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4月
1.
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―――ふわっと
懐かしい香りがした。と同時に頭上から声がふってきた。
「踊らないの?」
低くはないけれど落ち着いた口調。千晶はカウンターのスツールに腰掛け、ナッツを口に運ぶ手を止めて、答える。
「うん、見てるほうが好き」
「じゃぁ掛けといて」
――ああ、この香り。一瞬で懐かしさに揺さぶられ、次いで形が、音が引き出される。声の主はひとつかみのナッツを口に放ると、顔を見上げる間もなく去って行った。
記憶のなかの彼はもう少し華奢だった気がする。
ホールへ向かう後ろ姿に記憶を重ねてみるが、合っているかわからない。千晶自身も、あれから2センチ背が伸びて、顔も身体つきも変わった、と思う。
「掛けといたら、いいことあるかもよ」
肩に残されたジャケットに戸惑いの表情を見たバーテンがふふっと笑って言う。
「お替りは? 手伝ってくれたお礼に一杯つくってあげる」
「ありがとうございます、じゃぁ炭酸系で何か、とお腹もすいたなぁ」
初見の客にサーブさせる人使いの荒いバーテンに調子に乗ってねだると、箱のままのプレッツェルを渡された。
「かっこいーお兄さん、えびとかハムとかー」
「ちっ、後ろのテーブルのグラス下げて灰皿も替えてこい」
*
201X年4月、大学の入学式を目前に控えた金曜の夜、千晶は友人二人に誘われてクラブへ――デイイベントという建前の――やって来た。入口のIDチェックは、出来立てほやほやの学生証という印籠をかざす大義名分が出来た喜びでもあった。
歓楽街からは遠く離れた倉庫街の一角に建つその店は体育館を縮小したような中二階のある造りで、ダンスホールよりライブハウスに近かった。煌びやか過ぎず、熱過ぎず、曲も客の服装もバラバラなのに不思議と違和感なく皆音楽と踊りを楽しんでいる。年代も千晶たちと同じ若者から仕事帰りの会社員まで、音と照明以外は落ち着いた雰囲気で。
バイト三昧の朝型生活が抜けきっていないせいか千晶は眩暈がして、カウンター席でおとなしく踊る人々を眺めていた。楽しそうにしている人をみるのはそれだけで楽しい。
中心になってはしゃぐより楽しいひとたちを見るのが好きだ。ただ、必要があればど真ん中で踊るのにも抵抗はない。
イケメンの部類に入るであろうバーテンはカウンターに座った千晶が自分目当ての客だと思ってそれとなく対応していたものの、まったく興味を持たれていないと気づくと途端にぞんざいな扱いになった。
自分より二階席に興味を持った千晶に、行ってみてこいとサーブを押し付けたのだ。
(ずいぶんルーズなお店だなぁ)そう思いながらも千晶は好奇心に負けトレー片手に階段を数度往復してきたのだった。
バーテンにも言い分はある、客商売故にこいつは大丈夫な勘が働いたのだ。図々しい、プレッツェルじゃ足りないという顔にピザも付けてやった。こんな時だけいい男呼ばわりに答えたんじゃない。遅れていたバイトがやっと来て手が空いたからだ。
「いいこと」言葉の意味はすぐ分かった、仕立てのよさそうなメンズのジャケットの効果は絶大だった。出会い目的の店ではないけれど、女一人でいれば声はかかる、その誘いがピタリと止んだ。
千晶たちがここへ来たのは出会いを求めてやってきたのではなかった。女三人、一人はちゃんと彼氏がいるし、千晶ともう一人も偶々――大学受験のゴタゴタで今はいないだけ、ということにしておこうか。千晶は見た目と中身の印象が二転三転して男のほうが逃げ出すし、もう一人も派手な見た目と好みにギャップあるせいで続かないのだけれど、とにかく軽い相手を探してはいない。
単純に好きな音楽を人と一緒に楽しみたい、それだけ。
「あ、これなんだっけ」
「――じゃない?」
すっとしているけれど一言話せばキツさもなく、そんな空気を感じ取った周囲の人たちと曲がどうとかDJの個人情報がどうとか他愛ないおしゃべりをして過ごし、時々友人が戻ってきては飲んで食べ、また踊りに出て、知り合いに会ったりと夜は更けていく。
そろそろ日付が変わるかという頃、明日も早い三人はタイムテーブルを確認して次で帰ることにした。千晶も最後は踊って眠気を覚ます。ジャケットの持ち主は現れなかった。
「これ先に返してくるね」
「そういえばそれ誰の?」
「わかんない」
「またボケたこと言ってる」
羽織ったジャケットを脱ぐとまた香りが立ち上げる、懐かしいようなほっとする香り。ちょっとだけ顔に近づけて畳んだ。
「んー、二階かな」
下のホールにそれらしき人物は見つけられず、上を見上げる。
「大丈夫、ついていこうか?」
「んん-、5分で戻らなかったら家に連絡して」
「フラグきた」
向こうが見つけてくれるかもしれないと淡い期待を抱きつつ、二階席をそっと確認していく。コの字型のブースは先刻よりずっといちゃいちゃ度とぐだぐだ感が増していた。音量をものともせず熟睡している人も。
顔は前に向けたまま視線と意識を横にしていくと、こういう時は第六感的な何かが働くのか、明らかに女性のほうが多いブースに男性が三人、そこにいた。
