上 下
56 / 69

シレネ

しおりを挟む
 サディアスは三ヶ月ほど、アグニール帝国の王宮に滞在することになった。
 まさに至れり尽くせりの日々だった。

 サディアスの世話役を任された侍女たちは、いずれも高位貴族出身の女性ばかりで見目がいい。
 用意された部屋はサディアスの自室よりも広く、窓からは美しい庭園を一望できる。
 飲食は自由。アルコールの摂取も許可され、日が出ているうちから堂々と飲める。
 サディアスは当初の目的も忘れ、自国よりも快適な暮らしに浸っていた。

「そなたの噂はかねがね耳にしていた。どうか心ゆくまで、我が国での日々を満喫するとよい」

 帝国を統べる皇帝は、黒い顎髭を蓄えた美丈夫だ。まだ三十代後半だろうか。その目は理知的な光を宿している。
 歳は若いが、酒に溺れた自分の父親よりもよほど威厳があった。

「ずっとサディアス王太子殿下にお会いしたかったの。噂通りの方で、私とっても嬉しいです」

 そして一人娘のシレネは、艷やかなプラチナブロンドをシニョンに結んだ女性だった。サディアスより一つ歳上のシレネは皇位継承権を有しており、次期皇帝として父の補佐を務めているらしい。

(女子に継承権を与えるなど……そんな決まりさえなければ完璧なのに残念だ)

 驚いたことに、この国では女性にも家督の相続権も認められている。かと言って、男性が不遇な扱いを受けているわけではない。
 この国では能力が重要視される。
 男であることの優位性を失くすやり方が、サディアスには納得いかなかった。

 初めのうちは、そう考えていた。



「シレネ殿下、本日もお一人でお散歩ですか?」

 侍女や護衛も伴わず、一人で寂しげに庭園を散策するシレネを見付けると、サディアスは彼女へと足早に駆け寄った。案じるような口調で話しかければ、今にも消え入りそうな儚げな美貌は柔らかに微笑んだ。

「ええ。こうして一人で過ごしている時だけは、嫌なことや辛いことを忘れられますから」
「ですが、次期皇帝であられる方にもしものことがあっては、いけません。私もご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
「そんな……サディアス殿下のご迷惑になってしまいますわ」
「私のことは、どうかお気になさらないでください」

 シレネの隣に並び立つと、甘い香水の香りが鼻孔をくすぐる。「いい香りですね」と率直に褒めると、少し照れたようような笑顔が返ってきた。
 アニュエラとも、ミリアとも、クレイラー商会の令嬢とも違う魅力がシレネにはあった。
 彼女を害するあらゆるものから守ってやりたいという庇護欲と、自分だけのものにしたいという独占欲に駆られる。

「ありがとうございます、サディアス殿下。……あなたとこうしていると、何だか昔のことを思い出して懐かしくなります」
「昔のこと……ですか?」
「かつて、私には叔父様がおりました。誰に対してもお優しい方で、私にもとてもよくしてくださったのですよ」
「……そうでしたか」

 親戚とはいえ、他の男の話題を出されて機嫌を損ねない男はいないだろう。相槌を打つ声にも棘が混じる。

「叔父様が亡くなった時は、本当に辛くて毎日泣いてばかりでした。お父様も大切な弟を失って、ずっと元気を失くされていました」
「……皇弟殿下は、ご病気か何かで?」

 故人のことよりも、自分を見て欲しい。そんな本心を抑えながら尋ねると、シレネの顔が一瞬強張った。
 だがすぐに平静を取り繕い、「病気でした」と簡潔に答える。

「ですが、今は私もお父様も立ち直ることが出来ました。ちゃんと前を向いて生きていかなければなりませんものね」
「……シレネ様、もし何かお困りのことがあれば、いつでも私に相談なさってください。私でしたら、きっとあなたのお力になれるはずです」
「はい。その時はどうかお願いいたします」

 恭しく頭を下げられ、サディアスは高揚感を覚えた。

(これは……間違いない。今度こそ、本当にシレネは私に気がある)

 もしシレネと結ばれたなら、サディアスは次期皇帝の伴侶となる。
 聡明ではあるが、どこか危なっかしい彼女を支えて生きて行く。そんな立ち位置も悪くはない。

(帝国での滞在期間は、あと二週間。それまでに互いの想いを交わし合わなければ……)






 それから一ヶ月後。
 レディーナ王国で多忙を極めていたアニュエラの元に、ある知らせが届く。

「……やってくれたわね、あの人ったら」

 アグニール帝国に招待されていたサディアスが、シレネ皇女殿下への強姦未遂罪で捕縛されたというものだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛想を尽かした女と尽かされた男

火野村志紀
恋愛
※全16話となります。 「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」

アリシアの恋は終わったのです。

ことりちゃん
恋愛
昼休みの廊下で、アリシアはずっとずっと大好きだったマークから、いきなり頬を引っ叩かれた。 その瞬間、アリシアの恋は終わりを迎えた。 そこから長年の虚しい片想いに別れを告げ、新しい道へと歩き出すアリシア。 反対に、後になってアリシアの想いに触れ、遅すぎる行動に出るマーク。 案外吹っ切れて楽しく過ごす女子と、どうしようもなく後悔する残念な男子のお話です。 ーーーーー 12話で完結します。 よろしくお願いします(´∀`)

【完結】え、別れましょう?

須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」 「は?え?別れましょう?」 何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。  ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?  だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。   ※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。 ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

わたしのことはお気になさらず、どうぞ、元の恋人とよりを戻してください。

ふまさ
恋愛
「あたし、気付いたの。やっぱりリッキーしかいないって。リッキーだけを愛しているって」  人気のない校舎裏。熱っぽい双眸で訴えかけたのは、子爵令嬢のパティだ。正面には、伯爵令息のリッキーがいる。 「学園に通いはじめてすぐに他の令息に熱をあげて、ぼくを捨てたのは、きみじゃないか」 「捨てたなんて……だって、子爵令嬢のあたしが、侯爵令息様に逆らえるはずないじゃない……だから、あたし」  一歩近付くパティに、リッキーが一歩、後退る。明らかな動揺が見えた。 「そ、そんな顔しても無駄だよ。きみから侯爵令息に言い寄っていたことも、その侯爵令息に最近婚約者ができたことも、ぼくだってちゃんと知ってるんだからな。あてがはずれて、仕方なくぼくのところに戻って来たんだろ?!」 「……そんな、ひどい」  しくしくと、パティは泣き出した。リッキーが、うっと怯む。 「ど、どちらにせよ、もう遅いよ。ぼくには婚約者がいる。きみだって知ってるだろ?」 「あたしが好きなら、そんなもの、解消すればいいじゃない!」  パティが叫ぶ。無茶苦茶だわ、と胸中で呟いたのは、二人からは死角になるところで聞き耳を立てていた伯爵令嬢のシャノン──リッキーの婚約者だった。  昔からパティが大好きだったリッキーもさすがに呆れているのでは、と考えていたシャノンだったが──。 「……そんなにぼくのこと、好きなの?」  予想もしないリッキーの質問に、シャノンは目を丸くした。対してパティは、目を輝かせた。 「好き! 大好き!」  リッキーは「そ、そっか……」と、満更でもない様子だ。それは、パティも感じたのだろう。 「リッキー。ねえ、どうなの? 返事は?」  パティが詰め寄る。悩んだすえのリッキーの答えは、 「……少し、考える時間がほしい」  だった。

婚約破棄直前に倒れた悪役令嬢は、愛を抱いたまま退場したい

矢口愛留
恋愛
【全11話】 学園の卒業パーティーで、公爵令嬢クロエは、第一王子スティーブに婚約破棄をされそうになっていた。 しかし、婚約破棄を宣言される前に、クロエは倒れてしまう。 クロエの余命があと一年ということがわかり、スティーブは、自身の感じていた違和感の元を探り始める。 スティーブは真実にたどり着き、クロエに一つの約束を残して、ある選択をするのだった。 ※一話あたり短めです。 ※ベリーズカフェにも投稿しております。

〖完結〗もうあなたを愛する事はありません。

藍川みいな
恋愛
愛していた旦那様が、妹と口付けをしていました…。 「……旦那様、何をしているのですか?」 その光景を見ている事が出来ず、部屋の中へと入り問いかけていた。 そして妹は、 「あら、お姉様は何か勘違いをなさってますよ? 私とは口づけしかしていません。お義兄様は他の方とはもっと凄いことをなさっています。」と… 旦那様には愛人がいて、その愛人には子供が出来たようです。しかも、旦那様は愛人の子を私達2人の子として育てようとおっしゃいました。 信じていた旦那様に裏切られ、もう旦那様を信じる事が出来なくなった私は、離縁を決意し、実家に帰ります。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全8話で完結になります。

幼馴染みとの間に子どもをつくった夫に、離縁を言い渡されました。

ふまさ
恋愛
「シンディーのことは、恋愛対象としては見てないよ。それだけは信じてくれ」  夫のランドルは、そう言って笑った。けれどある日、ランドルの幼馴染みであるシンディーが、ランドルの子を妊娠したと知ってしまうセシリア。それを問うと、ランドルは急に激怒した。そして、離縁を言い渡されると同時に、屋敷を追い出されてしまう。  ──数年後。  ランドルの一言にぷつんとキレてしまったセシリアは、殺意を宿した双眸で、ランドルにこう言いはなった。 「あなたの息の根は、わたしが止めます」

王命を忘れた恋

須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』  そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。  強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?  そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

処理中です...