蒼天の風 祈りの剣

月代零

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第十章 迷える魂

#3

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 研究院には、大きめの浴場がある。さすがに毎日湯浴みができるほど贅沢ではないが、週に二回、湯船に温かいお湯が満たされ、手足を伸ばして浸かることができる。
 とはいえ、敷地内に浴場は一つ。男女毎に利用時間が決められているが、女たちは火が落とされた後のしまい湯を使う。冬場だとぬるく感じることもあるが、今の季節だとちょうどいいし、例えぬるくなっても、彼女たちは魔術で湯を温めることができる。それに、男性陣は人数が多いため、利用時間を厳格に決められているが、女性陣は順番が最後である代わりに、時間を気にせずゆっくり入浴することができるのだった。湯船や身体を洗う洗い場が多少汚れていることに目をつむれば。

 それを置いても、湯が張られない時は、濡らした布で身体を拭くか、自分で湯を沸かしてたらいで軽く髪や身体を洗うことしかできないので、浴場が使えるのは素直に嬉しい。
 夕食を一緒に摂った後、住み込みで働く女たちが入り終わった頃を見計らって、エディリーンたち三人は寮の裏手にある浴場に向かった。辺りはすっかり暗くなっているので、手燭の明かりを頼りに歩く。手にはそれぞれ、替えの下着や手ぬぐい、石鹸を持っている。

 この石鹸は、暇を見て作っているらしい、姉妹のお手製だった。その辺の店で売っているものよりも泡立ちも香りも良いので、エディリーンも分けてもらっている。
 エディリーンは脱衣所に入ると鍵をかけ、はしゃいでいる様子のユーディトとクラリッサを眺めながら、彼女たちに背中を向けないように、ためらいがちに服を脱いで棚に押し込む。
 浴室の扉を開けると、白い湯気と共に、湿気をはらんだ温かい空気が身体を包む。全体が木材で作られた浴場は、手前半分が洗い場、奥が一度に十人くらいは入れる大きな湯船になっている。
 エディリーンは最後に浴室に入って、後ろ手に扉を閉める。すると、ユーディトとクラリッサがくるりと振り返った。

「エディリーン様、お背中を流させてくださいな」
「それからおぐしも! 今日こそは洗わせてくださいませ!」

 何故か嬉しそうに身を乗り出す二人だが、それは遠慮したい申し出だった。

「別にいいって……」

 渋るエディリーンを、二人は半ば強引に浴室の椅子に座らせる。浴室の床の滑りやすさを考えると、強く抵抗するわけにもいかず、されるがままになってしまう。
 自然と背中を見せる形になってしまい、それを見た姉妹は、驚いたような、痛みを感じたような顔をした。

「エディリーン様、これは……」

 そこに刻まれていたのは、醜い傷痕だった。
 右の肩から斜め下に向かって、ただれて引きつれたような痕がある。

「……昔、ちょっとね」

 あの場所に閉じ込められていた時、鞭で打たれた痕だった。きちんと手当てなどされなかったので、酷く痕が残ってしまっていた。戦いの中で受けた切り傷や矢傷も無数にあって、それらのほとんどはきれいに治ったが、これだけは何年経っても消えなかった。
 一緒に風呂に入ることを拒んでいたのは、畢竟、これを見られたくないからだった。今更見た目の美醜など気にはしないが、薄暗いこととは無縁に生きてきたであろう彼女たちに、見られたくなかったのだ。

「……申し訳ありません。わたしたちったら、出過ぎた真似を……」
「別に。こっちこそ、気持ち悪いものを見せて悪かった」

 そう言ってエディリーンは立ち上がり、浴場を出ようとする。しかし、二人に引き止められてしまった。

「お待ちください。まだお髪を洗わせていただいておりませんわ」
「そうです。わたしたち、美肌効果のある石鹸や、髪がつやつやになる洗髪料を試作しているんです。エディリーン様に試して、感想を聞かせていただきたいのです!」

 エディリーンはゆらりと振り返り、目を眇めて二人を見遣る。

「まさか、それが相談したかったこと?」
「まあまあ、ともかく立ち話もなんですから」

 言いながら、双子は息の合った動作でエディリーンの肩を押し、椅子に座らせた。そのまま、石鹸を泡立て、楽しそうにエディリーンの髪を洗い始めたのである。




 そして、双子に髪と背中を洗われたエディリーンは、若干ぐったりしつつ、ぬるめの湯船に浸かっていた(髪と背中以外は自分で洗った)。背中を洗う時、痛くないかと聞かれたが、痕が残っているだけで痛みはない。
 双子も自分たちの身体を手早く洗い、エディリーンの左右にそれぞれ陣取る。室内には、彼女たちが使った石鹸の匂いが微かに漂っていた。
 ふと視線を横にやると、水面に、彼女たちの胸元の豊かな膨らみの片鱗が浮かび上がっていた。普段は気になどしていないが、こうして並ぶと、つい自分の、途中で成長を諦めてしまったようなそれと比べてしまう。

