にきの奇怪な間話

葉野亜依

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第十話 迷わし神(一)

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 ちょっと神社に行ってスケッチでもしよう。
 そう思い立ってぼくは出掛けた。
 ばあちゃんの家から歩いて徒歩数分の場所にある神社にだ。
 二対の灯籠があるお社。大きなスタジイの神木。フェンスに囲まれた小さな祠。近くに設置されている様々な遊具。ここには描きたい物がたくさんある。
 時には立って、時には地べたに座り込んで、時にはベンチに座って、ぼくは夢中で描き続けた。
 何を描くにしても、描いている最中は主に木陰でだ。深緑の葉を生い茂らせている木々の下は思っていたよりも涼しい。
 暑い日差しの下で絵を描くなんてただの自殺行為である。熱中症になどなりたくはない。
 水分は持ってこなかったがちゃんと帽子は被ってきたし、そこまで長居をするつもりはないから、まあ、大丈夫だろう。
 辺りでは蝉の声が鳴り響いており、それ以外の音は特にしない。
 犬の散歩をしているおじいさんと挨拶したぐらいで、境内に人の気配はない。
 ぼく以外誰もいない夏の神社で、ぼくは黙々と絵を描き続ける。
 一段落したところで手を止めた。
 携帯端末で時間を確認すれば、時刻は正午近くになっていた。


「うわ、もうこんな時間か。キリもついたし、そろそろ帰るとするかな」
 画材道具一式を鞄の中に片付ける。
 腰を上げてぐぐっと背伸びを一つする。鞄を肩に掛ける時に、よいしょ、と思わず掛け声が出た。
 ばあちゃんの口癖が移っちゃったかもしれないな。
 一人で小さく苦笑して、ぼくは家に帰るために歩き出す。
 砂利道を歩いて境内を出ると、とん、と背中に何かが当たった気がした。

「ん?何だ?」

 足を止めて後ろを振り向いたが何もない。きょろきょろと辺りを見回しても何もない。

「気のせいか……」

 特に気にすることなく、再び家へと向かって足を進める。その距離は五分もかからない。歩けばすぐに辿りつける距離だ。

 ――そう、そのはずなのに。

「……何故だ!?」

 道端でぼくは叫んだ。
 だが気にすることはない。何故なら、周りにぼく以外人などいないのだから。
 近所迷惑になっていたら大変申し訳ないのだが、今はそのことを気にしている場合じゃなくて。
 ……おかしい。どう考えてもおかしい。
 さっきからずっと歩いているのだが、全然家に辿り着けないのだ。どの道を歩けばいいのかわかっているはずなのに、ぐるぐると同じ場所を彷徨っている。
 携帯端末を取り出して位置情報を確認しながら歩こうとしても、何故か位置情報が反映されない。

「……使えねぇ」

 チッと舌打ちをする。自分の言葉遣いがいつもよりも悪くなっている気がしなくもないが今はしょうがない。
 ただでさえ家に辿り着けなくてイライラしているのに、この暑さがそれに拍車をかけているからだ。
 炎天下、一応帽子は被っている。だが、そんなこと関係ないといわんばかりにギラつく太陽と灼熱のコンクリートの道はぼくから体力を奪っていく。
「こんなことなら、水を持ってくればよかったな……」
 大丈夫だと思っていた自分に全然大丈夫じゃないからと文句を言ってやりたい。
 でも、悔やんでも後の祭りだ。
 辺りを見回しても自動販売機なんてものはないし、そもそも財布を持ってきていないから自動販売機があったとしても商品を買うことはできない。
 ……詰んだ。
 このままでは本当に熱中症になってしまうかもしれない。
 ふらふらと覚束ない足取りで歩いていたが、限界を感じてついに近くの壁に手をついた。
 ……うん、そろそろヤバいかも。

「斯くなる上は……」

 携帯端末を取り出して、とある番号を打ち込んで電話を掛ける。
 この年になって迷子だなんて恥ずかしかったから家に電話をするのは憚れていた。だが、もうそうは言っていられない。
 家に電話してばあちゃんに迎えに来てもらうという最終手段を使うしか方法はなかった。
 ……まあ、それも電話機能が使えればの話だけど。位置情報が狂っているのだから、電話機能が使えなくてもおかしくはない。
 頼む、繋がってくれ!
 心の中で祈りながら電子音を聞いていると、ぷつりとコール音が切れた。

