31 / 138
9月
3.
しおりを挟む
「あー、図書館寄ってくればよかった」
「どうしたの?」
「うーん、ちょっと引用が…タゴール…なくても書けるか。5年前も…」
千晶はダイニングで明日までのレポートをまとめている最中。独り言のようなつぶやきは慎一郎に解決を求めたつもりではなかった。
「何? こっちにあるかな」
「書斎? 入っていいの?」
「どうぞ、PCも使って」
慎一郎が寝室脇の扉を開ける。元はストレージなのか他の部屋より狭く、縦に長い6畳程で、中央にデスクとカウチソファ、両壁面に本棚がしつらえていた。
「すごいね」
「紙のほうが見やすいでしょ」
一般教養と経済分野が一通り揃っているようだった。大学出版の本もあって、例のドッキリのために今まで開かずにしてあったと言った、しようもないな。
もう隠す必要がないとなると、慎一郎も饒舌になる。千晶が尋ねれば、茶化したりせず疑問点やアプローチへのヒントを出し、ある程度千晶の考えが出るとまた対峙する意見も掘り下げてその先も示す。
経済なんて一番無駄な学問だから解はないほうがいいと、照れ隠しのように呟く。
「じゃ、ちょっと借りるね」
モデルルームみたいな他の部屋と違ってここだけは生活感があると千晶は微笑ましく思った。
デスクの上には金平糖。本棚に青いプルバックカー。
そうして千晶が書斎でレポートの続きを書いていると、インターフォンが鳴った、ようだ。話し声が聞こえてきて、気配に振り返ると慎一郎より少し背の高いもやし――もとい細身の男の子が立っていた。
千晶より年下だろうか。あどけなくもある顔には不愉快そうな表情が浮かんでいた。慎一郎より全体的に掘りの浅い顔立ち、ああ、輪郭が似てる。
「こんにちは」
「……おばさん誰?」
年より上に見られるのは慣れているのでどうということはないけれど、おばさん呼びは心中穏やかではいられない。幼稚園児ならともかく自分より図体の大きい相手に言われ、千晶のこめかみがピクリとする。
弟の友人や友人の弟妹が、千晶(の外面)に抱く印象は『優しそうなお姉さん』だ。こうして千晶が微笑んでみせれば、ちょっとはにかんだ反応がかえってくるくらいに(第一印象だけ)は素敵なおねえさん。いつもなら。
「はじめまして、高遠です。弟さん?」
「…ここで何してんの?」
「見ての通りお勉強よ、心配? お兄さんが大好きなんだね」
ぷいと横を向く。図星か。不機嫌さを隠さない青さが微笑ましくもある。
「なーお、弟の直嗣」
遅れてやってきた慎一郎が紹介するが、弟は横を向いたまま。
よくみると左目の下に小さな泣黒子、慎一郎より背が高いのにひょろっとしているせいかどこか頼りない。
「なおつぐさんにしんいちろうさん、で兄弟ね」
「そういうことは思っても口にしなくない?」
「おばちゃんは図々しいものよ」
(おばちゃん…)礼儀正しいはずの二人のぞんざいなやりとり、どうやら先に仕掛けたのは弟だと慎一郎は理解し成り行きを見守る。兄の交友関係には遠慮がちな弟が、初対面でひねた態度を見せている、どういうことなのかと驚きつつ興味津々だ。一方千晶のほうは相手をしていないようでしている、年上の余裕か。
「僕は庶子だから」
「しょし?」
「婚外子」
「ああ非嫡出子ってことね、じゃぁ上にもう一人いるの」
弟が小さく頷く。
「いた、たっとぶほうの尚、オレは直角のなお」
「そう」
「それだけ? なんか言うことないのおばさん」
過去形で性別も濁された意味を汲み取ったのかはわからない。いたずらに微笑んだ千晶が、そっと一言。
「慎ましいに素直かー、兄弟そろって名前負けっ」
「ざけんな」
「直嗣、落ち着いて、ちゃんと通じてるから」
慎一郎が弟の肩に手を乗せると、千晶はただまっすぐにうなずく。批判も憐みもない、ただ言葉だけを理解したという目。ここで根掘り葉掘り聞き出し、聞き出されたところでどうにもならないことだ。
「そういう所はまっすぐだね。そんなに感情的になると周囲に付け込るスキを与えちゃうんじゃないかしら? おばちゃん心配だわー」
わざわざ口元に片手をやってオバちゃんな態度だが、わざとらしい程まったく似合っていない。弟はまたぷいと横を向く。
