にきの奇怪な間話

葉野亜依

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第二話 発端

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 事の発端は夏休みが始まる前、夕食中の出来事だった。

「実はな、出張することになったんだ」

 呆気からんと父さんが言った。まるで、明日の天気でも告げるように。しかも、テレビではちょうど明日の天気が告げられていたところだった。
 因みに、その日の夕食はざる蕎麦だったのだが、父さんの言葉を聞いたぼくはぽとりと箸から麺を落とした。
 一呼吸置いてへぇ、と一言呟く。再度麺を掴んで汁に浸け、ずずず、と啜ってゆっくりと咀嚼する。
 ごくん、と飲み込んだ後にぼくは返した。

「急な話だね」
「ああ、急に決まったんだ」
「それで、今回はどのくらいの期間なの?」
「一ヶ月ぐらい」
「一ヶ月……」

 チラリと壁にかかっているカレンダーを見遣る。
 父さんが告げた期間は、ちょうどぼくの夏休み期間と被っていた。
 これまで父さんの出張は度々あったが、どれも数日で帰ってくるものばかりだった。それが、今回は一ヶ月ときた。
 ここでぼくが考えたのは、その期間中の自分の生活についてだ。
 ……うーん、洗濯物が減るのは良いけど、ご飯の用意がなー。一人で食べるご飯ほど味気ないものはないし、第一自分のためだけに作るのも面倒くさいなぁ……。
 でも、食べなければ生き物は生きていけないし、一応ぼくだって育ち盛りだ。
 まあ、いざとなったらコンビニ弁当で済ませよう。どの道、怒る人なんていないのだし。
 部活に関しては、所詮ぼくは幽霊部員だ。だから、行かなくても他人に迷惑をかけるなんてことは特にないだろうし、ぼく自身も何とも思わない。
 友だちと遊びに行く予定なんかもない。寧ろ、何処かに遊びに行く友だちがいない。夏休みといえど、誰かに遊びに誘われるなんてこともないだろう。……あれ、自分で言っていて何だか少し悲しくなってきたぞ。
 だが、誤解しないでほしい。ぼくは別に人間関係に困っている訳ではない。
 クラスに馴染めないとかではなく、友好関係が浅いだけ。休日に遊びに行くという、そういう友だちがいないだけだ。誰かと遊びに行くよりも、家で一人でいる方が気が楽だし。
 ただそれだけのことだ。
 ぼくが思考を巡らしていたその時、「それでだな」と父さんが続けた。……ああ、そう言えばまだ話は終わっていなかったんだっけ。

「夏休みの間、ばあちゃんのところで暮らしてみないか?」
「……は?」

 ぼくは今、鳩が豆鉄砲を食ったかのような、さぞ間抜けな表情を浮かべていることだろう。
 思いがけない提案を聞いて一瞬沈黙したが直ぐにぼくは口を開いた。

「別にわざわざばあちゃんとこに行かなくても……。ぼくもう中学生だよ?自分の事は自分でできる。一人で留守番ぐらいしていられるし」
「そうは言ってもなぁ……。一ヶ月だぞ、一ヶ月。ご飯の用意とか面倒くさいだろう。コンビニ弁当とかで済ますのも育ち盛りにそれはなぁと思うし」

 ……はは、思考回路が読まれている。
 内心苦笑いを浮かべていると、やけに暢気な声が聞こえてきた。

「というか、もう頼んでしまったしなぁ」
「は?」
「夏休み期間中、お前を預かってほしいってもう頼んでしまったしなぁ」
「……それって、今更ぼくに了承得る必要なくない?」

 じろりと父さんを睨めば、はははと笑って誤魔化された。……ああ、これは絶対に確信犯だ。
 おおらかでのんびり屋に見えて――いや、実際にそうなのだけれど――父さんは案外強かなのだ。
 ぼくのことに関しては基本放任主義。自分で考えて行動しろ。部活に関しても行く行かないを一度話しただけでそれからとやかく言うことはなかった。
 他所様から見たら、「親としてそれはどうなのか」と問い詰められるかもしれない。
 でも、ぼくとしてはその方が気が楽だったし、何よりこれがぼくたち親子のあり方なのだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。
 とまあ、それは置いておくとして。
 放任主義なその一方で、父さんは変に過保護なところがあるのだ。
 それがぼくにとっては重りになることもあるし、煩わしいと思うこともある。
 まあ、一人息子のぼくを心配しているのだということは重々承知しているので、仕方がないかと割り切ってはいる。
 今回もその過保護が表に出てしまっているんだろうなぁ……。
 心の中でそう思いつつ、ぼくは考える。
 夏休み期間中、ぼくとしてはこの家で一人で過ごせると思っている。
 でも、自分の我を通して、父さんに心配や迷惑をかけたくはなかった。
 行ったら行ったで祖母に迷惑をかけてしまう気もするけど……。
 そう思ったが、既に祖母とは話がついているらしいから、ここで断ると双方に迷惑をかけることになってしまうだろう。
 考えている間にもじっとこちらの様子を窺う父さんの視線を感じて、ぼくは一つ息を吐いた。

「いいよ、行くよ」
「ほ、本当か!?」

 父さんが身を乗り出したせいで、だんっと机が揺れた。
 目を丸くして、信じられないと言った面持ちでぼくを見ている。そんなに驚くことだろうか。

「父さん、行儀悪いよ」
「……う、すまん」

 指摘すれば父さんはすぐに座った。
 全く、どっちが子どもかわかったもんじゃない。

「というか、何でそんなに驚いているの?」
「いや、まさか本当に行くって言ってくれるとは思わなくてだな。ほら、その……前は行かないの一点張りだったから」
「……ああ」

 そう言えば、昔は「ばあちゃんの家に行かないか?」と父さんに訊かれても、ずっと「嫌だ」って言っていたっけ……。
 何でそんな頑なになっていたのか、今ではよくわからない。
 何故だか祖母の家に行きたくないという思いが当時のぼくの中にはあったのだ。
 だが、それが薄れている今、祖母の家に行くことに特に抵抗はない。

「もうぼく中学生だよ?小さな駄々っ子と一緒にしないでよ」
「別にそう言ったつもりはないんだが……本当にいいんだな?」
「男に二言はないよ」
「そうかそうか」

 きっぱりと言えばははっと父さんが笑った。そして、今まで手に付けていなかったビールをぐいっと飲み干した。

「それじゃあ、ばあちゃんにお世話になりますって改めて電話しておくからな」
「はいはい」

 何処か安心したような父さんを見て複雑な思いだった。
 父さんに迷惑をかけたくないという思いと、小学生じゃないんだし一人で生活ぐらいできるのにという思いが反発した。
 でも、前者の方が勝って、ぼくはそっと後者の思いを心の中にしまうことにしたのだ。
 所詮ぼくはまだ子どもだ。一人で何とかしたくてもできないことはたくさんある。なるべく迷惑をかけないように、心配をかけないように、自分でできる限りのことはしているつもりだけど。
 ――それにしても、ばあちゃん、か……。
 ぼくは祖母に思いを巡らせる。だが、祖母の顔も声も酷く朧げで。
 祖母の家に行ったことがあると言っても、それはまだ幼い頃のことだし、その時の記憶がほとんどないのも無理はないだろう。
 一体、祖母はどんな人だっただろうか。
 一体、祖母の家はどんなところだっただろうか。
 思い出そうとするが無理だった。まあ、向こうに行けば否が応でもわかることだ。
 取り敢えず、迷惑をかけないように気をつけなければ。
 ぼくは心の中で一人誓い、ずずずと蕎麦を啜った。
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