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37話 けんか
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暖炉に火をつける音で、リヒャルトは目を覚ましてしまった。
「あーあ、まだ寝ていてくださればよかったのに」
「なんだ、ソフィア? 風邪はよくなったのか?」
「ええ。熱は下がったみたい。鼻水がちょっと出るくらいですわ」
ベッドに来いと、リヒャルトが手招きしてくる。まだ、いちゃつき足りないのか。今日は牧場に出向いて、牧草や牛の生育状況を確認したい。ノアに指示を出したいし、放火事件について情報収集もしたい。ベッドで長居するわけには……
「まーた、牧場のことを考えていただろう?」
「あ……ごめんなさい」
すねた顔をするリヒャルトの腕に、ソフィアはすっぽり収まった。温かい。
「今日一日は私の腕の中にいなさい」
「なんですか? そのご褒美?」
「風邪が治ったんなら、妻としての役目を果たしてもらおう」
「病み上がりの身体に鞭打とうというのですね、ひどいひと……」
「グズグズに甘やかして、もう私から離れられなくしてやるっっ」
「エロマンガみたいなセリフ、やめてください」
そうはいっても、あぐらをかいたリヒャルトの膝は収まりがいい。本当に一日、そこで過ごしたいぐらいだった。
せめて、朝ご飯はこの姿勢のまま食べたい。ソフィアは動きたくなくなってしまった。
ソフィアの心中を察したリヒャルトは、侍従を呼びつけた。カーテン越しに、朝ご飯を運ぶよう命じる。こういう時のために、天蓋付きのベッドなのかとソフィアは納得した。夫の膝の上に収まっている姿を見られるのは、恥ずかしすぎる。
ソフィアが振り向くと、リヒャルトは得意げな顔をしていた。
「ずーーーっと、明日の朝まで解放しないからね?」
「好きになさって。わたくしはあなたのお人形さんです」
……と、リヒャルトの表情が急に曇った。巻きつけてくる腕がゆるむ。
(あら? わたくし、なにかダメなこと言った?)
「リヒャルト様? わたくしも、リヒャルト様とずっと一緒にいたいのですよ?」
「うん、えっと……ソフィア……」
リヒャルトは長いまつげを伏せた。どうも、歯がゆい。言いたいことがあるなら、とっとと言えばいいではないか。突如として煮えきらない態度をとられ、ソフィアは気になった。
「どうされたの? なにか、おっしゃりたいことがあるのなら、ちゃんとおっしゃって?」
「うん、じつは昨日、私は君の部屋を何度も訪ねているのだよ。毎回、行き違いだったけど。せっかく再会したのに、君が妹を殴り倒してどこかへ行ってしまったから……」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないで! わたくしは殴ったりしてません」
「あっ、ああ……やっぱりそうなのか……私の角度からは見えなかったけど、妹さんの倒れ方はちょっと違和感があったんだ。でも、どうして彼女はそんな嘘を?」
「さあ……? 今に始まったことじゃないですわ」
醜悪な妹の話をするのは、気分が悪い。せっかくの二人の時間が台無しになってしまう。
「それだけじゃないよ。君が自分の夫を誘惑してきて、困っているっていう話もしていたよ」
「エドをわたくしから奪ったのはルシアです。まだ言ってるんですのね、そんなこと」
「本当はリエーヴへ行くのは自分だった。未来の王妃の地位に惹かれた君が、強引に入れ替わったのだとも言っていた」
「不快ですわ。もう、やめてくださる?」
「私だって、こんな話を君に伝えたくないよ。でも、君が謂われのない中傷を受けて、そのままにしておくのもいやだ」
ソフィアは肩をつかまれ、身体の向きを変えさせられた。膝の上で気持ちよくうしろから抱かれていたのに、向き合った状態になる。リヒャルトは少し怖い顔をしている。
「話は戻るが、昨日君を訪ねた時、エドアルドが部屋から出てくるのを見たんだ。ルシアもそのことを知っていて、私に泣きついてきた。君が出国する直前にも、同じように不貞を働かれたと……」
「いい加減にしてくださる?」
とうとう、堪忍袋の緒が切れた。ソフィアはリヒャルトの胸を押して離れた。
「わたくし、まえに申しましたわよね? エドになにをされたか?」
「じゃ、どうして部屋に入れたんだ?」
「それは実家の状況を聞き出したかったからです。もちろん、侍女たちにも、いてもらいました」
リヒャルトがルシアの話を真に受け、自分を疑う素振りを見せたのが、ソフィアは許せなかった。
「当然、君がそんなことをしないのはわかってる。だが、晩餐の時もエドアルドと楽しそうに話していたし、嫉妬というか、不安になってしまったんだ」
ケツ顎ジモンにするような、いつもの嫉妬ならソフィアは許せた。だが、これは全然かわいくないし、許せない。
「なら、ルシアの言うことを信じたら? 好きになさればいいわ。わたくしを捨てて、ルシアとくっつけば?」
ソフィアはプイと背を向けた。ひどい裏切りだ。これからはそばにいると、抱きしめてくれたのはなんだったのか。ルシアの嘘を信じるなんて、エドアルドと同じではないか。
ソフィアは肩に置かれた手を振り払った。悔しくて悲しくて、涙をこらえられない。嗚咽をもらすまいと、口を歪める。
だが、背後からガバァッと覆い被され、声がもれてしまった。
「そんなこと、言うんじゃない! 私は君だけのものだし、君は私だけのものだ!!」
彼のことを怒っているのに、許していないのに……逃れることができず、ソフィアは声をあげて泣いた。温かい腕の中は心地よく、ソフィアは赤ん坊のごとく泣き続けた。
まえにも、こんなことがあった。ソフィアはリヒャルトのことをどうしても信じられず、感情をぶつけたのだった。そう、エドアルドに乱暴されそうだったと、打ち明けた時のこと。あれは過去のトラウマに、塩を塗り込む行為だった。自分で自分を傷つけたソフィアは、今のように大泣きしたのだ。その間リヒャルトは、ソフィアをずっと抱いていてくれたのである。
「もう、あなたのことなんか、信じられません」
かすれ声で言っても、リヒャルトは解放してくれない。
「大っ嫌い! 部屋から出て行って! 性欲を満たしたいなら、他の女で間に合わせればいいわ!」
こんな罵倒をしてみても、ピクリとも動かない。たくましい腕から逃げようと、もがいたが無駄だった。ほどよい体温とリヒャルト特有の香りは、次第にソフィアの力を奪っていった。
もし、このまま自分の言うとおり、放り出されたら? きっと、心細くて死んでしまうだろう。羽根を剥がされた甲虫は、一人で生きていけない。逃げないよう、ソフィアから羽根を奪ったのはリヒャルトだ。
「ひどいひと……」
「どうすれば許してくれるだろうか?」
「このままずっと、はなさないでいて」
リヒャルトは、ソフィアから防具を奪った責任をちゃんと果たした。テーブルがベッド脇に運ばれ、朝ご飯が並べられ終わるまで抱いていてくれたのである。
テーブルには焼きたてのパンケーキやフルーツが並ぶ。食欲を誘う芳香が鼻をくすぐり、ソフィアの頬はゆるんだ。
「さあ、食べよう。せっかくの朝食が、まずくなってしまうよ?」
「あなたに、くっついたまま食べます」
「じゃあ、口に入れてあげよう」
リヒャルトはまず、自分の隣に座らせた。ピッタリ寄り添い、ソフィアは雛鳥となる。旦那様の手はせわしなく動き、ソフィアは口だけを動かした。
小さく切り分けたパンケーキに、カラフルなベリーとクリームがたっぷりのっている。クリームはソフィアの牧場産だろう。口の中がフワフワでいっぱいになる。リヒャルトの手が伸びてきて、口の端についたクリームを拭った。
「わたくしの口についたクリームをなめる権利を授けます」
「朝ご飯を口に入れてもらう権利は?」
「調子にのると、こうですよ?」
ソフィアはリヒャルトの頬をつねった。かなり強めだ。白い頬に赤い痕がつく。その赤みが消えるまで、ソフィアは彼を見つめていた。
「ソフィア、ごめん……君がリエーヴへ来るまでに、つらい思いをしてきたってことはわかってる。君はあんまり具体的なことを話してくれないけど、全部受け入れたいと思ってるんだ。君と苦しみを共有したい」
銀の瞳は揺れなかった。ソフィアをまっすぐ見返し、強い決意を表明する。その顔は挙動不審になる中学生でも、手術中の心臓外科医でもなかった。ソフィアのことだけを見るリヒャルトの顔だ。
繰り返し闇に浸食され、閉ざされていたソフィアの心は開かれた。
「なにもかも、さらけ出して楽になることもあれば、重しをして地中深く埋めてしまったほうが、いい場合もあります」
「私は君のすべてを知りたいんだ」
「それはわたくしへ向けた愛情ではなく、自分自身へ向いている」
