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43、決勝戦
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歩兵を制する者はチェスを制す――
対局前にエドガーと話したかった僕は、早めに会場へ下りていった。
宵闇色のベレー帽が良い目印になる。これは亡くなった両親が作ってくれたものなんだって。ノエルから聞いた。
僕とジェラーニオ卿のクソ長い対局中に、ノエルとエドガーは親交を深めていたらしい。二人は何度か、飲み物をもらいに席を離れていたみたいだ。
ノエルの話だと、仕立て屋をしていた両親がエドガーにチェスを教えたそう。ベレー帽は父親がエドガーのために縫製して、母親が名前を刺繍した。安っぽくなかったのは、職人の両親がこさえた物だったからなんだね。やはり、あれは大切な物だったんだ。
チェスボードを囲むひな壇の外にエドガーはいたよ。見つけたはいいが、大勢の大人に囲まれていた。
ノヴォジャーナル(瓦版)の記者に質問されている。この記者、僕のところにも何度か来たけど、ジェラーニオ夫人が追い払ってくれたんだ。取材は決勝戦後に受け付けますってね。運営という後ろ盾は心強い。
エドガーの横にはロテュス卿が護衛のように立っているし、話しかけづらかった。
いつもだったら、エドガーのほうから声をかけてくれるのに、目が合ってもスルーされる。見えない壁を感じた。
「どうしたんだよ? 話しかけないのか?」
離れていく僕を、ノエルの声が追いかける。
「対局前だし、そういう雰囲気じゃないだろ」
僕は投げやりに答えた。本当は僕だって、エドガーと話したかったよ。けど、大人に囲まれるエドガーが別世界の人に思えたんだ。
僕にアドバイスしてくれたり、からかってきたイタズラ好きの悪ガキではない。あそこで堂々と受け答えしているのは、将来有望なエリートの卵だ。
波立つ心を落ち着かせ、僕は集中することにした。まだ時間はあるが、チェスボードの前に腰掛け、目を閉じ瞑想する。
夢の舞台で好敵手と戦う。せっかくの舞台をより良いものにしたいんだ。ノエルが僕の初めての友達で、友達第二号をエドガー、君にしてもいいだろうか?
好きな人に振り向いてもらいたい、褒められたい、勝って自己顕示欲を満たしたい、そんな理由で始めたチェスだった。それをおもしろい、楽しい、大好き!……に変えてくれたのはノエルとエドガーだ。だからさ、エドガーにも存分に楽しんでもらいたい。
だが、僕の正面に座ったエドガーは、いつもみたいにニヤリと笑ってくれなかった。こわばった顔は緊張している証拠だ。
あのエドガーが緊張?? いつだって、ふてぶてしく、飄然としていた彼が?
意外だし、なんだか寂しかった。彼には今までどおり、楽しくチェスをやってほしかったんだ。
僕は伝染しそうな緊張感を振り払うために微笑んだ。エドガーはちっとも、笑ってくれなかったよ。
無言のまま、トス。僕の白番で戦いの火蓋は切られた。まずまずのスタートだ。
e4,d6,d4,g6……そこまでメジャーではない始まり方かな。この定跡だと、すかさず騎士を動かしてくると思ったから、歩兵で牽制することにした。
エドガーはフィアンケット(ナイトのすぐ上にビショップを配置)の準備をしているね。抜かりないよ。ここでフィアンケットを組まれ、キャスリングされたら、勝てる望みが少なくなる。フィアンケットは絶対に阻止する。
お互いに八手目まで歩兵しか動かさなかった。エドガーは、まったく無駄のない動きさ。的確な場所をついてくる。だから、僕も指していて気持ちがいい。
エドガーが歩兵を好きと言った理由が、今ならわかるよ。マスを支配するのは数の多い歩兵だ。勝敗を分けるのも歩兵。ゆえに、背後で強者たちが歩兵を守っている。狙われやすいf2,f7のポーンですら、王に守られているのだからね。
現に今、歩兵だけでゲームを進めている。序盤はポーンの配置、中盤はポーンの数で攻める位置を決める。終盤で重要なのはポーンの速度だ。バックランクまで行ったポーンが先に昇格することで、運命が変わる。
僕はポーンだけで、最終ランク(横一列)の強者たちをうまく抑え込むことに成功した。本当はすぐにでも、強い駒を使いたいよ。女王や塔はお気に入りさ。
でも、チェスの勝敗は序盤で決まると言っても過言ではない。機が熟すまで、もう少し待とう。
狙いは中央マスの支配。エドガーもそれをわかっていて、カウンターを仕掛けるつもりだ。
ふぅーっと、エドガーは大きく息を吐く。ベレー帽の位置を直した。
彼の中で何かが吹っ切れたのだろう。このまま、歩兵に囚われていては勝てない。勝つために別のアプローチをする必要がある。肉を切らせて骨を切る、犠牲しようと。
エドガーは騎士を出動させた。緩やかな迎撃から、攻撃性の高い防守へと転じる。
