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四章
別離と出会い その1
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暗い森の奥深くに、その馬車は止まっていた。
彼女はその馬車の中に閉じ込められていた。声を出せぬように口を縛られ、身動きも取れないように手足を長い縄で縛られ繋げられていた。
馬車は野営をしているのか、その林道に止められている。
馬車の中には10人ほどの年端もいかない子供たちが男女の区別なく押し込まれていた。
それぞれの顔色をうかがうと、皆一様に死んだような表情をしていた。ひ弱な肌は灰色に染まり、不安と絶望をとうの昔に通り過ぎたその瞳は一部の光すらなくなってしまっていた。彼らは幼い体をきゅっと抱え込み、その馬車の隅で寄り添っていた。
馬車の床は冷たく、この時期であっても夜は寒さを感じたからだ。便意を催しても身動きの出来ない子供たちが垂れ流したもので馬車の中は醜悪な臭いがした。
だが、誰もそんなことは気にしない。もう慣れっこだ。
「どうして。なぜこんな目に遭わなければならないのか」と考えることもすでにやめてしまっているのだから、臭いがどうとかなどは空腹と絶望で気にもならなくなっていた。
その馬車は奴隷商人の大事な商品を積んでいた。
寒村から仕入れた大事な子供たちを街へと運ぶ途中だった。
そして、その馬車はその林道で野営をしていた。
外には奴隷商人と雇われた傭兵が四人ほど、暖かいたき火を囲んで何かを談笑しているようだった。
闇にも等しいほどに暗い馬車の天井を見据えながらその耳に入っている音だけを感知していた。
言葉の意味も何を話しているのかも記憶には残らない。
ただ、右から左へと言葉がただの雑音として抜けていくかのようだった。
突如として外で悲鳴がした。
数人の子供たちが反応した。
獣の声がする。
外にいる大人たちの叫び声がした。
子供の一人、10歳ほどの名前も知れない男の子が馬車から顔を出した。
「あっ!」
いつの間に口の布を外したのか、彼は思わず声を上げていた。他人の声は数日ぶりに聞いた気がする。
それまで死んでいたように大人しかった子供たちは残っていた最後の好奇心に動かされて同じように外を見た。
彼女も空腹と疲労であまり動かない身体を引きずるようにして外の様子を見た。
それはあまりにも凄惨な光景だった。
今し方まで談笑していたであろう大人たちは狼の群れに襲われ、食われていた。
狼は20匹ほどの群れで彼らを襲ったのだ。
幸いにも狼たちは子供たちを襲うことはせず、その場を立ち去っていった。
奇しくも大人たちの肉で満足した獣たちによって、奴隷として売られる予定だった彼女と彼らは助かっていた。
「逃げよう!」
誰かがそれを言った。誰も返事もしなかったが、その意見に異を唱えるものはいなかった。
大人たちか持っていた刃物で縄を切った。自由になった子供たちは逃げ出した。ただただ夜の林道を手かせを外すこともなく走っていった。
むろん、迂闊だった。
いや、この時は子供過ぎて「迂闊」などと言う概念すらなかっただろう。
子供たちは数日かけて林道を走って逃げた。
その間に一人二人と脱落した。
最初の日は彼らに興味すら示さなかった狼に襲われて、あの大人たちと同じ運命をたどるものもいた。
それでも彼女は必死に逃げた。
そして、何日か経ったある日、もう身体が動かなくなった。
ではあの場所にいれば良かったのか。もしそうしていればあの放置された馬車に興味を持った誰かに保護してもらえたかも知れない。
だが、今さら気づいても遅いだろう。
彼女の意識はこの林の中の道ばたで遠のいていった。
「大丈夫? 返事して! 生きているんでしょう!」
性急な声が聞こえた。
彼女はうっすらと目を開けた。
そこには一人の女性がいた。
まだ少女と言っても差し支えない年齢だったが、幼い彼女にしてみれば、まるで大人の女性に見えた。
仲間が何人かいるようだ。
冒険者だろうか。
前に故郷の村に冒険者が来たことがあり、大体、こういった格好をしていたのを思い出した。
生きていることを彼女は伝えようとしたが、もうすでに声が出せないくらいに衰弱していた。
再び彼女は目を閉じていた。
次に目覚めたときはどこかの建物だった。
あの森の中で助けられたような気がしたが、その辺りは意識が混濁していてあまり覚えていない。
目を開けたとき、自分が暖かい寝台の上に寝かされていることに気づいた。
「あっ!」
女性の声が耳に飛び込んできた。
彼女がそちらを見ると、見覚えのある顔があった。
それはあの森で彼女を助けてくれた少女だった。
快活そうな女性である。彼女はそれがあの冒険者であることに気づいた。
「動ける? お腹すいているでしょう? すぐに食べられそうなもの持ってくるわね!」
言うが早いか少女は部屋を出て、その後すぐに暖かい汁物を持ってきた。
泣きながらそれをそれをすする彼女を見て、なんだか、愛おしそうなものを見る表情で、少女はひたすらに頭をなでた。
「名前は? 名前は言える?」
彼女は首を横に振った。
自分は捨てられた。両親から売られたのだ。その両親が付けてくれた名前など忘れてしまったし、それが自分の名前だとも思いたくもない。それが幼い彼女なりの抵抗だったのかもしれない。
少し困ったような思案したような顔をした後で、少女は言った。
「じゃあ、わたしが名前を付けてあげる。名前はアリア。その昔、英雄のブレイトハートがさらったお姫様の愛称。あなたの名前はアリア。今日からアリア…」
「アリア…」
