犬も歩けば雨晴るる

葉野亜依

文字の大きさ
上 下
6 / 7

第六話

しおりを挟む
 大学からの帰り道。空が夜色に染まりつつある。街灯がぱちぱちと点き始めている。

「夕飯どうしようかなぁ……」

 冷蔵庫の中身を思い出しながら歩く。今日はバイトもないため早く帰れた。贅沢はできないからできるだけ自炊をしようと頑張ってはいる。あまり凝った物は作れないが、そこそこ料理はできると自負してはいる。
 何を作ろうかなぁと考えていたその時、聞き覚えのある足音が近づいてくるのが聞こえて来た。

「うわっ!?」

 振り返ろうとした矢先に体に衝撃を受ける。何度も感じたことがあるそれに最早苦笑いしか出て来ない。
 起き上がれば案の定、目の前に晴多の顔があった。

「あれ、晴多一人?」

 晴多が一人――一匹と言った方が正しいけど――でいるのは珍しいことではない。晴多は比嘉さんが働いている間も自由に図書館内を動き回っているからだ。僕も館内で度々かくれんぼをさせられる時がある。尤も、晴多は隠れているつもりでも尻尾が隠れきれていない時があって、その度に僕は笑いそうになる。だが、遊んでばかりの訳ではない。前にもあった厄介な利用者たちが比嘉さんに接触すればすぐにでも駆けつける。耳か鼻かそれとも第六感でか、晴多はそういう機微を察知するのだ。
 いつもはそのままじゃれてくる晴多だけど、今日は違った。顔を舐めてくることもなければ、撫でて欲しいと体を寄せてくることもなかった。
 何処か落ち着きがなく、僕の周りをうろうろとしている。視線はきょろきょろとしていて、そうかと思えば、僕のズボンの裾を噛んだ。
 こんなことは初めてだったため、僕は戸惑った。

「え、何?どうした?」

 ぐいぐいと裾を噛んで来るその姿は、まるで「こっちに来て」と言っているようだった。
 こんなに慌てる晴多の姿など見たことがなかった。
 僕はあることを思い付いた。

「もしかして、比嘉さんに何かあった……?」

 当たって欲しくないことは当たってしまうもので。
 晴多が肯定するかのように大きく声を上げた。
 早く早くと急かすように、裾をぐいぐいと引っ張られる。
 駆け出した晴多を追って、僕も走り出した。
 ――何があったかはわからないけど、どうか無事でいて……!
 そう強く願いながら、僕は足を動かした。


 人がいない道端に比嘉さんが蹲っているのが見えた。
 僕は慌てて比嘉さんへと駆け寄る。

「比嘉さん……?」

 声を掛けたものの、比嘉さんから反応はなかった。いつもは綺麗に整えられた髪が乱れている。顔色が悪く、何やらぶつぶつと呟いている。何よりもその華奢な体からは、比嘉さんとは違う別の存在を感じた。
 ――悪霊か……!
 比嘉さんは悪霊に取り憑かれていた。この状況をどうにかして欲しくて、晴多は僕を探していたんだろう。
 霊が憑いているのだとしたら、晴多が体当たりして追い払うはずだ。どうしてそうしないのだろうと一瞬疑問が頭を過った。
 だけど、そんなことを考えている余裕はなくて。
 僕や晴多が近づいてもその虚ろな瞳には何も映らない。

「うう……」

 呻き声を上げて地面へと伏せそうになるその体を支える。

「比嘉さんしっかり!」

 僕も経験したことがあるからわかる。悪霊に憑かれた時は意識が持ってかれそうになるのだ。暗い暗い思考に覆い尽くされそうになるのを比嘉さんは必死に耐えている。

「比嘉さん!」

 名前を呼ぶ。晴多も大きく吠えている。
 苦しみと悲しみと痛みが比嘉さんの中を渦巻いているのだろう。
 息は荒く、何とか自我を保とうとしているその姿はとても辛そうで。僕は思い切り叫んでいた。

「この人から離れろ!憑くなら僕に憑け!」

 気休めでも何でもいいから少しでも現状が良くなるように、持っていたお守りや清めの塩を比嘉さんの手に握らせる。
 それが嫌だったのだろうか。影が色濃くなった。
 晴多の吠える声が大きくなる。
 影が渦巻き、逃げるようにすぅと比嘉さんの体を離れる。よろついた比嘉さんを僕は支えた。
 影が次の狙いを定める。ない目と合った気がした。

「晴多、今だ!」

 影が僕の体の中に入ってこようとした。
 けれどその前に、低く唸っていた晴多が飛びかかる。前脚で悪霊を捉えて、その鋭い牙を向けた。
 悪霊がもがくが晴多は決して離そうとしなかった。
 晴多が躊躇うことなく悪霊へと噛み付く。思い切り噛み砕けば、言葉にもなっていない叫び声を上げながら悪霊は霧散していった。
 辺りが静まり返る。まるで何事もなかったかのような静かさに僕はほっと息を吐いた。

「ありがとう、晴多。比嘉さんなら気絶しているだけだから大丈夫だよ」

 心配そうに比嘉さんを見つめてくる晴多を安心させるように僕は言った。
 比嘉さんはすうすうと寝息を立てている。額に手をやると少し熱っぽい気がするが、救急車を呼ぶ程ではないと思う。

「さあ、帰ろうか」

 比嘉さんを抱え直してそう言えば、晴多は肯定するように一声吠えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

スパイスカレー洋燈堂 ~裏路地と兎と錆びた階段~

桜あげは
ライト文芸
入社早々に躓く気弱な新入社員の楓は、偶然訪れた店でおいしいカレーに心を奪われる。 彼女のカレー好きに目をつけた店主のお兄さんに「ここで働かない?」と勧誘され、アルバイトとして働き始めることに。 新たな人との出会いや、新たなカレーとの出会い。 一度挫折した楓は再び立ち上がり、様々なことをゆっくり学んでいく。 錆びた階段の先にあるカレー店で、のんびりスパイスライフ。 第3回ライト文芸大賞奨励賞いただきました。ありがとうございます。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

飯屋の娘は魔法を使いたくない?

秋野 木星
ファンタジー
3歳の時に川で溺れた時に前世の記憶人格がよみがえったセリカ。 魔法が使えることをひた隠しにしてきたが、ある日馬車に轢かれそうになった男の子を助けるために思わず魔法を使ってしまう。 それを見ていた貴族の青年が…。 異世界転生の話です。 のんびりとしたセリカの日常を追っていきます。 ※ 表紙は星影さんの作品です。 ※ 「小説家になろう」から改稿転記しています。

日本酒バー「はなやぎ」のおみちびき

山いい奈
ライト文芸
★お知らせ いつもありがとうございます。 当作品、3月末にて非公開にさせていただきます。再公開の日時は未定です。 ご迷惑をお掛けいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 小柳世都が切り盛りする大阪の日本酒バー「はなやぎ」。 世都はときおり、サービスでタロットカードでお客さまを占い、悩みを聞いたり、ほんの少し背中を押したりする。 恋愛体質のお客さま、未来の姑と巧く行かないお客さま、辞令が出て転職を悩むお客さま、などなど。 店員の坂道龍平、そしてご常連の高階さんに見守られ、世都は今日も奮闘する。 世都と龍平の関係は。 高階さんの思惑は。 そして家族とは。 優しく、暖かく、そして少し切ない物語。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

『 ゆりかご 』  ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。

設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

処理中です...