Bittersweet Ender 【完】

えびねこ

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蓋然

5.

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 玄関から音がした。高遠家の玄関は開けるとチャイムの鳴る引き戸だ。アイーダの勝ちて帰れ(※愛と祖国の間で揺れ惑う歌)が近づいてくる。音域はアルト。
「いい声だね…」
「34時間のあとだからちょっと意味不明かも、」
 つみれを混ぜる手を止め、ちょっと付き合ってやってよ、と七海が目線を送る。もう一晩経過すると大人しいんだけどね、となにやら不穏な発言が続いた。

「そおおれ えこぅ」
 鮮やかな紅色のカニ面から顔を除かせた兄の表情が、いたずら好きの道化から、あれよと変化する。勘が良すぎるのか、露骨に、よりによってコイツかよって顔だ。
 なぜなら弟が兄に帰宅を促した、まず、ないことだ。それでも大げさに手をひろげ、頬をよせる。

「トーーードちゃん久しぶり、どーよ。 帰ってきたの? ん、まだ? そう。テンプルにいた先輩は戻されちゃってね」
「アキに何も言われず殴られたってさ」
 前置きはいいからと、弟は兄からカニを引きはがすと、バリバリともぎ始めた。
「それはそれは愚妹が申し訳ない――ったく女てのは勝手に怒り出すわ、手が出るわ、感情的で手に負えない。どれ、ところでトドちゃん鍋の締めは雑炊だよね? え、ラーメン?」
 猫は兄の手に残ったビニール袋に顔を突っ込み、おまけの殻付きホタテと鮭にロックオン。
「今日はうどんだよ、ひよはあとで」
 七海がやれやれとビニール袋を取り上げ、首を振った。

 慎一郎と兄は手を洗い、板の間へ移動する。
 
「ここは? これ何本に見えます? うーん、加療を要するほどじゃないな。素手? 平手? ぐー? 避けちゃいました? 様式美は受け止めないと。のっそいから、つい避けちゃうんだよね」
 兄がわざとらしく、しかし真面目な顔で頬を確認する。回りくどいところが千晶とそっくり。
 頬をつまみ触れられまじまじと観察される。髭は剃ってあるが、髪は伸ばしっぱなし。ちょっと疲労の影が男前を更に引き立てていて至近距離で見られると別の道が開け――はしない。

「ひよ、こっちにおいで。おまけに金蹴りくらったって」
 弟は土鍋をストーブに掛け、猫をこたつに避難させる。『季節外れのサンタからすっごいの届いたよ』などと兄がのたまったばかりに父に殴られたのを、今、思い出した。

「それはまた酷いことを。女はあの痛みってもんがわかってない。どこかの鬼女は何かってぇと足で踏みつけ蹴り上げ、ひどいときは針や割りばしを――」
「ちょっかい出す野郎が悪い、風呂上がりに丸出しでうろついてる野郎が悪いんだよ」
「……」
 窮鼠猫を嚙む、小学生みたいなくだらないやりとりが簡単に想像できて、慎一郎は困ったもんですね的な顔をしたつもりが――目に笑いとも喜びともつかないが輝きが出てしまった。

「ああ、そういう嗜好ならなおさら合意でないとね。え、違う? まぁまぁ恥ずかしがらなくても。参考までに聞いてもいいかな、何がきっかけで目覚めたの? 嗜虐性は抑圧化下からの――(中略)――信頼関係あっての駆け引きなのにね。ちょっといいかな見せてもらって。場合によっては暴行罪位には訴えられるよ」
「もう大丈夫ですから」
「今はなんともなくても、後から――」
「いや本当に」
 見るだけじゃ済まないだろう。淡々と詰め寄る相手に、慎一郎は笑顔でベルトをしっかり押さえて拒否する。

「千晶もストレス溜まってんのかね。昔は虫も殺せない、それはそれは優しい少女だったのに、どこで違ったんだか」
「全部カズのせいだろ」
 弟がカセットコンロや追加の野菜を持って茶の間と台所を往復する。ひよはホタテと生鮭を一切れずつ貰った。
「蝶よ花よと育って何になる。昔々、お姉ちゃんの後ろに、ママのあんよに隠れてた少年も立派になって」
 慎一郎の頭には可愛らしい絵が浮かんだが、弟の背からは禍々しい気が立ち昇っている。

「ちあも逞しく、いや図々しくなって。今じゃ『お兄様、今まで食べちゃったプリンに利子付けて返してくれるって言ったよね』って、当直明けでもかまわずこき使いやがって。トドちゃん、君は今までに食べたプリンやアイスの数を覚えているかい? あいつはネチネチと過去を蒸し返してきてね、ザル頭(※兄弟比)のくせにくだらないことだけはしっかりと覚えてるんだ」

 兄が熱を出して苦しんでいる時に昔のことをぐちぐちと責め立てて『悪かった。プリンの詫びは返すから』と言質を取ったとんでもない妹だ。身内の恥を晒すのも忍びないが、俺の苦労もわかってくれと詰め寄り始めた。

「蒸し返すも何もアキは一度も許してなかったでしょ」
 勝手に喰った兄が悪い、都合よく改竄された記憶はザルより質が悪い、と七海は冷たい視線を送る。言質は録画あんどバックアップ済み。

「食べ物のことで騒ぐとははしたない、一つ取られたらもう一つ差し出す位の余裕を持ちなさい、ねぇトド君」
 七海は覚えておけよと鼻で笑う。
「時と場合によりますね」慎一郎は頷きとかぶりを振る。弟にショートケーキの苺を譲っても、パリブレストの苺をかっさらったジョナサン許すまじ。彼はおっとり顔で『食べないから嫌いなのかと思ったよ』。つまらないことを思い出したが、そうじゃない。
 七海が兄の話をした意味を理解した、千晶と、兄の意図も。誰に何が必要か、彼らはよくわかってる。
 あーーーっと声には出さず項垂れた。
 自分がとてつもなく変な顔をしている自覚があった。

「トドちゃんさぁ」
「もういいから、さっさと進めてよ」
 七海はストーブの上の鍋につみれを投入していく。
「んー? なんだっけ? ああそうだ」
 一旦離れて戻ってきた兄が慎一郎に手渡す。名刺入れに避妊具2つと銀色の包みの錠剤も2錠。
「千晶にはずっと持たせてたよ、知ってたかな」言い終わる前に胸ぐらを掴む。兄のほうが背は少し高く、体躯はずっと筋肉質だ。慎一郎の踵が浮く。

 緩んだ顔を締め直し、二度の問いのどちらにも頷いた慎一郎。

「自分の身を守れるのは自分だけ、」兄が日本の犯罪傾向にお粗末な教育と意識と法律をぐちぐちと語りだす。
 この手の話をしてきたのは彼で何人目だったろう、慎一郎はこくこくと頷く。
「高遠センセイ、ごもっともな意見だけど、論点はそこじゃないでしょ」
「そうだね、トド君はしっかりしてるものね。それに女の持ってきたモン使うほどあほじゃないよな。あいつ体調管理はしっかりしてたはずなのに。女は怖いよね、ガキなんて嫌い、身体のラインがーキャリアがーっつって」

「彼女は悪くない」
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