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0.猫も鼻が利く
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部屋まで入るのに3回も認証が必要だったのに、下りのエレベータもエントランスも非常時を想定しているのかすんなりと出られた。
ロビーの管理人さんに駅までの道を聞くと、周辺の略地図を渡しすぐそこだと説明してくれた。
外に出てマンションを振り返る。
ほとんどの窓に明かりが灯っている。無意識にさっきまでいた辺りを見上げ、そして、振り返って何を確かめるつもりだったのかわからなくなり頭を少し傾げた。
視線の隅で髪先が揺れた。
すぐ近くに建つ東京タワーには小学校の遠足で来た。あの時は靄が掛かっていて展望台からは景色はよく見えなかった。もうこのマンションは建っていたのだろうか? その向こうのビルは?
大きなシンボルの側では意識しないと何があったか記憶に残らない。現にマンションを見上げた目線はもう東京タワーに移っていた。
次にこの辺へ来るのはいつになるだろう、少なくともあの部屋へはもう行くことはないと思い、駅へ急ぐ。
新宿で乗り換えて西へ、春休みの月曜の夜は仕事帰りの大人に、制服姿と私服姿の子供達とで混んでいた。いつもの日常に近づいていく。
*
千晶が家に着くと、玄関先に黒猫が睨むように前足をそろえて座っていた。帰宅が遅くなったことへの抗議だ。彼女が保護した猫だったけれど、猫のほうが彼女の保護者然とした態度なのだ。
「ただいま、遅くなってごめんね」
猫のあごをひとさすりする。猫はかがんだ彼女の鼻先をしっぽで ふぁさっ とホコリを掃うような仕草で数度叩いた。
両親も携帯手電話を持たせた途端に帰宅の遅くなった娘の帰宅を確認すると、ほっとしたように、そして猫の不満げな態度に、少し困ったように微笑んで娘の頭を撫でた。
猫はしっぽを立てたまま足元に纏わりついた後、少し振り返りながら二階へ先導していく。
「おかえり、プリン残しといたよ」
「ただいま、ありがとう、明日食べるね」
ベッドに入って漫画を読んでいた弟が声をかけてきた。
姉弟の部屋は続き間で、猫が通れるよういつも少し戸が開けられたままだ。
弟は鼻が利く、なんとなく全て見通されている予感がした。
――やわらかな落ち着く香りだった、あんなにほっとした気分になったのはいつ以来だろう。初めて会ったひとなのに。
よくわからないままにベッドに入ってぼんやりしていると、枕元の時計を猫が倒す。
「ブラン、だめ」注意すると、枕元の食玩のおまけを蹴飛ばし、本をひっかき始めた。
(ひょっとして気に入らない? 怒ってる?)
「ごめんね、今日はちょっと遊びすぎちゃった。心配してくれたんだね、ね、ちゃんと帰ってきたから」
いつもと違う猫の様子に戸惑いながらしっかり撫でて謝ると、猫は彼女の手を舐めたあと鼻先をガブリと噛んで弟のベッドへ移動していった。
ふっと漂ってきた残り香にまた何か懐かしいものを感じ、それが何なのか色々考えていつのまにか眠ってしまった。
翌朝は本降りの雨の音に目覚めた。猫はいつものように彼女のベッドで寝ていたし、弟がきちんと名前を書いてとっておいてくれたプリンは深夜帰宅した兄が食べてしまった後だった。
烈火のごとく怒る妹を大事ならしっかり隠しておけと嘲笑う兄、それを窘める両親。これもいつもの日常。
(都心も雨かな、あの桜も終わっちゃうな)昨日の光景を思い出し、桜の入浴剤を入れた風呂に浸かり、雨に流れているであろう花びらを想う。
こうして、地元の街だけで日常が完結する暮らしが続いていく。
――あの日のことはなかったことにしたい、と思ったことは無いけれど。
誰にも言わなかった。
軽はずみな行動を批難されるのはこわくない、ただちょっとした宝物を、他人にはただの石ころにみえるだろうそれを、そのまま、石だから捨てて置けと言われるのは耐えられそうになかった。
ただ小箱に入れて鍵のかかる引き出しの奥にしまいこんだ。たまに思い出してみるうちに、いつかしまったことを忘れるように、あの時の彼の顔も忘れてしまった。
ロビーの管理人さんに駅までの道を聞くと、周辺の略地図を渡しすぐそこだと説明してくれた。
外に出てマンションを振り返る。
ほとんどの窓に明かりが灯っている。無意識にさっきまでいた辺りを見上げ、そして、振り返って何を確かめるつもりだったのかわからなくなり頭を少し傾げた。
視線の隅で髪先が揺れた。
すぐ近くに建つ東京タワーには小学校の遠足で来た。あの時は靄が掛かっていて展望台からは景色はよく見えなかった。もうこのマンションは建っていたのだろうか? その向こうのビルは?
