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第十一章 呼ぶ声は耳を掠めて
#3
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息を整えながら、エディリーンはグレイス邸の玄関を叩いた。
雨に濡れた服は重く、身体の動きを鈍くする。体温が奪われて、小さく身震いした。
彼らは無事に逃げおおせただろうか。扉が開かれるまでの時間が、とても長く感じる。
ややあって、ぱたぱたと人が近付いて来る気配がして、扉が勢いよく開かれた。
「――エディリーン様!?」
顔を見せたのは、この屋敷の使用人として働く、心配そうな顔をしたアンジェリカだった。以前この屋敷に滞在した時に知り合ったが、エディリーンがグレイス家の養女となった今、立場上はエディリーンの使用人でもある。しかし、エディリーンにはそんなつもりは露ほどもなかった。
「……不用心だぞ。誰かも確認しないで開けるなよ」
エディリーンは苦笑するが、
「そんなことを言っている場合ですか! 早く中へ!」
勢いに呑まれて、屋敷の中へ引っ張り込まれる。そのまま奥の風呂場へと連れて行かれた。
「ちょっと、王子たちは……!」
目下の懸念事項を尋ねると、
「先に到着されて、温まっていただいてます。エディリーン様も、そのままでは風邪を引いてしまいますから、わたしの着替えで申し訳ありませんが、ともかく着替えてくださいな」
エディリーンを風呂場に押し込めると、アンジェリカはぱたぱたと去ってしまった。
仕方なく、濡れた服を脱いで軽く絞る。
こぢんまりとした質素な浴室だったが、小さいながらも湯船が設えてある。だが、この非常時に大量の湯を沸かす時間はなかったのだろう、今はそこに湯ははられておらず、大きめのたらいに沸かした湯が溜められていた。それでも温かな湯気に触れるのは心地よく、思った以上に身体が冷えていたことを自覚した。
借りた布を湯に浸して絞り、身体を軽く拭いていく。髪も拭いて浴室を出ると、脱衣所にはアンジェリカのものであろう、やや着古した白いブラウスと、こちらはヨルンのものだろうか、黒いズボンが置いてあった。
それらをありがたく拝借して居間に向かうと、赤々と炎が躍る暖炉が目に入った。それを囲んで、王子王女と、その騎士、それにアレクシスの四人が座っていた。それぞれ湯気の立つカップを手に持っている。
四人とも、屋敷の人間に借りたらしい質素な服を身に着けていた。天井に細い縄が渡され、元々着ていた服が干されている。
「無事だったが、エディリーン嬢」
四人が一様にほっとしたような顔で、エディリーンを迎えた。
「そちらもご無事で何よりです」
そしてエディリーンは、シャルロッテ姫の髪を梳いていた、この屋敷の主人であり、今は義理の身内でもある初老の女性、グレイス夫人に声をかける。
「お久しぶりです、グレイス夫人。……危険なことに巻き込んでしまったかもしれない。申し訳ありません」
エディリーンが頭を下げると、夫人は首を横に振り、火の当たる場所に座るように促す。
「いいのよ。それより、なんだか大変なことになっているみたいね」
あらかたの事情はもう聞いたのだろうか、夫人は労いの言葉をかける。突然王族の人間が二人も訪れてさぞ驚いただろうに、やるべきことをこなしている夫人に、芯の強さを感じる。加えて、何者かに狙われている危険な状態で突然訪れたことを迷惑に思っている様子は感じられず、それがありがたいと同時に申し訳なくもあった。
「ごめんなさいね。大したおもてなしもできなくて。服だって、殿下方に着ていただけるようなものがなくて……」
「いいえ。このお茶、とても美味しいです。感謝いたしますわ」
シャルロッテ姫がカップを傾けて、満足そうに言う。まだ髪は濡れてぺたりとしているが、顔色は戻ってきているようだった。こんな状況にも弱音を吐かない辺り、肝は据わっているのかもしれない。
そこへ、アンジェリカがエディリーンの分のカップを持って現れる。
「エディリーン様。どうぞ」
「ありがとう」
香ばしい匂いの湯気が立つカップを受け取り、中身を啜る。素朴な風味とほのかな甘みが、全身に染み渡るようだった。
「それで、奴らはどうした?」
ユリウスが尋ねると、エディリーンは憮然と答える。
「逃げられました。ここにいるとわかったら、また襲ってくるかもしれません」
一息吐いたのも束の間、状況は芳しくない。
「それにしても、ひどい雨ですね」
アンジェリカが呟いて、眉を曇らせる。雨粒が激しく窓ガラスを叩き、ごうごうと風の音がひっきりなしに聞こえる。まだ昼間だというのに、外は薄暗かった。
「そうねえ。この時期にこんな嵐になるなんて、滅多にないのだけれど……」
夫人も窓の外に目を遣りながら言った時、玄関の扉が開く音がして、ばたばたと二人分の足音が近付いてきた。二人はエディリーンに軽く頭を下げると、夫人に向き直る。
「いやあ、参った参った。庭で遭難するかと思いましたよ」
現れたのは、アンジェリカと同じくこの屋敷の使用人であるデニスとヨルンだった。なめし皮で作られた雨除けの外套を着ていたが、それもほとんど意味がなかったようで、二人ともびしょ濡れになっている。足元があっという間に水浸しになっていく。
「補強できるところはしましたが、この雨では……」
ヨルンが沈痛な面持ちで言う。
二人はどうやら、薬草園の点検に行っていたようだ。しかし、温室の中でもなし、できる対策は限られている。
「大丈夫よ。草花は丈夫ですからね。それより、二人も早く着替えて、温まりなさいな」
