21 / 138
7月
6.
しおりを挟む
***
『バックボーンのない自由なんて無力でしかないよ』
間髪いれずに帰ってきた言葉に慎一郎は虚を衝かれた。
――彼女の口からどんな言葉を期待していたのだろう、嫌々ながら医者にされる奴がいる一方で、好んで医者になるものもいる。理想か、使命感か、単純に勉強ができたからと言ってほしかったのだろうか。
とりあえず大学へ、そして安定した企業へ。多数意見を常識と思いこむ、彼らを数値化された集団としか見ていない自分のステレオタイプさ。彼女の動機付けにもテンプレートを押し付けていた。
敷かれたレールを外れないよう走らされる駒のような人生、そのレールに乗りたがる奴は沢山いるのに。自力でレールを敷いて進んだとしても目的地は同じだ。
彼女が口にしたバックボーンが指すものは。彼女自身の軸か、それを繋ぐ基幹か。
ドライブ帰りに送っていった彼女の家は、その角で、と家の特定は避けたものの閑静なゆとりある街並みの中だった。お嬢様育ちとは違うのはわかる。が、諸々きちんとしているし、よく知らない慎一郎について来たのが信じられない位に常識的だ。
能力と経済力と精神性とは比例しないが、相関関係はみられる。そこから感じ取れる父兄像、私立医学部の学費と交際費までは無理でも、勉強に専念する位の費用は当然あるように見受けられた。ただ、そこはかとなく彼女から感じる苦労知らずとも、訳アリとも違う違和感。彼女の精神年齢を引き上げているなにか。集団は置かれた境遇に左右される、個々人ではどうか。精神年齢は経験値により高められる、もとの性質や知能も、ひいては背景も重要なファクターだ。
後ろ盾くらい何とでもしてやる、と一瞬でも思った自分の傲慢さと、不自由だと抗いつつある枷を無意識に利用しようとした自分がもう滑稽で。
何もないとは? 自由の先も見えていなかった。
***
「……ふっ、ははっ…パラダイムか」
「何が起きてんの? どこに点があったっていうの?」
とうとう一人で笑いだした慎一郎に、千晶はやれやれと思いながら冷蔵庫を適当に漁って――声はかけたが返事はなかったので、はちみつたっぷりのレモネードを作って渡す。
(疲れた時には酸っぱいものだよね)
「自分にハングリーさが欠けてるのも自覚してるよ、こんなのが多数なら世界は終わると思う位にはね。そんな少数に惑わされずあなたはどんどん世界を回していってよ」
聞いてるのかわからない相手に淡々と続ける。
「私はそれをただ眺めてるだけで、何かの役に立ってるかどうかもあやしいけれど。もしかしたらきちんと社会に出て働くようになれば、この部屋に憧れるのかもしれない」
素麺を盛った皿もお猪口替わりのグラスの名も千晶は知らない。素麺に合うから使っただけで、慎一郎もその価値を語ることも、もったいないから使うなとも言わない。棚に並んだ酒の名前を確かめることもその値段も知らない。家具も調度品も、手触りやその精工さでいいものなのはわかる、それだけだ。素敵だけど自分で手に入れたいという欲求はない。
慎一郎もそれらを蘊蓄と共にひけらかさないし執着もしない。ただ、それらを見て喜ぶ人がいる、それらでもてなされることを望む人がいるのを知っているだけだ。
ただ窓の外を眺め、手にしたグラスをかざしてみる男を、千晶は気が済むまで放っておくことにした。
(まぁきっと色々あるんだろうな)
価値観も何も違い過ぎて分かり合うというのは無理だろうから。
*
「きょうちょっと遅くなるねー、えーと10時までには帰ります、にゃ?」
「どうしたの、にゃーんって」
携帯電話に向かいネコナデ声で話す千晶に、幾分落ち着きを取り戻した慎一郎が眉をわずかに寄せた。
「ああ、うちの女王様とモップちゃんに」
「?」
頭がオカシイのか、怪訝そうな顔を向けられても千晶はふふと笑って、電話の相手は猫で、猫の自動餌やり器にスピーカーとカメラとマイクも内蔵されていて、ネット回線を通じて様子がわかるのだと説明する。
「黙って遅くなると怒られるんだよ、こうやって言っておけば返事はなくても聞いてるから」
「へぇ~」
平静を装える程度には平常心を取り戻したが(何言ってんだこのキ〇ガイ)という思いは隠せていない。立ち上がって千晶の後ろに回り込む。
「猫は賢いよー、犬より。人間の役にたつ賢さとは違うからわかりにくいだけ」
千晶は千晶で頭がおかしいと思われたほうが距離を置いてもらえそうな気もするが、猫の名誉のために語った。
「犬が人に従順なのは自分の利益のためでしょ、猫はどうしたら人を動せるか知ってるの」
「え、暗に俺は猫以下っていわれてない?」
「気のせいだよ」
ちょっと拗ねたような言いぐさを笑って返す。猫のように気まぐれに寄ってきて、後にまわってじゃれつくこの大型犬と比べてのことではない、つもり。
「とりあえず猫は正義だから」
慎一郎は千晶の手元を覗き込む。猫の姿をとらえることはできなかったが、画面に映った室内はゆとりと生活感が適度に混在していた。
『バックボーンのない自由なんて無力でしかないよ』
間髪いれずに帰ってきた言葉に慎一郎は虚を衝かれた。
――彼女の口からどんな言葉を期待していたのだろう、嫌々ながら医者にされる奴がいる一方で、好んで医者になるものもいる。理想か、使命感か、単純に勉強ができたからと言ってほしかったのだろうか。
とりあえず大学へ、そして安定した企業へ。多数意見を常識と思いこむ、彼らを数値化された集団としか見ていない自分のステレオタイプさ。彼女の動機付けにもテンプレートを押し付けていた。
敷かれたレールを外れないよう走らされる駒のような人生、そのレールに乗りたがる奴は沢山いるのに。自力でレールを敷いて進んだとしても目的地は同じだ。
彼女が口にしたバックボーンが指すものは。彼女自身の軸か、それを繋ぐ基幹か。
ドライブ帰りに送っていった彼女の家は、その角で、と家の特定は避けたものの閑静なゆとりある街並みの中だった。お嬢様育ちとは違うのはわかる。が、諸々きちんとしているし、よく知らない慎一郎について来たのが信じられない位に常識的だ。
能力と経済力と精神性とは比例しないが、相関関係はみられる。そこから感じ取れる父兄像、私立医学部の学費と交際費までは無理でも、勉強に専念する位の費用は当然あるように見受けられた。ただ、そこはかとなく彼女から感じる苦労知らずとも、訳アリとも違う違和感。彼女の精神年齢を引き上げているなにか。集団は置かれた境遇に左右される、個々人ではどうか。精神年齢は経験値により高められる、もとの性質や知能も、ひいては背景も重要なファクターだ。
後ろ盾くらい何とでもしてやる、と一瞬でも思った自分の傲慢さと、不自由だと抗いつつある枷を無意識に利用しようとした自分がもう滑稽で。
何もないとは? 自由の先も見えていなかった。
***
「……ふっ、ははっ…パラダイムか」
「何が起きてんの? どこに点があったっていうの?」
とうとう一人で笑いだした慎一郎に、千晶はやれやれと思いながら冷蔵庫を適当に漁って――声はかけたが返事はなかったので、はちみつたっぷりのレモネードを作って渡す。
(疲れた時には酸っぱいものだよね)
「自分にハングリーさが欠けてるのも自覚してるよ、こんなのが多数なら世界は終わると思う位にはね。そんな少数に惑わされずあなたはどんどん世界を回していってよ」
聞いてるのかわからない相手に淡々と続ける。
「私はそれをただ眺めてるだけで、何かの役に立ってるかどうかもあやしいけれど。もしかしたらきちんと社会に出て働くようになれば、この部屋に憧れるのかもしれない」
素麺を盛った皿もお猪口替わりのグラスの名も千晶は知らない。素麺に合うから使っただけで、慎一郎もその価値を語ることも、もったいないから使うなとも言わない。棚に並んだ酒の名前を確かめることもその値段も知らない。家具も調度品も、手触りやその精工さでいいものなのはわかる、それだけだ。素敵だけど自分で手に入れたいという欲求はない。
慎一郎もそれらを蘊蓄と共にひけらかさないし執着もしない。ただ、それらを見て喜ぶ人がいる、それらでもてなされることを望む人がいるのを知っているだけだ。
ただ窓の外を眺め、手にしたグラスをかざしてみる男を、千晶は気が済むまで放っておくことにした。
(まぁきっと色々あるんだろうな)
価値観も何も違い過ぎて分かり合うというのは無理だろうから。
*
「きょうちょっと遅くなるねー、えーと10時までには帰ります、にゃ?」
「どうしたの、にゃーんって」
携帯電話に向かいネコナデ声で話す千晶に、幾分落ち着きを取り戻した慎一郎が眉をわずかに寄せた。
「ああ、うちの女王様とモップちゃんに」
「?」
頭がオカシイのか、怪訝そうな顔を向けられても千晶はふふと笑って、電話の相手は猫で、猫の自動餌やり器にスピーカーとカメラとマイクも内蔵されていて、ネット回線を通じて様子がわかるのだと説明する。
「黙って遅くなると怒られるんだよ、こうやって言っておけば返事はなくても聞いてるから」
「へぇ~」
平静を装える程度には平常心を取り戻したが(何言ってんだこのキ〇ガイ)という思いは隠せていない。立ち上がって千晶の後ろに回り込む。
「猫は賢いよー、犬より。人間の役にたつ賢さとは違うからわかりにくいだけ」
千晶は千晶で頭がおかしいと思われたほうが距離を置いてもらえそうな気もするが、猫の名誉のために語った。
「犬が人に従順なのは自分の利益のためでしょ、猫はどうしたら人を動せるか知ってるの」
「え、暗に俺は猫以下っていわれてない?」
「気のせいだよ」
ちょっと拗ねたような言いぐさを笑って返す。猫のように気まぐれに寄ってきて、後にまわってじゃれつくこの大型犬と比べてのことではない、つもり。
「とりあえず猫は正義だから」
慎一郎は千晶の手元を覗き込む。猫の姿をとらえることはできなかったが、画面に映った室内はゆとりと生活感が適度に混在していた。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

あなたが居なくなった後
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの専業主婦。
まだ生後1か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。
朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。
乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。
会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願う宏樹。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。


包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

不倫するクズ夫の末路 ~日本で許されるあらゆる手段を用いて後悔させる。全力で謝ってくるがもう遅い~
ネコ
恋愛
結婚してもうじき10年というある日、夫に不倫が発覚した。
夫は不倫をあっさり認め、「裁判でも何でも好きにしろよ」と開き直る。
どうやらこの男、分かっていないようだ。
お金を払ったら許されるという浅はかな誤解。
それを正し、後悔させ、絶望させて、破滅させる必要がある。
私は法律・不動産・経営・その他、あらゆる知識を総動員して、夫を破滅に追い込む。
夫が徐々にやつれ、痩せ細り、医者から健康状態を心配されようと関係ない。
これは、一切の慈悲なく延々と夫をぶっ潰しにかかる女の物語。
最初は調子に乗って反撃を試みる夫も、最後には抵抗を諦める。
それでも私は攻撃の手を緩めず、周囲がドン引きしようと関係ない。
現代日本で不倫がどれほどの行為なのか、その身をもって思い知れ!

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる