ごめんなさい。わたくし、お義父様のほうが……

黄札

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25、フールズメイト

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 引っ越しという大きなイベントは嫌なことを忘れるには、うってつけだった。僕は新しい刺激に身を任せ、なるべくチェスのことを頭から追い払おうとした。

 王都から100kmほどのピヴォワン領へ――
 領地持ちの貴族は一年の寒い時期を自領で過ごし、暖かい時期を王都で過ごす。引っ越しは執事から下男下女に至るまで、使用人もまるごと移動するから、かなり大がかりだ。

 都市を出た馬車は緑豊かな田園を抜け、トンネルを通り、草原を過ぎる。初めての旅路は何もかもが目新しく、興奮の連続だった。僕にとっては移り変わる車窓の景色すら、めずらしかったんだ。なにせ、王都から一歩も出たことがなかったからね。

 ピヴォワン侯爵の領地は広大だった。国の中心部から、さほど離れていない位置にある肥沃な大地と資源豊かな山脈。城下町も王都と比べて遜色ない。名家とはこういう家を言うんだなと、改めて実感した。
 僕が生まれ育った母の実家は領地を持たない男爵家だから、全然ちがうよ。

 キャラバンを組んで優雅に一日半の旅をした後、たいそう立派な城に着いた。
 周囲を緑の湖に囲われた城は、ルイーザと同じで品があった。白壁を伝うつる薔薇が開花している。白地に赤やピンクは映えるよ。蔓も装飾の一部だ。

 城を守るたくさんの兵士、家臣、従僕たちが道をあけ、ひざまずいた。たどり着くまでに通った農村や城下町でも民衆の歓迎を受けてきたので、壮観という感想以外には思いつかない。
 領主というものは、領内では王のごとき存在だと僕は思い知ったよ。自分には縁のない話だけどね。

 そりゃ、他人事にもなるよ。祖父が王様みたいな人でも、実感は湧かないものさ。今のところ、僕が地位を継げる可能性は低いのだから。

 父親のアルマンは長男だけど家出しているし、母マルグリットとの結婚はいまだ認められていない。だから、私生児という状態の僕が相続できる可能性は、限りなくゼロに等しい。
 一方、次男のノエルは長男が不在の今、一番に継承者たる資格を持つ。本人にその自覚があるかどうかは置いといて……

 僕とノエルは同じ生活圏に生きていた。毎日、同じ家庭教師のもとで勉強し、おやつを食べて、服を仕立てるのも、お風呂も髪を切るのも、剣術や楽器の稽古も一緒。最近は自由時間まで共に行動していた。

 馬鹿なんだよね、ノエル。艷やかな黒髪はルイーザに似ていて好感が持てるにしても、言動がガキすぎる。僕と一歳違いにしては幼いよ。そのくせ、深緑の目で刺すように見てくることがある。

 年が近いってだけで、同じフィールドに放たれるのも迷惑だった。
 年代しか共通項のない僕らが仲良くなれるものだと、大人は思いこんでいる。子供はみんな同じだと思っているんだ。

 でも、慣れって怖いものだよ。あのガキ特有の空気を読まない態度や甘ったれぶりに対して、最近は何も感じなくなった。
 むしろ、馬鹿だから扱いやすいというか、背伸びして接する必要がなくて楽なんだよね。ノエルの前だと、僕は素のままでいられる。

 ルイーザが僕とノエルを平等に扱うせいもあるかな? そんな必要はないのにさ。以前はかわいがられるノエルを見て嫉妬心を抱いたりもしたが、僕がルイーザに求めているのは母性じゃないとわかったから。

 それで、僕とノエルはケンカもせず(僕が大人だから)、うまくやっていた。
 魅力的な新天地は子供には格好の遊び場だ。城に着いてしばらくは、城内を探検するのが僕とノエルの日課になっていた。
 先日は書斎の本棚の裏に通路を見つけて、大歓喜した。壁の中を通る狭い通路は塔の屋上につながっていたんだ。いわゆる隠し通路ってやつ。本当にあるんだ……って、僕も心躍ったよ。

「ここをおれらの秘密基地にしよう!」

 ノエルのはしゃぎようといったら……僕まで楽しくなる。あ、僕の前だと、ノエルは自分のことを“おれ”と言うんだ。
 僕らは仲良く、その秘密基地にお菓子を持ち込んで入り浸った。ノコギリ胸壁からは湖と山、城下町が一望できる。ここで宿題をしたり、ボードゲームをしたりして遊んだ。

 剣の稽古は僕からお願いしたんだ。僕、運動面はからきしダメだろう? ルイーザはピヴォワン侯爵みたいに強い男が好きだから、鍛えようと思った。ああいう筋骨隆々とした肉体を作り上げるのには、何年かかるのか。チェスどころじゃないさ……え、チェス?

「じゃさ、代わりにチェスを教えてくれよ」

 すぐ横で声がして、僕はハッとした。僕とノエルは塔の屋上で仰向けになって、雲を眺めていたんだ。レンガを螺旋状に敷き詰めた床は硬いが、空を独占できるからね。

 ちょうど忘れていたが脳裏に浮かび上がったところで、動揺してしまった。

「おれが剣を教える代わりに、おまえがチェスを教えろよ?」

 ノエルは繰り返した。

「別に構わないけど、君はチェスが嫌いではなかったのか?」
「嫌いではない。負けるから、やらなかっただけだ。多少うまくなったら、お母さまが喜ぶかなって……」

 やっぱりガキだな。このマザコンは重症だぞ? あと、二年経っても治らなかったら、ルイーザと離れさせるべきだろう。ピヴォワン侯爵が急死したりして、僕とルイーザが結婚した場合、こいつが継子になるのかと思うと気が重い。

 だが、剣の相手をしてくれるのは心強かった。ノエルはチェスの勉強のことを両親に知られたくないようで、僕も剣の稽古に励んでいるのを見られたくない。
 二人の利害が一致した。秘密の場所でこっそり教え合おうと、僕は軽い気持ちで承諾したんだ。
 さっそく、折りたたみ式のチェスボードを持ち込んでチェスを始める。

 白は譲るよ。お先にどうぞ。
 僕らはレンガの床に寝転がって、駒を動かした。
 天井は底抜けに青い空。外でやるのも気持ちのいいものだ。少なくとも、煙草と酒の臭いで満たされた不健全な場所よりはよっぽどいい。僕はエドガーの残像を頭から追い払った。

 んんん? ノエルの奴、なんでそこの歩兵ポーンを動かすんだ? キングから見て斜めのマスがガラ空きじゃないか? もしかして、何も考えてない??

 僕はクイーンの通り道を作る。ノエルはまた別のポーンを動かす。え? いいのか? 次でチェックメイトだぞ?

 二手でチェックメイトになってしまった。弱すぎだろ?

「へっ!? どうして!? 強すぎだろ!?」
「こっちが聞きたいよ? 君が弱すぎんだよ」

 僕は呆れた。これ、検討会する意味あるか? ひど過ぎる。

「まず、なんでこのポーンを動かしたんだ?」
「なんでって……最初はポーンしか動かせないじゃん」
「f,g列のポーンを動かしちゃ、キングの斜め方向がガラ空きになるだろう?」
「あぁっ! そうか!」

 これでも、チェス歴は僕より長いんだからな? 聡明なルイーザの息子とは思えない馬鹿さ加減……

「でも、こんなことは初めてだよ。すごいな、ローランは!」

 いいや、ちがうね。
 ピヴォワン夫妻は息子かわいさか、やる気を削がないためか、わざと対戦を長引かせていたのさ。要は甘やかされている。
 この甘ったれ単細胞にチェスを教えるのは難しいだろう。僕は頭を抱えたくなった。
 
「相手がどうしてその駒を動かしたのか、何を狙っているのか、ちゃんと見定めないと……」
「ふむふむ……先読みするってことか」
「君の場合は先読みする以前の問題だ」

 二手でチェックメイトとか、逆にレアだからな? でも、常人離れしたエドガーに比べて、こいつのほうが子供らしいというか、なんだかホッとする。

 二戦目は四手で勝った。
 成長……はしているのだろう。たぶん……。
 ノエルのほうがを上げて、三戦目は叶わなかった。五分と座り続けていられないらしい。僕は教える側の苦労が身にしみて、愚鈍だと見下していた家庭教師に初めて敬意の念まで抱いた。
 ノエルを何時間も座らせて、勉強させているだけでもすごいことだよ。

 チェスボードを片付け、次は剣の稽古となった。今度は百八十度、空気が変わる。
 あれ? ノエルの目つきが変わった!?
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