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23、本物の天才
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ルイーザとピヴォワン卿は三十、年が離れている。一方、僕とルイーザの年の差は十六。全然、アリだろ! 僕の精神はもう大人だし、あと五、六年で見た目もほぼ成人する。ルイーザも僕を子供扱いしなくなるだろう。
そのころまでに高齢のピヴォワン卿が亡くなっていたら嬉しいんだが、見るからに頑丈だから長生きすると思われる。
老いたピヴォワン卿にルイーザが愛想を尽かして、離婚するという望みも薄い。この夫婦は子供が三人もいるのに、年がら年中イチャイチャしているんだ。人前でも堂々とキスしたりする馬鹿夫婦だよ。
卿がルイーザの細い腰に手を回して身体を密着させ、何やらささやき合っている。それを見て、僕は嫉妬に狂う。このジジイはルイーザの清らかな身体に好きなだけ触れることができる。
僕は大人同士がどんなふうに愛し合うのか、知っているよ。ルイーザが老練な夫にその身を捧げていると思うだけで、気が狂いそうになる。
チェスとの出会いは、僕とルイーザとの距離を急速に縮めた。チェスをしている時は彼女を独り占めできる。指先が触れたり、見つめ合ったり、彼女が吐いた息を吸うこともできる。かなりの近距離で、誰に咎められることもなく、好きな人を堪能できるんだ。
むろん、チェスというゲームに惹かれたのも事実だよ。単純におもしろかった。しかも、強くなればなるほど、ルイーザが褒めてくれるという特典付きだ。夢中にならないわけがないだろう。大会に出て好成績を残したら、きっとルイーザは大喜びする。僕のことをかわいそうな子供としてではなく、男として認めてくれるかもしれない。
そんな甘い気持ちで、鍛錬することもなく日々を過ごしていたから、自分が簡単に打ち負かされるなんてことは考えもしなかった。
あの日、子守中の僕を襲った出来事は忘れられない苦い思い出となった。
行商人の馬車に入り込んでいたところ、動き出してしまった一件。マイアを連れ戻そうとしていたら、突然発進してしまったんだ。逃げたアライグマがロープを噛み切り、馬車が動いてしまったんだけど、僕たちはそんなことを知るはずもない。パニックになるマイアを抱きとめ、僕は馬車の揺れから守った。
幸い、馬は数百メートルで止まってくれた。それは良かったとして、屋敷から出たことのない僕は地理に疎い。ひとまず、方角を確認しようと思った。
開けた大通りに出て少し歩くと、自分たちが奇異の目で見られていることに気づいた。貴族が子供だけで出歩くなんて、普通は有り得ない。なかには邪悪な目を向けてくる通行人もいて、僕は背筋が寒くなった。
歩き回るのはやめて、馬車の所へ戻ろうかと思った時、マイアが僕から離れて、果物屋の屋台に走っていったんだ。この子は妹のエレクトラとちがい、つねに動き回っていて、制御が難しい。
人の良さそうな屋台の主人は僕が事情を打ち明けると、ピヴォワン邸への道を教えてくれた。
うん、僕もこの数ヶ月で成長したんだよ。以前は貴族以外の人に、丁寧な物言いで声をかけることができなかったよね。
「そっちは近道だけど、暗いから表通りから行きなよ!」
心配する果物屋の声を背中で聞き、僕はマイアを連れて路地に入った。別に怖くはなかったさ。狭い道のほうがジロジロ見られないし、安心感がある。
寄り道をするつもりはなかったが、酒場の前まで来ると「騎士を動かせ!」とか、「フォークか!」「サクリファイスしろ!」など、野次を飛ばすのが聞こえた。明らかにチェス用語だよね。対局中に野次を飛ばすなんて、庶民は下品だなぁと思いつつ、少し興味が湧いたんだ。
暑いのか、開け放したドアの向こうに対局する子供の姿が見えた。年齢は僕よりちょっと上くらい。ベレー帽をかぶって、薄汚いチュニック姿だ。
対局相手は赤ら顔の酔っ払いか。まあ、たいした対局ではないだろうけど、庶民がどんなチェスを指すのか見てみたくなった。
マイアも騒々しさに釣られて中へ入ってしまったので、僕は軽い気持ちで足を踏み入れたのさ。
ちょうど、酔っ払いが投了したところだった。派手に舌打ちして、相手の子供に硬貨を投げていたよ。弧を描く硬貨をその子が上手にキャッチして、ニヤリとしたところで僕と目が合った。
なんか、野生動物みたいな鋭い目つきだった。ほら、小さな動物でも凶暴そうなのがいるだろう? 野ウサギではないな? 飢えた猛禽とかイタチのたぐいだ。大人でもにらまれたら、引くだろう。強い奴っていうのは目つきでわかる。
でも、僕からしたら、持たざる者は全員チンピラさ。本物の悪魔を見ているから、小物相手にはビビらない。
「貴族様が庶民の酒場に何用だ?」
さっそく、不良はかすれ声で因縁つけてきた。ああ、そうさ。僕は君がどんなに背伸びしたってなれない貴族様だからね、自分のフィールドに現れてほしくはないだろう。
「たまたま、迷い込んだ。どんな対局をしていたか、ちょっとだけ興味があってね」
「ガキにはわかるまい」
鼻で笑いやがった。盤面を見ると、圧勝ってほどでもなかった。歩兵が昇格している他に、有力な駒は塔しか残っていない。相手は僧正も女王もルークもナイトも残っている。ほとんど欠けていない黒のポーンが特徴的だった。
酔っ払い相手にこの程度かと、僕は思ったんだ。
「やるかい?」
誘われて、僕はマイアを見た。子連れでタイマンは張れない。ところが、マイアは同じくらいの小さい子を見つけて、床の上でおはじきを並べて遊び始めている。こういう場所にも子供っているんだ?
奥からおかみさんが出てきて、「どこのお姫様だい?」と驚いていたので、遊び相手はおかみさんの子供かもしれない。
「少しなら……」
と、僕は承諾して、少年の前に座った。僕という新たな挑戦者を迎え、ギャラリーに小さな拍手が湧き起こった。
肉付きのいいおかみさんが気を利かせてくれて、
「勝負かい? じゃ、妹ちゃんのことは見ててやるよ」
と、大きな胸を揺らして笑った。それから、少年には乱暴な口調で対局が終わったらお使いに行けと命じる。でもまあ、口は悪くても温かみがあった。なんとなく、わかるものさ。虐げられていたら、ビクビクするからね。働かされている子供でも、以前の僕より大事にされているんだろう。
「だけど、この子には勝てねぇと思うよ? 大人だって、歯が立たないんだよ」
おかみさんは得意気に少年の強さをアピールする。親バカってやつか。僕は笑いそうになってしまった。小さな酒場の酔っ払い相手だったら、すごいんだろう? この限定的なコミュニティではね――そう思っていた。
「何を賭ける?」
唐突に聞かれて、僕は首をかしげた。あげる物なんて何もない。こういう場では、賭けるのが通例なんだろうか。
「じゃあさ、おまえのその袖んとこについてるボタンをくれよ」
彼は僕のジュストコールに付けられたカフスを指差した。これはガラスでできた割とチープな物だよ。こんな物でも庶民からしたら、高価なのかと思った。
それで、僕は勝った時に少年のベレー帽をもらうことになった。別に薄汚い帽子なんていらないけど、宵闇色のそれが彼の切り札のような気がして、賭けさせたんだ。
「始めようか」
トスはせず、僕は白を譲ってもらった。余裕だな、と嘲笑する。敵に甘い顔を見せるのは、負ける奴のすることさ。最初に飢えた野生動物だと思ったのは、買いかぶり過ぎていたのかもしれない。
「ガキ相手だから、少々趣向を凝らしてみるか」
自分だって、ガキのくせにそんなことを言う。歩兵を一マス動かした。
「おまえ、好きな駒はなに?」
「おまえじゃない。ローランだ」
無礼者……とは言わなかった。庶民相手だろうが、僕は謙虚に振る舞う。高慢な態度はルイーザが嫌がるからね。
僧正と騎士を移動したか。こちらは用心深くいくよ。
「じゃさ、ローラン。もう一度、聞くよ? おまえの好きな駒は?」
「女王だ」
「言うと思った。やっぱ、ガキだな」
なら、聞くな!!
あ、キャスリング※か。想定内だよ。こっちもやり返す。
彼はビショップを攻め込ませる。まだ、僕のポーンの守りは厚いから、引くことになるだろうな。
「そうだ! いいことを考えた! まったく、駒を取らずに終わらせるってのは、どうだい??」
とんでもない提案をしやがった。年下だと思って、ふざけているのかと僕は思ったよ。彼の目がふたたび鋭くなっていなければ、馬鹿にするなと怒っていたね。
へぇぇ……いい顔するじゃないか。甘ちゃんのノエルより好感が持てる。
僕は知らないうちに彼のペースに呑み込まれていた。
※キャスリング……ルークとキングを同時に動かせる技。
そのころまでに高齢のピヴォワン卿が亡くなっていたら嬉しいんだが、見るからに頑丈だから長生きすると思われる。
老いたピヴォワン卿にルイーザが愛想を尽かして、離婚するという望みも薄い。この夫婦は子供が三人もいるのに、年がら年中イチャイチャしているんだ。人前でも堂々とキスしたりする馬鹿夫婦だよ。
卿がルイーザの細い腰に手を回して身体を密着させ、何やらささやき合っている。それを見て、僕は嫉妬に狂う。このジジイはルイーザの清らかな身体に好きなだけ触れることができる。
僕は大人同士がどんなふうに愛し合うのか、知っているよ。ルイーザが老練な夫にその身を捧げていると思うだけで、気が狂いそうになる。
チェスとの出会いは、僕とルイーザとの距離を急速に縮めた。チェスをしている時は彼女を独り占めできる。指先が触れたり、見つめ合ったり、彼女が吐いた息を吸うこともできる。かなりの近距離で、誰に咎められることもなく、好きな人を堪能できるんだ。
むろん、チェスというゲームに惹かれたのも事実だよ。単純におもしろかった。しかも、強くなればなるほど、ルイーザが褒めてくれるという特典付きだ。夢中にならないわけがないだろう。大会に出て好成績を残したら、きっとルイーザは大喜びする。僕のことをかわいそうな子供としてではなく、男として認めてくれるかもしれない。
そんな甘い気持ちで、鍛錬することもなく日々を過ごしていたから、自分が簡単に打ち負かされるなんてことは考えもしなかった。
あの日、子守中の僕を襲った出来事は忘れられない苦い思い出となった。
行商人の馬車に入り込んでいたところ、動き出してしまった一件。マイアを連れ戻そうとしていたら、突然発進してしまったんだ。逃げたアライグマがロープを噛み切り、馬車が動いてしまったんだけど、僕たちはそんなことを知るはずもない。パニックになるマイアを抱きとめ、僕は馬車の揺れから守った。
幸い、馬は数百メートルで止まってくれた。それは良かったとして、屋敷から出たことのない僕は地理に疎い。ひとまず、方角を確認しようと思った。
開けた大通りに出て少し歩くと、自分たちが奇異の目で見られていることに気づいた。貴族が子供だけで出歩くなんて、普通は有り得ない。なかには邪悪な目を向けてくる通行人もいて、僕は背筋が寒くなった。
歩き回るのはやめて、馬車の所へ戻ろうかと思った時、マイアが僕から離れて、果物屋の屋台に走っていったんだ。この子は妹のエレクトラとちがい、つねに動き回っていて、制御が難しい。
人の良さそうな屋台の主人は僕が事情を打ち明けると、ピヴォワン邸への道を教えてくれた。
うん、僕もこの数ヶ月で成長したんだよ。以前は貴族以外の人に、丁寧な物言いで声をかけることができなかったよね。
「そっちは近道だけど、暗いから表通りから行きなよ!」
心配する果物屋の声を背中で聞き、僕はマイアを連れて路地に入った。別に怖くはなかったさ。狭い道のほうがジロジロ見られないし、安心感がある。
寄り道をするつもりはなかったが、酒場の前まで来ると「騎士を動かせ!」とか、「フォークか!」「サクリファイスしろ!」など、野次を飛ばすのが聞こえた。明らかにチェス用語だよね。対局中に野次を飛ばすなんて、庶民は下品だなぁと思いつつ、少し興味が湧いたんだ。
暑いのか、開け放したドアの向こうに対局する子供の姿が見えた。年齢は僕よりちょっと上くらい。ベレー帽をかぶって、薄汚いチュニック姿だ。
対局相手は赤ら顔の酔っ払いか。まあ、たいした対局ではないだろうけど、庶民がどんなチェスを指すのか見てみたくなった。
マイアも騒々しさに釣られて中へ入ってしまったので、僕は軽い気持ちで足を踏み入れたのさ。
ちょうど、酔っ払いが投了したところだった。派手に舌打ちして、相手の子供に硬貨を投げていたよ。弧を描く硬貨をその子が上手にキャッチして、ニヤリとしたところで僕と目が合った。
なんか、野生動物みたいな鋭い目つきだった。ほら、小さな動物でも凶暴そうなのがいるだろう? 野ウサギではないな? 飢えた猛禽とかイタチのたぐいだ。大人でもにらまれたら、引くだろう。強い奴っていうのは目つきでわかる。
でも、僕からしたら、持たざる者は全員チンピラさ。本物の悪魔を見ているから、小物相手にはビビらない。
「貴族様が庶民の酒場に何用だ?」
さっそく、不良はかすれ声で因縁つけてきた。ああ、そうさ。僕は君がどんなに背伸びしたってなれない貴族様だからね、自分のフィールドに現れてほしくはないだろう。
「たまたま、迷い込んだ。どんな対局をしていたか、ちょっとだけ興味があってね」
「ガキにはわかるまい」
鼻で笑いやがった。盤面を見ると、圧勝ってほどでもなかった。歩兵が昇格している他に、有力な駒は塔しか残っていない。相手は僧正も女王もルークもナイトも残っている。ほとんど欠けていない黒のポーンが特徴的だった。
酔っ払い相手にこの程度かと、僕は思ったんだ。
「やるかい?」
誘われて、僕はマイアを見た。子連れでタイマンは張れない。ところが、マイアは同じくらいの小さい子を見つけて、床の上でおはじきを並べて遊び始めている。こういう場所にも子供っているんだ?
奥からおかみさんが出てきて、「どこのお姫様だい?」と驚いていたので、遊び相手はおかみさんの子供かもしれない。
「少しなら……」
と、僕は承諾して、少年の前に座った。僕という新たな挑戦者を迎え、ギャラリーに小さな拍手が湧き起こった。
肉付きのいいおかみさんが気を利かせてくれて、
「勝負かい? じゃ、妹ちゃんのことは見ててやるよ」
と、大きな胸を揺らして笑った。それから、少年には乱暴な口調で対局が終わったらお使いに行けと命じる。でもまあ、口は悪くても温かみがあった。なんとなく、わかるものさ。虐げられていたら、ビクビクするからね。働かされている子供でも、以前の僕より大事にされているんだろう。
「だけど、この子には勝てねぇと思うよ? 大人だって、歯が立たないんだよ」
おかみさんは得意気に少年の強さをアピールする。親バカってやつか。僕は笑いそうになってしまった。小さな酒場の酔っ払い相手だったら、すごいんだろう? この限定的なコミュニティではね――そう思っていた。
「何を賭ける?」
唐突に聞かれて、僕は首をかしげた。あげる物なんて何もない。こういう場では、賭けるのが通例なんだろうか。
「じゃあさ、おまえのその袖んとこについてるボタンをくれよ」
彼は僕のジュストコールに付けられたカフスを指差した。これはガラスでできた割とチープな物だよ。こんな物でも庶民からしたら、高価なのかと思った。
それで、僕は勝った時に少年のベレー帽をもらうことになった。別に薄汚い帽子なんていらないけど、宵闇色のそれが彼の切り札のような気がして、賭けさせたんだ。
「始めようか」
トスはせず、僕は白を譲ってもらった。余裕だな、と嘲笑する。敵に甘い顔を見せるのは、負ける奴のすることさ。最初に飢えた野生動物だと思ったのは、買いかぶり過ぎていたのかもしれない。
「ガキ相手だから、少々趣向を凝らしてみるか」
自分だって、ガキのくせにそんなことを言う。歩兵を一マス動かした。
「おまえ、好きな駒はなに?」
「おまえじゃない。ローランだ」
無礼者……とは言わなかった。庶民相手だろうが、僕は謙虚に振る舞う。高慢な態度はルイーザが嫌がるからね。
僧正と騎士を移動したか。こちらは用心深くいくよ。
「じゃさ、ローラン。もう一度、聞くよ? おまえの好きな駒は?」
「女王だ」
「言うと思った。やっぱ、ガキだな」
なら、聞くな!!
あ、キャスリング※か。想定内だよ。こっちもやり返す。
彼はビショップを攻め込ませる。まだ、僕のポーンの守りは厚いから、引くことになるだろうな。
「そうだ! いいことを考えた! まったく、駒を取らずに終わらせるってのは、どうだい??」
とんでもない提案をしやがった。年下だと思って、ふざけているのかと僕は思ったよ。彼の目がふたたび鋭くなっていなければ、馬鹿にするなと怒っていたね。
へぇぇ……いい顔するじゃないか。甘ちゃんのノエルより好感が持てる。
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