74 / 96
74.イレネーの現状
しおりを挟む
近頃食欲が湧かない。それにろくに眠れない日々が続いている。
イレネーはこの日の朝も一、二時間ほどしか睡眠を摂れず、ふらついた足取りでリビングに姿を見せた。
そこには既に両親の姿があったが、父も母も顔色が悪く食事も進んでいないようだった。庶民が見たら涎を垂らしそうな豪勢な料理ばかりなのに、殆ど手をつけていない。
「おはようございます。父上、母上」
「ああ……」
「ええ……」
朝の挨拶をしても、心ここにあらずと言った様子だ。苛立ちを覚えたものの、ぐっと自制した。イレネーも仕事中に「イレネー様、集中なさってください」と執事に何度も注意を受けているからだ。
そして両親がこのような有様になった原因を作ったのも自分自身だった。
「イレネー、本日ブランシェ嬢が来る予定はあるか?」
「い、いえ……手紙も来ておりませんし……」
「ねえ、こちらから会いに行くのはどうかしら。そうすれば、ブランシェだって喜ぶと思うの」
「それはやめたほうがいい。不快に思われでもしたら一巻の終わりだ。婚約破棄を言い渡される可能性だってある」
「まさか。それはないんじゃないのかしら。だって危うい立場にいるのは向こうだって同じこと。私たちはこれから支え合って生きて行かなくてはならないのよ」
会話もこんな内容のものばかりだ。
現在マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家は、社交界で孤立状態にある。
原因はリグレットの件だった。キューギスト侯爵令嬢であるブランシェが彼女を陥れたという噂が広く出回っているのだ。
リグレットにはブランシェに関する悪評を吹聴したとされていたが、それもブランシェの自作自演だと判明。本当の犯人は金で雇われた庶民だとグライン公爵家の調査で明らかとなった。
それによりイレネーの評判も失墜した。ブランシェと伴侶になるために二人で共謀し、リグレットに汚名を着せたという疑いまでかけられている。
そのようなことはしていないとイレネーは何度も自らの潔白を訴えたものの、彼の言葉を信じる者は数える程度だった。そんなごく少数の人間も、「イレネーはブランシェの裏の顔を見抜けなかっただけの愚か者だ」と話している。
今後マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家が生き残るための手段は限られている。
一つは母の言う通り、共に手を取り合って生きてくこと。よく言えば協力、悪く言えば依存だ。
しかしそれも困難な道のりとなる。元々イレネーはナヴィア修道院の件で、グライン公爵の怒りを買っていたのだ。
この国で最も有力である貴族に敵視されるのがどれだけ問題か。それは先日、ひっそりと他国へ逃げ去ったリグレットの実家がいい見本となっている。
マシャール伯爵家が早急に悪評を取り払い、立て直すことが出来る方法が一つある。
だがそれは、イレネーが一番恐れていることだった。
「……イレネー、お前は私にとって自慢の息子だ。しかし今やマシャール家にとって不必要な存在でもある。いざという時は……覚悟しておけ」
「そ、そんな。父上、それは!」
「反論は許さん」
「はい……」
父には凍えるように冷たい眼差しを向けられ、母は気まずそうに視線を合わせようとしない。
イレネーをマシャール伯爵家の籍から抜いて屋敷から追い出す。両親がその方法を選ばないのは、イレネーへの情がまだ残っているから。それもいつ尽きるか分からないが。
だからその前にイレネーは、何としてでも汚名を返上しなければならない。
「……リグレット」
一人きりになった部屋の中で、元婚約者の名前を呟く。
ブランシェへの愛はもう冷めていた。向こうも同じだろう。自分の意思なのか、はたまた家族に止められているのか、彼女がこの屋敷を訪れることもなくなっていた。
今イレネーの心を占めているのはリグレットだけだった。
どうしてあんなにか弱い少女を信じて守ってやれなかったのか。自らに強い怒りを抱くとともに、どうしても淡い希望を抱いてしまう。
今やナヴィア修道院の聖女として名を馳せている彼女とやり直すことができれば、今よりはマシな状況になるのでは──と。
いや違う。ただリグレットのために償いたいだけだ。自分にそう言い聞かせながら、イレネーは机の引き出しにしまっている便箋に手を伸ばした。
イレネーはこの日の朝も一、二時間ほどしか睡眠を摂れず、ふらついた足取りでリビングに姿を見せた。
そこには既に両親の姿があったが、父も母も顔色が悪く食事も進んでいないようだった。庶民が見たら涎を垂らしそうな豪勢な料理ばかりなのに、殆ど手をつけていない。
「おはようございます。父上、母上」
「ああ……」
「ええ……」
朝の挨拶をしても、心ここにあらずと言った様子だ。苛立ちを覚えたものの、ぐっと自制した。イレネーも仕事中に「イレネー様、集中なさってください」と執事に何度も注意を受けているからだ。
そして両親がこのような有様になった原因を作ったのも自分自身だった。
「イレネー、本日ブランシェ嬢が来る予定はあるか?」
「い、いえ……手紙も来ておりませんし……」
「ねえ、こちらから会いに行くのはどうかしら。そうすれば、ブランシェだって喜ぶと思うの」
「それはやめたほうがいい。不快に思われでもしたら一巻の終わりだ。婚約破棄を言い渡される可能性だってある」
「まさか。それはないんじゃないのかしら。だって危うい立場にいるのは向こうだって同じこと。私たちはこれから支え合って生きて行かなくてはならないのよ」
会話もこんな内容のものばかりだ。
現在マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家は、社交界で孤立状態にある。
原因はリグレットの件だった。キューギスト侯爵令嬢であるブランシェが彼女を陥れたという噂が広く出回っているのだ。
リグレットにはブランシェに関する悪評を吹聴したとされていたが、それもブランシェの自作自演だと判明。本当の犯人は金で雇われた庶民だとグライン公爵家の調査で明らかとなった。
それによりイレネーの評判も失墜した。ブランシェと伴侶になるために二人で共謀し、リグレットに汚名を着せたという疑いまでかけられている。
そのようなことはしていないとイレネーは何度も自らの潔白を訴えたものの、彼の言葉を信じる者は数える程度だった。そんなごく少数の人間も、「イレネーはブランシェの裏の顔を見抜けなかっただけの愚か者だ」と話している。
今後マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家が生き残るための手段は限られている。
一つは母の言う通り、共に手を取り合って生きてくこと。よく言えば協力、悪く言えば依存だ。
しかしそれも困難な道のりとなる。元々イレネーはナヴィア修道院の件で、グライン公爵の怒りを買っていたのだ。
この国で最も有力である貴族に敵視されるのがどれだけ問題か。それは先日、ひっそりと他国へ逃げ去ったリグレットの実家がいい見本となっている。
マシャール伯爵家が早急に悪評を取り払い、立て直すことが出来る方法が一つある。
だがそれは、イレネーが一番恐れていることだった。
「……イレネー、お前は私にとって自慢の息子だ。しかし今やマシャール家にとって不必要な存在でもある。いざという時は……覚悟しておけ」
「そ、そんな。父上、それは!」
「反論は許さん」
「はい……」
父には凍えるように冷たい眼差しを向けられ、母は気まずそうに視線を合わせようとしない。
イレネーをマシャール伯爵家の籍から抜いて屋敷から追い出す。両親がその方法を選ばないのは、イレネーへの情がまだ残っているから。それもいつ尽きるか分からないが。
だからその前にイレネーは、何としてでも汚名を返上しなければならない。
「……リグレット」
一人きりになった部屋の中で、元婚約者の名前を呟く。
ブランシェへの愛はもう冷めていた。向こうも同じだろう。自分の意思なのか、はたまた家族に止められているのか、彼女がこの屋敷を訪れることもなくなっていた。
今イレネーの心を占めているのはリグレットだけだった。
どうしてあんなにか弱い少女を信じて守ってやれなかったのか。自らに強い怒りを抱くとともに、どうしても淡い希望を抱いてしまう。
今やナヴィア修道院の聖女として名を馳せている彼女とやり直すことができれば、今よりはマシな状況になるのでは──と。
いや違う。ただリグレットのために償いたいだけだ。自分にそう言い聞かせながら、イレネーは机の引き出しにしまっている便箋に手を伸ばした。
85
お気に入りに追加
5,509
あなたにおすすめの小説
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。