大きなシンボルの側では意識しないと何があったか記憶に残らない。現にマンションを見上げた目線はもう東京タワーに移っていた。
次にこの辺へ来るのはいつになるだろう、少なくともあの部屋へはもう行くことはないと思い、駅へ急ぐ。
新宿で乗り換えて西へ、春休みの月曜の夜は仕事帰りの大人に、制服姿と私服姿の子供達とで混んでいた。いつもの日常に近づいていく。
*
千晶が家に着くと、玄関先に黒猫が睨むように前足をそろえて座っていた。帰宅が遅くなったことへの抗議だ。彼女が保護した猫だったけれど、猫のほうが彼女の保護者然とした態度なのだ。
「ただいま、遅くなってごめんね」
猫のあごをひとさすりする。猫はかがんだ彼女の鼻先をしっぽで ふぁさっ とホコリを掃うような仕草で数度叩いた。
両親も携帯手電話を持たせた途端に帰宅の遅くなった娘の帰宅を確認すると、ほっとしたように、そして猫の不満げな態度に、少し困ったように微笑んで娘の頭を撫でた。
猫はしっぽを立てたまま足元に纏わりついた後、少し振り返りながら二階へ先導していく。
「おかえり、プリン残しといたよ」
「ただいま、ありがとう、明日食べるね」
ベッドに入って漫画を読んでいた弟が声をかけてきた。
姉弟の部屋は続き間で、猫が通れるよういつも少し戸が開けられたままだ。
弟は鼻が利く、なんとなく全て見通されている予感がした。
――やわらかな落ち着く香りだった、あんなにほっとした気分になったのはいつ以来だろう。初めて会ったひとなのに。
よくわからないままにベッドに入ってぼんやりしていると、枕元の時計を猫が倒す。
「ブラン、だめ」注意すると、枕元の食玩のおまけを蹴飛ばし、本をひっかき始めた。
(ひょっとして気に入らない? 怒ってる?)
「ごめんね、今日はちょっと遊びすぎちゃった。心配してくれたんだね、ね、ちゃんと帰ってきたから」
いつもと違う猫の様子に戸惑いながらしっかり撫でて謝ると、猫は彼女の手を舐めたあと鼻先をガブリと噛んで弟のベッドへ移動していった。
ふっと漂ってきた残り香にまた何か懐かしいものを感じ、それが何なのか色々考えていつのまにか眠ってしまった。
翌朝は本降りの雨の音に目覚めた。猫はいつものように彼女のベッドで寝ていたし、弟がきちんと名前を書いてとっておいてくれたプリンは深夜帰宅した兄が食べてしまった後だった。
烈火のごとく怒る妹を大事ならしっかり隠しておけと嘲笑う兄、それを窘める両親。これもいつもの日常。
(都心も雨かな、あの桜も終わっちゃうな)昨日の光景を思い出し、桜の入浴剤を入れた風呂に浸かり、雨に流れているであろう花びらを想う。
こうして、地元の街だけで日常が完結する暮らしが続いていく。
――あの日のことはなかったことにしたい、と思ったことは無いけれど。
誰にも言わなかった。
軽はずみな行動を批難されるのはこわくない、ただちょっとした宝物を、他人にはただの石ころにみえるだろうそれを、そのまま、石だから捨てて置けと言われるのは耐えられそうになかった。
ただ小箱に入れて鍵のかかる引き出しの奥にしまいこんだ。たまに思い出してみるうちに、いつかしまったことを忘れるように、あの時の彼の顔も忘れてしまった。
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