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七章 この世の終わり

七十話 この世の終わり⑩

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 自転車置き場の屋根から神野君が飛んだのは、二階と三階の途中にある踊場だった。手摺りの外側にしがみつき、下半身がダラリとぶらさがる形になる。
 
 確かに屋根から階段までの距離は一メートルに満たない。だが、ゾンビが集まっている近くだし、まさか階段の方へ飛び移るとは思ってもみなかった。

 屋根から二階の通路へ飛び降りるなら、まだ分かる。手摺りをよじ登るにしても、普通一旦降りてから登るよな。リスザルでもあるまいし……

 案の定、クローゼットバリケードの前に集まっていたゾンビはすぐ神野君に気付いた。足を掴まれ、引きずり下ろされそうになっている。まだ四階にいた俺達は慌てて駆け降りた。

 咄嗟の判断で青山君に足台をやってもらう。俺より数段小ぶりな青山君に乗るというのは申し訳ないが……今はあれこれ考える余裕はない! すんでの所で神野君の腕を掴み、引っ張り上げた。


「早く! 早く! ゾンビが手ぇ伸ばしてくる!」


 十センチに満たない格子の隙間から、ゾンビ達の青黒い手が!!
 青山君が叫んだのと神野君が手すりの上まで登ったのは、ほぼ同時だった。直後、青山君は崩れ、俺は踊り場に投げ出された。
 痛い。でも、今はそれどころじゃない。そのまま這って階段を上がり、俺は安全を確保した。それまでは安堵の溜め息をつけない。

 手摺り格子の間から伸びる幾つもの青い腕──イメージとしては地獄へ引きずり込もうとする亡霊だ。

 タッチの差だ。タッチの差で神野君も俺も──

 引っ張り上げる時の感覚がまだ体に残っている。神野君が俺の手を掴んだ途端、体が持って行かれそうになった。もし、神野君の足を引っ張るゾンビがもう一匹増えたら……

 三階の踊場にへたりこむと、まず青山君が口を開いた。


「ちょっと、田守君重すぎ」

「うるせぇよ」


 青山君の悪意ない毒舌さえも、聞けることが嬉しい。手摺りから生還した神野君も階段を駆け上ってきた。
 

「ガシュピン、ありがとうな!」

「神野君、あそこ、飛び移る所じゃないでしょ? 何で急に飛び移ったし?」

「んん……何でだろ? 何だか近いし、簡単にいけそうだったんだよね」
 
 飄々とした様子の神野君に怒る気も失せてくる。


「怪我は? 噛まれたりしてない?」
 

 尋ねた時、突然ナツさんが大声で泣き始めた。俺はすっかり忘れていた……。俺達が助けに行っている間、ナツさんを置きっぱなしだった。今、彼女は三階と四階の間にある踊場からこちらを見下ろしている。……それはもう……ギャン泣きである。


「う、あ!? 一体どうした?」


 ゾンビが泣き声に反応している。マズいな……他の所からも呼び寄せてしまう。


「ナツさん、ちょっ、落ち着いて……部屋に戻ろうか」


 端部屋のドアが開かれ、オバサンが怪訝な顔付きでこちらを見てきた。
 違います! 誘拐犯ではないです! マジで!!……心の中で叫びながら階段を登る。歩くサイレンとなったナツさんは、更に泣き声をパワーアップさせて付いて来る。
 
 四階まで来た時、端から二番目のドアが勢い良く開いた。突然の出現者は俺達の姿に驚いて目を丸くしている。部屋から出て来たのは久実ちゃんだ。


「田守君……どうしたの? その子……」 


 違う! 違うんだーーーーっっ!!!
 複雑な表情を浮かべる久実ちゃんに俺が言い訳を必死で考えていると、


「あ、丁度いいや。この子泣き止まないから落ち着くまで一緒に来てくんないかな?」


 神野君が久実ちゃんに呼び掛けた。女子に疑いの目を向けられている時、この平静さは羨ましい。


「事情があって預かってる子なんだけど、ゾンビ前にして怖くなったのか泣き止まないんだよ。ほら、女の人の方が安心するかもしれないし。田守の友達なんだろ?」

「え? いや、うん、行ってもいいけど……」


 久実ちゃんは訳の分からぬまま、神野君に押し切られ同行することとなった。

 

 部屋に戻り、しばらくしてからナツさんは泣き止んだ。安全な三階で待たせてたとはいえ、目前にゾンビが迫り来る様を見せ付けられた。そのために恐怖で感情のタガが外れてしまったようだ。某商業施設で襲われた時のことと重ねてしまったのかもしれない。

 窓のない廊下の明かりを点け、掃き出し窓のあるリビングの電気は点けないようにしている。明るい方が安心させられるが、仕方ない。ゾンビ対策だ。

 ソファに腰掛け、久実ちゃんはナツさんを抱き寄せる。背中をさすってやっているのはお姉さんっぽい。男の俺が同じことをしたら、間違いなく変態扱いされるだろうが。

 体を密着させることで安心感が得られたのだろう。ナツさんは声を上げて泣くのを止め、しゃくりあげるだけになり、やがて鼻を啜るだけになった。

 久実ちゃんに心から感謝しつつ、俺は状況を掻い摘まんで説明した。

 耳を傾ける久実ちゃんの視線は柔らかく穏やかだ。ナーバスになっていた俺のブロークンハートは温かい安心に飲まれた。頑丈な心の壁は砂みたいに容易く溶け落ちる。何故だろう? 昼間のわだかまりは不思議と消えてしまっていた。

 久実ちゃんは静かに頷きながら話を聞いてくれた。落ち着いてきたナツさんの髪を優しく撫でてやっている。優しいな。聖女だ。見とれていると、久実ちゃんは不意に顔を上げた。


「でも、何しにそんな時間に隣駅のスーパーへ行った訳?」
 

 気になること、それか? いや、知りたいなら教えてやってもいいけどさ。
 俺の代わりに返答したのは神野君だった。


「ゲームしに行ってたんたよ。トゥインクルハニーの」

「……トゥイ……何?」

「んなことより、管理組合で話してること教えてよ。久実ちゃんのお父さん、理事長さんでしょ?」


 オレが話を遮ったので、久実ちゃんはそれ以上何も聞かなかった。
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