手伝いをしてもらおうかな」
「手伝い……ですので?」
今、竜大陸はどこも人手が足りない。
国交を結ぶことになったクローニアの姫、エリーゼからもらった家畜の世話に、農作業。【製造】で都市を発展させることを考えると、資材を集める人材も必要だ。それに竜の背は地上からの観光客を迎えている。市場の警備員や海エリアにできたリゾート地、アントニオが設計したテーマパークのスタッフなども欲しい。
この診療所だってそうだ。
カトリーヌさんが健康診断を行ったり、病人の診察をしたりしてくれているが……今のところ彼女と夫のアーガスだけで運営しているため、かなり忙しそうだ。
普段の仕事に加えて、スピカたちの容体も見ていたわけだから、その大変さは俺の想像以上だろう。
せめてアイシャさんを看病してくれる人材が現れれば、かなり負担を軽減できるはずだ。
「頼まれてくれるか?」
「も、もちろんですので……私にできることならなんでも……!」
スピカが勢いよく頷く。
そうなると、今後の課題はアイシャさんだ。
正体不明の毒物……どうにかして種類を特定したい。
どうしたものかと悩んでいると、出しぬけに部屋の扉が開いた。
入ってきたのは両手に大量の学術書を抱えた青年――アーガスだ。
「カトリーヌ、カトリーヌ‼ 頼まれた資料、全部持ってきたよ‼ 診察室にいなかったから、あちこち捜し回ったんだけど……あっ」
アーガスが俺とエルフィの存在に気が付いた。目が合った途端に頬をカッと赤くして、咳払いをする。
「レ、レヴィン様、いらしていたのですね。スピカさんもお目覚めになったのですか。元気そうで何よりです」
まるで子犬のようなはしゃぎようが鳴りを潜め、礼儀正しい言葉遣いになる。
「アーガス。そろそろ俺を『様』付けで呼ぶのは、やめてもいいんじゃないかな」
俺がドルカスに国を追放される際、アーガスは暴言を吐いてきた。そのことに対する彼なりのけじめらしいが……やはり違和感は拭えない。
「いえ、レヴィン様は我々、猩々に居場所を与えてくれました。こうして、敬意を表するのは当然かと!」
「でも、俺も居たたまれないしなあ」
「そ、そういうことでしたら……レヴィン様、いえ、レヴィン殿? レヴィンさん?」
「『さん』でいいんじゃないか。なんだったら別に呼び捨てでもいいぞ。大体、前は『クク……いいザマだな、レヴィン』とか笑ってただろ?」
「わ、忘れてください! あれは私の過去の汚点……黒歴史なんです‼ 自分を《聖獣使い》だと思いこんで、調子に乗ってたんです‼ 本当に申し訳ありません‼」
アーガスがいっそう頬を赤くする。
当時はあまり愉快な気分ではなかったが、和解した今となっては笑い話だ。
必死になって弁解するアーガスの姿を見るのはなんだか面白い。
とはいえからかいすぎるのも悪いので、ほどほどにしておこう。
「それじゃ、『レヴィンさん』にしてくれ。それにしても凄い資料の数だな。運んできてくれてありがとう」
アーガスが机の上に置いた本の量は凄まじく、彼の背に迫るほど高く積まれている。
「カトリーヌがアイシャさんの治療のために頑張っているのですから、このくらい当然ですよ。あっ……そういえば」
アーガスが何かを思い出したようにポンと手を打った。
「ゼクス陛下が竜大陸にいらしているようで、レヴィンさん宛に伝言を預かっていたんです。『至急、市場の迎賓館に来てくれ』とおおせでした」
「ゼクスが? なんの用だろう」
特段、心当たりはない。
ゼクスはクローニアとの和平条約締結に向けて忙しくしていると聞く。ここ最近は手紙などでやり取りすることが多かったのだが、わざわざ空の上までやってくるとは……
「例の調印式についてでは?」
アーガスの指摘に俺は首を傾げた。
「そういえば、そんな話をされたような……」
「しっかりしてください。レヴィンさんはこの竜の背の王様なんですよ」
「王様って……そんなつもりはないんだけどなあ」
これまでエルウィンとクローニアでは、和平交渉に向けた会議が紛糾していた。
