犬も歩けば雨晴るる

葉野亜依

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第一話

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 長く続いた雨の合間、見上げた空はどんよりと曇っている。
 体が重い。目が霞む。身に覚えのある怠さに思わず舌打ちをした。
 ――ああ、また憑かれたか……。
 昔から普通の人では視えないモノが視えた。
 父も母も視える人ではなかったが、僕がそれらについて訴えても、「そうなんだ。視えるなんて凄いねぇ」と言われるだけだった。祖母が視える人だったというのも大きな理由だと思うが、我が両親ながらなんてお気楽な人たちだと何度思ったことか。
 何にせよ家族の理解が得られた僕は幸せ者だと思う。一歩外に出ればあちこちに霊がいて、それらを指摘すれば周りからは訝しがられたから。
 けれど、霊が視えることは何も良いことではない。ふとした拍子にこうして憑かれることがあるからだ。
 取り憑かれて頭は痛いし気持ちが悪い。負の感情が自分の中でぐるぐると渦巻いている。こういう時に限って普段は持ち歩いている清めの塩がないときた。ほんと、最悪だ。
 不意にたたたっ、と駆ける音が聞こえて来た。
 一体何だと思って顔を上げると、目の前に一匹の犬がいた。
 歯を剥き出しにしてこちらを睨んでいる。ぐるるると唸り声が鈍く痛む頭に響いた。
 犬が地を蹴り、僕に向かって飛びかかって来た。

「うわっ!?」

 体当たりをされて、体が傾く。勢いのまま倒れて、地面に頭がぶつかった。
 その拍子に、すぅと僕の中から悪い何かが抜け出た。
 素早く犬がそれへと噛みつく。その鋭い牙によってそれは噛み砕かれ、黒いもやとなって霧散して消えて行った。
 ぶつけた頭は痛いが、今まで感じていた体の怠さはなくなった。
 僕は体を起こして目の前の犬を見つめた。
 柴犬くらいの大きさで、けれど柴犬と違って瞳が青い。まるで澄み切った空の色のようだ。
 真っ黒な体躯に足先が白くてまるで靴下を履いているようで可愛らしい。
 顔には麻呂眉があり、先程まで険しい顔だったのが嘘のように今は穏やかな顔をしている。凛々しい顔つきだが何処かあどけなさもあった。

「晴多ー」

 不意に女性の声が聞こえて来た。犬の耳がぴくっと揺れる。犬はその声の方へと顔を向けたかと思えば駆け出した。

「晴多。勝手に行かないでよ」

 女性が息を整える。その間にも犬の尻尾はぶんぶんと振られている。
 ぼーっと眺めていた僕の視線に気づいた女性が僕に顔を向けた。

「……顔色悪いですよ?大丈夫ですか?」

 声を掛けられてはっとした。

「だ、大丈夫です」

 慌てて答えた矢先に、犬が吠えた。まるで女性に何かを訴えているかのようだ。

「……でも、霊に取り憑かれていたんですよね?本当に大丈夫ですか?」

 その言葉に僕はぎょっとした。

「何でそれを……」
「この子に教えてもらったんです」

 犬の頭を撫でながら、当たり前のように女性が言った。

「その子が言っていることがわかるんですか?」
「はい、わかりますよ。最初はこの子もあまり心を開いてくれなかったんですが、徐々に懐いてくれて、次第に話してくれるようになったんです」

 僕にはわからないが、二人――一人と一匹――は通じ合っているよいだ。
 と、ここで何やら視線を感じた。じーっと犬が僕を見ている。
 ――いや、僕じゃなくて、僕の手元?
 手に持っているのは豆乳の紙パックだ。少しでも気分を上げようと思って買って来たものだった。そんな僕の好みは友人からは「何か年寄りくさい」と言われている。

「すみません……この子豆乳が大好きなんです……」

 女性が困ったように苦笑いをした。彼女がそう言っている間も犬の視線は逸れない。

「……これ、欲しい?」

 僕が豆乳を差し出せば、犬は尻尾をぶんぶんと大きく振った。
 豆乳を咥えて、犬が女性のもとへ行く。「貰ったよ!」とその瞳が語っている。

「よかったね。家に帰ってから飲もうか」

 女性が豆乳を受け取ってそう言えば、犬の尻尾が垂れた。どうやらすぐに飲ませてもらえると思ったらしい。
 何だかそれが可愛くて僕はくすくすと笑った。

「改めて、助けてくださってありがとうございます」
「いえいえ、助けたのはこの子ですから」

 女性が優しく犬の頭を撫でる。その目は慈愛に満ちていた。

「僕、宇津保と言います」
「わたしは比嘉です。この子は晴多」

 女性――比嘉さんが紹介をすると、犬こと晴多が「わん!」と元気よく吠えた。

「撫でても良いですか?」
「どうぞ」

 比嘉さんが一歩下がったので、僕は晴多に手を伸ばす。
 怖がらせないように首元を優しく撫でる。整った毛並みは触り心地が良い。
 晴多が気持ちよさそうに目を細める。

「助けてくれてありがとう。僕も豆乳好きなんだ」

 語りかけると晴多が何かを話すかのようにこちらを見ながら鳴いた。

「ふふっ、『仲間だな』って言っていますね」

 比嘉さんが小さく笑う。僕もつられて笑った。
 晴多は公園内を元気よく走り回っていた。
「視える人に久しぶりに会いました」
 そっと比嘉さんが言った。その瞳には晴多が映っている。
 そう、最初から気づいていた。晴多が普通の犬ではないことに。
 動物の中には普通の人では視えない何かに敏感なモノもいる。実際に霊に取り憑かれている最中に、散歩中の犬に吠えられたり、道端を歩いている猫に威嚇されたりなどしたことはあった。
 けれど、大体は逃げる。得体の知らないモノに近づきたくないのは人も動物も同じらしい。
 でも、晴多は違った。同じ霊であるからこそ、僕に取り憑いていた悪いモノに対してより敏感に反応したのだろう。

「犬に霊を祓われたのは初めての経験でした」
「あの子、結構頼りになるんですよ」

 何処か誇らしげに比嘉さんが言った。そうですねと僕は相槌を打った。

「まあ、見ての通りリードを付けていないので、自由に何処か行ってしまうのが玉に瑕なんですけどね」
「元気ですもんね」

 晴多がちょうちょを追いかけてはしゃいでいる。その姿は普通の人には視えていないのだ。
 一頻り走り回って満足したからか、晴多が比嘉さんの元へと戻って来た。よしよし、と比嘉さんが毛並みを整えるように撫でる。

「こうして公園に遊びに来ることもあるので、また見かけたら話し相手になってくれますか?」
「勿論」

 常人には視えないモノについて語り合える人は少ない。僕は二つ返事で了承した。
 と、晴多が吠えた。比嘉さんのスカートを噛んでぐいぐいと引っ張る。一体どうしたのだろうか。

「早く家に帰って豆乳が飲みたいみたいです」

 困ったように眉を下げる比嘉さんと尻尾をぶんぶん振って吠える晴多に、僕は小さくふき出した。
 霊が視えることは良いことなんてない。けれど、この出会いは僕にとってとても大切なものになるのだった。
 空を仰げば雲の切れ間から光が降り注いでいた。
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