懐かしい香りがした。と同時に頭上から声がふってきた。
「踊らないの?」
低くはないけれど落ち着いた口調。千晶はカウンターのスツールに腰掛け、ナッツを口に運ぶ手を止めて、答える。
「うん、見てるほうが好き」
「じゃぁ掛けといて」
――ああ、この香り。一瞬で懐かしさに揺さぶられ、次いで形が、音が引き出される。声の主はひとつかみのナッツを口に放ると、顔を見上げる間もなく去って行った。
記憶のなかの彼はもう少し華奢だった気がする。
ホールへ向かう後ろ姿に記憶を重ねてみるが、合っているかわからない。千晶自身も、あれから2センチ背が伸びて、顔も身体つきも変わった、と思う。
「掛けといたら、いいことあるかもよ」
肩に残されたジャケットに戸惑いの表情を見たバーテンがふふっと笑って言う。
「お替りは? 手伝ってくれたお礼に一杯つくってあげる」
「ありがとうございます、じゃぁ炭酸系で何か、とお腹もすいたなぁ」
初見の客にサーブさせる人使いの荒いバーテンに調子に乗ってねだると、箱のままのプレッツェルを渡された。
「かっこいーお兄さん、えびとかハムとかー」
「ちっ、後ろのテーブルのグラス下げて灰皿も替えてこい」
*
201X年4月、大学の入学式を目前に控えた金曜の夜、千晶は友人二人に誘われてクラブへ――デイイベントという建前の――やって来た。入口のIDチェックは、出来立てほやほやの学生証という印籠をかざす大義名分が出来た喜びでもあった。
歓楽街からは遠く離れた倉庫街の一角に建つその店は体育館を縮小したような中二階のある造りで、ダンスホールよりライブハウスに近かった。煌びやか過ぎず、熱過ぎず、曲も客の服装もバラバラなのに不思議と違和感なく皆音楽と踊りを楽しんでいる。年代も千晶たちと同じ若者から仕事帰りの会社員まで、音と照明以外は落ち着いた雰囲気で。
バイト三昧の朝型生活が抜けきっていないせいか千晶は眩暈がして、カウンター席でおとなしく踊る人々を眺めていた。楽しそうにしている人をみるのはそれだけで楽しい。
中心になってはしゃぐより楽しいひとたちを見るのが好きだ。ただ、必要があればど真ん中で踊るのにも抵抗はない。
イケメンの部類に入るであろうバーテンはカウンターに座った千晶が自分目当ての客だと思ってそれとなく対応していたものの、まったく興味を持たれていないと気づくと途端にぞんざいな扱いになった。
自分より二階席に興味を持った千晶に、行ってみてこいとサーブを押し付けたのだ。
(ずいぶんルーズなお店だなぁ)そう思いながらも千晶は好奇心に負けトレー片手に階段を数度往復してきたのだった。
バーテンにも言い分はある、客商売故にこいつは大丈夫な勘が働いたのだ。図々しい、プレッツェルじゃ足りないという顔にピザも付けてやった。こんな時だけいい男呼ばわりに答えたんじゃない。遅れていたバイトがやっと来て手が空いたからだ。
「いいこと」言葉の意味はすぐ分かった、仕立てのよさそうなメンズのジャケットの効果は絶大だった。出会い目的の店ではないけれど、女一人でいれば声はかかる、その誘いがピタリと止んだ。
千晶たちがここへ来たのは出会いを求めてやってきたのではなかった。女三人、一人はちゃんと彼氏がいるし、千晶ともう一人も偶々――大学受験のゴタゴタで今はいないだけ、ということにしておこうか。千晶は見た目と中身の印象が二転三転して男のほうが逃げ出すし、もう一人も派手な見た目と好みにギャップあるせいで続かないのだけれど、とにかく軽い相手を探してはいない。
単純に好きな音楽を人と一緒に楽しみたい、それだけ。
「あ、これなんだっけ」
「――じゃない?」
すっとしているけれど一言話せばキツさもなく、そんな空気を感じ取った周囲の人たちと曲がどうとかDJの個人情報がどうとか他愛ないおしゃべりをして過ごし、時々友人が戻ってきては飲んで食べ、また踊りに出て、知り合いに会ったりと夜は更けていく。
そろそろ日付が変わるかという頃、明日も早い三人はタイムテーブルを確認して次で帰ることにした。千晶も最後は踊って眠気を覚ます。ジャケットの持ち主は現れなかった。
「これ先に返してくるね」
「そういえばそれ誰の?」
「わかんない」
「またボケたこと言ってる」
羽織ったジャケットを脱ぐとまた香りが立ち上げる、懐かしいようなほっとする香り。ちょっとだけ顔に近づけて畳んだ。
「んー、二階かな」
下のホールにそれらしき人物は見つけられず、上を見上げる。
「大丈夫、ついていこうか?」
「んん-、5分で戻らなかったら家に連絡して」
「フラグきた」
向こうが見つけてくれるかもしれないと淡い期待を抱きつつ、二階席をそっと確認していく。コの字型のブースは先刻よりずっといちゃいちゃ度とぐだぐだ感が増していた。音量をものともせず熟睡している人も。
顔は前に向けたまま視線と意識を横にしていくと、こういう時は第六感的な何かが働くのか、明らかに女性のほうが多いブースに男性が三人、そこにいた。
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