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39、ギャンビット

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 決勝まであと一局!
 ……とそのまえに、エドガーとお医者さまの対局が先だった。

 会場に来てみると、テーブルも椅子も、チェスボードまで一新されていて緊張感を高める。水晶のテーブルに革張りのソファー。チェスボードは大理石、駒は象牙に金だよ! ちょっと? ジェラーニオ夫妻、やり過ぎじゃないの!?

 帆布で象ったチェスボードを棒にくくりつけ、進行係が掲げている。同じく帆布で作られたピースには鈎針かぎばりがつけられていて、ボードにくっつけたり剥がしたりできるんだ。実物と同時進行で駒を動かすことができるってわけ。うしろのほうの人でも局面がわかるようにしてあるんだ。

 そして、豪華な対局テーブルの周りを座って観戦できるひな壇が囲っている。僕とノエルは出場者と関係者枠で最前列さ。エドガーの横顔が近くに見える。その向こうにはなんと! 国王夫妻が座っているんだよ!

 数時間後には僕も同じ舞台でチェスを指すのかと思ったら、鳥肌が立った。

 エドガーは堂々としたものだよ。宵闇色のベレー帽をかぶり、初めて出会ったころと変わらない顔つきをしている。人を食ったような生意気な態度も同じ。腹が立つけど、こいつにはやっぱりかなわないな、と思う。

 神に選ばれし天才――というのが、しっくりくる。生まれや育ちなんか、全部ひっくり返すぐらいのパワーを持って生まれてきたんだろうな。
 対局相手が霞んでしまうほどのオーラを放ち、無限大に広がる盤上の世界を支配する。覇者たる彼にとっては、現実世界の王なんか屁でもないんだ。

 対局相手だって、立派なおじさまだよ。年齢はピヴォワン卿と同じくらい。分厚い口ひげを蓄えている。優しい目をしたお医者さまさ。いかにも、医療器具の詰まった黒カバンが似合いそうなね。

 エドガーが野生のイタチだとしたら、お医者さまは冬眠明けに穴蔵から、のっそり出てきたばかりの熊……ってところだろうか。温和な顔つきは鈍重とも受け取れる。

 ざわざわした空気がおさまって、観客は息を呑み、対局が始まった。
 エドガーが白番ゲット。黒番がお医者さまだ。僕がエドガーの対局を見るのは初めてかもしれない。というのも、準々決勝までは複数テーブルで対局していたからね。ほぼ同時進行でトーナメントを勝ち進んでいたから、なかなか見に行けなかったんだ。僕とエドガーが対局したのは、あの酒場での一局きり。僕は才能の片鱗に触れただけなのかもしれなかった。

 e4,e5とポーンを動かしていく。よくあるオープニングだ。ついさっきのエドガーの言葉が脳裏に浮かび上がる。“情報量の足りないオレらは……”――よく言うよ? 君は定跡だってお手の物だろう。
 ここ数日、エドガーと過ごしてわかったことがある。彼は天才だが、努力を惜しまず、決して慢心しない人なんだ。表向きはえらそうでも、うぬぼれない。それが彼を彼たらしめている一番の条件なのだろう。

 次は手堅く騎士ナイトを動かすとばかり、思っていた。相手の出方を見つつ、確実に追い詰めていく。だって、ここは準決勝だよ? 対局相手は間違いなく強い。わざわざ、身を危険にさらして突撃するなんて、誰もそんなことは考えないよ……えっ!?

 f4……だと!!
 
 驚いたのは僕だけではない。周囲からも驚きの声がもれた。
 ベテラン勢はめったに指さない手だ。なぜなら……

 ノエルが僕の袖を引っ張って、目で訴えてくる。そうだね、f,g列のポーンは最初に動かしてはいけない。僕がノエルに教えたことだよ。ノエルと対戦した時、二手で負かしたことがある。それはこれが原因なんだ。f,g列のポーンを動かすと、キングサイドがガラ空きになる。敵側のクイーンで斜めから、チェックできる状態にしてしまうんだよ。
 非常に危険性の高い手だ。そして攻撃性も高い。

 f列はキングの真横。この列に捨て身の歩兵ポーンを置くってことは、キャスリング※後にルークでチェックするのを見越しているってこと。つまり、スタート時点ですでに王の首を狙っているのさ。

 ノエルにはあとで解説すると、目で伝えた。グリーンアイは不安そうだ。僕だって、意味がわからないよ。エドガーのやつ、なんでこんな無謀な手を打つのか……?

 当の本人は人の心配をよそに、ニヤリ笑みを浮かべる。その小憎たらしい横顔は自信に溢れていた。

 相手は捨て身の歩兵ポーンを取らず、僧侶ビショップを動かしてきた。賢い選択だね。キャスリング動線上に攻撃をしかけることで、牽制しているんだ。
 
 ここで、エドガーが騎士ナイトを出動させたのは想定内だ。僕なら、安全面を重視してキングサイドの騎士ナイトを使うけど、エドガーは女王クイーンサイドを動かしたね。

 気になることがあるらしく、ノエルがもぞもぞしているよ。ここで、「おしっこ」とか言ったら、ぶん殴ってやるところだ。僕はノエルのほうに耳を傾けてやった。

 ……ふむ。どうして、取れる位置にいる歩兵ポーンを放置しているかって?

 それはな、エドガーが歩兵ポーンをこよなく愛しているからだよ。そこのポーンを取ってしまったら、すぐに取り返されるだろう? 敵陣の最奥にまでたどり着いた歩兵ポーンは、何にでもなれる。彼は歩兵ポーンに未知なる可能性を期待しているんだ……

 ……っていうのは嘘。んなわけないだろうが! そもそも、そういう愛だったら、歩兵ポーンを生贄にするような陣形は組まないよ。

 あのね、取れるからって、なんでもピースを取っていいってわけじゃないの。あとで詳しく解説するけど、白〈エドガー〉が取ったら、生命線であるf列がガラ空きになってしまうだろ? 女王クイーンで攻撃し放題になっちゃうの。ほぼ、そこで詰んでしまうんだよ。んで、黒は……

 お? 黒、とうとう捨て身の歩兵ポーンを取ったか。僕が手帳を使って、ノエルと筆談している間に進んでいたよ。こいつはどうなのかな? 僕には悪手に見える。というのも、エドガーの捨て身というか、生贄歩兵ポーンは罠に思えるんだよね。

 だって、ほら? エドガーの口角が上がってるだろう? ガキだから、顔にすぐ出るんだよな。
 そうか、黒番がe5の歩兵ポーンを動かしたことで、センターが空いている。エドガーはセンターを支配したい。

 ようやく、僕はエドガーの意図が読めてきた。無謀なゲームスタートは作戦のかなめだったんだ。
 相手は人の命を預かるお医者さま。つねに冷静で正しい判断をしなくてはならない。論理的に物事を考える職業だ。感情は時に毒となる。

 エドガーのあのオープニングは極めて感情的だった。勝ちたい、メイトしたいという切実な願いが顕著に現れていた。冷静ではないよね。

 ここで理屈屋のお医者さまは困惑する。エドガーが次にどんな手を打つか予測しにくくなる。意図あってのことなのか、ただの馬鹿なのか、人物像がはっきりしないと行動が読めないんだよ。
 不安を植え付け、論理的思考を撹乱かくらんする。ミスさせやすい土壌を作っていたのさ。

 お医者さま、駒を持つ手が震えているね。緊張しているんだろう。ひょっとしたら、手術のメスを持つ時と同じくらい集中しているのかもしれない。

 チェスの世界ではたった一度のミスでも、許されない。リカバリーがしにくい競技なんだ。ミスを取り返すのはほぼ不可能。だから、とんでもなく神経を使うし、強い精神力が必要になる。

 先日、寝ながら対局した僕のケースはイレギュラー中のイレギュラーだからね。それほど全身全霊をかけて挑む競技なんだ。

 B×c3+……ああ、僧正ビショップ騎士ナイトを取られたね。同時にチェックされている。そのすぐあと、エドガーは歩兵ポーン僧正ビショップを狩った。当然だよ。
 お医者さまは下手を打ったと、気づいたようだ。下唇を噛んでいる。この僧正ビショップの代償は騎士ナイトではあがなえない。

 エドガーのほうはポーンが一列に並ぶWポーン……この状態はポーンが進撃しにくい不利な陣形だ。お医者さまはそれを狙ったのだろうが、代わりにb列が空いてしまっている。エドガーのルークが行きやすい状況を作ってしまったんだ。

 まず、中央センターのマスの支配。エドガーの好きなポーンチェーン。斜めに並ぶやつね。そして、キャスリングすれば、白のキングサイドの守りは完璧になる。
 ほぼ、勝敗は決まった。

 エドガーは着々と勝利へ向かって、駒を進めていく。じわじわ追い詰められた黒は悪手を繰り返した。こうなったらもう、頸動脈に食いつかれたのと同じさ。

 大きな熊でも、殺人イタチの鋭い牙のまえには倒れる。小さな肉食獣は知略を持って、自分より大きな敵に立ち向かうんだ。

 チェックメイト――



※キャスリング……キングはルークのほうへニマス進み、ルークはキングを跨いで移動する。一定の条件下でのみ可能。

※エドガーが指したオープニングはチェスを嗜む方ならご存じかと思います。キングズギャンビットですね。ファンタジーの世界なので、その名前を使うのは控えさせていただきました。
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