というのも、先王であるドルカスが身勝手な侵攻を行ったことで、エルウィンに対するクローニア貴族の信頼が地に落ちていたからなのだが……そうこうしているうちに、今度はクローニアが戦争を仕掛けてきた。それも両国を争わせようとする一部の貴族の企みを見抜けず、あろうことか魔族を宰相に登用してしまった結果だ。
双方に過失が生まれたことで、互いに強く出られなくなったらしい。ゼクスとエリーゼの尽力もあって、和平の話し合いは順調に進んでいた。
幾度かの話し合いを経て、両国は正式に和睦を結ぶ運びとなった。そして、その調印式を行う場所としてリントヴルムの背が選ばれたのだ。
「すっかり忘れてたな……大事な話だし、すぐ行ってくるよ。スピカ、俺たちを手伝ってほしいとは言ったが、無理はしなくていいからな。今は休むのが仕事だ。任せたぞ」
「は、はい……頑張りますので……!」
スピカは気合十分という感じだ。
「エルフィはどうする?」
「ここに残る。スピカは昔の竜大陸に住んでいたけど、今は新人。私が先輩として見守ってあげるべき」
どうやら、スピカが馴染めるようにサポートに徹するらしい。
俺はエルフィの頭を撫でた。
「よしよし、偉いぞ。いろいろ助けてあげてくれ」
かくして俺は診療所を後にした。目指すはゼクスが待つ迎賓館だ。
都市の正面に築かれた市場は、対立するエルウィンとクローニアの交流の場として設けたものだ。今ではたくさん商人と観光客がやってきて、互いの特産品や文化を楽しんでいる。
その市場の中にそびえ立つ立派な屋敷こそ、アントニオが設計した迎賓館である。
近日中に行われる予定の調印式は、ここが会場となる手筈だ。
まずいな。ゼクスだけではなく、クローニア国王の代理であるエリーゼも待たせてしまっている。俺は足早に二人が待つ会議室へ向かった。
「お待ちしていました、レヴィン様! ゼクス陛下とエリーゼ殿下はすでにおいでになっております」
「……何をしているんですか、ユーリ殿」
部屋の前でビシッと敬礼したのは、エリスの兄でありクローニアの近衛騎士団団長でもある、ユーリ殿だ。
エリーゼの護衛を務める彼がここにいることはおかしくない。おかしくはないのだが……
「自分は一兵卒として、職務を全うしている最中であります‼」
「いや、そういうことじゃなくて……」
気になるのは、彼が身につけている衣装だ。
以前会った時、ユーリ殿は高級感のある黒い騎士装束をまとっていた。ところが、今の彼は門兵じみたありふれた鎧に身を包んでいるのだ。
まるで鍋のように不格好な兜に、身を守るには心細くなるほど薄い胸当て、簡素なインナー……正直に言って、王族の護衛には似つかわしくない質素な装いだ。
俺は恐る恐る尋ねる。
「えっと、その格好は一体……」
「クローニア王国で採用されている鎧であります。主に見習いの兵士に支給される品ではありますが」
どうにも調子が狂う。ユーリ殿がこうして下級兵士のような畏まった喋り方をするところなど見たことがない。
「いえ、鎧の説明じゃなくて、どうしてそんな格好をしているのかをですね……」
「やはり、自分のような者にはすぎた装いでありましょうか!?」
「だから、そういうことではなくて……」
なんとも話が進まない。どうしたらいいんだ、これは。
「あっ……やっぱり、レヴィンさんを困らせてる……!」
様子のおかしいユーリ殿に困惑していると、どこからともなくエリスが現れた。
「むっ。エリス、どうしてここに?」
「『どうしてここに?』じゃないですよ、兄様。エリーゼ殿下から、『ユーリの様子がおかしいからなんとかしてほしい』って頼まれてきたんです」
「おかしいとはどういうことだ? 私はいつも通りだが」
先ほどまでの話し方とは打って変わって、無愛想で厳格な口調だ。
これこそ俺が知るユーリ殿なのだが……一体、どの口で「いつも通り」と言っているのか。
「レヴィンさんも聞いてください。兄様は辞表を提出したんです」
「じ、辞表?」
一体どういうことだろう?
