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一章 発端
一.女湯の刀掛け
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――江戸幕府、第十一代将軍、家斉の治世のことである。
明け六つの鐘が遠くに響く中、朝の早い町人が道を行き交っていた。
和田総二郎は、藍色の着流し姿で欠伸をしながら歩いている。
身の丈は六尺近く、三十歳を迎えたばかりの男盛り、目鼻立ちの整った色男だ。
向かう先は深川にある平湯。飲み仲間である平助の湯屋である。
きっと今頃は、妻のお夏に叱られながら釜炊きをしているのであろう。
今年の冬はことさら寒く、江戸中が凍りついたかのように真っ白であった。
ここ数日、ようやく穏やかな日差しが訪れ、春の陽気が感じられる季節となっている。
だが、一昨日より冷たい雨が降り続いて、せっかくの春の気分に水を差されていた。
昨夜、しとしとと降る雨の中、総二郎は馴染みの居酒屋で一人酒を楽しんでいた。
そこへ平助と、これも飲み仲間である留吉が顔を出し、長屋で飲もうという話になる。
大工の留吉は雨続きで仕事にならず、暇を持て余していた。
そこで、総二郎が酒を買い求め、明け方まで酒盛りをしていたというわけだ。
留吉の住まいである深川の藤兵衛長屋を出ると、今朝は見事な晴れ間が広がっていた。
総二郎は朝日の眩しさに目を細めながら、平湯の暖簾をくぐる。
「あら、旦那。今日はお早いんですね」
番台に座っていたお夏がにこやかに声をかけてきた。
小柄で丸顔の、愛嬌のある女だ。
このお夏に、身の丈六尺はあろうかという平助が尻に敷かれているというのだから面白い。
小柄な割に大きな尻を、番台にちょこんと乗せて、お夏は微笑んでいる。
「おう、お勤めが長引いてな」
「はいはい、お勤めね。うちのろくでなしから、ぜーんぶ聞いてますよ」
カラカラと笑うお夏に、総二郎は誤魔化すように咳払いをしながら銭を渡す。
男湯のほうは、仕事前にひとっ風呂浴びる男たちで賑わっている。
しかし、総二郎がいる女湯は、しんと静まり返っていた。
北町奉行所の隠密同心である総二郎は、特権として湯屋の女湯を使うことができる。
女達は朝忙しく、湯屋に来る者はほとんどいない。
そのため、朝の女湯を貸し切りにして、男湯の喧騒を聞きながら情報収集をする同心が多い。
総二郎は心付けをたっぷりと弾んでいるので、お夏もホクホク顔で迎えているのである。
「お客は留めておきますから、ごゆっくりどうぞ。あっ、そういえば……」
お夏が言いかけたとき、脱衣所の隅に座っていた少女が、むくりと立ち上がった。
「総二郎様! やっぱり午前様でしたね!」
「うっ、お鈴! なぜここに……」
お鈴はぷくりと頬をふくらませて、どんどんと足を踏み鳴らして近づいてくる。
桃割れに結い上げた髪に、まだあどけなさの残る顔立ち、黄色の小袖という姿だ。
「総二郎様が帰ってこないから、心配して来たのです。朝帰りのときは、必ずこちらにいらっしゃると思って」
「すまぬ。ちょっとお勤めが長引いて……」
「言い訳はご無用です。ぜーんぶ、お夏さんから聞いて知っているんですからね」
つんと唇を尖らせるお鈴を見て、口元を袖で隠したお夏がクスクスと笑う。
総二郎は八丁堀の組屋敷と別に、深川に別宅を持っていた。
そこに住まわせているのが、お鈴である。
元は大工の娘であったのだが、十二歳の頃、辻斬り騒動に巻き込まれ両親を亡くした。
その事件を解決した総二郎が、身寄りの無いお鈴を引き取ったのだ。
お鈴が一人前になるまでという心づもりであったが、そのまま六年の月日が流れていた。
すっかり女らしくなったお鈴は、あけっぴろげに好意を剥き出しにしており、総二郎としては頭の痛いところである。
