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36、ノエルとエドガー

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 存在を忘れかけていたけど、ノエルは僕のそばでずっと棋譜きふを記入してくれていた。似合わない縁の下の力持ちだよ。
 いい勉強にもなったんじゃないかな。たまに間違えて、僕が指摘してやると、「ああっ!」と慌てて指でこする。石盤じゃなくて、紙にインキで書いているから消えないのにね。手が真っ黒になっていたよ。

 馬鹿さ加減に呆れつつ、横にいてくれるのはありがたかった。たいして役に立ってないんだが、なんかいるだけで安心するんだよね。

 対局後、別のテーブルで二局目を終えたエドガーがやってきた。猛烈に悔しがっている。
 ああ、奴は当然のごとく勝ってきたよ。悔しがっていたのは、僕とサンドラの対局が見れなかったからさ。

 なんでも、僕らの対局が見たかったために、急ピッチで切り上げようとしたんだけど、相手が粘って投了してくれなかったんだって。

 僕はノエルの記録した棋譜を見せてやった。

「ふむふむ……うまくフィアンケットを崩したか。やるなぁ、おまえ!」
「まぁね。そっちの対局は?」
「たいして、おもしろみもねぇよ。ダラダラ続くだけのつまんねぇ対局だった。勝つのは無理だから、ステイルメイトを狙ってたんだろうがな」

 ステイルメイトは相手側に動かせる駒がないとき、引き分けになるルール。あと二手でチェックメイトできる状態でも、引き分けにされるんだよ。引き分けの場合、再対局か、同じく引き分けになった別のプレイヤーと対局することができる。エドガーの対局相手は勝つことをあきらめ、順位だけを上げたかったんだろうね。消極的だよ。観戦するには、つまらない対局だ。

「この一手が決め手だったな!」

 切り替えるきっかけとなった歩兵ポーンの一手を、エドガーは指した。君はポーンが好きだよな。

騎士ナイトを取り返されることも想定していたんだろう? 歩兵《ポーン》で攻撃しつつ、女王クイーンも動かしていた。これは良い手だよ!」

 称賛されるのは気分がいい。それに、普段絶対に人を褒めなさそうなエドガーだよ? 我ながら、優勝候補相手によくやったと思う。
 デレていたら、

「ふーん、そうなんだ……最後のほう、おばさんが肉薄してきて、おれはヒヤヒヤしてたけど……」

 また、存在感の薄くなっていたノエルが口を挟んだ。僕とエドガーの会話のペースについていけてないようだ。君にはあとで解説してやるから、おとなしくしてくれ。

 エドガーがノエルを見下すんじゃないかと、僕は懸念した。この二人は天才と馬鹿の対極に位置する。

「プレイヤーは守備と攻撃を同時にする。ローランもそこらへんは念頭に置いていたと思うよ。ほら、ここでローランの女王クイーンもチェックされていただろう? 逃げ道を作ってなかったら、メイトされてた。鉄壁の守りを崩しつつ、守備も意識していた。それが勝利につながったんだ」

 エドガーのやつ、大人だな。僕の代わりに解説してくれたよ。ノエルも、うんうんと熱心に耳を傾けている。いつもの性急なしゃべり方ではなく、馬鹿でもわかるようにゆっくり噛み砕いて話すんだね。
 話のあと、二人は互いに名乗り合った。意外に相性は悪くないようだ。

 そうか、エドガーはもともと庶民だから、いろんな子供と接している。ノエルは貴族といっても、えらぶったところがないし、取っ付きやすいのかもしれない。

 それから、僕たちはルイーザとピヴォワン卿のところへ行き、対局の感想と賛辞をもらった。
 ついでにエドガーのことを紹介すると、二人とも若き天才に興味津々になった。ルイーザは僕とエドガーの対局を覚えていたんだ。駒をまったく取らずに終局したやつ。

「あんな盤面は見たことがないから、びっくりしたのよ。どういう経緯でああいうことになったのか、ぜひ教えてほしいわ!」

 ノエルが従者にインクだらけの手を拭いてもらっている間に、エドガーは解説した。

 僕にしてみたら、大敗の苦い思い出だし、気分は良くない。それにさ、エドガーにルイーザを取られたみたいで嫌だったんだ。
 だって、ルイーザってば、顔を輝かせてエドガーの話を聞いているんだよ? 「すごいわね!」とか「まあ!!」と驚いたり、褒めちぎったりして……。隣でほぅーと感心しているおじさまは、どうでもいいんだが、ルイーザを感激させているのが気に入らなかった。
 手を拭き終わったノエルが、

「お菓子食べたい!!」

 と言ってくれた時は、抱きしめてやりたくなったね。よくぞ、言ってくれた! 友よ!

 僕はエドガーに解説を切り上げさせ、ノエルも連れて三人でお菓子を食べに行った。もっとエドガーと話したがっていたルイーザは、残念そうな顔をしていたけど――いけません。あなたは僕のものなんですから。他の少年に優しくしないでください。ノエルはあなたの息子なので、特例なのですよ。

 チェス大会は飲食自由。シャンペンを何杯も呑んで、ベロンベロンになっている大人もいる。半ば夜会に近い感じかもね。
 僕ら子供は子供らしくお菓子コーナーへ行くよ。今日の対局は終わったから、あとはパーティーを楽しむだけ!

 プルーニャ邸にいたころは、パーティーのたびに閉じ込められていたんだ。部屋に鍵を掛けられるのさ。時々、見せびらかすために正装させられて、表に出されるぐらい。お菓子ももらえなかったよ。

 対局場である大広間の入口辺りにテーブルが並べてあった。タルトにパイ、シュトレン、焼き菓子もたくさん、チョコレートもあるね!
 僕は甘いものに目がない。母は太るからとか、もったいないと理由をつけて、僕に甘いものを与えなかった。自分ばっかり食べて、余っても絶対にくれなかったのさ。食べ物の恨みは根深いよ。

 それはさておき、いつもはガキっぽいから甘いもの好きを公言しないようにしている。ただ、目の前に取り放題のお菓子があっては、自制が利かなくなる。
 
 手の込んだお菓子は、ジェラーニオ家の菓子職人がつねに補充してくれる。見たこともないめずらしいお菓子もあるよ。濃厚なカスタードにこんがり焼色のついたフランも、ピスタチオ入りのヌガーも、サクサクのガレットも、歯ごたえのあるビスコッティ、ひんやりしたブラマンジェ、ふわふわのパンペルデュ、ぜーんぶ食べ放題!

 飲み物はドゥーグ※をもらおうか。ワインは子供が飲みすぎると、酔っ払っちゃうからね。
※甘くないヨーグルトジュース

 僕たちは山盛りにしたお皿を持って、人の少ない回廊へと向かった。
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