「当然であります。自分は祖国を裏切り、魔族に与しました‼ そのような輩が騎士団にいるべきではないと判断し、除隊を願い出たのです」
ひょんなことからゼノンの秘密を知ってしまったユーリ殿は、妹であるエリスと実験台にされていたスピカたちの命を盾にされ、魔族の陰謀に力を貸さざるを得なかった。
「それはまた極端な……」
いや、生真面目なユーリ殿らしいのか。
聞くところによると、彼が魔族に手を貸していた事実は伏せられているらしい。
ゼノンの指示に従っていたことはほとんど知られておらず、クローニアの兵士たちは、戦場で魔族に立ち向かったユーリ殿の姿しか見ていない。
服従の呪いをかけられていたにもかかわらず、ユーリ殿はエリーゼを暗殺させまいと抵抗している。そのことからも、彼がクローニアに忠誠を誓っていたのは明らかだ。
こうした事情に鑑み、エリーゼとカール国王はこの事実を公にしないことに決めたそうだ。
とはいえ、ユーリ殿としては罰を与えられず居たたまれなかったのだろう。
職を辞そうとしたものの認められず、最終的に平兵士に降格処分という形で落ち着いたらしい。
「気になったんだが……ユーリ殿が突然団長から降ろされたら、周りは不審に思うんじゃないか?」
エリスにそっと尋ねる。
そもそもユーリ殿と魔族の関係を隠すつもりなら、秘密裏に処罰するべきだろう。
こうして目に見える形で沙汰を下したら、余計な勘ぐりを招いてしまう気がする。
「それが……昔から兄様は仕事でミスをするたびに、それがどんなに些細なことでも降格を願い出てまして……だからか周りもあまり気にしていないみたいなんです」
俺の耳元に両手を寄せ、エリスがこそこそと教えてくれた。
なるほど。いつもの奇行だと思われたわけか。
「レヴィン様! 近すぎであります‼ 妹とは適切な距離を保っていただけないでしょうか!?」
畏まった丁寧な口調だが、ユーリ殿が有無を言わさぬ圧を発する。
彼はかなりのシスコンで、何かと厳しく監視しているのだ。
別に下心があるわけじゃないのに……
「あー……それじゃ、ゼクスたちが待ってるから」
これ以上ユーリ殿を刺激しないように、俺はそっとエリスから離れた。そそくさと会議室に入る。
部屋の中ではゼクスとエリーゼが待っていた。俺は遅れてしまったことを詫びる。
互いに挨拶と近況報告を済ませると、ゼクスが意外な話を切り出した。
「調印式の打ち合わせをする前に、報告したいことがある。国境付近の森でゼノンの死体が発見された」
「え……?」
急な話にあっけにとられてしまう。
ゼノンと対峙した際、俺たちはあと一歩のところでやつを取り逃がしてしまった。
それから、エルウィンとクローニアが行方を追っていると聞いていたが……
「どうやらなんらかの魔獣と遭遇したようでな。傷跡から推察するに、巨大な生物の爪で引き裂かれたらしい。あの森にそれほど凶暴な魔獣が生息しているという噂は聞いたことがなかったが……随分とあっけない幕引きだった」
ゼクスの言葉に、エリーゼがため息をつく。
「どうして我が国に潜り込み、あのような蛮行に及んだのか。それを知る方法はなくなったみたいだね」
確かに、エリーゼの言う通りだ。古に滅んだはずの魔族が、なぜ今になって動き出したのだろう。目的も含め、疑問は尽きない。
ゼノンの口ぶりから考えるに、魔族の生き残りは彼だけではなさそうだった。他の連中の居場所を知る機会を失ったのは手痛いかもしれない。
「気になる点はあるが、和平を阻む最大の障害はなくなった。紆余曲折あったが、父上が悪化させた両国の関係は少しはマシになりそうだ。貴族たちも、以前のように会議を掻き回すことはないからな」
そう言ってゼクスが笑う。その顔はツヤツヤしていて、いつになく生気に満ちている。
どうやら、これまでのストレスが解消されて調子がいいらしい。
◆ ◆ ◆
会議室での打ち合わせから数日が経った頃。
地上と竜大陸を繋ぐ巨大な【トランスポートゲート】……通称、転移門を通り、カール国王がやってきた。
今日、エルウィンとクローニアの和平条約の調印式が行われる。
式典用に整えられた最上階の一室で、俺は手元の紙を読み上げる。
「エルウィン、クローニア両国の国境はエルウィン侵攻以前の状態……レインディアの森の南端とする。また、賠償金の支払いについては――」
国境は以前、俺がドルカスに放り込まれた森の南を境とすることになった。
両国の戦いで被害を受けた人についても、これから補償がなされるだろう。
「それではゼクス国王、カール国王、和平合意書に調印を」
内容を確認し、俺はゼクスとカール国王に水を向けた。
てきぱきと調印を済ませるゼクスに対して、カール国王の動きは鈍い。
無理もない。彼は病を患っているそうで、本来なら起き上がることも難しい状況だ。それにもかかわらず、今回の調印式に臨んでいる。当初は体調が落ち着くのを待って式を執り行うつもりだったが、彼のたっての要望でいち早い調印式が実現した。
恐らくは魔族のゼノンを登用し、その策に乗せられて判断を誤ったことを悔いての行動だろう。
「立会人として、私、レヴィン・エクエスが署名します」
さて、ここまでは何事もなく進んだ。俺のような下級貴族出身が任される役目ではないので、随分と緊張した。
