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第四話 王女様、【推し】を追いかける
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姫は人並みに落ち込むこともあるが、どちらかといえば生来前向きな性分ではあるので、立ち直りは早い。一晩眠れば、だいたいは持ち直す。
あの後も、翌日にはいつもの姫に戻っていた。昼間は貴婦人たちと交流を深めたり、この国の主要な貴族とその役割、各都市の産業などを頭に入れたりして過ごしている。そしてもちろん、時間が空けば小説の執筆である。
しかし、筆の進みは芳しくないようであった。頬杖をついてじっと考え込んでいると思えば、誰も見ていないのをいいことに、淑女らしからぬ仕草で肩や腕をぐーっと伸ばしてみたり、室内をうろうろと歩き回ったりしている。
「あのう……姫様?」
いつもにようにお茶を淹れてきたミシュアは、戸惑いながらシャルロッテに声をかける。これは、姫が行き詰っている時の癖だ。普段は理想的な淑女として振舞っている反動か、人の目がない時は仕草が雑になる傾向がある。
「……言葉が浮かんでこないの。書きたい情景も台詞もあるのに、どうしても描写が陳腐に思えて……」
こんなことは今までなかった。いつでも物語は溢れ、紙の上に現れるのを待ち焦がれていたというのに。
「わたくしも、ここまでかしら……」
やはり、姫は少し弱気になっているようである。
「では、城内を散策でもされてはいかがです? きっと気分転換になりますよ」
平然としているように見えても、異国に嫁いで見知らぬ人に囲まれてくらしているのだ、心細さもあるだろう。それに、机に向かって思考を巡らせているだけでは、新しい考えも浮かばないに違いない。
「……そうね。城の中を歩くだけなら、いちいちユリウス様の許可をいただかなくてもいいだろうし」
勝手に外出することはできないが、忙しい夫の手を煩わせることはできない。シャルロッテの培った規範は、そう告げていた。
しかし、一度城内を探検しておきたいとは思っていた。自分が住んでいる場所の構造を把握していないというのは、どうにも落ち着かないし、知らない場所に足を踏み入れるのはわくわくする。
「では、早速行きましょう、ミシュア」
「はいはい、少しお待ちくださいね」
主の笑顔を見られることは、何より嬉しい。ミシュアは用意してきたばかりの茶器を片付けるために、厨房に引っ込んでいった。
(……あの人にも会えるかしら)
あまり大きな声では言えないが、結婚前に非公式にこの国を訪れた時に出会って以来、夫とは別に熱い視線をもって追いかけている人がいた。退屈な暮らしに彩をくれる、物語の主人公のような人が。
姫はすれ違う衛兵や小役人たちにもにこやかに会釈をしながら、城の廊下を歩いていく。
レーヴェの王宮は、山の斜面にへばりつくように建てられていて、容易に攻め込まれないようになっている。しかし、日常的に移動するだけでも足腰を鍛えられるのが、少々難点だった。
しかし、姫はそんなことではへこたれない。
「見て、ミシュア。きれいな花。エグレットでは見たことがないわ」
「そうですねえ。あちらとは環境が違いますから、植生も違うんでしょうね」
エグレットは平地が多い土地だったが、レーヴェは山も森も海もある、自然に恵まれた土地だった。海の幸も山の幸も採れるし、豊かな農地も備えている。
姫は回廊を降りて、庭園の散策をすることにした。風は爽やかで涼しく、緑の匂いがする。山の中腹ではあるが、庭は季節によって様々な花が咲くよう整えられており、見る者を楽しませてくれる。
けれども、人の手で隅々まで手入れされた花々も美しいが、自然のまま自力で野に咲く花も尊いと、姫は思うのだった。
