好奇心は猫をも殺す

えびねこ

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 ふと時間を確認すれば1時間半も経っていた。ドリンク一杯のつもりが、歌も話も強制されずにいた空間に長居してしまった。時刻は16時前、ここから家まで多分1時間弱、日が落ちると冷える春先、切り上げるにはいい時間だった。
「私達そろそろ出るね。お姉ちゃんどうする?」
「……(まだ続いてんだ)私も、次一曲入ってるから、それで出るね」

 ちょうど声をかけてきた姉に、先に行っててと苦笑いで返す。結局誰も『姉』に突っ込んでくれないし、似てないとも言ってもらえてない。

「わかった、お夕飯いらないから」
「今日はお父さん早いって言ってたから遅くならないでね、ねっ」

 ニヤニヤとした姉妹のやり取りに、同意を求められた姉の彼氏は肩を震わせて頷いた。

「気をつけて帰ってね、何かあれば連絡して。まだこの辺にいるから」
「はい、ありがとうございました」

 最後に姉はこっそりと付け足す。ビルを出て正面が地下鉄、出て左手に行けばJR駅、夜でも安全な通りだ。同級生からは無事に帰宅したと連絡があった。
 キャンセルすればよかったのか、でも二人の邪魔をするのも悪いような、それよりも、なんとなく最後はその曲の気分だった。

 そんな時、――ふわっと隣から気配が、次いで声がした。

「何か入れてるの?」
「リチャーd  あ、これ」答え切る前に特徴的なイントロが流れてきた。
「僕が歌ってもいいかな」

 彼とは初対面なはずだ、なのに挨拶もなく始まった彼の言葉に自信が伺われる。馴れ馴れしさはなかったが、無視されるとも思っていない。一方でどんな印象を持たれても構わないようにも思えた。

 彼女は視線を声の方向へ向け、「どうぞ」、と言った。

 彼女はにこりともしないが、まっすぐな瞳に申し出を批難する色はみられなかった。歌っても聞いてもどちらでもいい、そんなニュアンスだった。
 彼も彼女の、男性ボーカルの選曲を揶揄するものではなく、歌に自信があるといった風でもなく、淡々とマナーとして伺いを立てたようだった。

 何の含みもないやりとりに彼はほんの少し目を細めると、「須田」と斜め向かいの男に手を向けて、マイクを受け取った。
 
 彼の歌を聞いた、それが合図だったのか。

 前向きな決意とも、底に引きずり堕とそうとも、全てを俯瞰しているともとれる歌詞を淡々と歌う声に、皆も軽く手拍子をうつ。

 メロディと静寂が交差する。
 彼女は最後のバックコーラスだけを口ずさんだ。



 曲が終わると彼は「行こう」とだけ言った。

 どこへ行くとも訊かず言わず、ただあまりにも自然にそうした、彼らを見て誰が初対面だと気づくだろう。


 彼女――少女というには過ぎ、女性というには幼い
 彼もまた――少年というには過ぎ、男性というには未熟、そんな過渡期の二人。


 ビルを出て右へ、彼女が彼に付いて行くかたちなのに、急かされるでもなく、なんとなく並んで歩く。

 何を話すでもなく、しばらく歩いて着いたのは公園の桜並木。
 今年は開花が早い、日当たりのよい場所の樹はもう青い葉が見え始めていた。

 ひらひらと舞い散るる花びら

 わずかな風が彼と彼女に桜を降らせた。彼が花びらを、そしてとなりの横顔を目で追う。彼女は揺れる髪に掛かる花びらを払いもせず進んでいく。
 

 並木を過ぎ、階段を上る。花見の場所取りから離れ、静けさが漂う。日陰に一本の枝垂れ桜が佇んていた。彼女がその満開の下に足をとめると、彼も足をとめて少し眺めていた。

 こぼれおちそうな白が薄宵に浮かぶ。

「入学式はいつなの?」
「12日」
「そのころには葉桜だね」

 彼女もまた、なんの前触れもなく言葉を発した。店を出てから初めての会話だった。



 知人の知人の知人ということがどれほどの裏書きを持つだろう。
 甘い言葉で誘われたなら警戒したのに、チャラい人なら冗談で返せたのに、さりげなく触れてきたら手を払ったのに。
 