その名前をアリアは小さな声で復唱していた。
それは約10年ほど前、彼女が彼女と出会った時の話だった。
彼女はその馬車の中に閉じ込められていた。声を出せぬように口を縛られ、身動きも取れないように手足を長い縄で縛られ繋げられていた。
馬車は野営をしているのか、その林道に止められている。
馬車の中には10人ほどの年端もいかない子供たちが男女の区別なく押し込まれていた。
それぞれの顔色をうかがうと、皆一様に死んだような表情をしていた。ひ弱な肌は灰色に染まり、不安と絶望をとうの昔に通り過ぎたその瞳は一部の光すらなくなってしまっていた。彼らは幼い体をきゅっと抱え込み、その馬車の隅で寄り添っていた。
馬車の床は冷たく、この時期であっても夜は寒さを感じたからだ。便意を催しても身動きの出来ない子供たちが垂れ流したもので馬車の中は醜悪な臭いがした。
だが、誰もそんなことは気にしない。もう慣れっこだ。
「どうして。なぜこんな目に遭わなければならないのか」と考えることもすでにやめてしまっているのだから、臭いがどうとかなどは空腹と絶望で気にもならなくなっていた。
その馬車は奴隷商人の大事な商品を積んでいた。
寒村から仕入れた大事な子供たちを街へと運ぶ途中だった。
そして、その馬車はその林道で野営をしていた。
外には奴隷商人と雇われた傭兵が四人ほど、暖かいたき火を囲んで何かを談笑しているようだった。
闇にも等しいほどに暗い馬車の天井を見据えながらその耳に入っている音だけを感知していた。
言葉の意味も何を話しているのかも記憶には残らない。
ただ、右から左へと言葉がただの雑音として抜けていくかのようだった。
突如として外で悲鳴がした。
数人の子供たちが反応した。
獣の声がする。
外にいる大人たちの叫び声がした。
子供の一人、10歳ほどの名前も知れない男の子が馬車から顔を出した。
「あっ!」
いつの間に口の布を外したのか、彼は思わず声を上げていた。他人の声は数日ぶりに聞いた気がする。
それまで死んでいたように大人しかった子供たちは残っていた最後の好奇心に動かされて同じように外を見た。
彼女も空腹と疲労であまり動かない身体を引きずるようにして外の様子を見た。
それはあまりにも凄惨な光景だった。
今し方まで談笑していたであろう大人たちは狼の群れに襲われ、食われていた。
狼は20匹ほどの群れで彼らを襲ったのだ。
幸いにも狼たちは子供たちを襲うことはせず、その場を立ち去っていった。
奇しくも大人たちの肉で満足した獣たちによって、奴隷として売られる予定だった彼女と彼らは助かっていた。
「逃げよう!」
誰かがそれを言った。誰も返事もしなかったが、その意見に異を唱えるものはいなかった。
大人たちか持っていた刃物で縄を切った。自由になった子供たちは逃げ出した。ただただ夜の林道を手かせを外すこともなく走っていった。
むろん、迂闊だった。
いや、この時は子供過ぎて「迂闊」などと言う概念すらなかっただろう。
子供たちは数日かけて林道を走って逃げた。
その間に一人二人と脱落した。
最初の日は彼らに興味すら示さなかった狼に襲われて、あの大人たちと同じ運命をたどるものもいた。
それでも彼女は必死に逃げた。
そして、何日か経ったある日、もう身体が動かなくなった。
ではあの場所にいれば良かったのか。もしそうしていればあの放置された馬車に興味を持った誰かに保護してもらえたかも知れない。
だが、今さら気づいても遅いだろう。
彼女の意識はこの林の中の道ばたで遠のいていった。
「大丈夫? 返事して! 生きているんでしょう!」
性急な声が聞こえた。
彼女はうっすらと目を開けた。
そこには一人の女性がいた。
まだ少女と言っても差し支えない年齢だったが、幼い彼女にしてみれば、まるで大人の女性に見えた。
仲間が何人かいるようだ。
冒険者だろうか。
前に故郷の村に冒険者が来たことがあり、大体、こういった格好をしていたのを思い出した。
生きていることを彼女は伝えようとしたが、もうすでに声が出せないくらいに衰弱していた。
再び彼女は目を閉じていた。
次に目覚めたときはどこかの建物だった。
あの森の中で助けられたような気がしたが、その辺りは意識が混濁していてあまり覚えていない。
目を開けたとき、自分が暖かい寝台の上に寝かされていることに気づいた。
「あっ!」
女性の声が耳に飛び込んできた。
彼女がそちらを見ると、見覚えのある顔があった。
それはあの森で彼女を助けてくれた少女だった。
快活そうな女性である。彼女はそれがあの冒険者であることに気づいた。
「動ける? お腹すいているでしょう? すぐに食べられそうなもの持ってくるわね!」
言うが早いか少女は部屋を出て、その後すぐに暖かい汁物を持ってきた。
泣きながらそれをそれをすする彼女を見て、なんだか、愛おしそうなものを見る表情で、少女はひたすらに頭をなでた。
「名前は? 名前は言える?」
彼女は首を横に振った。
自分は捨てられた。両親から売られたのだ。その両親が付けてくれた名前など忘れてしまったし、それが自分の名前だとも思いたくもない。それが幼い彼女なりの抵抗だったのかもしれない。
少し困ったような思案したような顔をした後で、少女は言った。
「じゃあ、わたしが名前を付けてあげる。名前はアリア。その昔、英雄のブレイトハートがさらったお姫様の愛称。あなたの名前はアリア。今日からアリア…」
「アリア…」
その名前をアリアは小さな声で復唱していた。
それは約10年ほど前、彼女が彼女と出会った時の話だった。
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