完】異端の治癒能力を持つ令嬢は婚約破棄をされ、王宮の侍女として静かに暮らす事を望んだ。なのに!王子、私は侍女ですよ!言い寄られたら困ります!
仰木 あん
恋愛
マリアはエネローワ王国のライオネル伯爵の長女である。
ある日、婚約者のハルト=リッチに呼び出され、婚約破棄を告げられる。
理由はマリアの義理の妹、ソフィアに心変わりしたからだそうだ。
ハルトとソフィアは互いに惹かれ、『真実の愛』に気付いたとのこと…。
マリアは色々な物を継母の連れ子である、ソフィアに奪われてきたが、今度は婚約者か…と、気落ちをして、実家に帰る。
自室にて、過去の母の言葉を思い出す。
マリアには、王国において、異端とされるドルイダスの異能があり、強力な治癒能力で、人を癒すことが出来る事を…
しかしそれは、この国では迫害される恐れがあるため、内緒にするようにと強く言われていた。
そんな母が亡くなり、継母がソフィアを連れて屋敷に入ると、マリアの生活は一変した。
ハルトという婚約者を得て、家を折角出たのに、この始末……。
マリアは父親に願い出る。
家族に邪魔されず、一人で静かに王宮の侍女として働いて生きるため、再び家を出るのだが………
この話はフィクションです。
名前等は実際のものとなんら関係はありません。

村娘になった悪役令嬢
枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。
ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。
村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。
※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります)
アルファポリスのみ後日談投稿しております。

前世の記憶が蘇ったので、身を引いてのんびり過ごすことにします
柚木ゆず
恋愛
※明日(3月6日)より、もうひとつのエピローグと番外編の投稿を始めさせていただきます。
我が儘で強引で性格が非常に悪い、筆頭侯爵家の嫡男アルノー。そんな彼を伯爵令嬢エレーヌは『ブレずに力強く引っ張ってくださる自信に満ちた方』と狂信的に愛し、アルノーが自ら選んだ5人の婚約者候補の1人として、アルノーに選んでもらえるよう3年間必死に自分を磨き続けていました。
けれどある日無理がたたり、倒れて後頭部を打ったことで前世の記憶が覚醒。それによって冷静に物事を見られるようになり、ようやくアルノーは滅茶苦茶な人間だと気付いたのでした。
「オレの婚約者候補になれと言ってきて、それを光栄に思えだとか……。倒れたのに心配をしてくださらないどころか、異常が残っていたら候補者から脱落させると言い出すとか……。そんな方に夢中になっていただなんて、私はなんて愚かなのかしら」
そのためエレーヌは即座に、候補者を辞退。その出来事が切っ掛けとなって、エレーヌの人生は明るいものへと変化してゆくことになるのでした。

悪役令嬢ですが、当て馬なんて奉仕活動はいたしませんので、どうぞあしからず!
たぬきち25番
恋愛
気が付くと私は、ゲームの中の悪役令嬢フォルトナに転生していた。自分は、婚約者のルジェク王子殿下と、ヒロインのクレアを邪魔する悪役令嬢。そして、ふと気が付いた。私は今、強大な権力と、惚れ惚れするほどの美貌と身体、そして、かなり出来の良い頭を持っていた。王子も確かにカッコイイけど、この世界には他にもカッコイイ男性はいる、王子はヒロインにお任せします。え? 当て馬がいないと物語が進まない? ごめんなさい、王子殿下、私、自分のことを優先させて頂きまぁ~す♡
※マルチエンディングです!!
コルネリウス(兄)&ルジェク(王子)好きなエンディングをお迎えください m(_ _)m
2024.11.14アイク(誰?)ルートをスタートいたしました。
楽しんで頂けると幸いです。

【完結】 悪役令嬢が死ぬまでにしたい10のこと
淡麗 マナ
恋愛
2022/04/07 小説ホットランキング女性向け1位に入ることができました。皆様の応援のおかげです。ありがとうございます。
第3回 一二三書房WEB小説大賞の最終選考作品です。(5,668作品のなかで45作品)
※コメント欄でネタバレしています。私のミスです。ネタバレしたくない方は読み終わったあとにコメントをご覧ください。
原因不明の病により、余命3ヶ月と診断された公爵令嬢のフェイト・アシュフォード。
よりによって今日は、王太子殿下とフェイトの婚約が発表されるパーティの日。
王太子殿下のことを考えれば、わたくしは身を引いたほうが良い。
どうやって婚約をお断りしようかと考えていると、王太子殿下の横には容姿端麗の女性が。逆に婚約破棄されて傷心するフェイト。
家に帰り、一冊の本をとりだす。それはフェイトが敬愛する、悪役令嬢とよばれた公爵令嬢ヴァイオレットが活躍する物語。そのなかに、【死ぬまでにしたい10のこと】を決める描写があり、フェイトはそれを真似してリストを作り、生きる指針とする。
1.余命のことは絶対にだれにも知られないこと。
2.悪役令嬢ヴァイオレットになりきる。あえて人から嫌われることで、自分が死んだ時の悲しみを減らす。(これは実行できなくて、後で変更することになる)
3.必ず病気の原因を突き止め、治療法を見つけだし、他の人が病気にならないようにする。
4.ノブレス・オブリージュ 公爵令嬢としての責務をいつもどおり果たす。
5.お父様と弟の問題を解決する。
それと、目に入れても痛くない、白蛇のイタムの新しい飼い主を探さねばなりませんし、恋……というものもしてみたいし、矛盾していますけれど、友達も欲しい。etc.
リストに従い、持ち前の執務能力、するどい観察眼を持って、人々の問題や悩みを解決していくフェイト。
ただし、悪役令嬢の振りをして、人から嫌われることは上手くいかない。逆に好かれてしまう! では、リストを変更しよう。わたくしの身代わりを立て、遠くに嫁いでもらうのはどうでしょう?
たとえ失敗しても10のリストを修正し、最善を尽くすフェイト。
これはフェイトが、余命3ヶ月で10のしたいことを実行する物語。皆を自らの死によって悲しませない為に足掻き、運命に立ち向かう、逆転劇。
【注意点】
恋愛要素は弱め。
設定はかなりゆるめに作っています。
1人か、2人、苛立つキャラクターが出てくると思いますが、爽快なざまぁはありません。
2章以降だいぶ殺伐として、不穏な感じになりますので、合わないと思ったら辞めることをお勧めします。

【完結】ヒーローとヒロインの為に殺される脇役令嬢ですが、その運命変えさせて頂きます!
Rohdea
恋愛
──“私”がいなくなれば、あなたには幸せが待っている……でも、このまま大人しく殺されるのはごめんです!!
男爵令嬢のソフィアは、ある日、この世界がかつての自分が愛読していた小説の世界である事を思い出した。
そんな今の自分はなんと物語の序盤で殺されてしまう脇役令嬢!
そして、そんな自分の“死”が物語の主人公であるヒーローとヒロインを結び付けるきっかけとなるらしい。
どうして私が見ず知らずのヒーローとヒロインの為に殺されなくてはならないの?
ヒーローとヒロインには悪いけど……この運命、変えさせて頂きます!
しかし、物語通りに話が進もうとしていて困ったソフィアは、
物語のヒーローにあるお願いをする為に会いにいく事にしたけれど……
2022.4.7
予定より長くなったので短編から長編に変更しました!(スミマセン)
《追記》たくさんの感想コメントありがとうございます!
とても嬉しくて、全部楽しく笑いながら読んでいます。
ですが、実は今週は仕事がとても忙しくて(休みが……)その為、現在全く返信が出来ず……本当にすみません。
よければ、もう少しこのフニフニ話にお付き合い下さい。

【完結】お父様。私、悪役令嬢なんですって。何ですかそれって。
紅月
恋愛
小説家になろうで書いていたものを加筆、訂正したリメイク版です。
「何故、私の娘が処刑されなければならないんだ」
最愛の娘が冤罪で処刑された。
時を巻き戻し、復讐を誓う家族。
娘は前と違う人生を歩み、家族は元凶へ復讐の手を伸ばすが、巻き戻す前と違う展開のため様々な事が見えてきた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる