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徒然
母②
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いくつかの名所を回り――船も見て、墓地を見渡す広場へ。
「お母さん、これ、私が作ってみたの。どうかしら」
「おー、昔はこれだったね」
お重には太巻きとお稲荷さん、に、煮しめ、に卵焼き。家族で出かけるときの定番だった。二段目は、おにぎりとウインナー、唐揚げ、これは兄たちの好物。
娘がぴんくをのせたお稲荷さんを渡してくる。桜でんぶは母の好物だ。
「…今時は薄味だねぇ」
東京へ出して、それきりになるとは思っていなかったのだ。
炊事洗濯、習い事はそろばんに習字とお花、身の回りのことはできていた娘だった。家政の切り盛りや付き合いなどはおいおい――のつもりが何も教えぬままになってしまった。
東京へ出張にでかけることのあった息子らから時々様子をきいてはいた。都会では片親でも特別視されたりしないのだといわれても心は穏やかでいられず。夫と姑が恵美子なら大丈夫だというのも本心ではないだろう、帰ってきてもいいんだと息子を介して伝えもした、子連れでもいいという縁談もあったのだ。
結婚して家庭をもつのは当然のこと、夫を支え子を産み育て。息子らの妻もまた女のしあわせは結婚だという価値観で順番もたがえなかった。娘もその後に続くものだとばかり。
それが、悪い男に騙され捨てらるよりもっとひどかった。日陰に身をやつして。
視線を娘の背後へ移した母の目に、芝生の青と、空の青と、遠く白波が光る。
「明るいねぇ、父ちゃんならいいってさね、――」
区画だけの洋風墓地、海風が言葉を攫って行く。
――私もここでいい、口にはしなかったが、子供らには通じてしまった。
「…じゃぁ、分骨して、な」
親父は海が好きだっただろうと、息子らあっけらんと受け止め、勝手に話を進める。娘もただ微笑む。手続きはどうなるんだとか黙ってたらわからんとか適当な子供らに、母はうつむいて目を閉じた。内陸部の彼らにとって海は近い場所ではなかった。
「みんなで海に行ったよな」
「父さんが車買って張り切って行ったのに紘が酔って、なぁ」
「……つまんねぇこと覚えてるね、あれは眠れなくて。一度…二回目は酔わなかったろ」
「三回は行ったよね」
「ああ、白浜と、秋田もー松島?」
「秋田は紘にいがいなくてタロー(犬)連れてったのよ」
「今思うと、父さんよく一人で運転したよ」
仕事用のトラックはあっても、自家用車は贅沢品。兄が高学年になるころにやっと一家に一台になりつつあった時代だった。父親ははじめての乗用車にいたくご機嫌で子供らを乗せて出かけた。
まだ未舗装の道路に轍にタイヤがはまり皆で車を押したり、洗車をして駄賃をもらったりしたと昭和を懐かしむ。
「クーラーもついてなくて、でも父さんあれが一番気にいってたよなぁ」
「俺はトラックの荷台が好きだった、今じゃ許されないね」
商売の都合で休みは週一日だけ、当然日帰りだ。仕事が終わった夜に出て、海辺で仮眠。帰りは父以外寝ていた。その後母も免許を取り、次の車はオートマチックでエアコンもサンルーフもついていたが、家族で出かけることはなくなっていた。
「そういや、もう、時効だから言うけど、骨をインドネシアに放ってきたんだわ」
「…なにそれ」
次男がふとしたように告白とも懺悔ともいえない神妙な顔で向き合った。
「エンジの刺し子のかぃ」
母親が手でドロップのような形を示すと、軽く頷いた。
「ほら、仕事でいくっつたら、父さんが海に放ってくれって巾着袋を寄越したんだ。俺が頼まれてたんだが代わりに頼むと、飛行機の窓から落としてくれたらそれでいいからってね」
ジェット機の窓が開くはずもなく、港から船を頼んだ。
「智、よく検査で止められなかったな」
「上着のポケットにしまっといたけど、なんも。…ほんとは拝んでもらわなんといかんな」
「そうか、長いこと時計と一緒にあったんよ。どこへやったんかと…、爺様も気がすんだかな」
次男の顛末から話を戻すように、母はつぶやく。
「おじいさんはシベリアだろ? 太平洋戦争も行ったんか?」
「…行ってない、はずだ。弟が行って…、でも満州帰りだったか。ほかは何も知らん。おれの父ちゃんは南方行ったらしいけどなんも話してはくれなかった」
「母さんのじいちゃんはよくしゃべるひとだったけどなぁ」
「ああ、でも…じいさんと二人でいると、無言でさして吞んでたなぁ」
「シベリア帰りと南方帰りと、思うことはあったんやろね、二人とも逝くときは穏やかだったさ」
ときたま親族の集まりがあると、最後は二人で黙って酌み交わしていた。だれもそれを邪魔しなかった。子供らが父親の思い出に次いで、から祖父、そして祖母らの思い出話を語るのを、母はそっと聞いていた。
舅は長兄が小学生の時に、今でいう脳出血でころっと逝ってしまった。昔堅気で外ではよくしゃべるのに家では口数の少ない男性だった。姑も自分たちのことは語らず、遺品を整理していたら女学校の卒業証書が出てきて驚かされた。夫も兄弟も誰も知らず、ただ、あの年代にしては難しい漢字も知っているとは思っていたそうだ。
子供らの話が自分の両親のことに及ぶと、澄まして弁当に手を伸ばす。この歳になって初めて両親のなれそめをきくことになるとは、娘の自分には言いたくないことも多々あったのだろう、肝心なことは何も知らないままだった。自分でも子供らには気恥ずかしくて話せないことがある。若いころふたりでオートバイで海に行ったことも話したことはない。長男が幼い頃にトラックで海に行ったのも彼は覚えていないだろう。
「親父に頼んだのはじいさんか? じいさんも誰かに頼まれたのか?」
「かもね、外国、南国にいってみたいとは言ってたけど、叶わなかったものなぁ。父さんが果たしてたら私らはなんも知らないままだったんだから、それでいいんだろ」
「そうねぇ」
みんな胸に秘めて持っていくことのひとつやふたつ、ある。子供らの含みを持った会話に、母は聞こえないふりを続けた。
「お母さん、これ、私が作ってみたの。どうかしら」
「おー、昔はこれだったね」
お重には太巻きとお稲荷さん、に、煮しめ、に卵焼き。家族で出かけるときの定番だった。二段目は、おにぎりとウインナー、唐揚げ、これは兄たちの好物。
娘がぴんくをのせたお稲荷さんを渡してくる。桜でんぶは母の好物だ。
「…今時は薄味だねぇ」
東京へ出して、それきりになるとは思っていなかったのだ。
炊事洗濯、習い事はそろばんに習字とお花、身の回りのことはできていた娘だった。家政の切り盛りや付き合いなどはおいおい――のつもりが何も教えぬままになってしまった。
東京へ出張にでかけることのあった息子らから時々様子をきいてはいた。都会では片親でも特別視されたりしないのだといわれても心は穏やかでいられず。夫と姑が恵美子なら大丈夫だというのも本心ではないだろう、帰ってきてもいいんだと息子を介して伝えもした、子連れでもいいという縁談もあったのだ。
結婚して家庭をもつのは当然のこと、夫を支え子を産み育て。息子らの妻もまた女のしあわせは結婚だという価値観で順番もたがえなかった。娘もその後に続くものだとばかり。
それが、悪い男に騙され捨てらるよりもっとひどかった。日陰に身をやつして。
視線を娘の背後へ移した母の目に、芝生の青と、空の青と、遠く白波が光る。
「明るいねぇ、父ちゃんならいいってさね、――」
区画だけの洋風墓地、海風が言葉を攫って行く。
――私もここでいい、口にはしなかったが、子供らには通じてしまった。
「…じゃぁ、分骨して、な」
親父は海が好きだっただろうと、息子らあっけらんと受け止め、勝手に話を進める。娘もただ微笑む。手続きはどうなるんだとか黙ってたらわからんとか適当な子供らに、母はうつむいて目を閉じた。内陸部の彼らにとって海は近い場所ではなかった。
「みんなで海に行ったよな」