「少し摘んでいってもいいかしら?」
ユリウスの瞳と同じ色だと、その一角に咲く青い花を手折ろうとしたその時、
「それ、色が付くと染みになりますよ」
後ろから不意に声がかかって、驚いて振り返る。
「まあ、久しぶりね、エディリーン! ちょうど会いたいと思っていたところなのよ」
シャルロッテはぱあっと表情を輝かせるが、ミシュアは少し眉根を寄せる。大切な主に怪しい人物が近付くのを快く思っていない顔だった。
しかし、その人は侍女の視線に一瞥を返すと、姫に向き直る。にこりともしなければ膝を折るでもなく、憮然とした様子で立つその人は、シャルロッテと同じくらいの年頃の、レーヴェの若き宮廷魔術師だった。
女性でありながら、髪はうなじが見えるくらいに短く刈り、男物の騎士装束に身を包んだ、男装の麗人だった。凛々しい立ち振る舞いや、氷のような冴えた美貌も目を瞠るものがあるが、何より目を引くのは、大変珍しい、薄雲がかかった空のような、淡い色合いの不思議な髪だった。
身分は子爵家の令嬢だが、その淑女らしからぬ振る舞いに、王宮の貴婦人や役人たちは眉をひそめて、腫れ物を扱うように遠巻きに見ている。しかし、一部の女性や、騎士団の兵士たちからは、熱狂的な人気があった。ユリウスが信を置く人物でもある。
そしてシャルロッテも、彼女に熱い視線を注ぐ一人だった。恋とは違う感情だと思うが、この人を知るにつけ、焦がれもっと見ていたいという思いが止まらない。物語の主人公には、きっとこんな人が相応しい。まだ内緒だが、姫は彼女を題材にした小説を構想しているのだった。
だが、彼女が社交界には全く顔を出さず、茶会や夜会の誘いも全て断っているので、なかなか会う機会がなかったのだ。この好機を逃すまいと、シャルロッテは会話を試みる。
「正式に宮廷魔術師に就任したと聞いたわ。おめでとう」
始めて出会った時は、王立魔術研究院の院生だったが、姫の輿入れと前後して宮廷魔術師の地位に就いたと聞いていた。
宮廷魔術師は、本来は政治や軍事には直接関わらない相談役のようなものだったが、彼女は戦場で様々な功績を上げている、歴史上でも異色の人だった。
「……ありがとうございます。姫も、ご成婚おめでとうございます」
しかし言葉とは裏腹に、その顔に現れているのは、絵に描いたような渋面だった。社交辞令を口にしているだけというのを隠そうともしない。
ミシュアは、この無礼者は何なのだと嫌悪を顔に浮かべるが、当の主人は全く気にしていないどころか、この人をどこか熱い眼差しで見ているので、ひとまず差し出がましいことは言わないことにする。
「わたくし、一度あなたとゆっくりお話ししてみたいと思っていたの。今度一緒に、お茶でもいかが?」
王太子妃直々のお誘いとあらば、誰もが頭を垂れてありがたく受け取るものだが、この宮廷魔術師はそんな態度は露ほども見せない。それどころか、面倒で仕方がないと、顔に書いてあるようだった。普通なら不敬罪を適応されてもおかしくないが、姫は彼女のそんな態度を、地位や権力に媚びない、潔く気高いものと思っていた。
「……わたしは高貴な人とご一緒できるような身分ではありませんので」
「あら、でもあなた、ユリウス様のお側に仕えているのではなくて? それに、今こうしてわたくしに話しかけてきたじゃない」
それに、宮廷魔術師の身分が低いなどということがあるものか。エディリーンは矛盾を指摘されて、ますます苦虫を噛み潰したような顔をする。
「まあいいわ。ねえ、少し時間はある? よければ、城の中を案内してもらえないかしら」
姫は瞳をきらきらさせて、宮廷魔術師を見つめる。エディリーンはそんな姫に毒気を抜かれたのか、渋々といった風に首を縦に振った。
「……わたしも城の構造には詳しくないですけど、それでもよければ」