中盤戦は駒交換がしきりに行われた。エドガーは早くエンドゲームへ移行したかったのかもしれない。やはり、駒の強さよりマスの配置にこだわるね。僕は君からその重要性を学んだんだ。個々を見るのではなく、全体を見る。僕らは盤上では神なんだ。これは神同士の対決。
マスの多くを支配する歩兵はチェスの本体といえる。女王、塔、僧正、騎士……それぞれキャラクター性を持つ彼らは、本体である歩兵にじつは動かされているのさ。これがチェスというゲームの本質だ。
なぜだろう? 駒が消えるたび、エドガーが泣いているような気がした。むろん、涙など流していないよ。真剣な顔で指している。
いつも余裕の表情でチェスを楽しんでいた彼が、切羽詰まっていた。絶対に負けたくない理由があるのかもしれない。しかし、ゲームのおもしろさに魅了された僕がエドガーの心理状態を心配したのは、ものの数秒だった。
僕の関心は前進するパスポーン※にあった。(※周りに障害がなく、前進できるポーン)
パスポーンってね、敵陣の最奥に行くと何にでもなれるんだよ。何にでもっていうか、最強の女王になるのは確定なんだけどね。
最後のほうはパスポーンの徒競走さ。どちらが、早く変われるかが争点となる。駒数が少なくなっているこの局面に、女王という特大勢力が加わるんだ。情勢は180度変わる。孤独に生き残った歩兵が英雄になる。
王をうまく逃がしつつ、ポーンを前進させる。相次ぐチェックから逃れる王の影で地味に進む歩兵は、地下から這い上がり、木をよじ登る蝉の幼虫に似ていた。華麗なる変身を遂げるため、一歩一歩着実に前へと進んでいく。
ついひと月前、ルイーザ、ノエルと庭園を散歩している時に見つけた幼虫。夕闇に溶けてしまいそうで、僕はあやうく踏んでしまうところだった。これは蝉になると、ルイーザが教えてくれなければ、気にも留めなかっただろうね。
よちよち木の幹をよじ登るのを見届け、夕食後、もう一度見に行った。僕は羽化直後の美しさに息を呑んだよ。
半透明の翅はうっすら青みを帯びていて、わずかに発光していた。陶器のごとく滑らかな肢体と、翅に刻まれる繊細な紋様はいくら見ても飽きない。触れれば、消えてしまうんじゃないかと思うぐらい儚い。ランタンの灯りに浮かび上がるそれは、小さな森の妖精に見えた。
ポーンが黒のバックランクに到達する瞬間、僕はその情景を思い出して身震いした。
「負けました」
かすれ声と、横に倒れる黒の王。
エドガーは下を向いていて、表情がわからなかった。
対局前にエドガーと話したかった僕は、早めに会場へ下りていった。
宵闇色のベレー帽が良い目印になる。これは亡くなった両親が作ってくれたものなんだって。ノエルから聞いた。
僕とジェラーニオ卿のクソ長い対局中に、ノエルとエドガーは親交を深めていたらしい。二人は何度か、飲み物をもらいに席を離れていたみたいだ。
ノエルの話だと、仕立て屋をしていた両親がエドガーにチェスを教えたそう。ベレー帽は父親がエドガーのために縫製して、母親が名前を刺繍した。安っぽくなかったのは、職人の両親がこさえた物だったからなんだね。やはり、あれは大切な物だったんだ。
チェスボードを囲むひな壇の外にエドガーはいたよ。見つけたはいいが、大勢の大人に囲まれていた。
ノヴォジャーナル(瓦版)の記者に質問されている。この記者、僕のところにも何度か来たけど、ジェラーニオ夫人が追い払ってくれたんだ。取材は決勝戦後に受け付けますってね。運営という後ろ盾は心強い。
エドガーの横にはロテュス卿が護衛のように立っているし、話しかけづらかった。
いつもだったら、エドガーのほうから声をかけてくれるのに、目が合ってもスルーされる。見えない壁を感じた。
「どうしたんだよ? 話しかけないのか?」
離れていく僕を、ノエルの声が追いかける。
「対局前だし、そういう雰囲気じゃないだろ」
僕は投げやりに答えた。本当は僕だって、エドガーと話したかったよ。けど、大人に囲まれるエドガーが別世界の人に思えたんだ。
僕にアドバイスしてくれたり、からかってきたイタズラ好きの悪ガキではない。あそこで堂々と受け答えしているのは、将来有望なエリートの卵だ。
波立つ心を落ち着かせ、僕は集中することにした。まだ時間はあるが、チェスボードの前に腰掛け、目を閉じ瞑想する。
夢の舞台で好敵手と戦う。せっかくの舞台をより良いものにしたいんだ。ノエルが僕の初めての友達で、友達第二号をエドガー、君にしてもいいだろうか?
好きな人に振り向いてもらいたい、褒められたい、勝って自己顕示欲を満たしたい、そんな理由で始めたチェスだった。それをおもしろい、楽しい、大好き!……に変えてくれたのはノエルとエドガーだ。だからさ、エドガーにも存分に楽しんでもらいたい。
だが、僕の正面に座ったエドガーは、いつもみたいにニヤリと笑ってくれなかった。こわばった顔は緊張している証拠だ。
あのエドガーが緊張?? いつだって、ふてぶてしく、飄然としていた彼が?