最後にゼクスとカール国王が握手を交わせば、この一連の騒動に終止符が打たれる。
「ゼクス国王よ……」
早速、カール国王がゼクスに歩み寄る。しかし、握手を交わすと思われたその瞬間、国王は膝を折った。
「此度は本当に申し訳ないことをした……あろうことか魔族を国の重鎮に据え、その魂胆を見抜けずに貴国へ戦争を仕掛けた。全て、わしの不徳の致すところだ……」
苦悶の表情を浮かべながら、カール国王が謝罪する。
体調が思わしくない彼のため、今回の式典は簡略化して行うと聞いていたが……一件落着とする前に、どうしても謝りたかったみたいだ。
「カール国王よ。全ては魔族の邪な企みによるものです。そもそも、我が父ドルカスにも此度の戦争の発端を作った責任がある。私こそ、謝罪しなければならないのです」
突然の行動でゼクスも驚いているはずだが、それを感じさせずに頭を下げた。魔族に矛先を向けることで、両国の関係をいいものへ導こうとしているのだろう。
「しかし、それでは……」
「貴国とはよき隣人として、共に魔族の脅威に立ち向かっていきたいと思っています。どうかご協力願えないでしょうか」
「……分かった。貴殿に感謝を」
カール国王の突然の行動には驚いたが……調印式はつつがなく進行し、無事に閉式を迎えた。
しかし、事件はその直後に起こった。
「ぐっ……ぬおああああああああ……‼」
カール国王を見送るため、みんなで転移門に向かっていた時のことだ。
国王が突然、胸を押さえて苦しみ出し、倒れ込んでしまったのだ。
「お父様……!」
咄嗟に隣を歩いていたエリーゼが支えようとするが、足をもつれさせてしまう。
あわや転倒……というところを救ったのは、その様子を物陰から窺っていたスピカだった。彼女はエリーゼに断って丁寧にカール国王を抱えると、急いで竜大陸の診療所へ連れていった。
カトリーヌさんの看護を受けて、ベッドに寝かされた国王はゆっくりと目を開ける。
「神竜の少女か……貴公がわしをここに運んでくれたのだな。礼を言う」
「私からも……助けてくださって本当にありがとう、スピカさん」
エリーゼも感謝を伝えると、スピカは慌てて首を横に振った。
「い、いえ……むしろ私はお二人に――クローニアに、とても大きな損害を与えてしまいましたので……本当にごめんなさい」
土下座でもしようかという勢いで、スピカが深々と頭を下げた。エリーゼの誕生パーティーを襲撃したり、エメラルドタワーを破壊したり……ゼノンに命令されたからとはいえ、重大な事件だ。
「事情はエリーゼとユーリから聞いて……おる。あやつの真意を見抜けず……結果的に、貴公とその家族を苦しめることになってしまった。ゼノンを野放しにしたわしこそ、謝罪すべきだろう。本当にすまなかった」
「あ、頭を下げないでください……王様はご体調が……」
スピカの言う通りだ。カール国王は息も絶え絶えな様子であり、こうして話しているだけでもかなりつらいはずだ。
「すま……ぬ……どうやら身体が言うことを聞かぬようじゃ……しばし、眠らせてもらえるだろうか……? エリーゼよ、あとは任せるぞ……」
そう言うと、カール国王は再び目を閉じてしまった。
ゼリーを食べていると、白衣を着たカトリーヌさんが部屋に入ってきた。
「あら、スピカさん。お目覚めになったのですね。よかったです」
相変わらずお淑やかで、その所作は優雅だ。
「あ、ありがとうございます……母共々お世話になりましたので……」
スピカが慌ててゼリーを置き、床に手をついて謝ろうとする。
「なんでもかんでも土下座しなくていいんだ、スピカ。普通にお礼を言えば大丈夫だ。カトリーヌさんがびっくりするからな」
「は、はい。努力します」
俺たちのやり取りを見て、カトリーヌさんは首を傾けて苦笑した。
「レヴィンさんもいらっしゃっていたなら、よいタイミングですね。私なりにアイシャさんの容体を調べてみたのですけれど……」
俺たちはカトリーヌさんの報告に耳を傾ける。
「結論から言うと、彼女はなんらかの毒物を投与されています」
「毒物を……?」
カトリーヌさんによれば、その毒は生き物を仮死状態にする非常に特殊なものだという。
「せめて毒の種類が特定できれば、解毒方法も模索できるのですが……私が持つ本には該当するものがないようでして……」
難しそうな表情で、カトリーヌさんが分厚い書物に目を落とす。
図鑑だろうか?
横から覗いてみると……『毒を愛する全ての人に送る、オールカラー猛毒事典決定版』と書かれていた。
悶え苦しむ人々の周りを蛇や蜘蛛が取り囲むという、なんともおどろおどろしい表紙が印象的だ。
……本当にこの本で大丈夫なのだろうか?
「あ、レヴィンさん、怪しんでますね?」
「い、いえ、そんなことは……」
「この本は、大陸で最も治療術の研究が進んでいる機関、エルディア聖教会が刊行したものなのですよ。大陸中の主要な毒物の情報が、フルカラーで分かりやすく記載されていて、治療術を学ぶ者にとっては必携の本なのです‼」
「な、なるほど……」
カトリーヌさんがかつてないほど熱弁を振るっている。
どうやら、治療術に通じる人の間では有名な書物らしい。
しかし、そんな本にも記載されていないとは。よほど珍しい毒なのか?
