ごめんなさい。わたくし、お義父様のほうが……

黄札

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40、集中……

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 異例のオープニングから鮮やかな勝利へ――
 エドガーのチェックメイトに観客は湧いた。お医者さまはうなだれ、「負けました」とつぶやく。最後に握手を交わして、終局となった。

 この見事な戦いの余韻に浸る余裕は、僕にはなかった。三十分の休憩を挟んで次の対局が始まる。

 対局を終えたエドガーは、得意げな顔で僕のところへやってきたよ。選手交代とばかりに、バチンと背中を叩かれた。
 プレッシャーをかけてくれるな。君ほど華やかで、エンターテイメント性に富んだチェスを見せられる自信はない。勝てる保証すらないよ。準決勝のレベルは高い。
 それなのにナイーブな僕を嘲笑うかのごとく、

「絶対、勝てよ」

 と言ってくる。いたずら好きの小動物みたいな目を細めて、あおってくる。僕を無理にでも、奮い立たせようとするんだ。

 休憩時間はあっという間だった。ジェラーニオ夫妻、ピヴォワン卿とルイーザがやってきて、僕を国王夫妻に紹介したり、他にもいろんな貴族のところへ連れて行かれた。挨拶回りさ。
 預かっている親戚の子という立ち位置から、変化してきている。養子にならない僕のことは、公に出しにくかったんだよね。それがチェスのせいで目立ってしまって、紹介せざるを得ない状況になってしまった。
 僕は私生児だし、評判の悪い家の出だ。色眼鏡で見られるのに慣れていても、気分は落ちた。

「これから対局っていうのに、なに暗い顔してやがる?」

 対局テーブルへ向かう僕に喝を入れるのは、エドガーだ。
 いいよな? 君は。君の心の辞書には自信喪失、劣等感などという言葉はないんだろう?
 上から目線の助言にうんざりしていた僕は肩に置かれた手を払って、彼の横を通り過ぎようとした。対局前で神経質になっていたんだよ。ふざけ合える気分じゃない。
 そうしたら過ぎる瞬間、ささやき声が聞こえたんだ。

「盤上で物を言うのは実力だけだ」

 強い言葉は、一瞬で意識を変えることができる。
 シンプルで飾り気のない言葉こそ、心に響くよ。ウジウジしていた僕は背中をピッと伸ばして、チェスボードの前に座ることができた。

 エドガーの言うとおり、チェスの戦いでは出自や身分、年齢性別、すべて関係ない。僕らは身一つで戦いに挑むんだ。武器は頭脳と強い心だけ。盤上では誰もが平等になる。
 切り替えた僕は大理石のチェスボードをにらみつけ、対局相手が来るのを待った。

 さあ、どんなスタートを切るか? 相手によって変わるよ。僕の相手はベテランっぽいから、定番のオープニングが好きそうだよね。キャスリングを最速で出せるアレかな? それとも、穏やかに始まるアレ? エドガーが見せてくれた資料によると、攻撃的なオープニングは苦手なタイプだった。僕が先手の場合はエドガーの真似じゃないけど、危険でアグレッシブなオープニングにしよう。黒番の場合は……


 しかし、遅いな? まだ、来ないんだろうか?
 僕はからの革張りソファに視線を移した。対局相手、なんとかファビアーノさんだっけ? 僕が座ってから、五分は経っているのにまだ現れない。
 せっかく集中力を高めたんだ。最高潮の今、現れてくれよ? 

 集中力というものは最高潮に達したあと、緩やかに落ちていく。今まで聞こえてこなかった雑音が耳に入ってきた。
 右サイドの観客席からだ。ジェラーニオ夫人の派手な笑い声が聞こえる。気が散るよなぁ。騒々しい女の人は母を思い出して、好きになれないよ。ルイーザのお母さまじゃなかったら、嫌いになっていたかも。

 左サイドにはエドガー、ノエル、ピヴォワン夫婦がいる。右サイドは国王夫妻がいるほうだ。僕は怖くて、声のするほうを見ることができなかった。

 国王夫妻の周囲は王族や廷臣で固められているんだ。ジェラーニオ夫人は、お偉いさん方と親しげに何を話しているのだろう? 耳に入るのは、チェスの歴史とか最近流行りの文学についてか? いや、あちこち脱線している。底の見えないおしゃべりだなぁ……要約すると、小説の主人公にジェラーニオ卿……自分の旦那さんが似ているって話??――クソどうでもいいよ!! ほんと、死ぬほどどうでもいいんだけど? 僕は対局を控えて過敏なのに、横でくだらない話をすんなよ!

 旦那さんがイケメンで自慢したいのは、わかりますけどね? 第三者にとっては、どうでもいいんですよ。ロイヤルセレブリティとする会話じゃないですよ、それ? あなたは新婚夫婦ですか? 結婚して二十五年以上の熟練夫婦でしょ? それに、チェス大会の会場の最前列で話す話題じゃない。

 しまいには「あなた、がんばって!!」などと応援して、周りの女性たちも便乗してキャーキャー言っているし、いったい何をがんばるって言うんだ?

 僕の前にひょこひょこジェラーニオ卿が現れて、空のソファーに腰掛けた時は何が起こったか、わからなかった。

「は!?」
「じゃ、よろしく頼むよ、ローラン君」

 僕の前には、親友にそっくりなイケオジがいる。ピヴォワン卿のように厳つくなく、女性受けのいい優男さ。ヒゲも薄めで若作りだよ。僕の大好きなルイーザの父で、ノエルのお祖父さま。ジェラーニオ伯爵。この大会の運営者。

 え? なんとかファビアーノって、この人!? この人が僕の対局相手ってこと!?

「トスをしようか」

 ジェラーニオ卿は白と黒のポーンを手の中でシャッフルしだした。まだこの時点では、この方がファビアーノなんとかとは確定していない。手洗いへ行って帰ってこないファビアーノの代わりに、トスをしているだけかもしれない。運営の責任者だしね。僕は気持ちを落ち着かせようとした。

 ジェラーニオ卿が差し出した拳、右か左か。対局において先手か後手かは、かなり重要だよ。僕は心を無にして、左拳を指した。

 残念。ぱぁっと開いた手のひらには、黒のポーンがのっていた。

「お、黒番か。では私からだね」

 えと……対局開始ですか? ということは、やはり、あなたが対局相手なんですか?
 にこにこして、こちらを見るジェラーニオ卿はソファーから動く気配がない。僕は当惑したまま、盤面を見た。

 ……なんてことだ!! 直前までイメージしていた棋譜が、全部ふっ飛んでしまったじゃないか!――ああ、そうか。ジェラーニオって、伯爵名だもんね。苗字はファビアーノっていうんだ……ってか、なんで運営側の人間が出場してんだよ!? 聞いてないよ!

 よくよく思い出してみると、会場で指しているのをチラッと見てはいた。そんなに興味がなかったというか、遊んでいるのかな……ぐらいに思っていたんだ。

 ジェラーニオ夫人のサロンにいることもあったよ。けど、僕と対局することは一度もなかった。好きな人のご両親って、自分がどう思われるか、すごく気になるだろう? 気に入られたい気持ちの反面、嫌われたらどうしようと恐怖心もある。ものすごく気を使うんだよ。それで、なんとなく接触を避けていたんだよね。
 僕の動揺と反して、ジェラーニオ卿は楽しそうだった。普段は無口なのが、いやによくしゃべる。

「毎年、出場してるんだが、10位以内に入れなくてね? 準決勝まで行けるなんて夢のようだよ!」

 そうですか。よかったですね、お義父さま。
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