『もしもし?』
「つ、繋がった!」

 半分ぐらい繋がらないかもと思っていたから、実際に繋がって驚きのあまり叫んでしまった。いや、繋がらなかったら完全にアウトだったけど。
 よかったよかったと一人でほっと安堵の息をついていると、電話の向こう側から「もしもし?」と戸惑い気味に声が聞こえてきた。
 ……ん?あれ、ばあちゃんの声じゃない。
 一旦冷静になって考える。耳に聞こえてきたその声は、明らかに祖母のものではなかった。
 まさか……いやでもこの声は絶対……。ああ、ばあちゃんでも恥ずかしいというのに!
 そうであってほしくないと現実逃避をしている間にも、その人は電話を切ることなく話しかけていた。

『もしもし?』
「……あ、ごめん、にきだけど。……つゆりさん、だよね?」
『はいそうですよ』

 頼むからそうでありませんように、と心の中で祈っていた。
 だが願い虚しく、本人にあっさり肯定されて「ああ、やっぱり」とぼくは項垂れた。
 そりゃそうか。願っても現実などそうそう変わるはずもないのだ。
 とまあ、現実逃避の時間が終了したぼくのことは置いておくとして。
 つゆりさんが「ああ、やっぱり」と何処か嬉しそうに言った。

『さっきの声を聞いて、にきくんかなって思ったんですけど……一瞬だったし、もし訊き返して間違っていたら恥ずかしいなぁと思って訊けなかったんです』

 電話越しでつゆりさんが恥ずかしそうに笑った。
 ああ、和む。……じゃなくて!
「えっと、因みに、ぼくが間違えてつゆりさんの家に電話をかけたってわけじゃないよね?」
『いえ、違いますよ。今おばあさまが料理の支度している最中でして……手が離せなくて出られなかったので私が電話に出たんです』
「……ああ、そうなんだ」

 よりにもよってつゆりさんが電話に出ると誰が予想できただろうか。少なくとも、ぼくには予想できなかった。
 普段なら嬉しいところだが、今は非常に複雑である。
 男のプライドを捨てて、つゆりさんに助けを求めるべきか否か……。
 無言になったぼくに「どうかしましたか?」と彼女が訊く。そんな風に優しく訊かれれば、「別に」などとそっけなく言えるはずもなく。
 それに何より男のプライドなんかよりも自分の命の方が大事だ。
 そう結論付けて、か細い声でぼくは言う。
「実はさ……家に帰れなくて……」
『帰れない?』
「そう。何でかわかんないんだけど、同じところをずっと彷徨っちゃって……家に辿り着けないんだ。あ、別にぼくが方向音痴って訳じゃないからね」

 誤解を招くのもあれなので、慌てて付け足した。

『……方向音痴な人って皆さんそう言いますよね』
「ち、違うからね!?」
『ふふっ、わかっていますよ。にきくんが神社に行ったことがあるって話は前に聞きましたし、帰って来られないはずがありませんよね。まあ、もしかして、と一瞬思ってはしまいましたけど』

 悪戯っぽくつゆりさんが笑った。ぼくは思い切り脱力した。
 気を取り直してぼくは話を続ける。

「端末の地図アプリも機能しないし……一体どうなってるのかさっぱりで……。あの、悪いんだけど迎えに来てもらえるとありがたい……です」

『わかりました』
 つゆりさんは馬鹿にすることなく直ぐに快諾してくれた。彼女が優しい人でよかったとしみじみと思う。もし管狐に助けを求めようなら、絶対に馬鹿にされそうだ。

『それで、今どこにいるかわかりますか?』
「場所は――」

 辺りを見回して場所を伝える。
 つゆりさんに「直ぐに行きますからそこで待っててください」と言われてぼくは電話を切った。
 頼む、つゆりさん。早く来てくれ……!
 朦朧とする意識の中で祈る。
 ああ、今ならぶっ倒れていた河童の気持ちがよくわかる。尤も、ぼくはまだぶっ倒れるところまではいってはいないが。
 あの時に無視しようとしてごめんよ、河童……。
 ぼくは心の中で河童に謝りながら、つゆりさんが来るのをじっと待っていた。
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