「この本でも特定できないということは、未発見の毒物の可能性があります。たとえば、人類がまだ足を踏み入れていない秘境で採れるとか、あるいは他国との国交がほとんどない地域のものであるとか……」
スピカたちを捕らえた魔族は、遠い昔に滅んだと伝えられてきた存在だ。
現に俺たちは、ゼノンが正体を現すまで魔族が生きながらえていたことを知らなかった。
そうなると、彼らは人目につきにくいところに拠点を構えている可能性がある。今回の毒も、そうした特別な場所で採取したものなのかもしれない。
「毒の特定ができないと、治療は難しいかな?」
「間違いなく時間はかかりますね……ですが、このまま手をこまねいているつもりはありません。アイシャさんの容体を見つつ、治療法を探してみせます」
専門的なことは俺には分からない。こればかりはカトリーヌさんに頼るしかないのだ。
「お願いするよ、カトリーヌさん。治療術に関しては素人だけど、俺にできることがあればなんでも言ってくれ」
「ふふ。ありがとうございます。いざという時は、お手伝いをお願いしますね」
ひとまず、アイシャさんのことはカトリーヌさんに任せよう。
彼女ならきっと、解決策を見出しくれるはずだ。
「あ、あの……えっと……」
何か言いたげな様子で、スピカがもじもじする。
「その、すみません……こ、こんな私たちのために……ここまでしていただいて……」
スピカは心の底から申し訳なさそうだ。
かつて俺たちを襲い、竜大陸やクローニアに甚大な被害を出したことを気にしているのだろう。気持ちは分からなくはないのだが……それにしても彼女は自分を卑下しすぎる気がする。
「こういう時は『ありがとう』って言った方が、カトリーヌさんも嬉しいんじゃないかな」
「あ、すみま……あっ……」
またしても「すみません」と言いかけ、スピカがしどろもどろになる。
そんな様子を見て、カトリーヌさんは優しく笑った。
「スピカさん、ここにはあなたを責める人は誰もいませんよ」
「すみません……癖になってて……その……あの人たちのところにいた時は、何か失敗するたびに、罰としてお母さんが痛めつけられたから……」
スピカが絞り出すように話した。
「無理に事情を話す必要はないよ。思い出してもつらいだけだろうし……」
俺たちはクローニアによるエルウィンへの侵攻を止めるために動いていたので、スピカとアイシャさんを助けることになったのは結果論だ。ただ、こうして竜大陸で保護しているのにはちゃんと理由がある。
たとえスピカが竜大陸を脅かした存在であっても……ゼノンたちに利用されていた分、ここでは穏やかに暮らしてほしい。そう思ったから、俺は二人の身柄を預かったのだ。
「そうだな……もし、竜大陸で世話になることに罪悪感があるなら、俺たちの手伝いをしてもらおうかな」
「手伝い……ですので?」
今、竜大陸はどこも人手が足りない。
国交を結ぶことになったクローニアの姫、エリーゼからもらった家畜の世話に、農作業。【製造】で都市を発展させることを考えると、資材を集める人材も必要だ。それに竜の背は地上からの観光客を迎えている。市場の警備員や海エリアにできたリゾート地、アントニオが設計したテーマパークのスタッフなども欲しい。
この診療所だってそうだ。
カトリーヌさんが健康診断を行ったり、病人の診察をしたりしてくれているが……今のところ彼女と夫のアーガスだけで運営しているため、かなり忙しそうだ。
普段の仕事に加えて、スピカたちの容体も見ていたわけだから、その大変さは俺の想像以上だろう。
せめてアイシャさんを看病してくれる人材が現れれば、かなり負担を軽減できるはずだ。
「頼まれてくれるか?」
「も、もちろんですので……私にできることならなんでも……!」
スピカが勢いよく頷く。
そうなると、今後の課題はアイシャさんだ。
正体不明の毒物……どうにかして種類を特定したい。
どうしたものかと悩んでいると、出しぬけに部屋の扉が開いた。
入ってきたのは両手に大量の学術書を抱えた青年――アーガスだ。
「カトリーヌ、カトリーヌ‼ 頼まれた資料、全部持ってきたよ‼ 診察室にいなかったから、あちこち捜し回ったんだけど……あっ」
アーガスが俺とエルフィの存在に気が付いた。目が合った途端に頬をカッと赤くして、咳払いをする。
「レ、レヴィン様、いらしていたのですね。スピカさんもお目覚めになったのですか。元気そうで何よりです」
まるで子犬のようなはしゃぎようが鳴りを潜め、礼儀正しい言葉遣いになる。
「アーガス。そろそろ俺を『様』付けで呼ぶのは、やめてもいいんじゃないかな」
俺がドルカスに国を追放される際、アーガスは暴言を吐いてきた。そのことに対する彼なりのけじめらしいが……やはり違和感は拭えない。
「いえ、レヴィン様は我々、猩々に居場所を与えてくれました。こうして、敬意を表するのは当然かと!」
「でも、俺も居たたまれないしなあ」
「そ、そういうことでしたら……レヴィン様、いえ、レヴィン殿? レヴィンさん?」
「『さん』でいいんじゃないか。なんだったら別に呼び捨てでもいいぞ。大体、前は『クク……いいザマだな、レヴィン』とか笑ってただろ?」
「わ、忘れてください! あれは私の過去の汚点……黒歴史なんです‼ 自分を《聖獣使い》だと思いこんで、調子に乗ってたんです‼ 本当に申し訳ありません‼」
アーガスがいっそう頬を赤くする。
