Bittersweet Ender 【完】

えびねこ

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偶然

6.

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 翌朝、茶の間の隣の和室を、少し開けた襖の間から姉と弟がそっと覗いて笑っている。そこには布団で眠る慎一郎と、その顔にお尻を付けて寝る大猫と、足元にも黒猫もいる。なんともおかしな光景を、弟は写真に納める。

「…懐いてんね」
「ひよがブレインだから」

 慎一郎はまだ夢うつつ。

 ――頭に触れる暖かさと人の倍以上の早さの鼓動。手を伸ばすとふわふわに触れた。ジェットラグの抜けきらない頭にラジオの音声が入ってくる。それから猫と――アキと弟の声も。
 
 それからしばらくして、慎一郎は大猫の視線と鼻息を感じて目を覚ました。

 ――よく寝た。

「おはよう、アキは早出、これ昼に予定がなければ食べくれって。要らなければ俺が大学で売り付ける」
「――頂くよ、おいくら?」
「冗談だよ」

 少し開いた襖を更に開けると弟が声をかけてきた。一度は寝ぼけて千晶に返事をしていたらしい。弟は笑いながら手に持ったいくつかの折り包みを、新聞に持ち替えて差出し、出立までの時間と朝食を確認する。

「何時に出る? 駅まで乗せてくよ」
「ありがとう」

 朝の時間を謙虚さの応酬で無駄にしない、簡潔なやりとりが気持ちいい。弟は声のトーンと話しかたが穏やかで言葉少なさを補って余りある。
 猫がまた家を案内してくれる。昨晩遅くまで付き合ってくれたのは猫だけ。適度に休憩を促すように伸びて邪魔をし、電話中はにゃごなご言って会話に加わろうとし、風呂に布団に先導して見守ってくれた。

 身支度を済ませると朝食が用意されていた。具沢山の味噌汁に卵焼きに紅鮭に五目豆に青菜、にヨーグルト。

「納豆と生卵がダメだって聞いてる、変わってない?」 
「ああ、ありがとう、聞いてるのはそれだけ?」
「それだけだよ、ああ、――期間限定だったのは聞いたよ」
 
「アキらしいな、そして君も」

 弟は軽く目を細めた。
 無関心ではない、詮索する必要がないのだろう。聞きたいことは自分で聞く。千晶と同じ色素の薄い髪と肌、彼は以前より背も伸び甘さのなかに男らしさが見えてきていた。ただ、眼の奥は変わらず読めない。

「それなら聞いてもいい? 仕事は何してるの?」
「ただのリサーチャーだよ、
 はい、どうぞ」

 慎一郎が名刺を差し出すと、ちょっといたずらそうに微笑んだ。

「いいの? 悪用するかもしれないよ」
「悪人なら黙って受け取るさ」

「ふふ、じゃ遠慮なく頂戴いたします。
 改めまして、国立商大、商学部経営学科3年 高遠七海です」

「堅実だね、国際関係論の渡辺先生がそっちに移動したって」
「2年で採りましたよ、なかなか面白い視点のセンセで」
「言いようだね、って普通に話してよ」
 
 軽い振りのあと質疑応答が始まった。推論と検証、行く行くは兄姉のサポートも片隅に考えつつ、キャリアと選択肢を広げたい七海は真剣に慎一郎の意見に耳を傾ける。
 慎一郎も聞き上手で柔軟性に富み、かつ忌憚のない考えを口にする弟は話し相手に十分だった。



 紙のランチボックスの中身はサンドウィッチとささみのフライと鶏のから揚げにポテトサラダに果物。これも夕飯同様シンプルな味付けで、フライの下味はほんのりカレースパイスだった。

 ごちそうさま、新幹線の車内で食べ終えた慎一郎は車内販売を呼び止めてカップアイスとコーヒーを買った。 


 ――穏やかな家だった。
 
 そっけないようで気遣いのある距離感は猫も弟君も同じだった。けっして美味しいとは言い難いコーヒーも、固すぎるアイスも、あわせて食べると、ほろ苦さと甘さと、熱さと冷たさとがまじりあってとてもいい。まるで、彼らのように。


*

「悪いですねスクーターで」 

 弟は丁寧に除菌シートで拭いてからヘルメットを渡す。もう一台も乗れないこともないけれど、と彼の視線の先にあるバイクは、リヤステップはつけたままでシングルシート仕様に換えてあった。
 さらにもう一台、ガレージで一番スペースを占拠している青い車。なかなか拘る性格らしい弟君は、その軽トラの存在を視界から完全に排除していた。
 何も聞かないで、何も聞かないよ、そんな阿吽あうんの呼吸。
 慎一郎は代わりに別の話を振る。

「ナツって呼ぶのは夏生まれだからなの?」
「そう、俺は7月で、アキが9月でしょ、俺は予定日10日前だけど父親鬼畜だよね。そのせいで兄貴がアキを橋の下で拾ったっての、アキはほぼ信じちゃってるの」

 嘘も百遍、母子手帳も戸籍もどうにでも出来ると吹き込まれている。一方の兄は、散歩中の両親が落ちてきた宇宙船の中から発見したことになっている。
 卒業式では兄自身が家族を『宿主一家ホストファミリー』だと周囲に紹介していたが、信じた者はいないだろう。どこかできいたような設定を皆笑って流した。

「自己防衛か」
「兄貴が宇宙人てのはネタで済ませてるくせにね」
「…よく似てたけどね」
「でも他人って言われたほうが気楽でしょ、うちは兄妹で比較されないけど意識せずにいられないから」
「それもそうだね」
「ま、アレが弟でなかっただけマシだよ」

 千晶は兄弟で一番賢いのは七海だと言う、確かにそうだろう。だが、兄は兄で別次元だ。彼が自分の兄だったら、弟だったら――二人で苦笑する。

「兄貴は4月生まれだけど、誰もハルとは呼ばないんだ、わかるでしょ」
「space odysseyか、やばいね」

 エンジンを掛けた弟に続きシートに跨る、オイルの混じった白煙の香りが鼻にくすぐったい。
 
「サインは肩か足を叩いて、1回でスローダウン、2回でストップね」
「okay, booorn to beee~」
「古っ、そこはQuadrophoniaでしょ」
「peoppppple trry~ ってもっと古いじゃないの」
「ふふっ」

 慎一郎がロードムービーの代名詞的な曲を口ずさむと、七海が青春映画を持ち出す。どっちでもいい、気安いやりとりが通じることが二人とも嬉しいのだ。

 七海がスロットルを開けると、慎一郎はニーグリップを利かせ、両手を翼のように広げる。

 ――ベスパでタンデムしたって知ったら彼女はなんて言うだろう。やんちゃな高校生のような童心を笑うだろうか。
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