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蓋然
6.
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「彼女は何も悪くない」
感情の読めない慎一郎に兄は薄い笑みを返す。
「ふーん、それはどういう意味かな。あれ、そもそも君らってどういう関係だっけ? ちあが付き合うのって毒にも薬にもなんないような、ああ、お友達だっけ、あいつは友達のほうがいい男ばっかで笑うよな。ま、建前なんでどうでもいい、尊敬し、互いに高め合っていくならね。我唯知足、我唯足知――」
今度は人と人、男女のあるべき理想を、そして釣り合いをも語る。
兄の不健全な行いを見せつけられ、とばっちりを受けてきた七海は開いた口が塞がらない。慎一郎もあなたには、という空気が流れる。
七海はスリッパを脱ぎ、手に持ち替える。可愛らしいウサギの耳付きもふもふスリッパ。
「どの口が言ってんだよ」
振り下ろしたスリッパは空を切り、慎一郎の鼻先を掠めた。
お約束は受け止めてこそ男と言ったのは誰だったか。
「お前はどっちの味方なんだよ」
「万理さんにだけは言われたくないね」
「はぁん、最近はあの子一人か、ちょっと続いてるからって偉そうに。んふふ、まともなお付き合いって10年ぶりか、今が一番楽しいよね七海くん」
兄のニヤニヤと生暖かい笑みが、弟をどす黒く染めていく。
「刺激が足りなくなったら呼んでねぇ――あの澄ました顔を(以下自粛)」
「カズさぁ、我が世の春がいつまでも続くと思ってんなよ」
兄弟の間に慎一郎が割入る。今日は低俗さが薄れていたと思えばこれか、千晶も苦労する訳だ。
「ま、いい大人のすることだから合意ならいいさ。え? まさかね。それなら生きてここにいないか。おお、失礼。どんな趣向があろうとも紳士だろうね。さて、千晶が悪くないってどういう意味かな。100%の確実性が担保された方法があったかな?」
「ネチネチとしつこいな、マリちゃんは要点も纏められないのかな」
「ネチネチって、モモちゃんには言われたくないなぁ」
モモって誰だよ、もう誰のガス抜きなのかわからない。慎一郎がまた手で制すると、兄はまた向き直った。
「トドちゃんも人がいいねぇ、そんなんじゃ足元掬われるよ。シラを切り通せって、な。こればっかりは男に不利だよね、君がむりやり搾り取られたって言っても負けるんだ、なぁ」
「まぁね、…うぇ、だとしても今じゃないでしょ」
厭な思い出が甦った弟は手で口を抑える。
「わからんよ、俺の先輩で4年と6年の夏に産んだ人がいてな。研修1年延ばしたけど若いうちでよかったと言ってたぞ。考えてみろ、三か月現場離れたらどうなるか。そこで脱落してくん――」
少数の成功例を一般論に語るなど愚の骨頂、生殖可能年齢と最適時の差異と社会的背景の偏移がと、また弟と兄で(以下略)。
鍋は食べごろだ。
「カズさぁ、どうせなら俺ら兄弟ぐるみで某国の手先とか面白いこと言えよ」
「「……」」
言ってみてやっぱないわと気まずそうな顔をした弟。おいおい、幾らなんでも千晶のハニトラはねーだろ、と残念な目の兄。
慎一郎も困惑を隠せない。笑いも真面目にもとれない、この空気の残酷さ。
猫まで顔を洗っていた前足を降ろし、微妙な顔で三人を見ている。
「ひよちゃんがひよった」
「「……」」
猫の口元が歪み、舌打ちのような音がした。
全部なかったように七海は黙って鍋を食卓に移し、ケトルを取りに行った。
兄も再び慎一郎に向き合う。
「なぁ、お前がそう言っても、廻りは既成事実の為に千晶が嵌めたと思うんだよ。病気なのかと思って病院へ行ったって、抜けてる所はあったけどあそこまで馬鹿だとは思わなかったよ。けど、それだけ千晶が疑わない位に今まではきちんとしてたんだろ。ま、誰しもうっかりはあるよな。もう二度と失敗しないように手を貸そうか。なぁに君にも事情はあるだろう、二三日の猶予はあげるよ、保管先も君に選択権がある、数か所に分散すれば保険として十分だろう。ああ、そこも手伝おうか、安心して俺はあいつほど鬼じゃないからね、」
弟とのやりとりで離した手が、再び慎一郎の胸ぐらを掴み、さらに一段あがる。言葉と裏腹に力が強くなる。
「それでいい」
兄は掴んだ手を一度放してそのままの位置――慎一郎の首に置く、さっぱりと未練のない顔を見つめる。頸動脈にあてた親指と中指を軽く力を込める。
暫し間を置いたあとで手を放し、頭を押しやると、憐みとも怒りとも取れない表情を浮かべた。
「ぬるいこと言ってんじゃねぇよ、手前の始末は手前でつけろ」
殴られ、責任をとれと言われたほうがどれほどましだろう。緩慢なる自殺も許さない。己のずるさをばっさりと切り捨てられ、慎一郎は再び自分に向き合う。
「カズー、もういいんじゃない? アキは何も言ってないんだよ」
「あぁ? 何も?」
「うん、連絡したら殴ったのは顔が気に入らなかったから、蹴り上げたのはなんとなくだって。ついでにてっぺんを毟ってやればよかったってさ」
兄の視線がつまらなそうに慎一郎の顔から頭上に移動する。弟もつまらなそうなのは、兄が下手を打たなかったから。
「なんとなくって、ちあはそのうち『太陽が眩しかったから』とか言いだすんじゃね?」
「毟るものがなければそうなるかもね」
「にゃっ」
「……(ひよちゃんまで)」
「救いようが無いねぇ――アホらし。とんだ茶番だ。ナツ、お前もだぞ最初から言え、お兄さま一人でバカみたいじゃない。
優しい千晶のことだ、余命幾ばくもない薄幸な美青年と、昼休み中庭で語らう逢瀬――誰がために風の吹く、そは... ふと口をついて出たそんな詩を、私の背に――」今度は純文学風を臨場感たっぷりに話し始めた。
どこまで演技なのか、本気なのか。全てが突っ込みどころだが、七海はもう兄の相手はしなくていいと首と手を振る。
「アキなりに考えはあるんでしょ、かなり不器用だけどね。その茶番に伸るか反るか」
「さぁてね」
とぼけた兄は電話の電源を落とし、怪しげな箱に入れて蓋を閉めると「プリンじゃ足りねぇ、酒酒」と棚を物色し始めた。
「無条件で、か」
慎一郎がぽつりと口にすると弟はふふ、と笑った。BGMにメタルソングの口笛が聞こえてくる。一度聞くと数日は耳から離れないフレーズ。アポカリプスを謳う曲は何を意味しているのか。
『あなたは誰かを無条件で信じられる?』初めて会った七海が口にした言葉。今こそ問われている。
誰も核心に触れない。こんな事例を分析してみる。一番わかりやすいのは金か。サスペンスドラマなら恨みを買った復讐か、現実的な線なら乗っ取りか。ならば出会いから仕組まれ、――疑心を抱けばキリがない。
それは彼らとて同じこと。彼女の平穏な幸せを願うなら俺は。
「カズは覚えてるかな、『なんでもお手伝い券』ってのも残ってるんだ」
ハイエナ並みの嗅覚で押し入れから千晶の秘蔵酒を探し当てた兄を、弟は楽しそうに眺める。
他人事のようでいて過去も未来も全てを飲み込む彼に、敵わない。
「父方の祖父に言われた。『お前がすべてを奪われても、まだ差し出せるかだ』ってね」
七海は何のことかと聞き返さず、ただ目を細め口角を上げた。猫は一度瞬きをし、腰を下ろした慎一郎の膝に乗り、腕をちょいとつついた。七海が水煮の鱈を慎一郎に渡す。
