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8月
3.
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そんなこんなで大学生一年目の夏休みは、夏休み史上最高にバイト以外の予定のない千晶だった。
女の子だけで遊びたいのに彼氏やその友達がもれなく付いてくる、高校までは彼氏よりも女の友情が優先されたのに儚いものだ。大学生とはそういうことなのだと思い知る。
兄弟も、昔は千晶が兄の後をついて、弟は母にべったりだった、それが成長するにつれ弟は兄の後を追うようになり、千晶は兄弟と体力的についていけなくなった。家族仲はいいけど皆で出掛けることもない。
一人で外食も買い物もできる、大丈夫。ひとりできちんと生きていけること、それが大人なのだと誰かが言っていた。
そして夏休み最初のお出かけが慎一郎と一緒とは妙なもので、――めずらしく前もって予定を聞いてきたので空いている日を答えれば、じゃぁ前日の夜に迎えにいくから泊まれる用意をしておいてと言われた。
「どこへ行くの?」
「初めて行先を聞いてきたね。電車のほうが早いんだけど車だから」
「答えになってない」
「飛行機の距離じゃないよ」
どこへ行くか答えようとしないめんどくさい男に、夢の国でなくても長時間の炎天下は無理で、行先によって用意する持ち物が違うのだと説明すれば、普段の服装でいいと笑った。
*
日曜夜は家族で夕飯を食べるのが暗黙の了解だったけれど「来週? いいんじゃないアキも大学生なんだし、兄には適当に言っとくよ、てゆーか休みに家にいる大学生とか逆にヤバいわ」そう言って弟は送り出してくれた。
猫の世話があるために夜や泊りは千晶と弟とでやり繰りしている。留守がちな兄はあてにならない。
18歳になった弟は夏休み中に車の運転免許を取る気満々だったのを反対されぶーたれていたのに、突然勉強を始めた。どういう心境の変化なのか。
訊いても教えてくれないだろうと思った千晶は、お土産を買ってくるねとだけ言った。
*
「(そんな大荷物で)どこ行くの?」
迎えにきた慎一郎が千晶と大きめのキャリーバッグを見て一言。誰のせいでこんな大荷物になったと思っているのか。
「殴っていい? で、これからどちらまで?」
「だから着いてからのお楽しみ」
凶器を千晶の手から奪い、どうせ寝てしまうんだろうといわんばかりに答えた。千晶が礼を言いつつ恨みがましい目で睨むと、一時間ちょっとで着くと言った。
*
車は首都高環状線から湾岸線へ、黒い海と人工の光を横目に千晶はそっと歌う。半世紀も前の、自由奔放な女性を歌ったその曲は、数多くの人々の心をとらえ、今なお数多くの歌い手にカバーされ続けている。
“♪ふいにやって来て、ふらっと去っていく
ねぇ、きみをなんて呼べばよかったんだい? 光り輝く紅色と日曜日と”
今日は日曜だったか、多くの人にとって過ぎゆく休日と、明日からの二人の休日はつかの間の休息とどこか後ろめたさも含む。慎一郎は黙って聞いていた。
車に乗った千晶が口ずさんだのはそれだけで、あとは静かなものだった。
*
「着いたよ」
果たして千晶はバイト上がりの疲れでいつのまにか閉じていた瞼を開けると、そこには木造のレトロな、板壁に格子窓と鎧戸の二階建ての建物の前にいた。明かりは点いていて欄間のステンドグラスが浮かび上がっている。別邸なのか、大きくもないけれどそのへんの戸建ての倍以上はありそうだ。
かすかに潮の香が続いている。
「…ここ?」
「別荘ってとこ、父方のね、どうぞ」
「お邪魔します」
一歩踏み入れるとすっと馴染んだような空気に包まれる。
「はじめてきたのに懐かしい香りがする、変なの」
「なんだそれ」
「なんだろ文明開化の香り? よく来るの?」
千晶の印象そのまま、明治時代の建物だそうだ。中廊下は思ったより奥行きがある。
「よく覚えてないけど、小さい頃しばらく暮らしていた記憶はある。それからは夏休みとか時々、車に乗るようになってからはドライブついでにね」
二階の客間に荷物を置いて、軽くシャワーを浴びると台所に夕食が用意されていた。
バスルームが絵に描いたような猫足のバスタブに真鍮のカランでどぎまぎしたのは内緒だ。お湯が出てきたのは最後のほうになってからで、トイレもウォシュレットどころか暖房便座も付いていなかったけれど、夏だし大した問題ではない。
「いただきます」
台所も時代掛かっている。(あれかまどなの…? ガス?)見える電化製品は冷蔵庫だけ、博物館でしか見られない道具の数々を前に千晶は気もそぞろ、ちらっと視線が泳ぐ。
「――おいしい」
シーフードカレーだけどシーフードカレーじゃない。奥深い味わい。
「お替りもどうぞ、初日はいつもカレーなんだよ」
離れに管理人が常駐していて食事も作ってくれる、今日は用意だけ頼んでおいたそうだ。
「わかるなぁ」
食後、好奇心の抑えられない千晶に慎一郎は軽く邸内の仕掛けを見せる。
「ここで火を焚いて、このレバーで各部屋に調節…」
「ふんふん」
女の子だけで遊びたいのに彼氏やその友達がもれなく付いてくる、高校までは彼氏よりも女の友情が優先されたのに儚いものだ。大学生とはそういうことなのだと思い知る。
兄弟も、昔は千晶が兄の後をついて、弟は母にべったりだった、それが成長するにつれ弟は兄の後を追うようになり、千晶は兄弟と体力的についていけなくなった。家族仲はいいけど皆で出掛けることもない。
一人で外食も買い物もできる、大丈夫。ひとりできちんと生きていけること、それが大人なのだと誰かが言っていた。
そして夏休み最初のお出かけが慎一郎と一緒とは妙なもので、――めずらしく前もって予定を聞いてきたので空いている日を答えれば、じゃぁ前日の夜に迎えにいくから泊まれる用意をしておいてと言われた。
「どこへ行くの?」
「初めて行先を聞いてきたね。電車のほうが早いんだけど車だから」
「答えになってない」
「飛行機の距離じゃないよ」
どこへ行くか答えようとしないめんどくさい男に、夢の国でなくても長時間の炎天下は無理で、行先によって用意する持ち物が違うのだと説明すれば、普段の服装でいいと笑った。
*
日曜夜は家族で夕飯を食べるのが暗黙の了解だったけれど「来週? いいんじゃないアキも大学生なんだし、兄には適当に言っとくよ、てゆーか休みに家にいる大学生とか逆にヤバいわ」そう言って弟は送り出してくれた。
猫の世話があるために夜や泊りは千晶と弟とでやり繰りしている。留守がちな兄はあてにならない。
18歳になった弟は夏休み中に車の運転免許を取る気満々だったのを反対されぶーたれていたのに、突然勉強を始めた。どういう心境の変化なのか。
訊いても教えてくれないだろうと思った千晶は、お土産を買ってくるねとだけ言った。
*
「(そんな大荷物で)どこ行くの?」
迎えにきた慎一郎が千晶と大きめのキャリーバッグを見て一言。誰のせいでこんな大荷物になったと思っているのか。
「殴っていい? で、これからどちらまで?」
「だから着いてからのお楽しみ」
凶器を千晶の手から奪い、どうせ寝てしまうんだろうといわんばかりに答えた。千晶が礼を言いつつ恨みがましい目で睨むと、一時間ちょっとで着くと言った。
*
車は首都高環状線から湾岸線へ、黒い海と人工の光を横目に千晶はそっと歌う。半世紀も前の、自由奔放な女性を歌ったその曲は、数多くの人々の心をとらえ、今なお数多くの歌い手にカバーされ続けている。
“♪ふいにやって来て、ふらっと去っていく
ねぇ、きみをなんて呼べばよかったんだい? 光り輝く紅色と日曜日と”
今日は日曜だったか、多くの人にとって過ぎゆく休日と、明日からの二人の休日はつかの間の休息とどこか後ろめたさも含む。慎一郎は黙って聞いていた。
車に乗った千晶が口ずさんだのはそれだけで、あとは静かなものだった。
*
「着いたよ」
果たして千晶はバイト上がりの疲れでいつのまにか閉じていた瞼を開けると、そこには木造のレトロな、板壁に格子窓と鎧戸の二階建ての建物の前にいた。明かりは点いていて欄間のステンドグラスが浮かび上がっている。別邸なのか、大きくもないけれどそのへんの戸建ての倍以上はありそうだ。
かすかに潮の香が続いている。
「…ここ?」
「別荘ってとこ、父方のね、どうぞ」
「お邪魔します」
一歩踏み入れるとすっと馴染んだような空気に包まれる。
「はじめてきたのに懐かしい香りがする、変なの」
「なんだそれ」
「なんだろ文明開化の香り? よく来るの?」
千晶の印象そのまま、明治時代の建物だそうだ。中廊下は思ったより奥行きがある。
「よく覚えてないけど、小さい頃しばらく暮らしていた記憶はある。それからは夏休みとか時々、車に乗るようになってからはドライブついでにね」
二階の客間に荷物を置いて、軽くシャワーを浴びると台所に夕食が用意されていた。
バスルームが絵に描いたような猫足のバスタブに真鍮のカランでどぎまぎしたのは内緒だ。お湯が出てきたのは最後のほうになってからで、トイレもウォシュレットどころか暖房便座も付いていなかったけれど、夏だし大した問題ではない。
「いただきます」
台所も時代掛かっている。(あれかまどなの…? ガス?)見える電化製品は冷蔵庫だけ、博物館でしか見られない道具の数々を前に千晶は気もそぞろ、ちらっと視線が泳ぐ。
「――おいしい」
シーフードカレーだけどシーフードカレーじゃない。奥深い味わい。
「お替りもどうぞ、初日はいつもカレーなんだよ」
離れに管理人が常駐していて食事も作ってくれる、今日は用意だけ頼んでおいたそうだ。
「わかるなぁ」
食後、好奇心の抑えられない千晶に慎一郎は軽く邸内の仕掛けを見せる。
「ここで火を焚いて、このレバーで各部屋に調節…」
「ふんふん」
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