当時はあまり愉快な気分ではなかったが、和解した今となっては笑い話だ。
必死になって弁解するアーガスの姿を見るのはなんだか面白い。
とはいえからかいすぎるのも悪いので、ほどほどにしておこう。
「それじゃ、『レヴィンさん』にしてくれ。それにしても凄い資料の数だな。運んできてくれてありがとう」
アーガスが机の上に置いた本の量は凄まじく、彼の背に迫るほど高く積まれている。
「カトリーヌがアイシャさんの治療のために頑張っているのですから、このくらい当然ですよ。あっ……そういえば」
アーガスが何かを思い出したようにポンと手を打った。
「ゼクス陛下が竜大陸にいらしているようで、レヴィンさん宛に伝言を預かっていたんです。『至急、市場の迎賓館に来てくれ』とおおせでした」
「ゼクスが? なんの用だろう」
特段、心当たりはない。
ゼクスはクローニアとの和平条約締結に向けて忙しくしていると聞く。ここ最近は手紙などでやり取りすることが多かったのだが、わざわざ空の上までやってくるとは……
「例の調印式についてでは?」
アーガスの指摘に俺は首を傾げた。
「そういえば、そんな話をされたような……」
「しっかりしてください。レヴィンさんはこの竜の背の王様なんですよ」
「王様って……そんなつもりはないんだけどなあ」
これまでエルウィンとクローニアでは、和平交渉に向けた会議が紛糾していた。
というのも、先王であるドルカスが身勝手な侵攻を行ったことで、エルウィンに対するクローニア貴族の信頼が地に落ちていたからなのだが……そうこうしているうちに、今度はクローニアが戦争を仕掛けてきた。それも両国を争わせようとする一部の貴族の企みを見抜けず、あろうことか魔族を宰相に登用してしまった結果だ。
双方に過失が生まれたことで、互いに強く出られなくなったらしい。ゼクスとエリーゼの尽力もあって、和平の話し合いは順調に進んでいた。
幾度かの話し合いを経て、両国は正式に和睦を結ぶ運びとなった。そして、その調印式を行う場所としてリントヴルムの背が選ばれたのだ。
「すっかり忘れてたな……大事な話だし、すぐ行ってくるよ。スピカ、俺たちを手伝ってほしいとは言ったが、無理はしなくていいからな。今は休むのが仕事だ。任せたぞ」
「は、はい……頑張りますので……!」
スピカは気合十分という感じだ。
「エルフィはどうする?」
「ここに残る。スピカは昔の竜大陸に住んでいたけど、今は新人。私が先輩として見守ってあげるべき」
どうやら、スピカが馴染めるようにサポートに徹するらしい。
俺はエルフィの頭を撫でた。
「よしよし、偉いぞ。いろいろ助けてあげてくれ」
かくして俺は診療所を後にした。目指すはゼクスが待つ迎賓館だ。
都市の正面に築かれた市場は、対立するエルウィンとクローニアの交流の場として設けたものだ。今ではたくさん商人と観光客がやってきて、互いの特産品や文化を楽しんでいる。
その市場の中にそびえ立つ立派な屋敷こそ、アントニオが設計した迎賓館である。
近日中に行われる予定の調印式は、ここが会場となる手筈だ。
まずいな。ゼクスだけではなく、クローニア国王の代理であるエリーゼも待たせてしまっている。俺は足早に二人が待つ会議室へ向かった。
「お待ちしていました、レヴィン様! ゼクス陛下とエリーゼ殿下はすでにおいでになっております」
「……何をしているんですか、ユーリ殿」
部屋の前でビシッと敬礼したのは、エリスの兄でありクローニアの近衛騎士団団長でもある、ユーリ殿だ。
エリーゼの護衛を務める彼がここにいることはおかしくない。おかしくはないのだが……
「自分は一兵卒として、職務を全うしている最中であります‼」
「いや、そういうことじゃなくて……」
気になるのは、彼が身につけている衣装だ。
以前会った時、ユーリ殿は高級感のある黒い騎士装束をまとっていた。ところが、今の彼は門兵じみたありふれた鎧に身を包んでいるのだ。
まるで鍋のように不格好な兜に、身を守るには心細くなるほど薄い胸当て、簡素なインナー……正直に言って、王族の護衛には似つかわしくない質素な装いだ。
俺は恐る恐る尋ねる。
「えっと、その格好は一体……」
「クローニア王国で採用されている鎧であります。主に見習いの兵士に支給される品ではありますが」
どうにも調子が狂う。ユーリ殿がこうして下級兵士のような畏まった喋り方をするところなど見たことがない。
「いえ、鎧の説明じゃなくて、どうしてそんな格好をしているのかをですね……」
「やはり、自分のような者にはすぎた装いでありましょうか!?」
「だから、そういうことではなくて……」
なんとも話が進まない。どうしたらいいんだ、これは。
「あっ……やっぱり、レヴィンさんを困らせてる……!」
様子のおかしいユーリ殿に困惑していると、どこからともなくエリスが現れた。
「むっ。エリス、どうしてここに?」
「『どうしてここに?』じゃないですよ、兄様。エリーゼ殿下から、『ユーリの様子がおかしいからなんとかしてほしい』って頼まれてきたんです」
「おかしいとはどういうことだ? 私はいつも通りだが」
先ほどまでの話し方とは打って変わって、無愛想で厳格な口調だ。
これこそ俺が知るユーリ殿なのだが……一体、どの口で「いつも通り」と言っているのか。
「レヴィンさんも聞いてください。兄様は辞表を提出したんです」
「じ、辞表?」
一体どういうことだろう?