 彼女たちは手足もほっそりとして、肩や腰は美しくなだらかな曲線を描き、実に娘らしい。自分の筋張ったそれとは大違いだ。鍛えてはいるが、あまり女性らしい柔らかさはない。今の自分を後悔しているわけではないが、住んでいる世界が違うのだと、実感させられる。
 ぼんやりとそんなことを考えてしまっているのに気付いて、慌てて首を横に振って打ち消した。
 別に気にしてない。大きくたって身体が重くなるし、動くのに邪魔だし。男のふりだってできなくなる。
 彼女たちはエディリーンのそんな葛藤は知る由もなく、石鹼や洗髪料の感想を聞こうとする。

「使い心地はいかがでしたか、エディリーン様?」
「……悪くないんじゃない」

 エディリーンは自分の髪を少し触って、感触を確かめる。普段から清潔にはしているつもりだが、きちんと洗った後はやっぱり気持ちがいいし、彼女たちが作った石鹸を使った後は、肌も髪も状態がよくなる気がする。
 しかし、それはそれとして、エディリーンは今日こそ双子に言わなければならないことがある。

「前から言おうと思ってたんだけど。二人とも、使用人じゃないんだから、そんなに世話を焼こうとしなくていいよ。それから、わたしを呼ぶのに敬称なんか付けなくていい」

 形だけでもグレイス家の養女になったとはいえ、エディリーンは生まれもわからない流れ者。彼女たちの方がよほど身分は上だ。それに、研究院では身分や家柄を笠に着ないという話のはずだ。
 そう言うと、双子はきょとんと顔を見合わせる。それから、神妙に頭を下げた。

「お嫌でしたのなら、申し訳ありません。わたしたちの身分では、これが当たり前というか、習い性でしたので……。でも、そんなつもりはなかったのです」

 ユーディトが言えば、

「僭越とは思いますが、わたしたちは年の近い同性のお友達ができたのが嬉しくて、ついあれこれして差し上げたいと思って。……その、すぐに態度を変えるのは難しいと思いますが、エディリーン様さえよければ、これからもお友達と思って接しても構いませんか?」

 クラリッサもやや上目遣いに言う。
 そんなことを恥ずかしげもなく言われてしまえば、逆にこちらがいたたまれない。

「……そういうことなら……。わたしも、二人とは、その……友達でいたいから……」

 エディリーンは目を逸らし、ぼそぼそと口を動かす。そんな彼女を見て、ユーディトとクラリッサはまたしても顔を見合わせ、にこりと笑みを交わしていたのだが、エディリーンは俯いているのでそれに気付いていない。

「でも、この石鹼、前回のものよりいい出来だと思わない? ユーディ」

 クラリッサは自分の肌や髪の触り心地を確かめて満足そうに言うが、ユーディトは渋い顔をする。

「材料費を考えてなさすぎよ。これじゃあ市場に流通させられないわ」
「でも、いいものを作らないと、わざわざ買ってもらえないじゃない」

 二人はエディリーンを挟んで、そんなことを言い合っている。

「それ、売るつもりなのか?」

 エディリーンが口を挟むと、

「もちろんです!」

 クラリッサが勢いよく頷く。

「わたしたちの家は、名ばかりの貧乏貴族ですから。身を立てる術を持たないといけないのです。そのためにわたしたちは、ここにいるんですもの」
「うちには男の兄弟がおりません。でも、魔術の使えるわたしたちを娶ってくれる殿方なんていないかもしれませんから、男性に頼らなくても生きていく方法を探さなくては」

 彼女たちは悲壮な決意表明をしているわけではなく、むしろ楽しそうだった。

「いいね、そういうの」

 自分の力で立って歩いていくのは大変ではあるが、その分喜びも大きい。

「でも、相談って本当にそれだけ?」

 エディリーンが言うと、彼女たちは表情を改める。

「ええ。ご相談というか、お耳に入れておいた方がいいかと思うことがありまして……」

 ユーディトが一層声を低める。

「教授たちが話しているのを偶然聞いてしまったのですが……。宮廷に、魔術師を徴兵しようとする動きがあるとか……」

 それはエディリーンも初耳だった。一瞬目を見開いた後、眉をひそめる。

「魔術は戦いの道具じゃない。その理念は、ここも同じじゃないのか?」
「ええ。わたしたちもそう思っていたのですが……」

 マナを濫用することは、世界の秩序を乱すことに繋がる。そのため、必要以上に魔術を使うことは禁忌だった。どこまでが必要最低限かはまた別の議論になるが、与えられた力を使わない手はない、魔術師は陰の存在ではなく、歴史の表に立って力を振るうべきだという勢力は、いつの時代も一定数現れる。その度に、魔術師たちは手を結び、その動きを阻止してきた。
 だが、帝国との緊張が高まっている今、いつまでもそれが通じるかどうか。

「わたしたちも、戦に行かないといけなくなるのでしょうか……」
「……もしそれが本当だとしても、戦闘訓練を積んでいない魔術師を前線に送り込むのは、現実的じゃない」

 不安そうに呟く彼女たちに、エディリーンはとりあえずそんなことを言うことしかできなかった。
 明かり取りの小さな窓からは、星が見える。その動きがどんな未来を示しているのか、彼女には読めなかった。
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