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六章 ハンティング

五十七話 ハンティング⑫

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 伸び放題のかややその他の雑草諸々……。ゾンビ達が踏みしだいた後であっても、走りにくい。俺達は坂東邸の庭を走っていた。
 
 先頭は青山君、俺、神野君の順番で、と言っても決めた訳ではないが……。草むらを走る。全速力で。
 
 門までの距離は二十メートルくらいか。小学生の頃、五十メートルを七秒代で走れて早い方だった気がする。多分、中高とほとんど進歩してないはず。

 こんなに思いっきり走るのは十年ぶりくらいか……いや、ついこの間走ったな。廃墟公団とボランティアで。思い出したくもないが。

 今、庭にいるゾンビは数匹程度。時間は数分前に遡る……




「ここで夜は明かさない。救助も呼ぶ必要ない。逃げる方法ならある」


 神野君の自信に俺達は引きずられる形になった。今回の大失態があっても、神野君の求心力やカリスマ性は顕在だ。何より俺達はこの場所で何もせずに助けを待つのが嫌だったのである。

 俺と青山君はまず、一階キッチンにあったダイニングテーブルを二階へと運んだ。手を怪我している神野君は、二階の別室で見つけた小型スピーカーを準備する。
 
 ゾンビを封じ込めている部屋の前に俺達はテーブルを置いた。その上にモバイルバッテリーを接続したスピーカーを置く。モバイルバッテリーは神野君の私物だ。神野君曰わく、モバイルバッテリーをここに捨て置いても構わないそう。準備はこれだけ。

 俺がテーブルの上に乗って内開きドアのドアノブを回す。


「ギャアァァァァァアアア!!! オエェエエエエエ!!」


 ゾンビの群れがすぐさま押し寄せてきた。テーブルで足止め出来ても、溢れ出るのは時間の問題だ──こいつらはまあいい。俺達の目的は別にある。

 神野君がスマホとスピーカーをBluetoothで接続し、大音量で音楽をかける。なんかオペラ、みたいな……。テーブルが音を一層響かせた。

 そう、二階のバルコニーから爆音を流してやるのだ。くくく……すっげぇ近所迷惑。でも、数年前に流行ったダサいポップミュージックを車から垂れ流すのよりはマシだろ? だって、オペラだもん。これで、巨大なゾンビホイホイの出来上がりぃ!!


「何? これ、オペラ?」

「そう、ワーグナー」


 階段を駆け降りる途中、神野君は答えた。何気に神野君は育ちがいい。幼い頃からピアノを習っていた影響でクラシックもよく聞く。アニソンとボカロしか聞かない俺とは大違いだ。
 
 そういや神野君は学校の成績も優秀だったな。現在は県庁に勤める公務員だ。父親は大手企業に勤めるサラリーマンだけど、祖父は地元の有力者。金持ちのボンボンだから、金に不自由はない。趣味に好きなだけ金をかける。それ故にディープな世界にハマってしまったと思われた。高校生の頃は裕福な神野君が心底羨ましかったものだ。


 一階まで降りると、俺達は玄関のドアを開け放った。続けて玄関ポーチの手すりを鉄パイプで叩く。ゾンビどもは甲高い金属音に刺激される。青黒い顔が一斉にこちらを向いた。

 無機質で貪欲な瞳だ。幾つもの瞳が捉えるのは俺。ニート、二十八歳。
 背筋がヒヤァっとするのは正常な証拠だ。
 
 次の瞬間、俺の存在を認識したゾンビ達は雄叫びを上げながら向かってきた。数百のゾンビがこちらへ押し寄せて来る様は、映画のワンシーンみたいで圧倒される。
 
 オペラミュージックも合わせるかのように盛り上がりを向かえた。選曲といい、カオスだ。
 
 緊張しても、恐怖はそこまで感じない。むしろ爽快。現実離れし過ぎていて、リアリティを感じられないのである。

 ドアを開け放ったまま、俺達は浴室へと走った。ゴミだらけの室内をどうやって走ったかは分からない。あっという間だった。

 浴室へ駆け込み、折れ戸の鍵を閉める。互いの顔を確認しあってから、呼吸を整えた。

 茶色く変色した浴槽は嫌な匂いがする。カビと生ゴミが合わさったような匂いだ。ここで殺人鬼が何をしたかは、あまり想像したくなかった。

 しかし、これだけは言える。ゾンビの腐臭よりはマシだ。どうやらゾンビだけでなく、匂いに対しても耐性ができてしまったようだった。

 血の付いたタオルを切って、玄関から二階までの壁に等間隔で貼り付けてある。匂いとスマホの音楽に誘導され、奴らは二階へ集まるはず。ゾンビが九割方、屋敷へ戻った所で風呂場の窓から逃げるつもりだった。

 浴槽のヘリに俺と青山君は座り、神野君は壁にもたれかかった。折れ戸は曇りガラスだから、外の状況が分かりにくい。加えて浴室内は気密性が高く、外部の音はあまり聞こえなかった。大音量のオペラも微音となる。

 浴室は建物の裏手に位置するため、庭の様子も窓からは見えない。見えるのは味気ないブロック塀と隣家の外壁だけ。

 大丈夫だ。脱衣所のドアを叩かれたりはしていない。今頃、ゾンビどもはスマホの音楽に魅せられているはず。たまたま見つけた簡易な音響装置が思いの外、役立った。

 バルコニーの窓ガラスは割れているし、ゾンビをおびき寄せるには充分な音量が外へ漏れている。俺は不安を打ち消そうと、神野君に声をかけた。


「ここ出たら、病院行かなきゃだね」


 平気な顔をしていても、神野君の手の傷は深い。縫わないと駄目だろう。
 
 俺は横目で神野君の右手を観察した。さっき巻いたばかりの包帯に血が滲んでいる。青山君のやり方じゃ、ちゃんと止血できてないのだ。こんな不衛生な場所では感染症も心配である。

 神野君は首を横に振った。


「親戚に医者がいるから、その人に診てもらう。病院へは行かない」


 やはり、違法な改造銃で大怪我をしたので病院は行きづらいか。……にしても、医者の親戚か。他にも弁護士とか、政治家とかいそう。

 会話が途切れると、しばらく無言が続いた。いつもなら、絶えず喋り続けている青山君が大人しいのは珍しい。


「そろそろ行こうか……」
 

 神野君が口火を切ったのは、玄関ドアを開けてから五分後。とっても長い五分だった。時間は青山君のスマホで確認している。神野君のスマホもスピーカーの近くに置いてきてしまったからな。


「外は大丈夫だって。でも十匹程度、残ってる」
 
 清原君から連絡があったようだ。青山君は緊張した面持ちで外の状況を伝えてくれた。

 浴槽の上にある窓をソロソロと開け、俺は様子を窺った。見える限りにゾンビはいない。ただし、ここは裏手だから角を曲がった先がどうなっているかは、全く分からなかった。


「俺が様子を見て来るから二人は待っててくれ」

「田守君、かっくいーー!」


 青山君が急に茶化してきたので、俺は少々ムッとした。さっきまで大人しかったくせに。爬虫類みたいに突然スイッチが入る奴だ。


「おい、危ない時にふざけるんじゃない。死にたくなかったらな」


 捨て台詞を残し、俺は窓から飛び降りた。自分で言うのも何だが、この数日間でフットワークが軽くなったと思う。生い茂る雑草のジャングルを低身で走り抜ける。まさに忍者。

 角の所まで来て壁に張り付き、曲がった向こう側を注意深くうかがった。以前、久実ちゃんに自警団勧められたけど、そういうの案外向いてるかもしれない……絶対やりたくないけど。

 ──大丈夫だ。イケる!

 角の向こう、屋敷正面の庭にはゾンビが数匹うろついているだけだった。清原君の報告通り、十匹程度。群れにはならずバラけている。
 
 ホッとすると、また全身の力が抜けてしまいそうになった。いや、まだ安堵するには早い。俺は外壁に手をついた。浴室窓から不安そうな顔を覗かせる神野君に合図する……



 そして今、俺達は庭を突っ走っている。草の擦れ合う音に反応して、追いかけてくるゾンビを尻目に全速力。

 大した数じゃない。大丈夫だ。どうせ、群れからはぐれてしまった落ちこぼれゾンビ。追跡能力は他より劣っているに決まっている。

 門の外で応援する清原君達を見て、自然と笑みがこぼれてしまう。張り詰めていた気が緩みそうになった。

 あともう少し──

 刹那……足に何かが絡みついた。まず感じたのは強く足を引っ張られる感覚。次に痛み。気付くと俺は地面に突っ伏していた。
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