「当然であります。自分は祖国を裏切り、魔族に与しました‼ そのような輩が騎士団にいるべきではないと判断し、除隊を願い出たのです」
ひょんなことからゼノンの秘密を知ってしまったユーリ殿は、妹であるエリスと実験台にされていたスピカたちの命を盾にされ、魔族の陰謀に力を貸さざるを得なかった。
「それはまた極端な……」
いや、生真面目なユーリ殿らしいのか。
聞くところによると、彼が魔族に手を貸していた事実は伏せられているらしい。
ゼノンの指示に従っていたことはほとんど知られておらず、クローニアの兵士たちは、戦場で魔族に立ち向かったユーリ殿の姿しか見ていない。
服従の呪いをかけられていたにもかかわらず、ユーリ殿はエリーゼを暗殺させまいと抵抗している。そのことからも、彼がクローニアに忠誠を誓っていたのは明らかだ。
こうした事情に鑑み、エリーゼとカール国王はこの事実を公にしないことに決めたそうだ。
とはいえ、ユーリ殿としては罰を与えられず居たたまれなかったのだろう。
職を辞そうとしたものの認められず、最終的に平兵士に降格処分という形で落ち着いたらしい。
「気になったんだが……ユーリ殿が突然団長から降ろされたら、周りは不審に思うんじゃないか?」
エリスにそっと尋ねる。
そもそもユーリ殿と魔族の関係を隠すつもりなら、秘密裏に処罰するべきだろう。
こうして目に見える形で沙汰を下したら、余計な勘ぐりを招いてしまう気がする。
「それが……昔から兄様は仕事でミスをするたびに、それがどんなに些細なことでも降格を願い出てまして……だからか周りもあまり気にしていないみたいなんです」
俺の耳元に両手を寄せ、エリスがこそこそと教えてくれた。
なるほど。いつもの奇行だと思われたわけか。
「レヴィン様! 近すぎであります‼ 妹とは適切な距離を保っていただけないでしょうか!?」
畏まった丁寧な口調だが、ユーリ殿が有無を言わさぬ圧を発する。
彼はかなりのシスコンで、何かと厳しく監視しているのだ。
別に下心があるわけじゃないのに……
「あー……それじゃ、ゼクスたちが待ってるから」
これ以上ユーリ殿を刺激しないように、俺はそっとエリスから離れた。そそくさと会議室に入る。
部屋の中ではゼクスとエリーゼが待っていた。俺は遅れてしまったことを詫びる。
互いに挨拶と近況報告を済ませると、ゼクスが意外な話を切り出した。
「調印式の打ち合わせをする前に、報告したいことがある。国境付近の森でゼノンの死体が発見された」
「え……?」
急な話にあっけにとられてしまう。
ゼノンと対峙した際、俺たちはあと一歩のところでやつを取り逃がしてしまった。
それから、エルウィンとクローニアが行方を追っていると聞いていたが……
「どうやらなんらかの魔獣と遭遇したようでな。傷跡から推察するに、巨大な生物の爪で引き裂かれたらしい。あの森にそれほど凶暴な魔獣が生息しているという噂は聞いたことがなかったが……随分とあっけない幕引きだった」
ゼクスの言葉に、エリーゼがため息をつく。
「どうして我が国に潜り込み、あのような蛮行に及んだのか。それを知る方法はなくなったみたいだね」
確かに、エリーゼの言う通りだ。古に滅んだはずの魔族が、なぜ今になって動き出したのだろう。目的も含め、疑問は尽きない。
ゼノンの口ぶりから考えるに、魔族の生き残りは彼だけではなさそうだった。他の連中の居場所を知る機会を失ったのは手痛いかもしれない。
「気になる点はあるが、和平を阻む最大の障害はなくなった。紆余曲折あったが、父上が悪化させた両国の関係は少しはマシになりそうだ。貴族たちも、以前のように会議を掻き回すことはないからな」
そう言ってゼクスが笑う。その顔はツヤツヤしていて、いつになく生気に満ちている。
どうやら、これまでのストレスが解消されて調子がいいらしい。
◆ ◆ ◆
会議室での打ち合わせから数日が経った頃。
地上と竜大陸を繋ぐ巨大な【トランスポートゲート】……通称、転移門を通り、カール国王がやってきた。
今日、エルウィンとクローニアの和平条約の調印式が行われる。
式典用に整えられた最上階の一室で、俺は手元の紙を読み上げる。
「エルウィン、クローニア両国の国境はエルウィン侵攻以前の状態……レインディアの森の南端とする。また、賠償金の支払いについては――」
