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第Ⅺ章
約束の畔
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二日目の夜が明けた。二日間も男性と夜を過ごしたのは初めてのことだった。いや、夜を過ごした、という言い方は相応しくないだろう。飽くまで夜という時間が経過して行っただけだ。その時間の中に彼がいただけだ。
レオナは車の中から彼を見た。
丈の短い革ジャン。いくらくるまっても、その長い脚ははみ出している。寒いのか、寒くないのか、夢を見ているのか、見ていないのか、車の中からではその表情は良く分からなかった。
既に陽は上がっていた。朝はやって来ていた。
朝とは残酷なものだと思う時がある。生きている限り、人は永遠に夢を見続けることはできない。夜が去ることも、朝が来ることも、止めることは出来ない。朝の光がいくらか優しかろうと、その光は、夢の延長をお預けにしたまま現実を照らす。
勿論、うなされる夜もあれば、待ち遠しくて堪らない朝もある。その一方で、夢とわかりつつも見続けたい夢があり、出来ることなら目覚めたくない現実がある。
もう一度、レオナはヒデキを見た。ひょろ長い脚、細い顎、黒い髪。この男性と二日の時間を過ごした。
時間とはおかしなもので、濃度がある。膨大な時間を過ごしても、希薄な場合もあれば、ほんの一瞬でも濃厚な時が過ごせる場合がある。
レオナにとって、この二日間は密度が高すぎて凝固しそうなくらいだった。きっと普通の成分なら、その液体は凝固して固化してしまったことだろう。がっちりと原子の格子が絡まり合って、その分子構造は到底分解することは出来なかっただろう。
しかし、その成分は時間だった。改めて、レオナは時間が容赦なく一方向にしか経過しないことを思い知った。
夜は去り、朝はやってくるのだ。夢はお預けとなり、現実が歩き始める。
止めたかった。こんな時間など、止めてしまいたかった。光となって、永遠の時間を今のままでいたかった。しかし、レオナはそれほど速くはないのだった。
ラジオが鳴っていた。レオナの名前が幾度となく叫ばれていた。
これは知らせなければならない出来事だ。少なくともヒデキには、知る権利があるだろう。知った後、ヒデキがどうするのか、そしてレオナがどうしなければならないのか、レオナには予想もつかなかった。
しかし、決着は何らかの形で付けざるを得ないだろう。いずれにせよ、今のままなら時間は一方向にしか進まない。レオナはゆっくりとドアを開けると、ヒデキの方へ歩いて行った。
鳴りっぱなしのラジオの内容をもう一度確かめた。
『孝和会か?』
いや違うだろう。もし、孝和会だとしたら、こんな大っぴらなことはしないはずだ。ただでさえ、大きな利権が動こうとしている今、いくら組長への報復とはいえ、その利権までパァにするような危険は侵さないはずだ。プロにはプロのやり方がある。少なくともチンピラ一人殺したことを、ここまで無防備に警察やマスコミに晒すようなことはしない。
やはり奴だ、とヒデキは思った。
上手い手だ。三発も食らった挙句、心臓をぶち抜かれた死体。ご丁寧にも、その死体が街のど真ん中のオブジェとは気が利いている。
マスコミは、てっきり抗争だと思い込み、ヒデキは逆上してひょっこりと顔を出す。一石二鳥。余程頭の回る奴でなければ、こんな手の込んだ芸当は思いつかないだろう。
落ち着け。
そこまでは分かっていて、奴の手に乗ることはない。シンイチロウは死んだ。いや、殺された。ヒデキは何もしてやれなかった。なおかつ、シンイチロウは勝手に死んだのではないのだ。死んだ理由、いや死なせた理由の全てがヒデキにあるのだ。そうして死んだ男の死に水さえ取ってやれなかったのだ。
しかし、落ち着くのだ。だから、落ち着くのだ。今はそれ以上の方法はない。
運転席のレオナを見た。
心配そうな眼は美しかった。
その眼の言うとおり、ここで泣き崩れようと、怒り叫ぼうと、何の得にもなりはしない。美しい眼が言った。落ち着け、と。考えろ、と。
ヒデキは考えた。
確かに上手い手だ。しかし、危険な手でもあることも確かだ。奴は危険な橋を渡っている。それは取りも直さず、危険と承知で渡らざるを得なかった証拠だ。でなければ、奴は是が非でも他の手段を考えただろう。
奴も焦っている。他に打つ手はないのだ。
そして、次の手を打つのはこちらの番だ。
レオナに向き直った。
「シンイチロウが殺された。シンイチロウは俺の弟みたいな奴だった。殺したのは、俺のアニキみたいな奴だ。だから、俺は行かなきゃならない。」
レオナはこっくりと頷いた。
「最後のお願いだ、もう少しだけ付き合って欲しい。」
ヒデキはレオナに近づき、耳打ちした。レオナとする、最後のちょっとしたゲームだ。危険はない。
レオナは吹き出すように笑ってから、右手の親指を突き上げて、拳の背中を見せた。
「じゃぁ、行こうか。」
レオナは微かに微笑み、そして真顔に戻った。
良い笑顔だ。忘れはしない、とヒデキは思った。
「レオナの代理店の電話番号は、なんだっけ?」
レオナは不思議そうな顔をして、ダッシュボードから手帳を取り出した。ヒデキは、番号を白紙のページに書き写し、そのページを引きちぎった。
「また、仕事がある時には電話するよ。きっとそんな時もあるさ。
さぁ、行こう。」
レオナは首を振りながら、ハンドルを握った。
街道に出る前に電話ボックスに寄った。何か所かに電話をした。電話する相手が正しい相手なのか、その内容が的確なのか、それは分からなかった。しかし、やるだけはやろう。後は思い切るしかない。
街道に出ると、レオナがビトルボを止めた。ヒデキが降りようとすると、レオナが口を開いた。
「ねぇ、ヒデキ、あの賭け覚えてる?」
光になれるか、なれないかの賭け。バカバカしくも充実した時間に交わした会話。確かにそれは、ヒデキとレオナ、二人きりの時間であった。
ヒデキは答えた。
「あぁ、忘れやしないさ。」
そうだ、決して忘れることはない。レオナが勝ったら、ヒデキが革ジャンをやり、ヒデキが勝ったらレオナを頂くのだ。
バカバカしいが、気が利いている。
「嬉しいわ、約束ね。」
と言ってレオナは小指を立てた。その小指に自分の小指を軽く絡めた。
絡めたレオナの小指は、寒くもないのに震えていた。
優しい女だ。別れの言葉など言わせないぐらい、やさしい女だ。賭けは成立した。もうバカバカしくはない。こいつは参加する事に意義がある。そして、決して忘れないことにも異議がある。
ヒデキはビトルボのドアを閉めると、すぐに道路沿いの茂みに身を隠した。
何台かの車が通り過ぎた。ビトルボは止まったままだ。レオナは出てこなかった。
向こうからお誂え向きのメタリックグレーのセルシオがやってきた。新車だろう。どうやら乗っているのは男一人。ヒデキとレオナの最後のゲームの始まりだ。
車からレオナが降りた。
その姿にはヒデキも驚いた。ブラウスを外に出したまま、その下は生の太腿だ。穿いていたはずのピンクのミニは、すでにどこかに行っていた。スラリと伸びた腿の付け根を、かろうじてブラウスの裾が隠していた。
ヒデキはニタリと笑った。女は役者だ。ゲームは二人の勝ちだろう。
レオナはそのままボンネットを開けると、ハリウッド的古典映画を忠実に再現した。そして、メタリックグレーのセルシオも、その演技に忠実だった。
セルシオがビトルボの後ろに車を付けた。中年の男。きっと悪い奴ではないのだろう。ヒデキは音もなく車に駆け寄った。つけっぱなしのキーが見えた。レオナを見やった。ヒデキを無視して男と話す横顔。ついでに太腿も見た。これで見納めだ。
ヒデキは運転席に飛び込んだ。セルシオが動いた。呆気にとられる男の顔が横切る。レオナもボンネットを叩きつけ、ビトルボに飛び込んだようだ。やはりゲームは二人の勝ちだ。互いに反対方向に走り去るセルシオとビトルボのエキゾーストノートが、「See You!」と男に別れを告げた。
どこかで車の音がした。その音で小夜子は眼が覚めた。すぐに起き上がると、周りを見回した。
音はどこか近くの支道を走っているようだった。音からして複数台のようだった。追っ手か、ならばどうするか。身をひそめたまま考えた。暫くすると、音はそのまま追いつけないところまで遠のいていった。
小夜子は、スティードに戻った。そして、クシャクシャになった紙切れを丁寧に広げた。小さくても、汚くても、シンイチロウの心のこもった紙切れだ。このパズルは諦めてはならない。目的地はもうすぐのようだった。
「何処に行けと言っているのだろう?」
しかし、シンイチロウが命がけで渡してくれた地図だ。街に戻るために描いたわけではないことはたしかだ。スティードを起こした。後は押していくしかない。
スティードを押しながら、小夜子は懐かしかった。バイクの乗り方を教えてくれたのは、シンイチロウだった。バイクは乗り方より押し方なんだと言って、なかなか乗せてくれなかった。小夜子がむくれると、むくれた顔も可愛いと言うので、バカバカしくなって素直になった。そんなことを思い出すと、涙が出そうになった。
小夜子は何も考えないことにした。山の空気を吸って、スティードを押した。押しては紙切れを確かめ、行く先を確認した。何度か、そんなことを繰り返した。最後の角を曲がった。
見えた。
小夜子は思わず息を飲んだ。自然と笑みを浮かべてしまうくらい、美しい湖が待っていた。サイドスタンドを出しスティードを止めて、ゆっくりと水辺へ近づいた。水はそれほど冷たくはなかった。顔を浸し、唇を湿らせた。
シンイチロウが連れてきてくれたのだ。
ここで待つとしよう。ここに来ることを信じることにしよう。ここにいる限り、一人ではないのだ。シンイチロウもいるし、大五郎もいるのだ。たとえ眼には見えなくとも、この湖のどこかにきっといるのだ。
風がそよいだ。木の葉がささやき、湖面が揺れた。確かにシンイチロウもいて、大五郎もいた。湖は優しかった。
レオナはセルシオと別れると、再び山の方へと戻った。戻るまでに一度電話ボックスに立ち寄り、電話を掛けた。山の支道で車を止め、その電話の内容をどうするかを考えていた。
街へ車を向けて十分も走れば、元の生活だ。きっと警察が盛大な出迎えをしてくれることだろう。危うく難を逃れた抗争事件の人質。またぞろ福井のような代理店が、上手くイベントの材料にするのか。
何かレオナには、物足りなく思えて仕方がなかった。何故なのか、レオナは思った。
「小夜子。」
レオナは一人笑った。小夜子だ。あの美しい娘は、きっとヒデキを待ち続けていることだろう。
しかし、ヒデキと小夜子は、多分会うことはない。それをレオナは知っていた。それこそが電話の内容だったからだ。
しかし、それがどうであろうと、小夜子は待ち続けるに違いない。信じ続けるに違いない。何処にいるのか分からなくても、何をしているのか知らなくても、信じることだろう。恐れはしないだろう。何故なら、それはあるのだから。
そう教えたのはレオナだった。
きっと小夜子はそうする。
ならばレオナは。
レオナはヒデキとの賭けを思い出した。もう一度だけゲームをしてみよう。それからでも、元の世界に戻るのは遅くはないはずだ。
レオナはそう心に決めると、ビトルボのハンドルを回し、行き先を山から街へと変えた。
ヒデキは、セルシオで街を流しながら、様子を窺っていた。今頃警察は、盗難車の通報を受けていることだろう。しかし、すぐには警察も動けまい。そして、ヒデキには一時間ほどあればいいだけだ。
一時間したら、奴と決着を付ける。
ヒデキは三か所に電話をした。一つ目は関の事務所だった。シンイチロウの仇を今日取りに行くと言ってやった。それだけですぐに切った。
二つ目は警察だった。同じく、シンイチロウの仇を討ちに、関の事務所に突っ込む、と言った。
信じるか、信じないか、それは分からない。上手くすれば、関の方へ注意が向く。向かなければ向かないで仕方がない。
三つ目は、レオナの代理店だった。
ハンタロウの秘書を装った。もしかすると代理店がハンタロウのスケジュールを知っているかもしれない、そう思っただけだ。知らなければ知らないで、これも仕方がない。それならそれで運がないだけだ。
運はあった。ハンタロウは二時に中央の役人を迎えに出る。
それだけでいい。相手の手の内が分かれば、後は実行に移すだけだ。冷静に考えて、五分と五分だ。不意さえ突ければ、七分三分も嘘じゃない。いや、今はそう信じておくことにしよう。
ゆっくりと、ヒデキは街を流した。あと一時間で決着はつく。それまでは小夜子の事でも考えていよう。勿論、決着が付いた後まで考えよう。ヒデキの時間は決して一時間で止まることはないはずだ。その後にはまた、新しい時間が待っているはずだ。そこにこそ、小夜子は待っている。早く来て欲しいと、待っている。そこに着くまでには、ヒデキはもっと速くなっていることだろう。物凄い速さになっていることだろう。必ずなってみせる。
ヒデキは街を眺めた。そして思いを小夜子からシンイチロウに移し、最後にこれから決着を付ける相手に移した。
腹の底から憎悪が湧き上がってきた。ここからはこの憎悪を醸造させる時間だ。たっぷりと発酵させてやろう。そして、たった一度だけその味をふるまってやろう。二度とは味わえない代物だ。そいつはどんな赤ワインの赤よりも濃い赤と交じり合い、得も言われぬ液体となって、奴の身体に滴る事だろう。
ヒデキの憎悪は発酵し続けていた。残りの時間が無くなるまで、ヒデキはそれをし続けようと思った。
じりじりとした時間が過ぎていた。ハンタロウは時計を見た。一時三十分。もう出かける時間だ。奴は来なかった。
来るならここだと思っていた。思い出の倉庫。そこは奴とハンタロウとシンイチロウの倉庫だ。必ず来る、そうハンタロウは踏んでいた。
どうやら奴は遅れている。
指で時計を指しながら、男たちを見やった。頷く男たち。出掛けている間に奴が来たとしても、その打ち合わせは済んでいる。奴らにとっても二度目の失敗は許されないのだ。問題はない。
問題は何もない、とハンタロウは頭の中で反芻した。とち狂ったロマンとやらを叩き潰す、それが今しなければならないことなのだ。
中央の役人は、レオナなしでもなんとかなる。そして、小夜子はヒデキなしでは何もできない。役人にはそもそもロマンの必要などなく、小夜子には、ロマンの後の現実に目覚めてもらおう。バカは死ななきゃ治らない。そして死んだバカを見て、利口なバカは現実に目覚めるのだ。
既に目覚めていないバカは少なかった。関も平賀も、住民も代理店も、現実に気が付き始めている。ほんの少しだけ、マスコミと警察がうなされているだけだ。それももうすぐ、目が覚めることになる。
だから、問題はない。
ハンタロウは男たちに手で合図をすると、倉庫を出ようとした。その時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、私、代理店で福井の代わりを務めております、高野と申します。」
「はい。」
「大変お世話になっております。失礼ですが、、、」
福井の後任には、高野という人物がついていた。代理店らしい代理店の男。福井と違い、度胸はない。福井はその点、惜しいことをしたものだとも思ったりする。ただ、それも犠牲の一つに過ぎない。惜しすぎるほど、惜しいものでもない。
「どうも、こちらこそ。これから出るところなので、また連絡しますよ。」
ハンタロウは切ろうとした。
「大変申し訳ありませんでした。何か連絡の手違いがあったようで、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。二時の出迎えはオンスケジュールのままですので、よろしくお願いいたします。」
二時の出迎えは、昨日の打ち合わせのままなはずだ。何の変更もない。切ろうとする手を止めて、ハンタロウは携帯を握りなおした。
「はい、こちらもそのつもりですが、何か不都合でもありましたか?」
「いえ、直前になって二度も確認の電話が入りましたので、こちらも何かのミスがあったのかと思った次第です。そのため、念のための確認をさせていただきました。」
念のための確認だと。ありがたい確認だ。度胸のない奴のご確認、たいそうなことだ。
「それではよろしくお願いします。どうもしつこい確認で申し訳ありませんでした。」
電話は静かに切れた。しつこくて申し訳ありましたよ、とでも今度会ったら言っておこう。
出る前に倉庫を振り返った。それなりに懐かしかった。決して悪い時間を過ごしたとは思わない。ヒデキ、シンイチロウ、そして小夜子。恨みたければいくらでも恨め。しかし、この世に生きる限り、俺のやり方は正しいのだ。それは誰も避けることのできない、時の流れなのだ。
男たちとともに、ハンタロウは車に乗り込んだ。既に時刻は二時に近づいていた。
この街の時間は、確実に流れていた。そして、ある者たちにとっては、非情に密度の濃い時間が訪れようとしていた。いつもと同じ時を刻んで。いつもと同じ速さで。
町中の時計という時計が、何時もと同じように同じ角度になった。二時だった。
ヒデキは迷わなかった。セルシオをゆっくりとターミナルから駅の入口へと進めた。それらしい男たちが、そこかしこに見えた。まだセルシオの持ち主がヒデキだとは気付かれてはなかった。しかし、彼らの眼はヒデキが来ることを確信している。
それ程大きくない街の中心駅。中央の役人の出迎え。見ると警察の姿は少ない。どうやら多少は電話が効いたらしい。それだけが唯一の救いだった。
なおも車を進めた。その瞬間を待った。大勢の出迎え、そこに混じろうとする時が勝負だ。
役人が出迎えの人たちと握手した。その一群の中にハンタロウの姿も見えた。
出迎えの輪、それが縮まった。
今だ。
ヒデキはセルシオから飛び出ると、ハンタロウに向かって一直線に走った。何人かの男たちは気付いたようだった。しかし、出迎えの人々は、まだ気づかない。今なら男たちは撃てないはずだ。
そのまま走った。眼と眼が合った。
引き金を引くタイミング。
その時ハンタロウが、輪の中に溶け込んだ。
ヒデキと同じ手だ。
そのまま輪の中に突っ込んだ。男たちも突っ込んできた。ようやく輪が異変に気が付いた。
しかし、まだ撃てないはずだ。ヒデキも男たちも。右の男に銃尻を叩きつけた。後ろからも来た。そのまま振り返り、銃を横に払った。空振りだった。下から顎を食らった。倒れ様に、再び輪の中に紛れる。間に人が入る。反転して走り出す。
ハンタロウへ向かおうとした。また別の男だ。構えようとする銃の間合いに飛び込んだ。銃声が空に鳴った。両脇から悲鳴が上がる。勢いで押し倒し、脳天に銃尻を叩きつけた。
そのまま追った。振り返らなかった。ハンタロウの背中だけを追った。
奥に行くと見せかけて、ハンタロウは左に迂回した。激しく動く標的は狙えない。ハンタロウはそれを知っていた。ヒデキは追った。ヒデキも同じことだ。男たちを気にはしなかった。撃たれることも気にはしなかった。攻撃こそ最大の防御だ。
輪は完全に広がっていた。動いているのはヒデキとハンタロウと、そして男たちだけだった。身を護るものなど、すでになかった。
どちらが速いかだ。やられる前にやるか、やる前にやられるか。速くなりたかった。自分の速さがもどかしかった。銃声がした。足元が弾けた。構わなかった。ハンタロウが車に取り付こうとしていた。そこに辿り着く前に、撃つのだ。走りながら右手を突き出した。狙いは定まらなかった。なおも走った。撃った。車にさえ当たらなかった。ハンタロウが車に飛び込むのが見えた。終わった。後方の男たちが、ようやく狙いを定められるのを背中に感じた。
いきなりブレーキ音が鳴った。横から物凄いタイヤの音がした。
一瞬、ヒデキは何をすればいいのか分からなかった。男たちも同じだった。
その瞬間に、車が突っ込んできた。ビトルボだった。
「バカな。」
そう思った時には走り出していた。
男たちは一瞬だけためらった。その間隙をついて、ビトルボがヒデキの眼の前に突っ込んだ。そう思った時には、ビトルボはスピンしていた。そのままドリフトして、一瞬、止まった。いや、方向を百八十度変えただけだった。
一瞬振り返った。男たちが態勢を取り直しつつあった。その中の一人が銃を構えているのが見えた。
「ヤバい。」
ヒデキは横っ飛びに、車の屋根を横転した。銃声がした。激しくフロントガラスが割れる音がした。一瞬、血飛沫も見えたような気がした。
車の屋根を横転して、逆側に転げると、すぐにドアを開けた。呻き声のレオナを強引に助手席に押しやり、すぐにハンドルを握った。
眼の前に銃口が見えた。その銃口めがけて、ヒデキはアクセルを全開で踏み込んだ。
「ヒデキ。」
蚊の鳴くような声だった。爆走するビトルボの走行音に掻き去れないのが不思議だった。
「何も喋るな!」
レオナの胸からは、恐ろしいくらいの血が流れだしていた。その血がミッションといい、シートといい、ビトルボのいたるところを赤に染めていた。
「ヒデキ。」
レオナは力なくヒデキの顔を見上げていた。溢れ出た血は、レオナの身体を真っ赤に染めていた。胸も、腰も、太腿も、つま先も、全部真っ赤だった。ピンクのミニも真っ赤だった。恐ろしいぐらい美しい赤だ。悔しいぐらい美しい赤だ。
「ヒデキ、あの賭け覚えてる?」
そう言うと、レオナは咳き込んだ。口からも真っ赤な液体が零れ出た。
ビトルボは悲鳴を上げるようにして、突っ走っていた。
車体の揺れが、その赤を微妙に震わせ、それは艶めかしいぐらい美しい赤だった。今すぐ抱きしめて、口づけして、髪を撫でて、肩を抱いて、くびれた腰に手をやって、それから、
それから何をすればいいのか。
「ワタシ」
レオナはさらに何かを言おうとした。
フッと、レオナが速くなったように思えた。
「待て、待つんだ、レオナ。」
ヒデキはなおもアクセルを踏みつけながら叫んだ。
レオナが言うのが、かろうじて聞こえた。
「あの賭け、」
更にレオナが加速した。
「私の負けね。」
レオナが見上げてきた気がした。
首がガクリと崩れた。
その瞬間、レオナが光になった。
「バカヤロウ。」
あらん限りの声を張り上げて、ヒデキは叫んだ。叫んでも叫んでも、レオナは光のままだった。
ビトルボは、すでに停車していた。高速道路建設予定の高架橋。海に突き出したまま、その先端は向こう岸を見つめていた。全ての片が付く頃、その先も繋がることだろう。
ヒデキは優しく語りかけた。助手席で目を瞑ったままのレオナに語り掛けた。
「なぁ、レオナ、何時からお前はそんなに速くなっちまったんだよ。」
真っ赤に染まったレオナに話しかけた。
「レオナ、嘘だろ。そんなに速くなる訳なんて、ねぇじゃねぇか。」
レオナの身体を揺さぶった。
顔も、首も、胸も、太腿も、すぐそこにあるのに、レオナの時間だけが止まっていた。
「なぁ、レオナ、お前は今、光のスピードで突っ走っているだけなんだろ。そうなんだよなぁ。俺はのろすぎちまって、お前の時間が止まっちまったようにしか見えねぇじゃねぇぁ。」
涙が溢れた。もっともっと溢れ出て、レオナの赤を洗い流してしまいたかった。洗い流してもレオナは戻って来そうにないのが、悔しくてまた涙が出た。
「レオナ、お前は言ったじゃねぇかよ、永遠に二人の時間になるんだって。他の人間が立ち入ることのできない時間になるんだって。
なぁ、頼むよ。俺はまだそんなに速くないんだよ。もう一度、ゆっくりしてくれよ。それから一緒に光になっても遅くはないだろう。」
ヒデキはレオナを抱きしめた。思いっきり強く抱きしめた。いくら抱きしめても、レオナは遅くはならなかった。
車の音がした。サイレンの音も混じっていた。
ようやく追いついてきたようだ。
ヒデキはもう一度レオナの身体を両手で抱き直し、崩れかかろうとする姿勢を直した。
「レオナ、賭けはお前の勝ちだよ。」
そう言って、丈の短い革ジャンをレオナに掛けてやった。
レオナが微笑むのが分かった。
レオナの顔を両手で触りながら、顔を見つめた。赤く染まっても、その顔は美しかった。口づけをした。そして言った。
「今度は俺の番だ。すぐにお前に追いついてやるよ。すぐさま追いついて、お前の時間を止めてやる。それまでちょっとの辛抱だ。」
何も言わず、レオナが凭れかかってきた。
そうだ、二人で行くのだ。もう誰も止めることも、見ることも出来ない、そんな時間に二人で飛び込むのだ。
「さぁ、行こうか。どんな世界が待っているのか、二人で見に行こうぜ。」
ヒデキはエンジンを吹かせた。どうやらビトルボも着いて来る気らしい。
ニヤリと笑った。海を見つめて笑った。
アクセルを思い切り踏み込んだ。
一台の車が建設中の高架橋の先端から海へ飛び込んだ。男たちには、その車がゆっくりと弧を描いて海に舞うのが見えた。それは確かにゆっくりと落ちて行った。まるで時間の経過が遅れてでもいるかのようにゆっくりと。そして、ゆっくりと男たちの視界から消えて行った。
レオナは車の中から彼を見た。
丈の短い革ジャン。いくらくるまっても、その長い脚ははみ出している。寒いのか、寒くないのか、夢を見ているのか、見ていないのか、車の中からではその表情は良く分からなかった。
既に陽は上がっていた。朝はやって来ていた。
朝とは残酷なものだと思う時がある。生きている限り、人は永遠に夢を見続けることはできない。夜が去ることも、朝が来ることも、止めることは出来ない。朝の光がいくらか優しかろうと、その光は、夢の延長をお預けにしたまま現実を照らす。
勿論、うなされる夜もあれば、待ち遠しくて堪らない朝もある。その一方で、夢とわかりつつも見続けたい夢があり、出来ることなら目覚めたくない現実がある。
もう一度、レオナはヒデキを見た。ひょろ長い脚、細い顎、黒い髪。この男性と二日の時間を過ごした。
時間とはおかしなもので、濃度がある。膨大な時間を過ごしても、希薄な場合もあれば、ほんの一瞬でも濃厚な時が過ごせる場合がある。
レオナにとって、この二日間は密度が高すぎて凝固しそうなくらいだった。きっと普通の成分なら、その液体は凝固して固化してしまったことだろう。がっちりと原子の格子が絡まり合って、その分子構造は到底分解することは出来なかっただろう。
しかし、その成分は時間だった。改めて、レオナは時間が容赦なく一方向にしか経過しないことを思い知った。
夜は去り、朝はやってくるのだ。夢はお預けとなり、現実が歩き始める。
止めたかった。こんな時間など、止めてしまいたかった。光となって、永遠の時間を今のままでいたかった。しかし、レオナはそれほど速くはないのだった。
ラジオが鳴っていた。レオナの名前が幾度となく叫ばれていた。
これは知らせなければならない出来事だ。少なくともヒデキには、知る権利があるだろう。知った後、ヒデキがどうするのか、そしてレオナがどうしなければならないのか、レオナには予想もつかなかった。
しかし、決着は何らかの形で付けざるを得ないだろう。いずれにせよ、今のままなら時間は一方向にしか進まない。レオナはゆっくりとドアを開けると、ヒデキの方へ歩いて行った。
鳴りっぱなしのラジオの内容をもう一度確かめた。
『孝和会か?』
いや違うだろう。もし、孝和会だとしたら、こんな大っぴらなことはしないはずだ。ただでさえ、大きな利権が動こうとしている今、いくら組長への報復とはいえ、その利権までパァにするような危険は侵さないはずだ。プロにはプロのやり方がある。少なくともチンピラ一人殺したことを、ここまで無防備に警察やマスコミに晒すようなことはしない。
やはり奴だ、とヒデキは思った。
上手い手だ。三発も食らった挙句、心臓をぶち抜かれた死体。ご丁寧にも、その死体が街のど真ん中のオブジェとは気が利いている。
マスコミは、てっきり抗争だと思い込み、ヒデキは逆上してひょっこりと顔を出す。一石二鳥。余程頭の回る奴でなければ、こんな手の込んだ芸当は思いつかないだろう。
落ち着け。
そこまでは分かっていて、奴の手に乗ることはない。シンイチロウは死んだ。いや、殺された。ヒデキは何もしてやれなかった。なおかつ、シンイチロウは勝手に死んだのではないのだ。死んだ理由、いや死なせた理由の全てがヒデキにあるのだ。そうして死んだ男の死に水さえ取ってやれなかったのだ。
しかし、落ち着くのだ。だから、落ち着くのだ。今はそれ以上の方法はない。
運転席のレオナを見た。
心配そうな眼は美しかった。
その眼の言うとおり、ここで泣き崩れようと、怒り叫ぼうと、何の得にもなりはしない。美しい眼が言った。落ち着け、と。考えろ、と。
ヒデキは考えた。
確かに上手い手だ。しかし、危険な手でもあることも確かだ。奴は危険な橋を渡っている。それは取りも直さず、危険と承知で渡らざるを得なかった証拠だ。でなければ、奴は是が非でも他の手段を考えただろう。
奴も焦っている。他に打つ手はないのだ。
そして、次の手を打つのはこちらの番だ。
レオナに向き直った。
「シンイチロウが殺された。シンイチロウは俺の弟みたいな奴だった。殺したのは、俺のアニキみたいな奴だ。だから、俺は行かなきゃならない。」
レオナはこっくりと頷いた。
「最後のお願いだ、もう少しだけ付き合って欲しい。」
ヒデキはレオナに近づき、耳打ちした。レオナとする、最後のちょっとしたゲームだ。危険はない。
レオナは吹き出すように笑ってから、右手の親指を突き上げて、拳の背中を見せた。
「じゃぁ、行こうか。」
レオナは微かに微笑み、そして真顔に戻った。
良い笑顔だ。忘れはしない、とヒデキは思った。
「レオナの代理店の電話番号は、なんだっけ?」
レオナは不思議そうな顔をして、ダッシュボードから手帳を取り出した。ヒデキは、番号を白紙のページに書き写し、そのページを引きちぎった。
「また、仕事がある時には電話するよ。きっとそんな時もあるさ。
さぁ、行こう。」
レオナは首を振りながら、ハンドルを握った。
街道に出る前に電話ボックスに寄った。何か所かに電話をした。電話する相手が正しい相手なのか、その内容が的確なのか、それは分からなかった。しかし、やるだけはやろう。後は思い切るしかない。
街道に出ると、レオナがビトルボを止めた。ヒデキが降りようとすると、レオナが口を開いた。
「ねぇ、ヒデキ、あの賭け覚えてる?」
光になれるか、なれないかの賭け。バカバカしくも充実した時間に交わした会話。確かにそれは、ヒデキとレオナ、二人きりの時間であった。
ヒデキは答えた。
「あぁ、忘れやしないさ。」
そうだ、決して忘れることはない。レオナが勝ったら、ヒデキが革ジャンをやり、ヒデキが勝ったらレオナを頂くのだ。
バカバカしいが、気が利いている。
「嬉しいわ、約束ね。」
と言ってレオナは小指を立てた。その小指に自分の小指を軽く絡めた。
絡めたレオナの小指は、寒くもないのに震えていた。
優しい女だ。別れの言葉など言わせないぐらい、やさしい女だ。賭けは成立した。もうバカバカしくはない。こいつは参加する事に意義がある。そして、決して忘れないことにも異議がある。
ヒデキはビトルボのドアを閉めると、すぐに道路沿いの茂みに身を隠した。
何台かの車が通り過ぎた。ビトルボは止まったままだ。レオナは出てこなかった。
向こうからお誂え向きのメタリックグレーのセルシオがやってきた。新車だろう。どうやら乗っているのは男一人。ヒデキとレオナの最後のゲームの始まりだ。
車からレオナが降りた。
その姿にはヒデキも驚いた。ブラウスを外に出したまま、その下は生の太腿だ。穿いていたはずのピンクのミニは、すでにどこかに行っていた。スラリと伸びた腿の付け根を、かろうじてブラウスの裾が隠していた。
ヒデキはニタリと笑った。女は役者だ。ゲームは二人の勝ちだろう。
レオナはそのままボンネットを開けると、ハリウッド的古典映画を忠実に再現した。そして、メタリックグレーのセルシオも、その演技に忠実だった。
セルシオがビトルボの後ろに車を付けた。中年の男。きっと悪い奴ではないのだろう。ヒデキは音もなく車に駆け寄った。つけっぱなしのキーが見えた。レオナを見やった。ヒデキを無視して男と話す横顔。ついでに太腿も見た。これで見納めだ。
ヒデキは運転席に飛び込んだ。セルシオが動いた。呆気にとられる男の顔が横切る。レオナもボンネットを叩きつけ、ビトルボに飛び込んだようだ。やはりゲームは二人の勝ちだ。互いに反対方向に走り去るセルシオとビトルボのエキゾーストノートが、「See You!」と男に別れを告げた。
どこかで車の音がした。その音で小夜子は眼が覚めた。すぐに起き上がると、周りを見回した。
音はどこか近くの支道を走っているようだった。音からして複数台のようだった。追っ手か、ならばどうするか。身をひそめたまま考えた。暫くすると、音はそのまま追いつけないところまで遠のいていった。
小夜子は、スティードに戻った。そして、クシャクシャになった紙切れを丁寧に広げた。小さくても、汚くても、シンイチロウの心のこもった紙切れだ。このパズルは諦めてはならない。目的地はもうすぐのようだった。
「何処に行けと言っているのだろう?」
しかし、シンイチロウが命がけで渡してくれた地図だ。街に戻るために描いたわけではないことはたしかだ。スティードを起こした。後は押していくしかない。
スティードを押しながら、小夜子は懐かしかった。バイクの乗り方を教えてくれたのは、シンイチロウだった。バイクは乗り方より押し方なんだと言って、なかなか乗せてくれなかった。小夜子がむくれると、むくれた顔も可愛いと言うので、バカバカしくなって素直になった。そんなことを思い出すと、涙が出そうになった。
小夜子は何も考えないことにした。山の空気を吸って、スティードを押した。押しては紙切れを確かめ、行く先を確認した。何度か、そんなことを繰り返した。最後の角を曲がった。
見えた。
小夜子は思わず息を飲んだ。自然と笑みを浮かべてしまうくらい、美しい湖が待っていた。サイドスタンドを出しスティードを止めて、ゆっくりと水辺へ近づいた。水はそれほど冷たくはなかった。顔を浸し、唇を湿らせた。
シンイチロウが連れてきてくれたのだ。
ここで待つとしよう。ここに来ることを信じることにしよう。ここにいる限り、一人ではないのだ。シンイチロウもいるし、大五郎もいるのだ。たとえ眼には見えなくとも、この湖のどこかにきっといるのだ。
風がそよいだ。木の葉がささやき、湖面が揺れた。確かにシンイチロウもいて、大五郎もいた。湖は優しかった。
レオナはセルシオと別れると、再び山の方へと戻った。戻るまでに一度電話ボックスに立ち寄り、電話を掛けた。山の支道で車を止め、その電話の内容をどうするかを考えていた。
街へ車を向けて十分も走れば、元の生活だ。きっと警察が盛大な出迎えをしてくれることだろう。危うく難を逃れた抗争事件の人質。またぞろ福井のような代理店が、上手くイベントの材料にするのか。
何かレオナには、物足りなく思えて仕方がなかった。何故なのか、レオナは思った。
「小夜子。」
レオナは一人笑った。小夜子だ。あの美しい娘は、きっとヒデキを待ち続けていることだろう。
しかし、ヒデキと小夜子は、多分会うことはない。それをレオナは知っていた。それこそが電話の内容だったからだ。
しかし、それがどうであろうと、小夜子は待ち続けるに違いない。信じ続けるに違いない。何処にいるのか分からなくても、何をしているのか知らなくても、信じることだろう。恐れはしないだろう。何故なら、それはあるのだから。
そう教えたのはレオナだった。
きっと小夜子はそうする。
ならばレオナは。
レオナはヒデキとの賭けを思い出した。もう一度だけゲームをしてみよう。それからでも、元の世界に戻るのは遅くはないはずだ。
レオナはそう心に決めると、ビトルボのハンドルを回し、行き先を山から街へと変えた。
ヒデキは、セルシオで街を流しながら、様子を窺っていた。今頃警察は、盗難車の通報を受けていることだろう。しかし、すぐには警察も動けまい。そして、ヒデキには一時間ほどあればいいだけだ。
一時間したら、奴と決着を付ける。
ヒデキは三か所に電話をした。一つ目は関の事務所だった。シンイチロウの仇を今日取りに行くと言ってやった。それだけですぐに切った。
二つ目は警察だった。同じく、シンイチロウの仇を討ちに、関の事務所に突っ込む、と言った。
信じるか、信じないか、それは分からない。上手くすれば、関の方へ注意が向く。向かなければ向かないで仕方がない。
三つ目は、レオナの代理店だった。
ハンタロウの秘書を装った。もしかすると代理店がハンタロウのスケジュールを知っているかもしれない、そう思っただけだ。知らなければ知らないで、これも仕方がない。それならそれで運がないだけだ。
運はあった。ハンタロウは二時に中央の役人を迎えに出る。
それだけでいい。相手の手の内が分かれば、後は実行に移すだけだ。冷静に考えて、五分と五分だ。不意さえ突ければ、七分三分も嘘じゃない。いや、今はそう信じておくことにしよう。