兄が湯呑を三客持って来て、酒の封を切る。
――どうする? 答えはひとつしかないだろう。
感情の読めない慎一郎に兄は薄い笑みを返す。
「ふーん、それはどういう意味かな。あれ、そもそも君らってどういう関係だっけ? ちあが付き合うのって毒にも薬にもなんないような、ああ、お友達だっけ、あいつは友達のほうがいい男ばっかで笑うよな。ま、建前なんでどうでもいい、尊敬し、互いに高め合っていくならね。我唯知足、我唯足知――」
今度は人と人、男女のあるべき理想を、そして釣り合いをも語る。
兄の不健全な行いを見せつけられ、とばっちりを受けてきた七海は開いた口が塞がらない。慎一郎もあなたには、という空気が流れる。
七海はスリッパを脱ぎ、手に持ち替える。可愛らしいウサギの耳付きもふもふスリッパ。
「どの口が言ってんだよ」
振り下ろしたスリッパは空を切り、慎一郎の鼻先を掠めた。
お約束は受け止めてこそ男と言ったのは誰だったか。
「お前はどっちの味方なんだよ」
「万理さんにだけは言われたくないね」
「はぁん、最近はあの子一人か、ちょっと続いてるからって偉そうに。んふふ、まともなお付き合いって10年ぶりか、今が一番楽しいよね七海くん」
兄のニヤニヤと生暖かい笑みが、弟をどす黒く染めていく。
「刺激が足りなくなったら呼んでねぇ――あの澄ました顔を(以下自粛)」
「カズさぁ、我が世の春がいつまでも続くと思ってんなよ」
兄弟の間に慎一郎が割入る。今日は低俗さが薄れていたと思えばこれか、千晶も苦労する訳だ。
「ま、いい大人のすることだから合意ならいいさ。え? まさかね。それなら生きてここにいないか。おお、失礼。どんな趣向があろうとも紳士だろうね。さて、千晶が悪くないってどういう意味かな。100%の確実性が担保された方法があったかな?」
「ネチネチとしつこいな、マリちゃんは要点も纏められないのかな」
「ネチネチって、モモちゃんには言われたくないなぁ」
モモって誰だよ、もう誰のガス抜きなのかわからない。慎一郎がまた手で制すると、兄はまた向き直った。
「トドちゃんも人がいいねぇ、そんなんじゃ足元掬われるよ。シラを切り通せって、な。こればっかりは男に不利だよね、君がむりやり搾り取られたって言っても負けるんだ、なぁ」
「まぁね、…うぇ、だとしても今じゃないでしょ」
厭な思い出が甦った弟は手で口を抑える。
「わからんよ、俺の先輩で4年と6年の夏に産んだ人がいてな。研修1年延ばしたけど若いうちでよかったと言ってたぞ。考えてみろ、三か月現場離れたらどうなるか。そこで脱落してくん――」
少数の成功例を一般論に語るなど愚の骨頂、生殖可能年齢と最適時の差異と社会的背景の偏移がと、また弟と兄で(以下略)。
鍋は食べごろだ。
「カズさぁ、どうせなら俺ら兄弟ぐるみで某国の手先とか面白いこと言えよ」
「「……」」
言ってみてやっぱないわと気まずそうな顔をした弟。おいおい、幾らなんでも千晶のハニトラはねーだろ、と残念な目の兄。
慎一郎も困惑を隠せない。笑いも真面目にもとれない、この空気の残酷さ。
猫まで顔を洗っていた前足を降ろし、微妙な顔で三人を見ている。
「ひよちゃんがひよった」
「「……」」
猫の口元が歪み、舌打ちのような音がした。
全部なかったように七海は黙って鍋を食卓に移し、ケトルを取りに行った。
兄も再び慎一郎に向き合う。