 またどちらともなく歩きだして、着いたのはとある建物だった。

 ロビーとカウンターと横のエレベーターを無視して、ガラス戸で仕切られた先のホールの、エレベーターに乗った。片面が透明な箱からはライトコートをはさんで向かいの箱の光が覗けた。

 部屋に入る前に、彼女は非常口を確認する。彼は淡々と、左がビル外側に出る階段、右手は中庭側の階段だと説明した。

 内開きのドアに見合った広い玄関の向こう側がすぐリビングになっていた。モデルルームみたいなインテリアで占められたこれまた広いリビングに、不似合いな段ボール箱が数個置かれいて、彼は引っ越してきたばかりだといった。
 彼女が少し首を傾げると、「羽根を伸ばしたいからね」と付け足した。

 学生には不似合いな、働いても一般人には住めないような部屋に彼女はなんと言っていいかわからない。
 何かが腑に落ちない。羽根を伸ばしたいと言った以上、一人か、もしくは兄弟や友達とシェアか。少なくとも親と一緒ではないのだろう。それなのに若者の夢と希望にあふれる暮らし感が足りない。
 費用は掛かっているだろうに、どことなくお仕着せのように見えるのは、洗練され過ぎて生活感がないからだろうか。

「お茶でいい?」
「うん」

 キッチンカウンターの上にリネンの掛かったバスケットが乗っていた。彼はちらっとめくり中身を確認すると、食べて、と籠を彼女のほうに押しやった。

 部屋をどことなく人の住まいだと思わせる、香ばしい香りの発生源はそのバスケットだった。スパイスとイーストの混じったパンの香り。

 普通にお湯を沸かし、ポットを温め、ティーバッグでお茶を煎れる。彼女が棚のティープレスに目をやると、このほうがイージーだと笑った。彼が口をつけたのを見届けてから、彼女もいただきますと口をつけた。

「クロスバン、バターもつけるといい」

 手にとるとまだ温かい。中にナッツとドライフルーツがたっぷり入った小ぶりのパン。そのままで一口食べ、二口目はバターを付けると甘酸っぱさが更に引き立った。
 カラオケではカナッペに唐揚げにポテトと塩気の効いたものが多かったので、嬉しい甘さ。紅茶も美味しい。彼女が初めて見たパッケージのお茶はティーバッグなのに味も香りも違う。ふふ、と目を細めた。
 
「美味しい、スパイスとバターの香りに甘酸っぱさが至極」
 
 ほころんだ笑みは、なんの裏もないほどに自然に湧いて、消えた。すっと伸びた背筋もカップを持つ手も、自然だ。初対面の他人の家に来た緊張感もない。

復活祭イースターの定番さ、昔は翌年まで取っておいて、具合が悪くなると薬代わりに食べたそうだよ」
「……麦角? …ペニシリン?」

 彼女は頭に浮かんだ白や緑や黒に変色した何かを、消し去りたいとばかりに首を振った。

「カビは生えない前提だよ」

 んなわけない、言った本人も信じてなさそうな口ぶりに、彼女は視線を明後日のほうへ向けた。そして、乾燥…アルコール…油紙に…砂糖でコーティング…蟻…んー…見なかったことにして、昔からこんなに甘かったのかな、それなら甘いってだけで病人にはごちそうね、と勝手に呟いて納得した。

 彼は途中で「丸ごと吊るしておく」と言ったきり何の反応も見せず、黙ってパンをちぎり口へ運んだ。

 彼女は彼の仏頂面を意に介さず、美味しそうにひとつ食べきると、ふらりと立ち上がり、窓辺へ。

 リビングの上下一杯の窓は総ガラスの羽目殺しで、藍に灯りつつある夜景が下に広がっていた。

 彼はもう一つ食べてから、窓辺へやってきた。

「ここは窓が開かないんだね」
「角の、このリビングはね、両隣りの部屋はベランダがあるよ、卵を探してみたら」
「あるの?」
「さぁ」どうでもいい、そんな感情も読み取れない淡々とした彼の口調。

「光が波のようで水槽にいるみたい」快適だけれど、どこか息苦しい、彼女は一人呟く。
「飼われているのは僕たちのほうなのかな」

「このマンションにしたのはあなたの趣味なの?」
 成功者のステレオタイプのような高層階にも違和感を覚える、彼が好むようには思えなかった。

「空いてたから、ヤギと煙は高い所が好きってね」

「そこまで言ってない」
 質問の意図は読まれていたようだ。はぐらかし方もおかしいと、彼女は不貞腐れたように頬を膨らませた。

「求めよ、さらば与えられん、てね」
「求めよ、か。人の欲はキリが無いからね」
 なんの感慨もなく独り言のように彼は呟いて、彼女が連れてきた花びらに手を伸ばした。

 ひとひら、もう、ひとひら。

 彼の手に移った花びらは再び宙を舞い、床に落ちた。

「あなたにもついてる」
 彼女が差し出した手が届くようにかがむ。
 彼女の手の先が、花びらと髪に触れた。思いのほか柔らかな、白い薄片と漆黒の髪。

 人差し指に乗せた花びらに、ふっと息を吹きかけると、軽く回転してひらひらと落ちていった。

 彼はその人指し指と、次いで唇に、触れるだけのキスをした。

「尋ねよ、さらば見いださん」

 彼は名を告げ、彼女の名を問うた。
 答えに満足すると、再び横顔に、髪に、背に触れ腰を引き寄せる。


 ふわっと、どこかかほっとする空気。と次いで温かさ。
 ――初めて会った人なのに、嫌じゃない。
 少し前に、好きと、一緒に居たいと、触れたいがイコールではないと知った。触れて大丈夫なひとがいる、それが嬉しかった。
 

 若さは時に無鉄砲だ、考えなしで進んでいく。本能や無意識に常識で抗わない。先入観が無いほうがいいこともある、きっと。
 彼女がいつのまにか彼の首にまわしていた腕、その手の先が再び髪に触れる。

 少しずつ確かめるように深くなってゆくキスと、彼女の手が掴む固さと指先に触れるやわらかさ。わずかに舌に残るシナモンと柑橘の香りに、、触れているのは表面なのに、身体の芯にぽっと燈る。ゆらゆら、揺らいで。
 ひだまり、何か懐かしい香りが身体を包みこんでいく。
 いつからだったろう、いつ何かあっても恥ずかしくない程度に身だしなみを整え、出掛ける前に身辺を整えるようになったのは。 
(こんな時の為じゃないのに)
 何かあったら家族は悲しむから、冒険は今日だけ、でもその心配が一番先に立たなかったのはどうして。

 そう考えて、思い留まるのに警戒心が無く羞恥のみだと気づいた彼女は、訳の分からない笑みを浮かべてしまった。

「なんなの」
「違う、初対面の人と、こんなことしてる自分がおかしくて」
 彼も口角を少しあげて、そして目を細めた。

「きっとどこかで会ってる」

 今日は他愛のない嘘なら許される日。それにしても、何の抑揚もないセリフに彼女は呆れ、彼も自身の発言の浅はかに苦笑し、彼女の首に顔を伏せた。


「やめてくれてもいいんだけどな」彼女がつぶやくと、ふふ、と声がしたけれど、動きは止まらなかった。彼女が両手を押しやるように制止すると、顔を上げ、こつんと、額を突き合わせて、微笑み合った。


 目が合っても曇りのない、ギラついた情欲の光に濁らない眼差しがそこにあった。一番盛りのついた年頃なのに。理性と冷静さを失わない瞳が彼女を一層安心させた。熱を帯びて強くなった彼の香りに惑わされたのかもしれない。

 彼もまた彼女のキスに惑わされたのかもしれない。水中でレギュレーションを交互に分け合うように、溺れもしないが、浮上もできない。彼女の声と同じ心地よく浸透して、消えていく泡。もう少し経験と余裕があれば、彼女の張りのあり過ぎる肌と胸、やわらかなまだかたちになっていない花びらとちょっとした抵抗感、そんなことに気づけたのに。
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