Bittersweet Ender 【完】

えびねこ

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願わくは

10.

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 すったもんだありつつも皆ほぼ今まで通りの生活を続け(られ)ている。千晶は南極でスノーモービルに牽かれることも、東京湾に浮かぶこともなく。慎一郎もこの5年でそれなりの人選で脇を固めての蛮行だったのだから。彼もまたアラスカに送られることもなく、多摩川で泳ぐこともなく。

 慎一郎側は金で解決させようとはしなかったし、千晶側もなぁなぁ穏便に済ませる態度はとらなかった。よくある解決策に走るならもっと早くに当人たち抜きで手打ちにしていただろう。

 慎一郎は千晶に説明した以上のことは口にしなかった。千晶も子供のことに関しては黙秘を貫き、慎一郎もなにひとつ詫びることはなかった。
 ラスカルズについてはなんの手続きもされていなかった。つまり選択肢は残されたままだ。

『あーあ、やっちゃった』『慎ちゃんが前科者でもあたしたち困らないしねー』『僕たちのことより、まずは二人が夫婦になれるか、そこがだいじでしょ』彼らはしれっと慎一郎らにのたまい、千晶にだけ舌を出してウインクしてみせた。

 住まいも今まで通り、慎一郎がやってくる――帰宅する頻度が格段に増えただけ。千晶が帰京時の部屋探しを弟と友人に頼み、希望の学区に格安でペット可のルーフテラス付き2LDKが見つかったのは偶然だ。ただし、子供らは既に不登校気味である。



「おかえりー」  
「ただいま」

 インターフォンを押さずに玄関を開けたのに、待ち構えていたようにツインテールが壁から顔を覗かせる。以前はこんばんは、お疲れ様とやりとりしていた。小さな言葉の変化が慎一郎は嬉しい。

「ひよちゃん、ブラン ただいま」
 床の上のベッドの老猫はもう出迎えず片目を開けるだけだ。そんな横着さも愛しいと膝をついて猫たちの頭を撫でる。そして部屋に漂うスパイスの香り。
「おかえりなさい、今日はキーマカレーです」
「ホワイトソースもつくったからーあたしとあこちゃんはドリアにするー。あとーおやつにシナモンロール焼いたの、小豆とレーズンと――」
「楽しみだ、先にお風呂入っちゃおうか」

 毎週金曜日は鍋一杯にカレーやシチューを作りおき、週末を食べつなぐ。


 あれは二人がまだ幼いころ、千晶が呼び出しを受けて三人で留守番をしていた。辛くないカレーを食べながらこういうのもいいねと他愛ない話をしていた。そこでつい口が滑った。
『アキはきみたちの父親についてなんて言ってるの?』
 二人は顔を見合わせてから面倒くさそうに向き直り。
『そういうのはさぁ、おとなならわかってよ』
『シンちゃんには教えてあげるよ、あのね、耳かして。――なひとだって』
『……』
『シンちゃ、ひみつだからね。さんにんだけのひみつだよ、あこちゃんはオニババだからね。やつざきにされてシチューにされちゃうからね』
 
 たまに会えればよかった、それだけで十分だと思ったのに。

『重たい荷物は一緒に持つと軽くなるよ、直ちゃんに渡すまでの間でしょ?』

 千晶が慎一郎と直嗣のことを話したとは思えなかった。家のことも。子供らの言葉に、やっぱり欲が湧いてしまった。
 シチューにされて食べられるなら本望だ。でも、まだ食べられるわけにはいかない。


 千晶の手抜――合理的メニューも変わらない。サイドメニューは島民からの差し入れに代わり、宅配のミールキットと家庭菜園の成果が並ぶ。猫たちのスぺシャルは刺身からクリームへ。

「ただいまぁー、お腹空いたー」
「おかえりー、ちょうど焼けたよ」

 遅れて帰ってきた千晶と共に皆で一日の出来事を振り返る――仕事も守秘義務に触れないことは報告し合う。そこへラスカルズが『ぼくらの考える最強』を突っ込んでくる、慎一郎にはそれがたのしい。たのもしい。



 慎一郎の祖父が千晶に問うた。

「千晶さん、これでも可愛い孫でね」
「いいえ。殿方の許すってなかったことにしてしまうでしょう、二度と追及を許さない。私には無理です」
「では、どうする」
「さぁ、好きにしたらいいと思います。気が済むまでやったらいい。黙って受け入れたら未消化のままでずっと過ごすことになる。たとえ無駄な抗いでも、たどり着く先が同じでも」

 問答はかみ合っていないようで通じている。譲歩も提案もない千晶の他人事な言い方を、慎一郎も他人事のように聞き、軽く肩を下げた。千晶の横に座る兄も他人事のように聞き流し、出された茶とどら焼きを妹のぶんのまで平らげる。
 祖父も海千山千、こういう輩を交渉に引きずりだす手段は心得ている、が、そうしなかった。

「もう答えは出ていても、か」

「だからですよ」

 最後の答えは千晶より先に慎一郎が口にした。
 
 千晶の兄は満足そうに腹をさすり、馬鹿は死ぬまで治んねーと笑った。そっくりだな、直嗣は誰にも聞こえない位に小さくつぶやき、自分のどら焼きを半分にして無言で千晶に渡した。千晶はその白あんのどら焼きの断面をみつめてふっと微笑み、言った。
 
「そしていつか、あんなことはどうでもいいことだったと思える日がきたら、いいんじゃないですか」

 祖父は孫とつれあいを見てふっと笑い、父親はしかめっ面のままにこりともしなかった。彼が蚊帳の外に置かれて拗ねているのは皆わかっている。素直になれない理由も。彼自身も千晶に対する態度が八つ当たりなのは自覚している、自分がまず誰と向き合うべきなのかも。

 食べないのか――と訊くなり祖父は答えを待たずに息子のどら焼きを搔ってかぶりついた。息子は表情を変えなかったが、また血圧が上がったようだ。
 慎一郎は自分のどら焼きを半分に割り、小さいほうを無言で父親に差し出した。
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