娘のように可愛がってきたお鈴に、そういう気持ちを持つことへの罪悪感があったのだ。
「ちゃんとお着替えもお持ちしましたから、身なりを整えてご出仕してくださいませ」
「分かった分かった。ありがたく受け取っておく」
風呂敷包みを受け取った総二郎は、刀掛けに刀を置き、脱衣籠を引き寄せた。
「新太は忙しそうだな。流しを頼みたいところだが」
新太は平湯の三助で、やはり総二郎の飲み仲間である。
流しの腕は一流で、混雑していると引っ張りだことなるのだ。
「男湯のほうで手一杯で……」
「よいよい、自分でやればいいことだからな」
申し訳なさそうに頭を下げるお夏に、総二郎は鷹揚に頷く。
総二郎が帯を解こうとすると、お鈴が鼻息を荒くして寄ってきた。
「おい、お前は帰れ」
「新太さんは忙しいみたいですし、私が背中をお流しします」
言うが早いか、お鈴はスルスルと帯を外し小袖の前を開く。
腰巻一枚の姿になったのを見て、総二郎は慌てて目を逸した。
出会った頃は何の凹凸も無かったのが、今ではすっかり女の体になっている。
「お鈴、お前はもう少し恥じらいというのをだな」
「今更恥ずかしがる仲でもないでしょう? それに、ここは女湯です。本当は総二郎様がいるほうが、おかしいのですからね」
ぐうの音も出ない総二郎を見て、番台のお夏が堪えきれずに笑い声をあげる。
「お鈴ちゃんにかかっちゃ、旦那もお手上げだねえ。ふふふ、女たらしが聞いて呆れますよ」
「こら、お夏、余計なことを言わんでよい」
「まっ! 女たらしですって! やっぱり昨日は女のところへ……総二郎様!」
ぷりぷり怒るお鈴に、総二郎はすっかり困り顔だ。
「違う、違う。昨日は留吉と平助と三人で……」
「どうだか。三人とも、女にだらしないですから。ね、お夏さん」
「そうそう、困った男どもだよ」
二人がかりで攻められながら、総二郎はむくれながら着物を脱いでいく。
下帯一枚になると、細身の割に筋骨たくましい肉体が現れる。
それまで騒ぎ立てていたお鈴とお夏が、ぽうっと頬を染めて見惚れる。
「あっ、あのっ、総二郎様。着替えをお持ちしておりますので、下帯も」
何かを期待するように、お鈴が掠れ声で言う。
頷いた総二郎がするりと下帯を外すと、お鈴とお夏は同時にため息を漏らした。
規格外の物を前に、二人の女は言葉を失っている。
「まあ……まあ……いつ見ても……ふぅ……」
「お夏ちゃん! お代、ここ置くよ! お夏ちゃん!」
「はい……はい……すごいわぁ……」
男湯の接客も上の空で、お夏は総二郎に見入っている。
こちらも惚けていたお鈴が、思い出したように腰巻を外した。
肉付きは薄いが、美しい曲線を描いている。
幼い頃から一緒に過ごしており、お鈴は肌を見られることに抵抗はないようだ。
親代わり、兄代わりとしての信頼が厚いということだろう。
ただ、規格外の部分に目が行ってしまうのは、いたしかたない。
総二郎のほうはまだ子供と思っているが、お鈴とて十八の娘である。
そういう事柄に、興味が出て当然の年頃だ。
「さ、総二郎様、こちらへ」
洗い場に腰掛けた総二郎に、お鈴は甲斐甲斐しくかけ湯をしてやる。
そして、糠袋を湿らせて、ゴシゴシと背中を擦り始めた。
「総二郎様、どうですか?」
「ああ、気持ちいいぞ」
一生懸命両手を動かし、お鈴が総二郎の広い背中を擦る。
羽目板一枚隔てた男湯は喧騒に包まれているが、女湯は静かなものであった。
総二郎は静かに目を閉じながら、男湯から漏れ聞こえる会話に耳を澄ませていた。
どうやら深川で大きな普請があるようで、今日の客は大工が多いようだ。
喧騒に紛れて、寝坊だ、寝坊だと叫ぶ留吉の声が聞こえ、総二郎とお鈴は顔を見合わせて笑う。
「総二郎様、留吉さんのこと、起こしてあげなかったのですか?」
