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蓋然
7.
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「はい、あと毛布を持ってきたよ」
慎一郎がドアチェーン越しにプリンと甘栗とを差し出すと、住人はありがとうと無表情のまま受け取って、一旦ドアが閉まり、また開いた。
瓶やココットに入ったのはダメ。安すぎるのもダメ。牛乳と卵と生クリームと砂糖とバニラのシンプルなプリン、合格だったようだ。
「どぅのっとあすくみー、らい?」
「っ…仰せのままに」
慎一郎はうやうやしく腰を折る。舌足らずな発音で諜報活動は…これも作戦か、思い出して笑いがこぼれた。時刻は夜八時前、パジャマ姿の住人は、もう省電力モードでぼっさりとしている。だからこそ発した言葉から強い意志を感じた。
「…はぅかむ?」
慇懃な態度の下に隠された軽薄さを千晶がきっちり見咎める。
慎一郎は「ナツ君が――」スパイ疑惑を語り、俺は電話もPCも置いてきた、と両手を上げた。すると千晶はふむっと真面目腐った顔でGPSロガーも検知できる棒を身体にかざし始めた。
慎一郎もそれとなく千晶の身体に目をやる。見てわかる体形の変化に納得したものか、まだどこか現実とも思えない変な感覚に戸惑う。
「ナツのはボケじゃなくてジョークなんだから笑えばいいのよ」
「え、」
「に゛ゃーぅ、しんいちろー、おまえにゃガッカリだぜ。『甘いナツ君も戴けるのかい、楽しみだな。君の姉さんは苦くて喰えたもんじゃなかったよ』って笑い返すとこだろ、けけけっ。そんでカズに――」
七海は黒過ぎる自覚があるから相手を選んで言っている(つもり)、だから笑え。おまけに寒いダジャレの件も舌打ちも黙っていたのに、ひよちゃんで代弁する千晶が空恐ろしい。自分の言葉で話すのは苦手なのに、文章やセリフは実にうまく読み上げる。微妙に口が悪いところから察するに、ひよがフィクサーなのか。彼がその先の地獄絵図を涼しい顔で眺める姿が目に浮かぶ。
「…ハハっ、灰にされそうだ」
「猫が砂をかけて終いね、汝塵ならば塵に還れ」
「後世特別のご高配を賜らんことを」
「焦土の底深くダイヤの残らんことを」
笑えない冗談に重ね、キーケースからチップが出てくると、千晶はおもむろにアルミ箔で覆って返してきた。
「キャットタワーがぐらつくの、靴は脱いでね」
千晶は猫の呼ぶ声にきびすを返す。キルティングガウンを羽織った後ろ姿は華奢なままで、どこか幻めいている。慎一郎はゆっくりと一度瞬きをした。
「馨さんに会ってきたよ、すごい人だ。かの香さんも」
「…そう、連絡先を教えたとは聞いたけれど」
両親の名に千晶は振り返って、悪びれない男の頭からつま先まで目視する。そして、手でちょいちょいと頭を下げるよう促し、髪をなでた。その指が開き、地肌にくしゃりと滑りこむ。
余計なことしやがって、引っこ抜くぞ、だ。
兄弟も両親の連絡先を聞いた慎一郎を『そういうパフォーマンス要らない』と一蹴し、話をきいてた? 頭沸いてんのかよお花畑のあほぼんが と冷たい目で返した。
「高遠さんちの春夏漫才は面白いね『弟よ、無能はどうするんだっけ』『兄上、日本にはバカとハサミは使いようって諺があってね』だってよ」
「やだぁ、誰のことかしら。バカって言うほうがバカなのに。なんとかにつける薬は無いって本当ね」
「死ななきゃ治んないよね」
千晶の言葉にはとげがあるが、口調はゆったりとしていて穏やかだ。鏡越しに合った視線が幾重にも意味を深める。慎一郎は笑いながら手を伸ばし、くるっとカールした毛先に触れる。ほんのり湿り気の残る髪。そのままふわっと抱きしめた。
「何も訊かないんだね」
「ふふ…足はついてるね」
千晶は慎一郎に何も聞くなと言った。慎一郎は千晶に聞いてくれてかまわない、どちらかといえば聞いて欲しい。そんな誘い受けはさらっと流された。