グレイス夫人は二人を風呂場に追い立てると、ことさら明るい声で一同を振り返る。
「皆さん、お腹は空いていませんか? 何か温かいものを作りましょうね」
雨に濡れた服は重く、身体の動きを鈍くする。体温が奪われて、小さく身震いした。
彼らは無事に逃げおおせただろうか。扉が開かれるまでの時間が、とても長く感じる。
ややあって、ぱたぱたと人が近付いて来る気配がして、扉が勢いよく開かれた。
「――エディリーン様!?」
顔を見せたのは、この屋敷の使用人として働く、心配そうな顔をしたアンジェリカだった。以前この屋敷に滞在した時に知り合ったが、エディリーンがグレイス家の養女となった今、立場上はエディリーンの使用人でもある。しかし、エディリーンにはそんなつもりは露ほどもなかった。
「……不用心だぞ。誰かも確認しないで開けるなよ」
エディリーンは苦笑するが、
「そんなことを言っている場合ですか! 早く中へ!」
勢いに呑まれて、屋敷の中へ引っ張り込まれる。そのまま奥の風呂場へと連れて行かれた。
「ちょっと、王子たちは……!」
目下の懸念事項を尋ねると、
「先に到着されて、温まっていただいてます。エディリーン様も、そのままでは風邪を引いてしまいますから、わたしの着替えで申し訳ありませんが、ともかく着替えてくださいな」
エディリーンを風呂場に押し込めると、アンジェリカはぱたぱたと去ってしまった。
仕方なく、濡れた服を脱いで軽く絞る。
こぢんまりとした質素な浴室だったが、小さいながらも湯船が設えてある。だが、この非常時に大量の湯を沸かす時間はなかったのだろう、今はそこに湯ははられておらず、大きめのたらいに沸かした湯が溜められていた。それでも温かな湯気に触れるのは心地よく、思った以上に身体が冷えていたことを自覚した。
借りた布を湯に浸して絞り、身体を軽く拭いていく。髪も拭いて浴室を出ると、脱衣所にはアンジェリカのものであろう、やや着古した白いブラウスと、こちらはヨルンのものだろうか、黒いズボンが置いてあった。
それらをありがたく拝借して居間に向かうと、赤々と炎が躍る暖炉が目に入った。それを囲んで、王子王女と、その騎士、それにアレクシスの四人が座っていた。それぞれ湯気の立つカップを手に持っている。
四人とも、屋敷の人間に借りたらしい質素な服を身に着けていた。天井に細い縄が渡され、元々着ていた服が干されている。
「無事だったが、エディリーン嬢」
四人が一様にほっとしたような顔で、エディリーンを迎えた。
「そちらもご無事で何よりです」
そしてエディリーンは、シャルロッテ姫の髪を梳いていた、この屋敷の主人であり、今は義理の身内でもある初老の女性、グレイス夫人に声をかける。
「お久しぶりです、グレイス夫人。……危険なことに巻き込んでしまったかもしれない。申し訳ありません」
エディリーンが頭を下げると、夫人は首を横に振り、火の当たる場所に座るように促す。
「いいのよ。それより、なんだか大変なことになっているみたいね」
あらかたの事情はもう聞いたのだろうか、夫人は労いの言葉をかける。突然王族の人間が二人も訪れてさぞ驚いただろうに、やるべきことをこなしている夫人に、芯の強さを感じる。加えて、何者かに狙われている危険な状態で突然訪れたことを迷惑に思っている様子は感じられず、それがありがたいと同時に申し訳なくもあった。
「ごめんなさいね。大したおもてなしもできなくて。服だって、殿下方に着ていただけるようなものがなくて……」
「いいえ。このお茶、とても美味しいです。感謝いたしますわ」
シャルロッテ姫がカップを傾けて、満足そうに言う。まだ髪は濡れてぺたりとしているが、顔色は戻ってきているようだった。こんな状況にも弱音を吐かない辺り、肝は据わっているのかもしれない。
そこへ、アンジェリカがエディリーンの分のカップを持って現れる。
「エディリーン様。どうぞ」
「ありがとう」
香ばしい匂いの湯気が立つカップを受け取り、中身を啜る。素朴な風味とほのかな甘みが、全身に染み渡るようだった。
「それで、奴らはどうした?」
ユリウスが尋ねると、エディリーンは憮然と答える。
「逃げられました。ここにいるとわかったら、また襲ってくるかもしれません」
一息吐いたのも束の間、状況は芳しくない。
「それにしても、ひどい雨ですね」
アンジェリカが呟いて、眉を曇らせる。雨粒が激しく窓ガラスを叩き、ごうごうと風の音がひっきりなしに聞こえる。まだ昼間だというのに、外は薄暗かった。
「そうねえ。この時期にこんな嵐になるなんて、滅多にないのだけれど……」
夫人も窓の外に目を遣りながら言った時、玄関の扉が開く音がして、ばたばたと二人分の足音が近付いてきた。二人はエディリーンに軽く頭を下げると、夫人に向き直る。
「いやあ、参った参った。庭で遭難するかと思いましたよ」
現れたのは、アンジェリカと同じくこの屋敷の使用人であるデニスとヨルンだった。なめし皮で作られた雨除けの外套を着ていたが、それもほとんど意味がなかったようで、二人ともびしょ濡れになっている。足元があっという間に水浸しになっていく。
「補強できるところはしましたが、この雨では……」
ヨルンが沈痛な面持ちで言う。
二人はどうやら、薬草園の点検に行っていたようだ。しかし、温室の中でもなし、できる対策は限られている。
「大丈夫よ。草花は丈夫ですからね。それより、二人も早く着替えて、温まりなさいな」
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