それを聞いたシャルロッテは、満面に嬉しそうな笑顔を浮かべる。後ろでそのやり取りを聞いていた侍女は、仕方ないという風に、そっと息を吐くのだった。
あの後も、翌日にはいつもの姫に戻っていた。昼間は貴婦人たちと交流を深めたり、この国の主要な貴族とその役割、各都市の産業などを頭に入れたりして過ごしている。そしてもちろん、時間が空けば小説の執筆である。
しかし、筆の進みは芳しくないようであった。頬杖をついてじっと考え込んでいると思えば、誰も見ていないのをいいことに、淑女らしからぬ仕草で肩や腕をぐーっと伸ばしてみたり、室内をうろうろと歩き回ったりしている。
「あのう……姫様?」
いつもにようにお茶を淹れてきたミシュアは、戸惑いながらシャルロッテに声をかける。これは、姫が行き詰っている時の癖だ。普段は理想的な淑女として振舞っている反動か、人の目がない時は仕草が雑になる傾向がある。
「……言葉が浮かんでこないの。書きたい情景も台詞もあるのに、どうしても描写が陳腐に思えて……」
こんなことは今までなかった。いつでも物語は溢れ、紙の上に現れるのを待ち焦がれていたというのに。
「わたくしも、ここまでかしら……」
やはり、姫は少し弱気になっているようである。
「では、城内を散策でもされてはいかがです? きっと気分転換になりますよ」
平然としているように見えても、異国に嫁いで見知らぬ人に囲まれてくらしているのだ、心細さもあるだろう。それに、机に向かって思考を巡らせているだけでは、新しい考えも浮かばないに違いない。
「……そうね。城の中を歩くだけなら、いちいちユリウス様の許可をいただかなくてもいいだろうし」
勝手に外出することはできないが、忙しい夫の手を煩わせることはできない。シャルロッテの培った規範は、そう告げていた。
しかし、一度城内を探検しておきたいとは思っていた。自分が住んでいる場所の構造を把握していないというのは、どうにも落ち着かないし、知らない場所に足を踏み入れるのはわくわくする。
「では、早速行きましょう、ミシュア」
「はいはい、少しお待ちくださいね」
主の笑顔を見られることは、何より嬉しい。ミシュアは用意してきたばかりの茶器を片付けるために、厨房に引っ込んでいった。
(……あの人にも会えるかしら)
あまり大きな声では言えないが、結婚前に非公式にこの国を訪れた時に出会って以来、夫とは別に熱い視線をもって追いかけている人がいた。退屈な暮らしに彩をくれる、物語の主人公のような人が。
姫はすれ違う衛兵や小役人たちにもにこやかに会釈をしながら、城の廊下を歩いていく。
レーヴェの王宮は、山の斜面にへばりつくように建てられていて、容易に攻め込まれないようになっている。しかし、日常的に移動するだけでも足腰を鍛えられるのが、少々難点だった。
しかし、姫はそんなことではへこたれない。
「見て、ミシュア。きれいな花。エグレットでは見たことがないわ」
「そうですねえ。あちらとは環境が違いますから、植生も違うんでしょうね」
エグレットは平地が多い土地だったが、レーヴェは山も森も海もある、自然に恵まれた土地だった。海の幸も山の幸も採れるし、豊かな農地も備えている。
姫は回廊を降りて、庭園の散策をすることにした。風は爽やかで涼しく、緑の匂いがする。山の中腹ではあるが、庭は季節によって様々な花が咲くよう整えられており、見る者を楽しませてくれる。
けれども、人の手で隅々まで手入れされた花々も美しいが、自然のまま自力で野に咲く花も尊いと、姫は思うのだった。
「少し摘んでいってもいいかしら?」
ユリウスの瞳と同じ色だと、その一角に咲く青い花を手折ろうとしたその時、
「それ、色が付くと染みになりますよ」
後ろから不意に声がかかって、驚いて振り返る。