彼女の家族は大人だった。千晶が沈黙を貫いている以上、慎一郎の思い込みを鵜呑みにはしなかった。そして、拒否もしなかった。
聞き手が期待するような、殴られ寒中水泳させられるような山場もなし、目覚めたら線路を枕にというオチもなかった。
「幽霊に足がないのは日本だけだよ」
「…もう一回死んどく?」
慎一郎はコートの前がきっちり閉じてあるのを確かめ、ベルトを押さえた。もういいと覚悟したのに矛盾している。
「…つ」
「?」
靴を脱ごうと身を屈めた慎一郎が顔をしかめて腹を押さえた。一応心配そうな顔をした千晶になんでもないと制す。
「殴ってくれって…弘樹に頼んだら、身構える間もなくくらってね」
「ふーん、変な趣味に目覚めたのねー。付き合ってくれるのは弘樹さんくらいでしょうね」
「ふっ…くっ」
笑うとさらに痛む。
今は何も言えないが――、それでもこのもどかしさをぶつければ、受け止めてくれる相手がいる。
疲れているのか、話なら聞くと言ってくれた友人たち。ヘンタイ趣味に付き合っている暇はないとスルーしたあの男。
慎一郎は子供みたいな自己満足を自虐的に笑う。
千晶が邪悪な笑顔でアヒルの靴ベラを手にとり腹をつつく。それで禊が済んだと思うなよ、そんな顔だ。
「誰のせいで目覚めたと、誠仁にはカウンセラーを紹介されてね、カウンセリングが必要なのは彼のほうだ。そうだろう?」
「あのひとは自分の問題点を自覚してるもの」
改善しようとするかは別問題、そして直そうと思って直せるなら苦労はない。
千晶と誠仁のそういうところが苦手だ、ぷいっと顔を背けるとアヒルが頬をつついてきた。
「彼にだけは心配されたくない、そうだろう?」
「んふふ、男の友情って感じねぇー」
「トモダチじゃない、腐れ縁」
誠仁もまた何も問わなかった。知っているのか知らないのか、どちらにしても彼はデリケートなことは茶化さない。
「俺をヘンタイ呼ばわりするのはアキと誠仁だけだよ」
背を向けてコートを脱ぐと後ろから笑い声がした。
向き直った千晶の手にはマジックハンドが握られていた。
慎一郎がドアチェーン越しにプリンと甘栗とを差し出すと、住人はありがとうと無表情のまま受け取って、一旦ドアが閉まり、また開いた。
瓶やココットに入ったのはダメ。安すぎるのもダメ。牛乳と卵と生クリームと砂糖とバニラのシンプルなプリン、合格だったようだ。
「どぅのっとあすくみー、らい?」
「っ…仰せのままに」
慎一郎はうやうやしく腰を折る。舌足らずな発音で諜報活動は…これも作戦か、思い出して笑いがこぼれた。時刻は夜八時前、パジャマ姿の住人は、もう省電力モードでぼっさりとしている。だからこそ発した言葉から強い意志を感じた。
「…はぅかむ?」
慇懃な態度の下に隠された軽薄さを千晶がきっちり見咎める。
慎一郎は「ナツ君が――」スパイ疑惑を語り、俺は電話もPCも置いてきた、と両手を上げた。すると千晶はふむっと真面目腐った顔でGPSロガーも検知できる棒を身体にかざし始めた。
慎一郎もそれとなく千晶の身体に目をやる。見てわかる体形の変化に納得したものか、まだどこか現実とも思えない変な感覚に戸惑う。
「ナツのはボケじゃなくてジョークなんだから笑えばいいのよ」
「え、」
「に゛ゃーぅ、しんいちろー、おまえにゃガッカリだぜ。『甘いナツ君も戴けるのかい、楽しみだな。君の姉さんは苦くて喰えたもんじゃなかったよ』って笑い返すとこだろ、けけけっ。そんでカズに――」
七海は黒過ぎる自覚があるから相手を選んで言っている(つもり)、だから笑え。おまけに寒いダジャレの件も舌打ちも黙っていたのに、ひよちゃんで代弁する千晶が空恐ろしい。自分の言葉で話すのは苦手なのに、文章やセリフは実にうまく読み上げる。微妙に口が悪いところから察するに、ひよがフィクサーなのか。彼がその先の地獄絵図を涼しい顔で眺める姿が目に浮かぶ。
「…ハハっ、灰にされそうだ」
「猫が砂をかけて終いね、汝塵ならば塵に還れ」
「後世特別のご高配を賜らんことを」
「焦土の底深くダイヤの残らんことを」
笑えない冗談に重ね、キーケースからチップが出てくると、千晶はおもむろにアルミ箔で覆って返してきた。
「キャットタワーがぐらつくの、靴は脱いでね」
千晶は猫の呼ぶ声にきびすを返す。キルティングガウンを羽織った後ろ姿は華奢なままで、どこか幻めいている。慎一郎はゆっくりと一度瞬きをした。
「馨さんに会ってきたよ、すごい人だ。かの香さんも」
「…そう、連絡先を教えたとは聞いたけれど」
両親の名に千晶は振り返って、悪びれない男の頭からつま先まで目視する。そして、手でちょいちょいと頭を下げるよう促し、髪をなでた。その指が開き、地肌にくしゃりと滑りこむ。
余計なことしやがって、引っこ抜くぞ、だ。
兄弟も両親の連絡先を聞いた慎一郎を『そういうパフォーマンス要らない』と一蹴し、話をきいてた? 頭沸いてんのかよお花畑のあほぼんが と冷たい目で返した。
「高遠さんちの春夏漫才は面白いね『弟よ、無能はどうするんだっけ』『兄上、日本にはバカとハサミは使いようって諺があってね』だってよ」
「やだぁ、誰のことかしら。バカって言うほうがバカなのに。なんとかにつける薬は無いって本当ね」
「死ななきゃ治んないよね」
千晶の言葉にはとげがあるが、口調はゆったりとしていて穏やかだ。鏡越しに合った視線が幾重にも意味を深める。慎一郎は笑いながら手を伸ばし、くるっとカールした毛先に触れる。ほんのり湿り気の残る髪。そのままふわっと抱きしめた。
「何も訊かないんだね」
「ふふ…足はついてるね」
千晶は慎一郎に何も聞くなと言った。慎一郎は千晶に聞いてくれてかまわない、どちらかといえば聞いて欲しい。そんな誘い受けはさらっと流された。
彼女の家族は大人だった。千晶が沈黙を貫いている以上、慎一郎の思い込みを鵜呑みにはしなかった。そして、拒否もしなかった。
聞き手が期待するような、殴られ寒中水泳させられるような山場もなし、目覚めたら線路を枕にというオチもなかった。
「幽霊に足がないのは日本だけだよ」
「…もう一回死んどく?」
慎一郎はコートの前がきっちり閉じてあるのを確かめ、ベルトを押さえた。もういいと覚悟したのに矛盾している。
「…つ」
「?」
靴を脱ごうと身を屈めた慎一郎が顔をしかめて腹を押さえた。一応心配そうな顔をした千晶になんでもないと制す。
「殴ってくれって…弘樹に頼んだら、身構える間もなくくらってね」
「ふーん、変な趣味に目覚めたのねー。付き合ってくれるのは弘樹さんくらいでしょうね」
「ふっ…くっ」
笑うとさらに痛む。
今は何も言えないが――、それでもこのもどかしさをぶつければ、受け止めてくれる相手がいる。
疲れているのか、話なら聞くと言ってくれた友人たち。ヘンタイ趣味に付き合っている暇はないとスルーしたあの男。
慎一郎は子供みたいな自己満足を自虐的に笑う。
千晶が邪悪な笑顔でアヒルの靴ベラを手にとり腹をつつく。それで禊が済んだと思うなよ、そんな顔だ。
「誰のせいで目覚めたと、誠仁にはカウンセラーを紹介されてね、カウンセリングが必要なのは彼のほうだ。そうだろう?」
「あのひとは自分の問題点を自覚してるもの」
改善しようとするかは別問題、そして直そうと思って直せるなら苦労はない。
千晶と誠仁のそういうところが苦手だ、ぷいっと顔を背けるとアヒルが頬をつついてきた。
「彼にだけは心配されたくない、そうだろう?」
「んふふ、男の友情って感じねぇー」
「トモダチじゃない、腐れ縁」
誠仁もまた何も問わなかった。知っているのか知らないのか、どちらにしても彼はデリケートなことは茶化さない。
「俺をヘンタイ呼ばわりするのはアキと誠仁だけだよ」
背を向けてコートを脱ぐと後ろから笑い声がした。
向き直った千晶の手にはマジックハンドが握られていた。
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