国境は以前、俺がドルカスに放り込まれた森の南を境とすることになった。
両国の戦いで被害を受けた人についても、これから補償がなされるだろう。
「それではゼクス国王、カール国王、和平合意書に調印を」
内容を確認し、俺はゼクスとカール国王に水を向けた。
てきぱきと調印を済ませるゼクスに対して、カール国王の動きは鈍い。
無理もない。彼は病を患っているそうで、本来なら起き上がることも難しい状況だ。それにもかかわらず、今回の調印式に臨んでいる。当初は体調が落ち着くのを待って式を執り行うつもりだったが、彼のたっての要望でいち早い調印式が実現した。
恐らくは魔族のゼノンを登用し、その策に乗せられて判断を誤ったことを悔いての行動だろう。
「立会人として、私、レヴィン・エクエスが署名します」
さて、ここまでは何事もなく進んだ。俺のような下級貴族出身が任される役目ではないので、随分と緊張した。
最後にゼクスとカール国王が握手を交わせば、この一連の騒動に終止符が打たれる。
「ゼクス国王よ……」
早速、カール国王がゼクスに歩み寄る。しかし、握手を交わすと思われたその瞬間、国王は膝を折った。
「此度は本当に申し訳ないことをした……あろうことか魔族を国の重鎮に据え、その魂胆を見抜けずに貴国へ戦争を仕掛けた。全て、わしの不徳の致すところだ……」
苦悶の表情を浮かべながら、カール国王が謝罪する。
体調が思わしくない彼のため、今回の式典は簡略化して行うと聞いていたが……一件落着とする前に、どうしても謝りたかったみたいだ。
「カール国王よ。全ては魔族の邪な企みによるものです。そもそも、我が父ドルカスにも此度の戦争の発端を作った責任がある。私こそ、謝罪しなければならないのです」
突然の行動でゼクスも驚いているはずだが、それを感じさせずに頭を下げた。魔族に矛先を向けることで、両国の関係をいいものへ導こうとしているのだろう。
「しかし、それでは……」
「貴国とはよき隣人として、共に魔族の脅威に立ち向かっていきたいと思っています。どうかご協力願えないでしょうか」
「……分かった。貴殿に感謝を」
カール国王の突然の行動には驚いたが……調印式はつつがなく進行し、無事に閉式を迎えた。
しかし、事件はその直後に起こった。
「ぐっ……ぬおああああああああ……‼」
カール国王を見送るため、みんなで転移門に向かっていた時のことだ。
国王が突然、胸を押さえて苦しみ出し、倒れ込んでしまったのだ。
「お父様……!」
咄嗟に隣を歩いていたエリーゼが支えようとするが、足をもつれさせてしまう。
あわや転倒……というところを救ったのは、その様子を物陰から窺っていたスピカだった。彼女はエリーゼに断って丁寧にカール国王を抱えると、急いで竜大陸の診療所へ連れていった。
カトリーヌさんの看護を受けて、ベッドに寝かされた国王はゆっくりと目を開ける。
「神竜の少女か……貴公がわしをここに運んでくれたのだな。礼を言う」
「私からも……助けてくださって本当にありがとう、スピカさん」
エリーゼも感謝を伝えると、スピカは慌てて首を横に振った。
「い、いえ……むしろ私はお二人に――クローニアに、とても大きな損害を与えてしまいましたので……本当にごめんなさい」
土下座でもしようかという勢いで、スピカが深々と頭を下げた。エリーゼの誕生パーティーを襲撃したり、エメラルドタワーを破壊したり……ゼノンに命令されたからとはいえ、重大な事件だ。
「事情はエリーゼとユーリから聞いて……おる。あやつの真意を見抜けず……結果的に、貴公とその家族を苦しめることになってしまった。ゼノンを野放しにしたわしこそ、謝罪すべきだろう。本当にすまなかった」
「あ、頭を下げないでください……王様はご体調が……」
スピカの言う通りだ。カール国王は息も絶え絶えな様子であり、こうして話しているだけでもかなりつらいはずだ。
「すま……ぬ……どうやら身体が言うことを聞かぬようじゃ……しばし、眠らせてもらえるだろうか……? エリーゼよ、あとは任せるぞ……」
そう言うと、カール国王は再び目を閉じてしまった。
34
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