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五話

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「エリーゼ……?」

 旦那様は目を丸くして固まっていた。
 私がここまで反抗するのは初めてだったからだろう。
 愛する人に求められている。だけど今の私には、それがおぞましく思えた。

「失礼しま……っ」

 ドアへ伸ばそうとした腕を、後ろから掴まれる。振りほどこうとすると、絨毯が敷かれた床に押し倒された。
 普段氷のように冷たい目は、怒りで満ちていた。

「忘れたのか? 君が帰る場所はここだけだと言っただろう」
「……っ、旦那様のお側にいる価値なんて、私にはありません!」
「だから何だ。君が無価値であることは、私が一番理解している」

 その言葉に、思考が止まった。悲しいだとか悔しいだとか、色んな感情が消えてなくなる。
 旦那様の手がドレスの中に潜り込もうとした時、扉をノックする音が聞こえた。

「旦那様、先月の支出額の報告書が仕上がりました」

 執事の声だ。旦那様が顔を歪めて、舌打ちをする。

「今は取り込み中だ。後に──」
「どうぞ、お入りくださいっ!」

 わざと大きな声を出すと、旦那様は素早く私から離れた。そして「……入れ」と扉に向かって呼び掛ける。

「失礼いたします」

 慌てて起き上がると、部屋に入ってきた執事と目が合った。けれどすぐに逸らされて、何事もなかったかのように旦那様と話を始める。
 ただし、旦那様の目は真っ直ぐ私を睨み付けていた。

「エリーゼ、君の希望を叶えるつもりはない。少しは自分の立場を弁えろ」
「……分かりました」

 諦めたように頷いて、自分の部屋に戻る。
 腕が痛い。袖を捲ると、赤黒いあざが出来ていた。

 私は無価値。そんなことはシンシア様も、義両親も、使用人も、私も分かっている。
 それでも、心のどこかで期待していたのだと思う。
 旦那様が優しい言葉をかけてくださることを。
 本当はあの人に縋りたくて、執務室を訪れた。

 だけど、あの人は私の言葉を信じてくれなかった。
 私を手懐けるためだけに抱こうとした。
 私が無価値だと言い放った。

 なのに、手放そうとはしてくれない。彼にも当主としての立場があるのは分かっている。
 けれど、そんなことよりも自分の心を守りたいと思ってしまっている。

「わ、私は……」

 いつまでも、この地獄に縛り付けられているくらいなら。
 侮蔑され、冷遇され続けて一生を終えるくらいなら。

「もう、あなたの妻じゃない……」

 私から離れようと思う。




 シンシア様は、無事に元気な男児を出産した。
 それから一ヶ月後。つまり今夜、屋敷ではささやかなパーティーが開かれた。
 私は参加せず、自室にこもっていた。いや、外から鍵を掛けられて、部屋を出ることさえ許されなかった。

 あの日以来、旦那様とは顔を合わせていない。
 様々な感情が込み上げて、制御出来そうにないから。

 閉め切っていたカーテンを開き、窓を開けると、涼しげな夜風が私の頬を撫でる。
 両手で握り締めていた羽根ペンを、テーブルの上に置いた。私の恋心は、ここに残していく。

「……さようなら」

 その別れの言葉は、誰に向けたものだったのだろう。
 旦那様?
 屋敷の方々?
 それとも、今までの自分に対して?

 答えは最後まで出せなかった。
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