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歌なき恋の想い人

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 三人が帰った後に先生はわたしにこう言いました。
「江藤くんの結論では、不十分だね。あれでは結婚前の歌が詠まれていない説明がされていないからね。まあ、そのあたりは梅田くんがフォローしてくれるだろうから、心配はしてないけど」
「母親への反発でしょうか?」
「ああ、たぶんそうなんだろうね……」先生は少し寂し気に答えました。

 幼い頃の十市皇女のには、母が父と別れて権力者に媚びを売ったと見えたかもしれません。歌で頂点を極めるために父は捨てられた。自分はそんな薄情な女にはなりたくないと……。
 実際に大友皇子と結婚し、政治の権謀術数の中に叩き込まれて、初めて母の行動の意味を理解したのでしょうか。でも、もうその時には歌を詠むことも出来なかったのでしょう。
 
 突然、思い出したように先生が言いました。
「そうだ、信ぴょう性は薄いんだけど。伊勢下向の途上、波多神社(三重県津市)に参詣したときに十市皇女が詠んだ歌だって言うのが一つあるんだよ。十市皇女が亡き夫を偲んで詠んだ歌と言われているんだがね。きっと、後になって誰かが詠んだのだろうね」先生がその歌をゆっくりと詠います。

 霰(あられ)降りいたく風吹き寒き夜や旗野に今夜(こよひ)我(あ)がひとり寝む

「最後まで大友皇子を想っていたのだったら、その点では彼も幸せだったのかも知れないね……」
 先生のそんなつぶやきが部屋に静かに染み入るように聞こえました。

 わたしは戦いに敗れた大友皇子をそっと抱きしめている十市皇女の姿が目に浮かんでくるような気がしました。
 たとえ言葉(歌)に出来なくとも、確かに大事な想いがそこにあったんだと……。

 音もなく降り続く、このつゆの雨が十市皇女の流した涙のように感じられました。

  了
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