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77.その頃

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 が店を出てから二時間が経った。
 何事もなければすぐに戻って来ると言っていたけれど、何かあったのでいまだに戻って来ないのだろう。
 私は胸に溜まった不安を吐き出すように溜め息をついた。

「オブシディアくんなら大丈夫だと思うわよ。ちゃんとアデラをとっ捕まえてくるって言ってたじゃない」
「……それはそうですけれど」
「あ、クッキーの味見お願い! 殿下のお土産用に作ってみたの」
「では失礼して……うん、とても美味しいです。生地にチーズを練り込んでいるのですね」

 クッキーというのは普通甘いものだけれど、これはチーズの塩気が強い。
 それからブラックペッパーも入ってるので、ピリッとした辛みもある。
 紅茶のお供というより、ワインのつまみに合うかもしれない。
 酒場のメニューでこんなものがあったら、たちまち人気商品になるだろう。
 価格は──とこんな時まで商売のことを考えつつ、私は自分の足元を見下ろした。

 そこにあるはずの影はない。
 オブシディアさんが借りて・・・いってしまったからだ。

「面白いことするわよね、オブシディアくんも。あんたの影を纏って、あんたになり切るだなんて」

 魔法で私の姿に変身するだけであれば、その必要はないらしい。
 けれど私が傍にいなければ、他の人間はオブシディアさんに気づくことすらできない。
 そこで私の分身のようなものである影を纏って店を出たのだ。

 お父様を騙り、私に手紙を送りつけた何者か──恐らくはアデラさんの罠に、自らかかりにいくために。
 当初は、オブシディアさんをこっそり護衛につけた私が行くつもりだった。
 けれど何かの拍子で私が一人ではないと気づかれたら、向こうも動いてくれないのではという懸念が出てきたのだ。
 そこでオブシディアさんが私の姿になり、誘き寄せるという大胆な作戦に変更したのである。

「けれど、こんな手紙でよく私たちを欺けると思ったわねぇ……」

 テーブルの上に置かれているのは、今朝届いた手紙だ。
 よく偽装されているとは思う。
 ディンデール家の紋章を模した封蝋も、お父様の字体そっくりの文章も本物そっくりだった。
 ただし、『紙質』までは再現できなかったらしい。

 封筒や便箋。さらには重要書類だけではなく、ただのメモ紙まで。
 ディンデール家で使われている紙は、すべて特殊な製造方法で作られている。
 そのため見た目や手触りが独特で、これを模倣するのは不可能に近い。
 製紙業の方々も「どうやったら作れるのか知りたい」と驚愕するほど。

 で、この封筒と便箋に使用されている紙もそれに近いものだけれど、まったくの別物。
 だからすぐに偽物だと気づけたし、犯人の見当もついた。
 封筒を開ける前に、オブシディアさんが「あの女の臭いがする」と呟いたので。

「……オブシディアさん、大丈夫でしょうか」
「大丈夫でしょ。アデラが何をする気かは知らないけれど、あの小娘がゴロツキ雇ったとしても簡単に返り討ちよ」
「その返り討ちをやりすぎていないかな、と」
「うーん……」

 叔母様は肯定も否定もしなかった。
 私が不安になっていると、

「ただいま、リザ」

 天井から降ってきた声に視線を上に向ければ、そこには白いジャケット姿のオブシディアさんが浮かんでいた。
 怪我をしている様子はないので、まずはホッと胸を撫で下ろす。
 足元を確認すると、影も戻っていた。
 それから、

「……アデラさんは?」
「店の外にいる。さっさとあいつを城に突き出して、俺と遊びに行こうぜ。もう少しで王子が来て俺たちは邪魔者になるんだし」

 オブシディアさんは私の背後に回り込むと、私の頭を優しく撫でた。
 すると叔母様は瞬きを繰り返して、

「邪魔者だなんて。殿下だって、そんな風には思っていらっしゃらないと思うけれど」

 その言葉に私も目を瞬かせる。

『ミス・ミレーユ。あなたと二人でゆっくりと語らいたい』

 ルシロワール殿下からの手紙に込められた想いを、叔母様本人だけが察していない様子だった。

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