意外だし、なんだか寂しかった。彼には今までどおり、楽しくチェスをやってほしかったんだ。
僕は伝染しそうな緊張感を振り払うために微笑んだ。エドガーはちっとも、笑ってくれなかったよ。
無言のまま、トス。僕の白番で戦いの火蓋は切られた。まずまずのスタートだ。
e4,d6,d4,g6……そこまでメジャーではない始まり方かな。この定跡だと、すかさず騎士を動かしてくると思ったから、歩兵で牽制することにした。
エドガーはフィアンケット(ナイトのすぐ上にビショップを配置)の準備をしているね。抜かりないよ。ここでフィアンケットを組まれ、キャスリングされたら、勝てる望みが少なくなる。フィアンケットは絶対に阻止する。
お互いに八手目まで歩兵しか動かさなかった。エドガーは、まったく無駄のない動きさ。的確な場所をついてくる。だから、僕も指していて気持ちがいい。
エドガーが歩兵を好きと言った理由が、今ならわかるよ。マスを支配するのは数の多い歩兵だ。勝敗を分けるのも歩兵。ゆえに、背後で強者たちが歩兵を守っている。狙われやすいf2,f7のポーンですら、王に守られているのだからね。
現に今、歩兵だけでゲームを進めている。序盤はポーンの配置、中盤はポーンの数で攻める位置を決める。終盤で重要なのはポーンの速度だ。バックランクまで行ったポーンが先に昇格することで、運命が変わる。
僕はポーンだけで、最終ランク(横一列)の強者たちをうまく抑え込むことに成功した。本当はすぐにでも、強い駒を使いたいよ。女王や塔はお気に入りさ。
でも、チェスの勝敗は序盤で決まると言っても過言ではない。機が熟すまで、もう少し待とう。
狙いは中央マスの支配。エドガーもそれをわかっていて、カウンターを仕掛けるつもりだ。
ふぅーっと、エドガーは大きく息を吐く。ベレー帽の位置を直した。
彼の中で何かが吹っ切れたのだろう。このまま、歩兵に囚われていては勝てない。勝つために別のアプローチをする必要がある。肉を切らせて骨を切る、犠牲しようと。
エドガーは騎士を出動させた。緩やかな迎撃から、攻撃性の高い防守へと転じる。
中盤戦は駒交換がしきりに行われた。エドガーは早くエンドゲームへ移行したかったのかもしれない。やはり、駒の強さよりマスの配置にこだわるね。僕は君からその重要性を学んだんだ。個々を見るのではなく、全体を見る。僕らは盤上では神なんだ。これは神同士の対決。
マスの多くを支配する歩兵はチェスの本体といえる。女王、塔、僧正、騎士……それぞれキャラクター性を持つ彼らは、本体である歩兵にじつは動かされているのさ。これがチェスというゲームの本質だ。
なぜだろう? 駒が消えるたび、エドガーが泣いているような気がした。むろん、涙など流していないよ。真剣な顔で指している。
いつも余裕の表情でチェスを楽しんでいた彼が、切羽詰まっていた。絶対に負けたくない理由があるのかもしれない。しかし、ゲームのおもしろさに魅了された僕がエドガーの心理状態を心配したのは、ものの数秒だった。
僕の関心は前進するパスポーン※にあった。(※周りに障害がなく、前進できるポーン)
パスポーンってね、敵陣の最奥に行くと何にでもなれるんだよ。何にでもっていうか、最強の女王になるのは確定なんだけどね。
最後のほうはパスポーンの徒競走さ。どちらが、早く変われるかが争点となる。駒数が少なくなっているこの局面に、女王という特大勢力が加わるんだ。情勢は180度変わる。孤独に生き残った歩兵が英雄になる。
王をうまく逃がしつつ、ポーンを前進させる。相次ぐチェックから逃れる王の影で地味に進む歩兵は、地下から這い上がり、木をよじ登る蝉の幼虫に似ていた。華麗なる変身を遂げるため、一歩一歩着実に前へと進んでいく。
ついひと月前、ルイーザ、ノエルと庭園を散歩している時に見つけた幼虫。夕闇に溶けてしまいそうで、僕はあやうく踏んでしまうところだった。これは蝉になると、ルイーザが教えてくれなければ、気にも留めなかっただろうね。
よちよち木の幹をよじ登るのを見届け、夕食後、もう一度見に行った。僕は羽化直後の美しさに息を呑んだよ。
半透明の翅はうっすら青みを帯びていて、わずかに発光していた。陶器のごとく滑らかな肢体と、翅に刻まれる繊細な紋様はいくら見ても飽きない。触れれば、消えてしまうんじゃないかと思うぐらい儚い。ランタンの灯りに浮かび上がるそれは、小さな森の妖精に見えた。
ポーンが黒のバックランクに到達する瞬間、僕はその情景を思い出して身震いした。
「負けました」
かすれ声と、横に倒れる黒の王。
エドガーは下を向いていて、表情がわからなかった。
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