「なぁ、お前がそう言っても、廻りは既成事実の為に千晶が嵌めたと思うんだよ。病気なのかと思って病院へ行ったって、抜けてる所はあったけどあそこまで馬鹿だとは思わなかったよ。けど、それだけ千晶が疑わない位に今まではきちんとしてたんだろ。ま、誰しもうっかりはあるよな。もう二度と失敗しないように手を貸そうか。なぁに君にも事情はあるだろう、二三日の猶予はあげるよ、保管先も君に選択権がある、数か所に分散すれば保険として十分だろう。ああ、そこも手伝おうか、安心して俺はあいつほど鬼じゃないからね、」
弟とのやりとりで離した手が、再び慎一郎の胸ぐらを掴み、さらに一段あがる。言葉と裏腹に力が強くなる。
「それでいい」
兄は掴んだ手を一度放してそのままの位置――慎一郎の首に置く、さっぱりと未練のない顔を見つめる。頸動脈にあてた親指と中指を軽く力を込める。
暫し間を置いたあとで手を放し、頭を押しやると、憐みとも怒りとも取れない表情を浮かべた。
「ぬるいこと言ってんじゃねぇよ、手前の始末は手前でつけろ」
殴られ、責任をとれと言われたほうがどれほどましだろう。緩慢なる自殺も許さない。己のずるさをばっさりと切り捨てられ、慎一郎は再び自分に向き合う。
「カズー、もういいんじゃない? アキは何も言ってないんだよ」
「あぁ? 何も?」
「うん、連絡したら殴ったのは顔が気に入らなかったから、蹴り上げたのはなんとなくだって。ついでにてっぺんを毟ってやればよかったってさ」
兄の視線がつまらなそうに慎一郎の顔から頭上に移動する。弟もつまらなそうなのは、兄が下手を打たなかったから。
「なんとなくって、ちあはそのうち『太陽が眩しかったから』とか言いだすんじゃね?」
「毟るものがなければそうなるかもね」
「にゃっ」
「……(ひよちゃんまで)」
「救いようが無いねぇ――アホらし。とんだ茶番だ。ナツ、お前もだぞ最初から言え、お兄さま一人でバカみたいじゃない。
優しい千晶のことだ、余命幾ばくもない薄幸な美青年と、昼休み中庭で語らう逢瀬――誰がために風の吹く、そは... ふと口をついて出たそんな詩を、私の背に――」今度は純文学風を臨場感たっぷりに話し始めた。
どこまで演技なのか、本気なのか。全てが突っ込みどころだが、七海はもう兄の相手はしなくていいと首と手を振る。
「アキなりに考えはあるんでしょ、かなり不器用だけどね。その茶番に伸るか反るか」
「さぁてね」
とぼけた兄は電話の電源を落とし、怪しげな箱に入れて蓋を閉めると「プリンじゃ足りねぇ、酒酒」と棚を物色し始めた。
「無条件で、か」
慎一郎がぽつりと口にすると弟はふふ、と笑った。BGMにメタルソングの口笛が聞こえてくる。一度聞くと数日は耳から離れないフレーズ。アポカリプスを謳う曲は何を意味しているのか。
『あなたは誰かを無条件で信じられる?』初めて会った七海が口にした言葉。今こそ問われている。
誰も核心に触れない。こんな事例を分析してみる。一番わかりやすいのは金か。サスペンスドラマなら恨みを買った復讐か、現実的な線なら乗っ取りか。ならば出会いから仕組まれ、――疑心を抱けばキリがない。
それは彼らとて同じこと。彼女の平穏な幸せを願うなら俺は。
「カズは覚えてるかな、『なんでもお手伝い券』ってのも残ってるんだ」
ハイエナ並みの嗅覚で押し入れから千晶の秘蔵酒を探し当てた兄を、弟は楽しそうに眺める。
他人事のようでいて過去も未来も全てを飲み込む彼に、敵わない。
「父方の祖父に言われた。『お前がすべてを奪われても、まだ差し出せるかだ』ってね」
七海は何のことかと聞き返さず、ただ目を細め口角を上げた。猫は一度瞬きをし、腰を下ろした慎一郎の膝に乗り、腕をちょいとつついた。七海が水煮の鱈を慎一郎に渡す。
兄が湯呑を三客持って来て、酒の封を切る。
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