「父さんが車買って張り切って行ったのに紘が酔って、なぁ」
「……つまんねぇこと覚えてるね、あれは眠れなくて。一度…二回目は酔わなかったろ」
「三回は行ったよね」
「ああ、白浜と、秋田もー松島?」
「秋田は紘にいがいなくてタロー(犬)連れてったのよ」
「今思うと、父さんよく一人で運転したよ」
仕事用のトラックはあっても、自家用車は贅沢品。兄が高学年になるころにやっと一家に一台になりつつあった時代だった。父親ははじめての乗用車にいたくご機嫌で子供らを乗せて出かけた。
まだ未舗装の道路に轍にタイヤがはまり皆で車を押したり、洗車をして駄賃をもらったりしたと昭和を懐かしむ。
「クーラーもついてなくて、でも父さんあれが一番気にいってたよなぁ」
「俺はトラックの荷台が好きだった、今じゃ許されないね」
商売の都合で休みは週一日だけ、当然日帰りだ。仕事が終わった夜に出て、海辺で仮眠。帰りは父以外寝ていた。その後母も免許を取り、次の車はオートマチックでエアコンもサンルーフもついていたが、家族で出かけることはなくなっていた。
「そういや、もう、時効だから言うけど、骨をインドネシアに放ってきたんだわ」
「…なにそれ」
次男がふとしたように告白とも懺悔ともいえない神妙な顔で向き合った。
「エンジの刺し子のかぃ」
母親が手でドロップのような形を示すと、軽く頷いた。
「ほら、仕事でいくっつたら、父さんが海に放ってくれって巾着袋を寄越したんだ。俺が頼まれてたんだが代わりに頼むと、飛行機の窓から落としてくれたらそれでいいからってね」
ジェット機の窓が開くはずもなく、港から船を頼んだ。
「智、よく検査で止められなかったな」
「上着のポケットにしまっといたけど、なんも。…ほんとは拝んでもらわなんといかんな」
「そうか、長いこと時計と一緒にあったんよ。どこへやったんかと…、爺様も気がすんだかな」
次男の顛末から話を戻すように、母はつぶやく。
「おじいさんはシベリアだろ? 太平洋戦争も行ったんか?」
「…行ってない、はずだ。弟が行って…、でも満州帰りだったか。ほかは何も知らん。おれの父ちゃんは南方行ったらしいけどなんも話してはくれなかった」
「母さんのじいちゃんはよくしゃべるひとだったけどなぁ」
「ああ、でも…じいさんと二人でいると、無言でさして吞んでたなぁ」
「シベリア帰りと南方帰りと、思うことはあったんやろね、二人とも逝くときは穏やかだったさ」
ときたま親族の集まりがあると、最後は二人で黙って酌み交わしていた。だれもそれを邪魔しなかった。子供らが父親の思い出に次いで、から祖父、そして祖母らの思い出話を語るのを、母はそっと聞いていた。
舅は長兄が小学生の時に、今でいう脳出血でころっと逝ってしまった。昔堅気で外ではよくしゃべるのに家では口数の少ない男性だった。姑も自分たちのことは語らず、遺品を整理していたら女学校の卒業証書が出てきて驚かされた。夫も兄弟も誰も知らず、ただ、あの年代にしては難しい漢字も知っているとは思っていたそうだ。
子供らの話が自分の両親のことに及ぶと、澄まして弁当に手を伸ばす。この歳になって初めて両親のなれそめをきくことになるとは、娘の自分には言いたくないことも多々あったのだろう、肝心なことは何も知らないままだった。自分でも子供らには気恥ずかしくて話せないことがある。若いころふたりでオートバイで海に行ったことも話したことはない。長男が幼い頃にトラックで海に行ったのも彼は覚えていないだろう。
「親父に頼んだのはじいさんか? じいさんも誰かに頼まれたのか?」
「かもね、外国、南国にいってみたいとは言ってたけど、叶わなかったものなぁ。父さんが果たしてたら私らはなんも知らないままだったんだから、それでいいんだろ」
「そうねぇ」
みんな胸に秘めて持っていくことのひとつやふたつ、ある。子供らの含みを持った会話に、母は聞こえないふりを続けた。
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