「留の奴、飲み過ぎて全く起きなかったのだ。平助は叩き起こしたがな」
「まあ、可哀想に。相当に慌ててましたよ」
「致し方あるまい。限度を忘れて飲んでしまうのが悪いのだ」
総二郎が肩を竦めるのを見て、お鈴はぷくっと頬をふくらませた。
「まったく……どうせまた、美乃吉さんのお酒を持っていったのでしょう?」
「ははは、よく分かるな。あそこは良い酒を仕入れるからのう」
美乃吉とは、総二郎の馴染みの居酒屋『みの屋』の主人である。
昨夜、一人酒を楽しんでいた店だ。
妻のお妙と、娘のお玉とともに、狭くとも温かな店を営んでいる。
みの屋は八丁堀に近いため、若い同心の溜まり場にもなっている。
もちろん、目当ては娘のお玉だ。
器量良しの上、大変に初心なため、若い者からは大人気なのである。
「おっ……お鈴、少々力が入りすぎではないか……?」
「いいえ、このくらいやらないとだめです! どうせ、お玉ちゃんにお酌されてお酒が進んだのでしょう!」
「痛っ……痛たっ……こら、お鈴、皮が剥げてしまうぞ」
猛烈な勢いで背中を擦られ、総二郎は情けない悲鳴を上げた。
「まったくもう! そんなにお酒が飲みたいなら、家で飲めばいいではありませんか。お酌ならいくらでも私がしてさしあげますのに!」
「たっ……たまには男同士で飲みたいときもあるのだ」
「そうですか、分かりました。じゃあ、お玉ちゃんに、総二郎様には絶対にお酌しないように言っておきますね」
「なんてことを言うのだ。それでは楽しみが無いではないか」
「あーっ! やっぱりお玉ちゃんが目当てだったのですね! この! このぉ!」
番台に座ったお夏は、微笑ましく思いながら二人のやり取りを眺めている。
色男の総二郎が、お鈴に翻弄されているのが面白くて仕方がないのだ。
「まったく、旦那もそろそろお鈴ちゃんのこと、真剣に考えてもいいのにね。気づいてないわけがないのに……」
小さな声で呟きながら、お夏は肩を竦めるのであった。
明け六つの鐘が遠くに響く中、朝の早い町人が道を行き交っていた。
和田総二郎は、藍色の着流し姿で欠伸をしながら歩いている。
身の丈は六尺近く、三十歳を迎えたばかりの男盛り、目鼻立ちの整った色男だ。
向かう先は深川にある平湯。飲み仲間である平助の湯屋である。
きっと今頃は、妻のお夏に叱られながら釜炊きをしているのであろう。
今年の冬はことさら寒く、江戸中が凍りついたかのように真っ白であった。
ここ数日、ようやく穏やかな日差しが訪れ、春の陽気が感じられる季節となっている。
だが、一昨日より冷たい雨が降り続いて、せっかくの春の気分に水を差されていた。
昨夜、しとしとと降る雨の中、総二郎は馴染みの居酒屋で一人酒を楽しんでいた。
そこへ平助と、これも飲み仲間である留吉が顔を出し、長屋で飲もうという話になる。
大工の留吉は雨続きで仕事にならず、暇を持て余していた。
そこで、総二郎が酒を買い求め、明け方まで酒盛りをしていたというわけだ。
留吉の住まいである深川の藤兵衛長屋を出ると、今朝は見事な晴れ間が広がっていた。
総二郎は朝日の眩しさに目を細めながら、平湯の暖簾をくぐる。
「あら、旦那。今日はお早いんですね」
番台に座っていたお夏がにこやかに声をかけてきた。
小柄で丸顔の、愛嬌のある女だ。
このお夏に、身の丈六尺はあろうかという平助が尻に敷かれているというのだから面白い。
小柄な割に大きな尻を、番台にちょこんと乗せて、お夏は微笑んでいる。
「おう、お勤めが長引いてな」
「はいはい、お勤めね。うちのろくでなしから、ぜーんぶ聞いてますよ」
カラカラと笑うお夏に、総二郎は誤魔化すように咳払いをしながら銭を渡す。
男湯のほうは、仕事前にひとっ風呂浴びる男たちで賑わっている。
しかし、総二郎がいる女湯は、しんと静まり返っていた。
北町奉行所の隠密同心である総二郎は、特権として湯屋の女湯を使うことができる。
女達は朝忙しく、湯屋に来る者はほとんどいない。
そのため、朝の女湯を貸し切りにして、男湯の喧騒を聞きながら情報収集をする同心が多い。
総二郎は心付けをたっぷりと弾んでいるので、お夏もホクホク顔で迎えているのである。
「お客は留めておきますから、ごゆっくりどうぞ。あっ、そういえば……」
お夏が言いかけたとき、脱衣所の隅に座っていた少女が、むくりと立ち上がった。
「総二郎様! やっぱり午前様でしたね!」
「うっ、お鈴! なぜここに……」
お鈴はぷくりと頬をふくらませて、どんどんと足を踏み鳴らして近づいてくる。
桃割れに結い上げた髪に、まだあどけなさの残る顔立ち、黄色の小袖という姿だ。
「総二郎様が帰ってこないから、心配して来たのです。朝帰りのときは、必ずこちらにいらっしゃると思って」
「すまぬ。ちょっとお勤めが長引いて……」
「言い訳はご無用です。ぜーんぶ、お夏さんから聞いて知っているんですからね」
つんと唇を尖らせるお鈴を見て、口元を袖で隠したお夏がクスクスと笑う。
総二郎は八丁堀の組屋敷と別に、深川に別宅を持っていた。
そこに住まわせているのが、お鈴である。
元は大工の娘であったのだが、十二歳の頃、辻斬り騒動に巻き込まれ両親を亡くした。
その事件を解決した総二郎が、身寄りの無いお鈴を引き取ったのだ。
お鈴が一人前になるまでという心づもりであったが、そのまま六年の月日が流れていた。
すっかり女らしくなったお鈴は、あけっぴろげに好意を剥き出しにしており、総二郎としては頭の痛いところである。
娘のように可愛がってきたお鈴に、そういう気持ちを持つことへの罪悪感があったのだ。
「ちゃんとお着替えもお持ちしましたから、身なりを整えてご出仕してくださいませ」
「分かった分かった。ありがたく受け取っておく」
風呂敷包みを受け取った総二郎は、刀掛けに刀を置き、脱衣籠を引き寄せた。
「新太は忙しそうだな。流しを頼みたいところだが」
新太は平湯の三助で、やはり総二郎の飲み仲間である。
流しの腕は一流で、混雑していると引っ張りだことなるのだ。
「男湯のほうで手一杯で……」
「よいよい、自分でやればいいことだからな」
申し訳なさそうに頭を下げるお夏に、総二郎は鷹揚に頷く。
総二郎が帯を解こうとすると、お鈴が鼻息を荒くして寄ってきた。
「おい、お前は帰れ」
「新太さんは忙しいみたいですし、私が背中をお流しします」
言うが早いか、お鈴はスルスルと帯を外し小袖の前を開く。
腰巻一枚の姿になったのを見て、総二郎は慌てて目を逸した。
出会った頃は何の凹凸も無かったのが、今ではすっかり女の体になっている。
「お鈴、お前はもう少し恥じらいというのをだな」
「今更恥ずかしがる仲でもないでしょう? それに、ここは女湯です。本当は総二郎様がいるほうが、おかしいのですからね」
ぐうの音も出ない総二郎を見て、番台のお夏が堪えきれずに笑い声をあげる。
「お鈴ちゃんにかかっちゃ、旦那もお手上げだねえ。ふふふ、女たらしが聞いて呆れますよ」
「こら、お夏、余計なことを言わんでよい」
「まっ! 女たらしですって! やっぱり昨日は女のところへ……総二郎様!」
ぷりぷり怒るお鈴に、総二郎はすっかり困り顔だ。
「違う、違う。昨日は留吉と平助と三人で……」
「どうだか。三人とも、女にだらしないですから。ね、お夏さん」
「そうそう、困った男どもだよ」
二人がかりで攻められながら、総二郎はむくれながら着物を脱いでいく。
下帯一枚になると、細身の割に筋骨たくましい肉体が現れる。
それまで騒ぎ立てていたお鈴とお夏が、ぽうっと頬を染めて見惚れる。
「あっ、あのっ、総二郎様。着替えをお持ちしておりますので、下帯も」
何かを期待するように、お鈴が掠れ声で言う。
頷いた総二郎がするりと下帯を外すと、お鈴とお夏は同時にため息を漏らした。
規格外の物を前に、二人の女は言葉を失っている。
「まあ……まあ……いつ見ても……ふぅ……」
「お夏ちゃん! お代、ここ置くよ! お夏ちゃん!」
「はい……はい……すごいわぁ……」
男湯の接客も上の空で、お夏は総二郎に見入っている。
こちらも惚けていたお鈴が、思い出したように腰巻を外した。
肉付きは薄いが、美しい曲線を描いている。
幼い頃から一緒に過ごしており、お鈴は肌を見られることに抵抗はないようだ。
親代わり、兄代わりとしての信頼が厚いということだろう。
ただ、規格外の部分に目が行ってしまうのは、いたしかたない。
総二郎のほうはまだ子供と思っているが、お鈴とて十八の娘である。
そういう事柄に、興味が出て当然の年頃だ。
「さ、総二郎様、こちらへ」
洗い場に腰掛けた総二郎に、お鈴は甲斐甲斐しくかけ湯をしてやる。
そして、糠袋を湿らせて、ゴシゴシと背中を擦り始めた。
「総二郎様、どうですか?」
「ああ、気持ちいいぞ」
一生懸命両手を動かし、お鈴が総二郎の広い背中を擦る。
羽目板一枚隔てた男湯は喧騒に包まれているが、女湯は静かなものであった。
総二郎は静かに目を閉じながら、男湯から漏れ聞こえる会話に耳を澄ませていた。
どうやら深川で大きな普請があるようで、今日の客は大工が多いようだ。
喧騒に紛れて、寝坊だ、寝坊だと叫ぶ留吉の声が聞こえ、総二郎とお鈴は顔を見合わせて笑う。
「総二郎様、留吉さんのこと、起こしてあげなかったのですか?」
「留の奴、飲み過ぎて全く起きなかったのだ。平助は叩き起こしたがな」
「まあ、可哀想に。相当に慌ててましたよ」
「致し方あるまい。限度を忘れて飲んでしまうのが悪いのだ」
総二郎が肩を竦めるのを見て、お鈴はぷくっと頬をふくらませた。
「まったく……どうせまた、美乃吉さんのお酒を持っていったのでしょう?」
「ははは、よく分かるな。あそこは良い酒を仕入れるからのう」
美乃吉とは、総二郎の馴染みの居酒屋『みの屋』の主人である。
昨夜、一人酒を楽しんでいた店だ。
妻のお妙と、娘のお玉とともに、狭くとも温かな店を営んでいる。
みの屋は八丁堀に近いため、若い同心の溜まり場にもなっている。
もちろん、目当ては娘のお玉だ。
器量良しの上、大変に初心なため、若い者からは大人気なのである。
「おっ……お鈴、少々力が入りすぎではないか……?」
「いいえ、このくらいやらないとだめです! どうせ、お玉ちゃんにお酌されてお酒が進んだのでしょう!」
「痛っ……痛たっ……こら、お鈴、皮が剥げてしまうぞ」
猛烈な勢いで背中を擦られ、総二郎は情けない悲鳴を上げた。
「まったくもう! そんなにお酒が飲みたいなら、家で飲めばいいではありませんか。お酌ならいくらでも私がしてさしあげますのに!」
「たっ……たまには男同士で飲みたいときもあるのだ」
「そうですか、分かりました。じゃあ、お玉ちゃんに、総二郎様には絶対にお酌しないように言っておきますね」
「なんてことを言うのだ。それでは楽しみが無いではないか」
「あーっ! やっぱりお玉ちゃんが目当てだったのですね! この! このぉ!」
番台に座ったお夏は、微笑ましく思いながら二人のやり取りを眺めている。
色男の総二郎が、お鈴に翻弄されているのが面白くて仕方がないのだ。
「まったく、旦那もそろそろお鈴ちゃんのこと、真剣に考えてもいいのにね。気づいてないわけがないのに……」
小さな声で呟きながら、お夏は肩を竦めるのであった。
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