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20、黒の僧正
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わたくし、居ても立ってもいられなかったのです。ゆっくり、着替えなんかしている余裕はありません。スカートをビリビリッと引き裂き、乗馬用のキュロットとブーツに履き替えました。そうして、馬に飛び乗り、弾丸のごとく屋敷を出たのです。
無人の馬車は屋敷から、ほんの四百メートルほどの教会の前で止まっていました。走り出したはいいが、馬もどこへ行けばいいのか、わからなかったのでしょう。そんなに遠くへは行かず、荷物も無事だったようです。ホッとした顔で、たたずむ行商人と目が合いました。
目が合ったとたん、行商人の顔色が変わりました――ああ、そうですか……子供たちは……
わたくしは馬車の裏側へ回り、馬上からワゴンの中をのぞき見ました。うしろの幌が上がって、丸見えになっています。
中はもぬけの殻でした。
はぁーっと落胆の息を吐きそうになるのをこらえます。冷徹になって、手がかりを探し出さなければ。子供たちが、無情な人さらいに奪われるかもしれません。一分一秒を争う場面です。呑気に落胆している暇などないのです。
さまざまな大きさの箱が積み込まれている他は、二脚の椅子が互い違いに重ねられているのと、折りたたみ式のテーブルとソファーベッド……これらは行商人自身が使うものでしょう。それと、ハンガーに吊るされた衣装類……ん?? ありました。おかしな点が!
中型犬が入れる大きさのケージが開いていました。中には何もいません。
「もし、行商人。あのケージの中には何が入っていたのですか?」
「アライグマです」
これで、つながりました。
アライグマは売り物のペット。馬車に乗り込んだマイアは魅力的な動物を見つけ、ケージを開けてしまったと思われます。まあ、見たことのない野生動物はかわいかったでしょう。お友達になりたくなるのも、わかります。
しかし、あいにくローランに見つかってしまいました。気の強いマイアは降りたくないと駄々をこねて、ローランを困らせたでしょうね。ローランも優しいので、少しの間、付き合ってあげたのかもしれません。まさか、馬車が動き出すとは思いもしませんから。
そうこうしているうちに、逃げたアライグマがロープを食いちぎり、馬が走り出してしまった――と、こういうわけですね。
行商人に非はありません。わたくしは彼に頭を下げ、この先は一人で捜索する旨、伝えました。
「そういうわけには、いきません。お手伝いさせてくだせぇ」
日焼けした顔にターバンがしっくりくる行商人は、頭を振ります。ありがたい申し出を、わたくしは受け入れました。
教会は十字路の近くにあり、上っていくと、大通りが現れます。そちらに行ってしまった場合、人通りも多く、探すのは困難でした。
わたくしは馬を馬車につなぎ、行商人と二手に分かれました。馬車は教会に置かせてもらいます。
治安の悪い路地裏に入り込んでいないことを祈りつつ、聞き込みを開始しました。
下半身だけ乗馬服のおかしな格好の貴婦人です。異常者と思われ、好奇の目で見られることもありました。ガラの悪い大男に腕をつかまれそうになり、逃げたりもしました。
恐怖より自尊心より、勝るのが母の愛です。
貴族の女がたった一人で町なかをうろつくなんて、考えられないことです。レオンに知られたら、激怒するでしょう。
それでも、親切な人というのは必ずいるもので、フルーツを売る屋台の主人が教えてくれました。
「キレイな男の子と人形みてぇな女の子だろ? 止めたんだけど、そっちの路地裏に入っていったよ!」
わたくしは、鉢巻を巻いた果物屋に指輪を渡し、代わりにめずらしいフルーツをいただきました。エメラルドヴァインというアーモンドの形をした翡翠色の果物です。それを小脇に抱え、路地裏に入りました。
正直、怖いです。
十年前、チェスを広めようと各所を回っていた時、こういう場所に入り込んだことはあるかもしれません。ですが、その時は従者を何人も連れていたのです。
道幅は狭く、見上げれば、洗濯物が揺れています。いらなくなった家具が無造作に放り出されていますし、不気味な占い師らしき人もいます。わたくしは深呼吸をして、一歩踏み出しました。
数歩先からにぎやかな笑い声が聞こえてきました。酒場でしょうか。ランタンの下に小さな看板が見えます。ドアは少しだけ開いていて、オレンジ色の光がもれていました。煙草と汗の匂いが流れてきます。こんな所に小さな子供が入り込むとは、到底考えられません。しかしながら、わたくしの体内アラートが信号を出しまくっていました。
ソっと近づくと、なかから「投了しろ」と、怒鳴り声が聞こえてきました。
“投了”……負けを認めろということですか? チェスの!?
わたくしが驚いてドアを押そうとしたところ、ベレー帽をかぶった男の子が勢いよく出てきました。十二、三歳くらい? 薄汚れたチュニックにブラカエ(短いズボン)姿です。
ドン!とわたくしにぶつかったあと、何も言わず走り去っていきました。
カランカラン……ドアが開いたことで、涼やかな音が駆け抜けます。店内にいた客が一斉にこちらを見ました。
フルフェイスヒゲ率、たかっ……と、動揺してはいけません。わたくし、薄暗い店内をグルっと見回しました。
誰かがドン!とテーブルにマグを置くのと同時、奥の席に金髪が見えました。
「ローラン!?」
ローランはテーブルに伏せっています。そのテーブルにはチェス盤が……
顔を上げた美少年の顔に涙の筋が光りました。
わたくし、走り寄り、ローランを夢中で抱きしめました。無事でよかった……
遅れて、店の奥からおかみさんがマイアを抱いてやって来ました。きっぷの良いおかみさんは、大きな胸からマイアを剥がし、わたくしに返してくれました。
「対局中、眠っちまったから、奥に寝せてたんですよ。良かったね。お母様が迎えに来てくれたよ」
起きたばかりのマイアは眠い目をこすりこすり、わたくしにしがみつきます。わたくしはもう、一生分の運を使い果たした気分でした。
おかみさんに何度も頭を下げ、感謝を伝えます。息せき切って屋敷を出たものですから、お礼を差し上げようにも無一文です。小脇に抱えていた果物を、差し上げることにしました。わたくしは存じ上げないのですが、かなり高価な果物らしく、大喜びしてくださったので良しとします。レオンからプレゼントされた大切な指輪は、差し上げられませんのでね。
うつむくローランに、おかみさんが声をかけました。
「だからさ、エドガーには絶対に勝てねぇって言っただろ? 大人だって、刃が立たねぇんだ。そんなに落ち込むこたぁ、ねぇよ」
「エドガーというのは、さっき出て行った子です?」
「ああ、ウチで皿洗いしてるみなし子なんですよ。サボってばっかで、しょうもねぇガキでね、対局が終わったら、とっととお使い行きやがれって、追い出したんです」
ほぅ、同じ年代の子と真剣勝負をしたわけですか。はて、どんな盤面で負けたのでしょうか?
好奇心からわたくしは棋盤を見ました。
……なんてことでしょう。全部の駒が残っていました。こんな局面は初めて見ましたよ。黒の僧正が斜めに空いたロングウェイから、チェックメイトしていました。
無人の馬車は屋敷から、ほんの四百メートルほどの教会の前で止まっていました。走り出したはいいが、馬もどこへ行けばいいのか、わからなかったのでしょう。そんなに遠くへは行かず、荷物も無事だったようです。ホッとした顔で、たたずむ行商人と目が合いました。
目が合ったとたん、行商人の顔色が変わりました――ああ、そうですか……子供たちは……
わたくしは馬車の裏側へ回り、馬上からワゴンの中をのぞき見ました。うしろの幌が上がって、丸見えになっています。
中はもぬけの殻でした。
はぁーっと落胆の息を吐きそうになるのをこらえます。冷徹になって、手がかりを探し出さなければ。子供たちが、無情な人さらいに奪われるかもしれません。一分一秒を争う場面です。呑気に落胆している暇などないのです。
さまざまな大きさの箱が積み込まれている他は、二脚の椅子が互い違いに重ねられているのと、折りたたみ式のテーブルとソファーベッド……これらは行商人自身が使うものでしょう。それと、ハンガーに吊るされた衣装類……ん?? ありました。おかしな点が!
中型犬が入れる大きさのケージが開いていました。中には何もいません。
「もし、行商人。あのケージの中には何が入っていたのですか?」
「アライグマです」
これで、つながりました。
アライグマは売り物のペット。馬車に乗り込んだマイアは魅力的な動物を見つけ、ケージを開けてしまったと思われます。まあ、見たことのない野生動物はかわいかったでしょう。お友達になりたくなるのも、わかります。
しかし、あいにくローランに見つかってしまいました。気の強いマイアは降りたくないと駄々をこねて、ローランを困らせたでしょうね。ローランも優しいので、少しの間、付き合ってあげたのかもしれません。まさか、馬車が動き出すとは思いもしませんから。
そうこうしているうちに、逃げたアライグマがロープを食いちぎり、馬が走り出してしまった――と、こういうわけですね。
行商人に非はありません。わたくしは彼に頭を下げ、この先は一人で捜索する旨、伝えました。
「そういうわけには、いきません。お手伝いさせてくだせぇ」
日焼けした顔にターバンがしっくりくる行商人は、頭を振ります。ありがたい申し出を、わたくしは受け入れました。
教会は十字路の近くにあり、上っていくと、大通りが現れます。そちらに行ってしまった場合、人通りも多く、探すのは困難でした。
わたくしは馬を馬車につなぎ、行商人と二手に分かれました。馬車は教会に置かせてもらいます。
治安の悪い路地裏に入り込んでいないことを祈りつつ、聞き込みを開始しました。
下半身だけ乗馬服のおかしな格好の貴婦人です。異常者と思われ、好奇の目で見られることもありました。ガラの悪い大男に腕をつかまれそうになり、逃げたりもしました。
恐怖より自尊心より、勝るのが母の愛です。
貴族の女がたった一人で町なかをうろつくなんて、考えられないことです。レオンに知られたら、激怒するでしょう。
それでも、親切な人というのは必ずいるもので、フルーツを売る屋台の主人が教えてくれました。
「キレイな男の子と人形みてぇな女の子だろ? 止めたんだけど、そっちの路地裏に入っていったよ!」
わたくしは、鉢巻を巻いた果物屋に指輪を渡し、代わりにめずらしいフルーツをいただきました。エメラルドヴァインというアーモンドの形をした翡翠色の果物です。それを小脇に抱え、路地裏に入りました。
正直、怖いです。
十年前、チェスを広めようと各所を回っていた時、こういう場所に入り込んだことはあるかもしれません。ですが、その時は従者を何人も連れていたのです。
道幅は狭く、見上げれば、洗濯物が揺れています。いらなくなった家具が無造作に放り出されていますし、不気味な占い師らしき人もいます。わたくしは深呼吸をして、一歩踏み出しました。
数歩先からにぎやかな笑い声が聞こえてきました。酒場でしょうか。ランタンの下に小さな看板が見えます。ドアは少しだけ開いていて、オレンジ色の光がもれていました。煙草と汗の匂いが流れてきます。こんな所に小さな子供が入り込むとは、到底考えられません。しかしながら、わたくしの体内アラートが信号を出しまくっていました。
ソっと近づくと、なかから「投了しろ」と、怒鳴り声が聞こえてきました。
“投了”……負けを認めろということですか? チェスの!?
わたくしが驚いてドアを押そうとしたところ、ベレー帽をかぶった男の子が勢いよく出てきました。十二、三歳くらい? 薄汚れたチュニックにブラカエ(短いズボン)姿です。
ドン!とわたくしにぶつかったあと、何も言わず走り去っていきました。
カランカラン……ドアが開いたことで、涼やかな音が駆け抜けます。店内にいた客が一斉にこちらを見ました。
フルフェイスヒゲ率、たかっ……と、動揺してはいけません。わたくし、薄暗い店内をグルっと見回しました。
誰かがドン!とテーブルにマグを置くのと同時、奥の席に金髪が見えました。
「ローラン!?」
ローランはテーブルに伏せっています。そのテーブルにはチェス盤が……
顔を上げた美少年の顔に涙の筋が光りました。
わたくし、走り寄り、ローランを夢中で抱きしめました。無事でよかった……
遅れて、店の奥からおかみさんがマイアを抱いてやって来ました。きっぷの良いおかみさんは、大きな胸からマイアを剥がし、わたくしに返してくれました。
「対局中、眠っちまったから、奥に寝せてたんですよ。良かったね。お母様が迎えに来てくれたよ」
起きたばかりのマイアは眠い目をこすりこすり、わたくしにしがみつきます。わたくしはもう、一生分の運を使い果たした気分でした。
おかみさんに何度も頭を下げ、感謝を伝えます。息せき切って屋敷を出たものですから、お礼を差し上げようにも無一文です。小脇に抱えていた果物を、差し上げることにしました。わたくしは存じ上げないのですが、かなり高価な果物らしく、大喜びしてくださったので良しとします。レオンからプレゼントされた大切な指輪は、差し上げられませんのでね。
うつむくローランに、おかみさんが声をかけました。
「だからさ、エドガーには絶対に勝てねぇって言っただろ? 大人だって、刃が立たねぇんだ。そんなに落ち込むこたぁ、ねぇよ」
「エドガーというのは、さっき出て行った子です?」
「ああ、ウチで皿洗いしてるみなし子なんですよ。サボってばっかで、しょうもねぇガキでね、対局が終わったら、とっととお使い行きやがれって、追い出したんです」
ほぅ、同じ年代の子と真剣勝負をしたわけですか。はて、どんな盤面で負けたのでしょうか?
好奇心からわたくしは棋盤を見ました。
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