「では、どうすれば?」
「信じてくれるだけでいいのです」
リヒャルトが返事の代わりにキスをして、最終的にソフィアの気持ちは落ち着いた。
「あーあ、まだ寝ていてくださればよかったのに」
「なんだ、ソフィア? 風邪はよくなったのか?」
「ええ。熱は下がったみたい。鼻水がちょっと出るくらいですわ」
ベッドに来いと、リヒャルトが手招きしてくる。まだ、いちゃつき足りないのか。今日は牧場に出向いて、牧草や牛の生育状況を確認したい。ノアに指示を出したいし、放火事件について情報収集もしたい。ベッドで長居するわけには……
「まーた、牧場のことを考えていただろう?」
「あ……ごめんなさい」
すねた顔をするリヒャルトの腕に、ソフィアはすっぽり収まった。温かい。
「今日一日は私の腕の中にいなさい」
「なんですか? そのご褒美?」
「風邪が治ったんなら、妻としての役目を果たしてもらおう」
「病み上がりの身体に鞭打とうというのですね、ひどいひと……」
「グズグズに甘やかして、もう私から離れられなくしてやるっっ」
「エロマンガみたいなセリフ、やめてください」
そうはいっても、あぐらをかいたリヒャルトの膝は収まりがいい。本当に一日、そこで過ごしたいぐらいだった。
せめて、朝ご飯はこの姿勢のまま食べたい。ソフィアは動きたくなくなってしまった。
ソフィアの心中を察したリヒャルトは、侍従を呼びつけた。カーテン越しに、朝ご飯を運ぶよう命じる。こういう時のために、天蓋付きのベッドなのかとソフィアは納得した。夫の膝の上に収まっている姿を見られるのは、恥ずかしすぎる。
ソフィアが振り向くと、リヒャルトは得意げな顔をしていた。
「ずーーーっと、明日の朝まで解放しないからね?」
「好きになさって。わたくしはあなたのお人形さんです」
……と、リヒャルトの表情が急に曇った。巻きつけてくる腕がゆるむ。
(あら? わたくし、なにかダメなこと言った?)
「リヒャルト様? わたくしも、リヒャルト様とずっと一緒にいたいのですよ?」
「うん、えっと……ソフィア……」
リヒャルトは長いまつげを伏せた。どうも、歯がゆい。言いたいことがあるなら、とっとと言えばいいではないか。突如として煮えきらない態度をとられ、ソフィアは気になった。
「どうされたの? なにか、おっしゃりたいことがあるのなら、ちゃんとおっしゃって?」
「うん、じつは昨日、私は君の部屋を何度も訪ねているのだよ。毎回、行き違いだったけど。せっかく再会したのに、君が妹を殴り倒してどこかへ行ってしまったから……」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないで! わたくしは殴ったりしてません」
「あっ、ああ……やっぱりそうなのか……私の角度からは見えなかったけど、妹さんの倒れ方はちょっと違和感があったんだ。でも、どうして彼女はそんな嘘を?」
「さあ……? 今に始まったことじゃないですわ」
醜悪な妹の話をするのは、気分が悪い。せっかくの二人の時間が台無しになってしまう。
「それだけじゃないよ。君が自分の夫を誘惑してきて、困っているっていう話もしていたよ」
「エドをわたくしから奪ったのはルシアです。まだ言ってるんですのね、そんなこと」
「本当はリエーヴへ行くのは自分だった。未来の王妃の地位に惹かれた君が、強引に入れ替わったのだとも言っていた」
「不快ですわ。もう、やめてくださる?」
「私だって、こんな話を君に伝えたくないよ。でも、君が謂われのない中傷を受けて、そのままにしておくのもいやだ」
ソフィアは肩をつかまれ、身体の向きを変えさせられた。膝の上で気持ちよくうしろから抱かれていたのに、向き合った状態になる。リヒャルトは少し怖い顔をしている。
「話は戻るが、昨日君を訪ねた時、エドアルドが部屋から出てくるのを見たんだ。ルシアもそのことを知っていて、私に泣きついてきた。君が出国する直前にも、同じように不貞を働かれたと……」
「いい加減にしてくださる?」
とうとう、堪忍袋の緒が切れた。ソフィアはリヒャルトの胸を押して離れた。
「わたくし、まえに申しましたわよね? エドになにをされたか?」
「じゃ、どうして部屋に入れたんだ?」
「それは実家の状況を聞き出したかったからです。もちろん、侍女たちにも、いてもらいました」
リヒャルトがルシアの話を真に受け、自分を疑う素振りを見せたのが、ソフィアは許せなかった。
「当然、君がそんなことをしないのはわかってる。だが、晩餐の時もエドアルドと楽しそうに話していたし、嫉妬というか、不安になってしまったんだ」
ケツ顎ジモンにするような、いつもの嫉妬ならソフィアは許せた。だが、これは全然かわいくないし、許せない。
「なら、ルシアの言うことを信じたら? 好きになさればいいわ。わたくしを捨てて、ルシアとくっつけば?」
ソフィアはプイと背を向けた。ひどい裏切りだ。これからはそばにいると、抱きしめてくれたのはなんだったのか。ルシアの嘘を信じるなんて、エドアルドと同じではないか。
ソフィアは肩に置かれた手を振り払った。悔しくて悲しくて、涙をこらえられない。嗚咽をもらすまいと、口を歪める。
だが、背後からガバァッと覆い被され、声がもれてしまった。
「そんなこと、言うんじゃない! 私は君だけのものだし、君は私だけのものだ!!」
彼のことを怒っているのに、許していないのに……逃れることができず、ソフィアは声をあげて泣いた。温かい腕の中は心地よく、ソフィアは赤ん坊のごとく泣き続けた。
まえにも、こんなことがあった。ソフィアはリヒャルトのことをどうしても信じられず、感情をぶつけたのだった。そう、エドアルドに乱暴されそうだったと、打ち明けた時のこと。あれは過去のトラウマに、塩を塗り込む行為だった。自分で自分を傷つけたソフィアは、今のように大泣きしたのだ。その間リヒャルトは、ソフィアをずっと抱いていてくれたのである。
「もう、あなたのことなんか、信じられません」
かすれ声で言っても、リヒャルトは解放してくれない。
「大っ嫌い! 部屋から出て行って! 性欲を満たしたいなら、他の女で間に合わせればいいわ!」
こんな罵倒をしてみても、ピクリとも動かない。たくましい腕から逃げようと、もがいたが無駄だった。ほどよい体温とリヒャルト特有の香りは、次第にソフィアの力を奪っていった。
もし、このまま自分の言うとおり、放り出されたら? きっと、心細くて死んでしまうだろう。羽根を剥がされた甲虫は、一人で生きていけない。逃げないよう、ソフィアから羽根を奪ったのはリヒャルトだ。
「ひどいひと……」
「どうすれば許してくれるだろうか?」
「このままずっと、はなさないでいて」
リヒャルトは、ソフィアから防具を奪った責任をちゃんと果たした。テーブルがベッド脇に運ばれ、朝ご飯が並べられ終わるまで抱いていてくれたのである。
テーブルには焼きたてのパンケーキやフルーツが並ぶ。食欲を誘う芳香が鼻をくすぐり、ソフィアの頬はゆるんだ。
「さあ、食べよう。せっかくの朝食が、まずくなってしまうよ?」
「あなたに、くっついたまま食べます」
「じゃあ、口に入れてあげよう」
リヒャルトはまず、自分の隣に座らせた。ピッタリ寄り添い、ソフィアは雛鳥となる。旦那様の手はせわしなく動き、ソフィアは口だけを動かした。
小さく切り分けたパンケーキに、カラフルなベリーとクリームがたっぷりのっている。クリームはソフィアの牧場産だろう。口の中がフワフワでいっぱいになる。リヒャルトの手が伸びてきて、口の端についたクリームを拭った。
「わたくしの口についたクリームをなめる権利を授けます」
「朝ご飯を口に入れてもらう権利は?」
「調子にのると、こうですよ?」
ソフィアはリヒャルトの頬をつねった。かなり強めだ。白い頬に赤い痕がつく。その赤みが消えるまで、ソフィアは彼を見つめていた。
「ソフィア、ごめん……君がリエーヴへ来るまでに、つらい思いをしてきたってことはわかってる。君はあんまり具体的なことを話してくれないけど、全部受け入れたいと思ってるんだ。君と苦しみを共有したい」
銀の瞳は揺れなかった。ソフィアをまっすぐ見返し、強い決意を表明する。その顔は挙動不審になる中学生でも、手術中の心臓外科医でもなかった。ソフィアのことだけを見るリヒャルトの顔だ。
繰り返し闇に浸食され、閉ざされていたソフィアの心は開かれた。
「なにもかも、さらけ出して楽になることもあれば、重しをして地中深く埋めてしまったほうが、いい場合もあります」
「私は君のすべてを知りたいんだ」
「それはわたくしへ向けた愛情ではなく、自分自身へ向いている」
「では、どうすれば?」
「信じてくれるだけでいいのです」
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