「そうだ、マカロンとシュークリームがあるの、直嗣さんはアレルギーとかあるかしら? 飲み物は何がいい?」
「アッサム、F&Mでいいよ」
「はいはい、おばちゃん美味しく煎れられるかな」
書斎を出て行った千晶の遠回しな意味が分かった慎一郎が一人頷く。何か小細工する気だろう。あれだけ言った相手に飲み物を任せる直嗣にも笑いが込み上げる。
「なんなんですかあのひと、僕たちの名前には突っ込んでおいて親はスルーですか」
「模範的な家庭論が聞きたかったの?」
珍しくぶつかってくる弟を兄はじっと見つめる。
「それは……、ずっと気にされたくなかったのに、軽蔑も同情もされたくなかったはずなのに、いざスルーされたらこんなはずじゃないと腹立たしく思ってしまって」
弟も自身の感情を持て余したように、かぶりを振る。
「ああ、最初はそんなもんだよ。俺だってボンボン扱いが嫌だったのに、されなきゃ他物足りなかった。人のアイデンティティは肯定感より否定感で成り立ってるのかもしれないね」
「そう…なのかな」
「それより結果出たんだろ、お茶にしよう」
兄は弟の背を押しダイニングへ向かう。
「どうしたの?」
「うーん、ちょっと引用が…タゴール…なくても書けるか。5年前も…」
千晶はダイニングで明日までのレポートをまとめている最中。独り言のようなつぶやきは慎一郎に解決を求めたつもりではなかった。
「何? こっちにあるかな」
「書斎? 入っていいの?」
「どうぞ、PCも使って」
慎一郎が寝室脇の扉を開ける。元はストレージなのか他の部屋より狭く、縦に長い6畳程で、中央にデスクとカウチソファ、両壁面に本棚がしつらえていた。
「すごいね」
「紙のほうが見やすいでしょ」
一般教養と経済分野が一通り揃っているようだった。大学出版の本もあって、例のドッキリのために今まで開かずにしてあったと言った、しようもないな。
もう隠す必要がないとなると、慎一郎も饒舌になる。千晶が尋ねれば、茶化したりせず疑問点やアプローチへのヒントを出し、ある程度千晶の考えが出るとまた対峙する意見も掘り下げてその先も示す。
経済なんて一番無駄な学問だから解はないほうがいいと、照れ隠しのように呟く。
「じゃ、ちょっと借りるね」
モデルルームみたいな他の部屋と違ってここだけは生活感があると千晶は微笑ましく思った。
デスクの上には金平糖。本棚に青いプルバックカー。
そうして千晶が書斎でレポートの続きを書いていると、インターフォンが鳴った、ようだ。話し声が聞こえてきて、気配に振り返ると慎一郎より少し背の高いもやし――もとい細身の男の子が立っていた。
千晶より年下だろうか。あどけなくもある顔には不愉快そうな表情が浮かんでいた。慎一郎より全体的に掘りの浅い顔立ち、ああ、輪郭が似てる。
「こんにちは」
「……おばさん誰?」
年より上に見られるのは慣れているのでどうということはないけれど、おばさん呼びは心中穏やかではいられない。幼稚園児ならともかく自分より図体の大きい相手に言われ、千晶のこめかみがピクリとする。
弟の友人や友人の弟妹が、千晶(の外面)に抱く印象は『優しそうなお姉さん』だ。こうして千晶が微笑んでみせれば、ちょっとはにかんだ反応がかえってくるくらいに(第一印象だけ)は素敵なおねえさん。いつもなら。
「はじめまして、高遠です。弟さん?」
「…ここで何してんの?」
「見ての通りお勉強よ、心配? お兄さんが大好きなんだね」
ぷいと横を向く。図星か。不機嫌さを隠さない青さが微笑ましくもある。
「なーお、弟の直嗣」
遅れてやってきた慎一郎が紹介するが、弟は横を向いたまま。
よくみると左目の下に小さな泣黒子、慎一郎より背が高いのにひょろっとしているせいかどこか頼りない。
「なおつぐさんにしんいちろうさん、で兄弟ね」
「そういうことは思っても口にしなくない?」
「おばちゃんは図々しいものよ」
(おばちゃん…)礼儀正しいはずの二人のぞんざいなやりとり、どうやら先に仕掛けたのは弟だと慎一郎は理解し成り行きを見守る。兄の交友関係には遠慮がちな弟が、初対面でひねた態度を見せている、どういうことなのかと驚きつつ興味津々だ。一方千晶のほうは相手をしていないようでしている、年上の余裕か。
「僕は庶子だから」
「しょし?」
「婚外子」
「ああ非嫡出子ってことね、じゃぁ上にもう一人いるの」
弟が小さく頷く。
「いた、たっとぶほうの尚、オレは直角のなお」
「そう」
「それだけ? なんか言うことないのおばさん」
過去形で性別も濁された意味を汲み取ったのかはわからない。いたずらに微笑んだ千晶が、そっと一言。
「慎ましいに素直かー、兄弟そろって名前負けっ」
「ざけんな」
「直嗣、落ち着いて、ちゃんと通じてるから」
慎一郎が弟の肩に手を乗せると、千晶はただまっすぐにうなずく。批判も憐みもない、ただ言葉だけを理解したという目。ここで根掘り葉掘り聞き出し、聞き出されたところでどうにもならないことだ。
「そういう所はまっすぐだね。そんなに感情的になると周囲に付け込るスキを与えちゃうんじゃないかしら? おばちゃん心配だわー」
わざわざ口元に片手をやってオバちゃんな態度だが、わざとらしい程まったく似合っていない。弟はまたぷいと横を向く。
「そうだ、マカロンとシュークリームがあるの、直嗣さんはアレルギーとかあるかしら? 飲み物は何がいい?」
「アッサム、F&Mでいいよ」
「はいはい、おばちゃん美味しく煎れられるかな」
書斎を出て行った千晶の遠回しな意味が分かった慎一郎が一人頷く。何か小細工する気だろう。あれだけ言った相手に飲み物を任せる直嗣にも笑いが込み上げる。
「なんなんですかあのひと、僕たちの名前には突っ込んでおいて親はスルーですか」
「模範的な家庭論が聞きたかったの?」
珍しくぶつかってくる弟を兄はじっと見つめる。
「それは……、ずっと気にされたくなかったのに、軽蔑も同情もされたくなかったはずなのに、いざスルーされたらこんなはずじゃないと腹立たしく思ってしまって」
弟も自身の感情を持て余したように、かぶりを振る。
「ああ、最初はそんなもんだよ。俺だってボンボン扱いが嫌だったのに、されなきゃ他物足りなかった。人のアイデンティティは肯定感より否定感で成り立ってるのかもしれないね」
「そう…なのかな」
「それより結果出たんだろ、お茶にしよう」
兄は弟の背を押しダイニングへ向かう。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
ヤンデレ男に拐われ孕まセックスされるビッチ女の話
イセヤ レキ
恋愛
※こちらは18禁の作品です※
箸休め作品です。
表題の通り、基本的にストーリーなし、エロしかありません。
全編に渡り淫語だらけです、綺麗なエロをご希望の方はUターンして下さい。
地雷要素多めです、ご注意下さい。
快楽堕ちエンドの為、ハピエンで括ってます。
※性的虐待の匂わせ描写あります。
※清廉潔白な人物は皆無です。
汚喘ぎ/♡喘ぎ/監禁/凌辱/アナル/クンニ/放尿/飲尿/クリピアス/ビッチ/ローター/緊縛/手錠/快楽堕ち
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
【R18・完結】蜜溺愛婚 ~冷徹御曹司は努力家妻を溺愛せずにはいられない〜
花室 芽苳
恋愛
契約結婚しませんか?貴方は確かにそう言ったのに。気付けば貴方の冷たい瞳に炎が宿ってー?ねえ、これは大人の恋なんですか?
どこにいても誰といても冷静沈着。
二階堂 柚瑠木《にかいどう ゆるぎ》は二階堂財閥の御曹司
そんな彼が契約結婚の相手として選んだのは
十条コーポレーションのお嬢様
十条 月菜《じゅうじょう つきな》
真面目で努力家の月菜は、そんな柚瑠木の申し出を受ける。
「契約結婚でも、私は柚瑠木さんの妻として頑張ります!」
「余計な事はしなくていい、貴女はお飾りの妻に過ぎないんですから」
しかし、挫けず頑張る月菜の姿に柚瑠木は徐々に心を動かされて――――?
冷徹御曹司 二階堂 柚瑠木 185㎝ 33歳
努力家妻 十条 月菜 150㎝ 24歳
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる