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5月
5.
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そうして何事もなく平穏に過ぎたと思われたある水曜日、4限終了で課題もなくごきげんな千晶が校門を出るとまたあの車が――同じような出待ちの2台の影に隠れて気づくのが遅れた。
(ワタシハナニモミテイナイ)
気付かないふりをしてして通り過ぎた横でエンジンの掛かる音がする。独特のエンジン音はもう聞き覚えた。車は前進し、千晶を越した先で停止すると、運転手が降りてきた。
(あーあ)溜息ってこういうときに出るんだ、誰も聞いていないのに。
それはお風呂上りに飲もうと楽しみに思っていたとっておきが冷蔵庫から消えてた時の絶望に似ていた。
「これからちょっと付き合ってよ」
「湾曲に断ったのがわからないようなひとじゃないよね」
「ああ」
「じゃぁどうして」
「さぁね」
「嘘でも『君が忘れられない』位言ってみたらどうですかねー」
悪びれるでもなく淡々と返す相手に千晶は挑戦してみた。
彼――慎一郎は両掌を上にあげ、肩を少し下げてみせてから「その手が通用するとは思えないんだよな」と、違うセリフを口にした。
「それもそうだね」
千晶が仏頂面で同意すると、慎一郎は面白そうに笑った。
「そこは可愛く『私は会いたかったの』って言ったらどう?」
「……その手には乗らないから」
彼は微笑みながら助手席のドアを開け、手で乗車を促す。
ドアは自分で開けられる、そう言いたいのに出たのは溜息だった。
「うちのカードキーに羽根が生えて迷子になっちゃってたんだけど、ちゃんと帰ってきてさ」
「へぇ、ふらふらしないでご主人様のところへきちんと戻るおりこうさんな鍵ね」
開けると封筒からカードキーとその他が飛び出す仕掛け、いたずらは失敗に終わったらしい。千晶はふてくされたように窓枠に肘をつき外に視線を移した。迷子じゃなくて不法侵入だろ。
「誰かが保護して届けくれたんだ、お礼をしないとね」
「ふーん、律儀だね」
*
着いたのはビルにテナントで入ってるクリニック、付き合えとはここにだろうか。
「ところで今生理だったりする?」
「そんなに不機嫌そうだった?」
気遣いのない発言ににこりともしないで返す。
「じゃぁ一緒に」
「???」
「匿名でもいいそうだから」
ああ、そうきたか。理由なんてつけなければよかった。問題が解消されればおkととらえるのが男性だった。千晶は彼が何一つ譲歩するつもりがないだろうと思っての言葉だったのに。だからって自分が選ばれたなんてお花畑な勘違いはしない、どうせ寄って来る女性に飽きたところだったんだろう、間が悪かった。
「はぁ」もう溜息しか出ない。
「あれはそんなつもりで言ったんじゃないから」
「知ってる」じゃぁまた明日と同じ調子で慎一郎は続ける「それに、卒業したら留学が決まってる」
「……それはまたずいぶん先の長い話だね」
「一年もないよ」
長くても卒業まで、クズの極みのような提案だ。そんなに経つ前に飽きるでしょ、とまでは口にしなかった。
「ねぇ、ここまでしなくても慎一郎さんがわざわざ来なければ終わる話だよね。私とあなたじゃそうそう人生のなかで交わらないでしょ、それに留学するんなら、このまま一生会わないままで忘れて済むだけの話だと思うよ」
「そうかな? じゃぁどこかで偶然会ったらいいんだね」
「…墓穴とか藪蛇とかって言葉が今頭に浮かんでる…」
平坦な言い方なのに妙に含みを感じた千晶はうなだれた。大学はバレている、偶然などいくらでも装えるだろう。
すっぱり断ればいいのはわかっているのに直感では嫌いではないから困る。
もう一方の直感もとい現実、住む世界のちがうひと。でもそれを断る理由にするのは気が引けた。本人のどうにもならない理由を持ち出すのは卑怯だろう。
まだ誰かと将来を考える年齢ではないけれど、まったく切り離して遊べるほど千晶は割り切れる自信がない。もう高校生のように好き嫌いだけでは進めない。
「空城の計って言葉もあるでしょ」
「私を思慮深く思ってくれてありがとう」
慎一郎が口にしている時点で策になってない。なら、どうせひと月で飽きるだろう、彼氏と半年すら続いたことのない千晶には10か月先は遠い未来だ。
そしてクリニックで受けたのはいわゆるブライダルチェックというもの。下半身の健康診断をオブラートに包んだ言い方。
ジーンズだけど丈の長いカーディガンを着ててよかった、と千晶が(主に精神的に)疲れ切って診察室から出ると、先に検査を終えた慎一郎も顔色悪くうなだれていた。血液検査だけで済むとは千晶も思っていなかったけれどいい気分ではない。男性もそうだろう。
「おまちどうさま」
「……おつかれ」
「疲れたね、どんなだったか聞いてもいい?」
項垂れた肩がもう一段下がる。意外と堪えているらしく、千晶もしつこく抉るのはやめた。
「……聞かないで。それよりお腹空いたよね、何が食べたい?」
「そうだな、私は何日も手間暇かけて煮込んだシチューか、ビーツのボルシチが食べたい気分かな。あとデザートにアイスが美味しい所、あなたは?」
慎一郎は千晶の遠慮のかけらもない要望に立ち上がって、行こう、とだけ言った。
(ワタシハナニモミテイナイ)
気付かないふりをしてして通り過ぎた横でエンジンの掛かる音がする。独特のエンジン音はもう聞き覚えた。車は前進し、千晶を越した先で停止すると、運転手が降りてきた。
(あーあ)溜息ってこういうときに出るんだ、誰も聞いていないのに。
それはお風呂上りに飲もうと楽しみに思っていたとっておきが冷蔵庫から消えてた時の絶望に似ていた。
「これからちょっと付き合ってよ」
「湾曲に断ったのがわからないようなひとじゃないよね」
「ああ」
「じゃぁどうして」
「さぁね」
「嘘でも『君が忘れられない』位言ってみたらどうですかねー」
悪びれるでもなく淡々と返す相手に千晶は挑戦してみた。
彼――慎一郎は両掌を上にあげ、肩を少し下げてみせてから「その手が通用するとは思えないんだよな」と、違うセリフを口にした。
「それもそうだね」
千晶が仏頂面で同意すると、慎一郎は面白そうに笑った。
「そこは可愛く『私は会いたかったの』って言ったらどう?」
「……その手には乗らないから」
彼は微笑みながら助手席のドアを開け、手で乗車を促す。
ドアは自分で開けられる、そう言いたいのに出たのは溜息だった。
「うちのカードキーに羽根が生えて迷子になっちゃってたんだけど、ちゃんと帰ってきてさ」
「へぇ、ふらふらしないでご主人様のところへきちんと戻るおりこうさんな鍵ね」
開けると封筒からカードキーとその他が飛び出す仕掛け、いたずらは失敗に終わったらしい。千晶はふてくされたように窓枠に肘をつき外に視線を移した。迷子じゃなくて不法侵入だろ。
「誰かが保護して届けくれたんだ、お礼をしないとね」
「ふーん、律儀だね」
*
着いたのはビルにテナントで入ってるクリニック、付き合えとはここにだろうか。
「ところで今生理だったりする?」
「そんなに不機嫌そうだった?」
気遣いのない発言ににこりともしないで返す。
「じゃぁ一緒に」
「???」
「匿名でもいいそうだから」
ああ、そうきたか。理由なんてつけなければよかった。問題が解消されればおkととらえるのが男性だった。千晶は彼が何一つ譲歩するつもりがないだろうと思っての言葉だったのに。だからって自分が選ばれたなんてお花畑な勘違いはしない、どうせ寄って来る女性に飽きたところだったんだろう、間が悪かった。
「はぁ」もう溜息しか出ない。
「あれはそんなつもりで言ったんじゃないから」
「知ってる」じゃぁまた明日と同じ調子で慎一郎は続ける「それに、卒業したら留学が決まってる」
「……それはまたずいぶん先の長い話だね」
「一年もないよ」
長くても卒業まで、クズの極みのような提案だ。そんなに経つ前に飽きるでしょ、とまでは口にしなかった。
「ねぇ、ここまでしなくても慎一郎さんがわざわざ来なければ終わる話だよね。私とあなたじゃそうそう人生のなかで交わらないでしょ、それに留学するんなら、このまま一生会わないままで忘れて済むだけの話だと思うよ」
「そうかな? じゃぁどこかで偶然会ったらいいんだね」
「…墓穴とか藪蛇とかって言葉が今頭に浮かんでる…」
平坦な言い方なのに妙に含みを感じた千晶はうなだれた。大学はバレている、偶然などいくらでも装えるだろう。
すっぱり断ればいいのはわかっているのに直感では嫌いではないから困る。
もう一方の直感もとい現実、住む世界のちがうひと。でもそれを断る理由にするのは気が引けた。本人のどうにもならない理由を持ち出すのは卑怯だろう。
まだ誰かと将来を考える年齢ではないけれど、まったく切り離して遊べるほど千晶は割り切れる自信がない。もう高校生のように好き嫌いだけでは進めない。
「空城の計って言葉もあるでしょ」
「私を思慮深く思ってくれてありがとう」
慎一郎が口にしている時点で策になってない。なら、どうせひと月で飽きるだろう、彼氏と半年すら続いたことのない千晶には10か月先は遠い未来だ。
そしてクリニックで受けたのはいわゆるブライダルチェックというもの。下半身の健康診断をオブラートに包んだ言い方。
ジーンズだけど丈の長いカーディガンを着ててよかった、と千晶が(主に精神的に)疲れ切って診察室から出ると、先に検査を終えた慎一郎も顔色悪くうなだれていた。血液検査だけで済むとは千晶も思っていなかったけれどいい気分ではない。男性もそうだろう。
「おまちどうさま」
「……おつかれ」
「疲れたね、どんなだったか聞いてもいい?」
項垂れた肩がもう一段下がる。意外と堪えているらしく、千晶もしつこく抉るのはやめた。
「……聞かないで。それよりお腹空いたよね、何が食べたい?」
「そうだな、私は何日も手間暇かけて煮込んだシチューか、ビーツのボルシチが食べたい気分かな。あとデザートにアイスが美味しい所、あなたは?」
慎一郎は千晶の遠慮のかけらもない要望に立ち上がって、行こう、とだけ言った。
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