止まった世界であなたと

遠藤まめ

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第2章 時の使者

38話 命がけの主人

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甘い砂糖の香りがほのかに家庭科室と食堂用教室から漏れ漂う。その甘く香ばしい香りの正体がクッキーであることに気づくことなど造作もなかった。どこか郷愁的に感じるものがあり、幼い頃の自分をふと想像してしまう。
温かみすら感じてしまうような空間からは活気の溢れる声が聞こえすずの無事を示唆すると同時に冬馬の胸につっかえていた何かが大きなため息と同時に消失した気がして体が軽くなったのを感じ安らかな気持ちで閉じられた扉を開ける。

「トーマ!」

「すず」

「トーマ!!」

「ただい──」

「この大バカモンがああああああ!!」

「なんで!?」

感動の再開、死にかけた冬馬にとって熱い抱擁を強く期待したものだが現実はそう望んだようにはいかないようでものすごい勢いの飛び蹴りが冬馬の腹を襲い突き飛ばすと馬乗りになり冬馬の鼻先とすずの鼻先が衝突しそうになるまでに顔の距離を詰める。殺意全開のすずに冬馬の頭は真っ白になり予想外さからこれが本当に現実かどうかを疑い始めまだ夢の中なのではないかと本気で思い始める。
仁悟や氣琵に助けを求めるように見つめるも二人はまるで当然であるかのように見て見ぬふりをする。
こいつらは本当に自分を主人と思っているのだろうか。

「す、すず?再会はもっと感動的であるべきなんじゃないのかな」

「うっさい!!全部木之伸ちゃんたちから聞いたよ!トーマが死にかけた状態で帰ってきたっていうのも無茶して戦ったっていうのも」

「……あ、ああ聞いちゃったか…。でも…」

「でもじゃない!もう少しで本当に死んでたかもしれなかったんだよ!?もう二度と起きないんじゃないかって本気で心配したんだから!」

その悲鳴に近い声量からなる震えた声と腫れ上がった目尻に溜まった涙からどんな気持ちで冬馬を待っていたのか、心配していたのかを察する。冬馬がこれまで向けていたすずへの感情がどこまでちっぽけであったか、自身の想像力の乏しさを恨めしく思うと同時に反省する。
笑顔でいて欲しい人を悲しませてしまったという事実に悔恨の念が襲いかかる。

「………ごめん」

「二度とこんな無茶しないで。トーマが死んでまで居たい世界なんてないんだから」

その静かながら教室内を木霊するすずの声は冬馬の耳の奥から鼓膜へ一文字も逃すことなく脳内に届き、何度も何度も反芻させる。溢れたすずの涙が冬馬の頬を伝い床へとこぼれ落ちる。
しばらくの沈黙が教室を包みすずの荒かった息が徐々に落ち着きを取り戻していく。

「さて、話も終わったみたいだし?こっから尻尾巻いて逃げましょうかねぇ」

「そのことなんだけど─」

「そうはいかないよぉ。それで一回死にかけてるんだから」

「僕がここで戦っても邪魔になることくらいわかってる。今からまともに戦えるだけの血は足りないし」

現在冬馬の身に新たにできた傷は一つたりとも確認できない。体だけで言えばあの戦闘に行く前の姿にされていた。しかしそれは見てくれだけの場合であり流した血までが戻ってくることはない。さすがの輝宝でも人間の体内で生成されるような物質までは錬成させることはできないのだ。
だからこそ流し過ぎた血が今はとても愛おしく感じてしまうものなのだ。さながら気分は吸血鬼であり輸血パックがあれば今すぐにでも飲み干していたことだろう。

「自分でもわかってるんじゃん。そう、トウマが今ここで加勢しても邪魔なだけだしここに居られても気が散っちゃうの。トウマたちはちゃんと逃げれたかなぁ、気づかないうちに人間に襲撃されちゃってないかなぁって心配で戦闘どころじゃなくなっちゃうでしょお?」

「そうだね。でも加勢するのが僕じゃなかったとしたら?」

その思わせぶりな返答に氣琵と仁悟の肩がピクリと反応する。いつになく悪い笑みを浮かべのを自覚し鏡がある空間にいなかったことを幸運に思う。その提案がどこまで二体、もといこの戦闘において都合が悪いことなのかよく理解している。はっきり言って冬馬にとっても、もっと言うのであればこの学校内で戦闘をしているすべての者達にとって良い結果で終わることのないものであることを自覚していた。

「冬馬様、どうかここは大人しく我々に従ってはいただけませんか?これ以上事態を悪化させるような真似はしないでください」

「悪化も何も今の状況以上に悪いものなんてないよ。それに多分…いや確実にキョウヤは来ると思う」

「そうだよ。アイツが来るからこそ二人には逃げてほしいん──」

「僕らを逃がしたあと二人は戦いに加勢するでしょ。でもきっと勝てないよ。勝てないってわかってて大切な仲間を見捨てて逃げるなんてことしたくないよ」

キョウヤは余裕を持って歩院と木之伸を圧倒した。その力の根源たる物質の正体も対策もろくにわからずして勝てるはずがない。そんな負け確定の状況とわかっていながら自分たちだけ安全地帯にいて仲間を見送ることなどできるはずもない。

「だからこそ、僕は亢進にこの戦闘の参戦を命じることにする」

「トウマ!!」
「冬馬様!!」

その宣言に顔を青くした二体が口を揃えて撤回を要求する。亢進の出撃命令、それがいかに使者たちを困らせるものなのか重々に承知していた。
一方その状況がどういったものなのかわからないすずは冬馬の袖の裾をそっと握る。

「ちょ…トーマ!さっきから何言ってんのかわからないよ!出撃とか結局どういうことなの?」

「うーん…まあ簡単に言えばこの状況をぐっちゃぐちゃにかき乱そうとしている…みたいな?今の状況でキョウヤとまともにやり合えるのは亢進だけなんだ」

「なら最初っから参戦させたほうがいいじゃん!ダメっていう理由なくない?」

「言うことを聞いてくれるようなやつならそうしていたでしょうね」

すずの求めていたような反応と疑問に仁悟が回答する。氣琵の面倒事を察し今すぐに眠りにつきたがっているような表情からして参戦がいいことではないことは察していた。

「すず様はおそらくご存じないでしょうが単純な戦闘力だけで言えば亢進は使者の中でも随一といったところでしょう。それこそキョウヤを余裕で打ち負かすことも可能であるほどに」

その言葉にすずはある程度すごいやつであることを理解する。しかし素振りで校舎を破壊した歩院と底のしれない木之伸の二人を圧倒したキョウヤを余裕で倒すという亢進の強さを想像することなどほぼ不可能でありかなりアバウトだがとても強いということしかわからなかった。

「しかしその亢進は強さとは裏腹に自分勝手なところがありまして、興味のないことやしたくないことには梃子でも動かないのです」

「ならトーマの命令でも動かないんじゃ…」

「冬馬様の命令が効きにくいというのは確かにありますが彼自身好戦的の為命令を拒むことはないでしょう。問題はその命令を従い戦いに入った先にあるのです」

「ほうほう。まあ有り体なのだとついやりすぎちゃうーみたいな?」

「それもそうなのですが、それ以上に厄介なのが戦う気になったとき敵味方問わず攻撃してしまうところにあります。周囲の者と亢進との戦闘といいますか」

「やっば!ってことは守るために戦わせてもついうっかり周り気にせず大暴れしちゃうってこと?」

「まあそういうことになりますね」

「とんでもないやつじゃん。亢進さんって」

亢進の危険性、それは冬馬が召喚をしたその日から察することができていた。十二使の中でもとりわけ異質な殺気と危険な香りがしていた。何より命令が通りにくいということも災いしかなり注意深く見張っていたところである。そのためすずに危害が加わるのを避けようと亢進のいる美術室には近づくこともしなかったのだ。
冬馬がそのくらい警戒するということが、周囲の使者が不用意に刺激をしてこなかったことの真意がどれだけ危険な使者であるかを物語っていた。

「僕たちですら警戒するようなやつだからこそ最後の希望になりうると考えているんだ」

「危険過ぎるでしょ!!普通にやばいって」

「もちろん暴走しないためにも交渉はするよ。多少のリスクはあれど仲間が死ぬこともなくて一番いい作戦なんだよ」

仲間を救うためにキョウヤ以上の実力を持つ第二の敵になりうる使者を導入するという矛盾が生じているのは理解していたが冬馬の頭でひねり出した最善はそれしかなかったのだ。
交渉の材料もほぼ確実とはいえ亢進が参戦命令を承諾するかどうかすらわからないのだ。はっきりいってこの作戦事態大博打であるとしか言いようがなかった。

「……ダメだね。結局亢進のもとに向かう間含めてトウマの安全を保証することが難しすぎる。私達を思ってくれるのは嬉しいけど私達が守るべき主はトウマであることも自覚してほしいなぁ」

「子供みたいな我儘を言っていることは十分承知してる。でもみんなが僕たちを守りたいように僕も僕のできる形で大切な仲間であるみんなを守りたいんだよ。亢進を参戦させたあとは大人しく避難することも約束する。だから亢進のもとに行かせてほしい」

「………わかった。けどもし亢進が拒んだり、帰ってくるのがすごく遅かった場合は容赦なく避難させるから。しないだろうけど失敗したからって隠れようったってそうはいかないんだからねぇ」

「うん!すぐに戻って来るっ──!」

「トーマ!!」

そう言い一目散に教室を出ようとする冬馬だがその足はすずにより止められる。なにか言うわけでもなくただ揺れる瞳に、小刻みに震えながらも必死に冬馬の服の裾を掴む手からは心配や不安などの慮る気持ちが溢れ出ていた。
別に先程までの益田戦とは違い死にかける戦いをするわけではない。仲間の元へ参戦の命令を下しに行くだけなのだから心配するほど危険なことはないはずだ。しかしすずを切り捨て掴まれた手を振り解くことなどできるはずもなくただただ優しい眼差しを向け信用してもらうことしかできなかったのだ。

「大丈夫、すぐに戻ってくるから」

「……絶対に死なないでね」

「うん。わかった」

余計な野暮はせず優しく返答するとすずの手から力が抜け開放される。信用してくれたことに一言「ありがとう」と残し教室をあとにしたのだった。

「すずちゃんも甘いよねぇ。私も大概だけどさ」

「トーマはすぐに返ってくるって言った。それを信用しないなんてことできるはずないよ。きっとトーマならなんとかしてくれるはず、私はそれを信じて待つだけだよ」

その返答からくるすずの信頼が氣琵の口元を緩めさせると同時に冬馬への期待が高めていく。冬馬の作戦が失敗した場合、確実に幸せな終わり方はないだろうと思う。だからこそ冬馬には無茶をしないでほしいという気持ちとは裏腹に期待してしまう。
命がけの主人に希望を託し柄にもなく胸が熱くなっているのを恥じながらも握る拳に力がこもっていくのを強く感じるだった。
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