「まあ、久しぶりね、エディリーン! ちょうど会いたいと思っていたところなのよ」
シャルロッテはぱあっと表情を輝かせるが、ミシュアは少し眉根を寄せる。大切な主に怪しい人物が近付くのを快く思っていない顔だった。
しかし、その人は侍女の視線に一瞥を返すと、姫に向き直る。にこりともしなければ膝を折るでもなく、憮然とした様子で立つその人は、シャルロッテと同じくらいの年頃の、レーヴェの若き宮廷魔術師だった。
女性でありながら、髪はうなじが見えるくらいに短く刈り、男物の騎士装束に身を包んだ、男装の麗人だった。凛々しい立ち振る舞いや、氷のような冴えた美貌も目を瞠るものがあるが、何より目を引くのは、大変珍しい、薄雲がかかった空のような、淡い色合いの不思議な髪だった。
身分は子爵家の令嬢だが、その淑女らしからぬ振る舞いに、王宮の貴婦人や役人たちは眉をひそめて、腫れ物を扱うように遠巻きに見ている。しかし、一部の女性や、騎士団の兵士たちからは、熱狂的な人気があった。ユリウスが信を置く人物でもある。
そしてシャルロッテも、彼女に熱い視線を注ぐ一人だった。恋とは違う感情だと思うが、この人を知るにつけ、焦がれもっと見ていたいという思いが止まらない。物語の主人公には、きっとこんな人が相応しい。まだ内緒だが、姫は彼女を題材にした小説を構想しているのだった。
だが、彼女が社交界には全く顔を出さず、茶会や夜会の誘いも全て断っているので、なかなか会う機会がなかったのだ。この好機を逃すまいと、シャルロッテは会話を試みる。
「正式に宮廷魔術師に就任したと聞いたわ。おめでとう」
始めて出会った時は、王立魔術研究院の院生だったが、姫の輿入れと前後して宮廷魔術師の地位に就いたと聞いていた。
宮廷魔術師は、本来は政治や軍事には直接関わらない相談役のようなものだったが、彼女は戦場で様々な功績を上げている、歴史上でも異色の人だった。
「……ありがとうございます。姫も、ご成婚おめでとうございます」
しかし言葉とは裏腹に、その顔に現れているのは、絵に描いたような渋面だった。社交辞令を口にしているだけというのを隠そうともしない。
ミシュアは、この無礼者は何なのだと嫌悪を顔に浮かべるが、当の主人は全く気にしていないどころか、この人をどこか熱い眼差しで見ているので、ひとまず差し出がましいことは言わないことにする。
「わたくし、一度あなたとゆっくりお話ししてみたいと思っていたの。今度一緒に、お茶でもいかが?」
王太子妃直々のお誘いとあらば、誰もが頭を垂れてありがたく受け取るものだが、この宮廷魔術師はそんな態度は露ほども見せない。それどころか、面倒で仕方がないと、顔に書いてあるようだった。普通なら不敬罪を適応されてもおかしくないが、姫は彼女のそんな態度を、地位や権力に媚びない、潔く気高いものと思っていた。
「……わたしは高貴な人とご一緒できるような身分ではありませんので」
「あら、でもあなた、ユリウス様のお側に仕えているのではなくて? それに、今こうしてわたくしに話しかけてきたじゃない」
それに、宮廷魔術師の身分が低いなどということがあるものか。エディリーンは矛盾を指摘されて、ますます苦虫を噛み潰したような顔をする。
「まあいいわ。ねえ、少し時間はある? よければ、城の中を案内してもらえないかしら」
姫は瞳をきらきらさせて、宮廷魔術師を見つめる。エディリーンはそんな姫に毒気を抜かれたのか、渋々といった風に首を縦に振った。
「……わたしも城の構造には詳しくないですけど、それでもよければ」
それを聞いたシャルロッテは、満面に嬉しそうな笑顔を浮かべる。後ろでそのやり取りを聞いていた侍女は、仕方ないという風に、そっと息を吐くのだった。
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