ゆっくりと、ヒデキは街を流した。あと一時間で決着はつく。それまでは小夜子の事でも考えていよう。勿論、決着が付いた後まで考えよう。ヒデキの時間は決して一時間で止まることはないはずだ。その後にはまた、新しい時間が待っているはずだ。そこにこそ、小夜子は待っている。早く来て欲しいと、待っている。そこに着くまでには、ヒデキはもっと速くなっていることだろう。物凄い速さになっていることだろう。必ずなってみせる。
ヒデキは街を眺めた。そして思いを小夜子からシンイチロウに移し、最後にこれから決着を付ける相手に移した。
腹の底から憎悪が湧き上がってきた。ここからはこの憎悪を醸造させる時間だ。たっぷりと発酵させてやろう。そして、たった一度だけその味をふるまってやろう。二度とは味わえない代物だ。そいつはどんな赤ワインの赤よりも濃い赤と交じり合い、得も言われぬ液体となって、奴の身体に滴る事だろう。
ヒデキの憎悪は発酵し続けていた。残りの時間が無くなるまで、ヒデキはそれをし続けようと思った。
じりじりとした時間が過ぎていた。ハンタロウは時計を見た。一時三十分。もう出かける時間だ。奴は来なかった。
来るならここだと思っていた。思い出の倉庫。そこは奴とハンタロウとシンイチロウの倉庫だ。必ず来る、そうハンタロウは踏んでいた。
どうやら奴は遅れている。
指で時計を指しながら、男たちを見やった。頷く男たち。出掛けている間に奴が来たとしても、その打ち合わせは済んでいる。奴らにとっても二度目の失敗は許されないのだ。問題はない。
問題は何もない、とハンタロウは頭の中で反芻した。とち狂ったロマンとやらを叩き潰す、それが今しなければならないことなのだ。
中央の役人は、レオナなしでもなんとかなる。そして、小夜子はヒデキなしでは何もできない。役人にはそもそもロマンの必要などなく、小夜子には、ロマンの後の現実に目覚めてもらおう。バカは死ななきゃ治らない。そして死んだバカを見て、利口なバカは現実に目覚めるのだ。
既に目覚めていないバカは少なかった。関も平賀も、住民も代理店も、現実に気が付き始めている。ほんの少しだけ、マスコミと警察がうなされているだけだ。それももうすぐ、目が覚めることになる。
だから、問題はない。
ハンタロウは男たちに手で合図をすると、倉庫を出ようとした。その時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、私、代理店で福井の代わりを務めております、高野と申します。」
「はい。」
「大変お世話になっております。失礼ですが、、、」
福井の後任には、高野という人物がついていた。代理店らしい代理店の男。福井と違い、度胸はない。福井はその点、惜しいことをしたものだとも思ったりする。ただ、それも犠牲の一つに過ぎない。惜しすぎるほど、惜しいものでもない。
「どうも、こちらこそ。これから出るところなので、また連絡しますよ。」
ハンタロウは切ろうとした。
「大変申し訳ありませんでした。何か連絡の手違いがあったようで、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。二時の出迎えはオンスケジュールのままですので、よろしくお願いいたします。」
二時の出迎えは、昨日の打ち合わせのままなはずだ。何の変更もない。切ろうとする手を止めて、ハンタロウは携帯を握りなおした。
「はい、こちらもそのつもりですが、何か不都合でもありましたか?」
「いえ、直前になって二度も確認の電話が入りましたので、こちらも何かのミスがあったのかと思った次第です。そのため、念のための確認をさせていただきました。」
念のための確認だと。ありがたい確認だ。度胸のない奴のご確認、たいそうなことだ。
「それではよろしくお願いします。どうもしつこい確認で申し訳ありませんでした。」
電話は静かに切れた。しつこくて申し訳ありましたよ、とでも今度会ったら言っておこう。
出る前に倉庫を振り返った。それなりに懐かしかった。決して悪い時間を過ごしたとは思わない。ヒデキ、シンイチロウ、そして小夜子。恨みたければいくらでも恨め。しかし、この世に生きる限り、俺のやり方は正しいのだ。それは誰も避けることのできない、時の流れなのだ。
男たちとともに、ハンタロウは車に乗り込んだ。既に時刻は二時に近づいていた。
この街の時間は、確実に流れていた。そして、ある者たちにとっては、非情に密度の濃い時間が訪れようとしていた。いつもと同じ時を刻んで。いつもと同じ速さで。
町中の時計という時計が、何時もと同じように同じ角度になった。二時だった。
ヒデキは迷わなかった。セルシオをゆっくりとターミナルから駅の入口へと進めた。それらしい男たちが、そこかしこに見えた。まだセルシオの持ち主がヒデキだとは気付かれてはなかった。しかし、彼らの眼はヒデキが来ることを確信している。
それ程大きくない街の中心駅。中央の役人の出迎え。見ると警察の姿は少ない。どうやら多少は電話が効いたらしい。それだけが唯一の救いだった。
なおも車を進めた。その瞬間を待った。大勢の出迎え、そこに混じろうとする時が勝負だ。
役人が出迎えの人たちと握手した。その一群の中にハンタロウの姿も見えた。
出迎えの輪、それが縮まった。
今だ。
ヒデキはセルシオから飛び出ると、ハンタロウに向かって一直線に走った。何人かの男たちは気付いたようだった。しかし、出迎えの人々は、まだ気づかない。今なら男たちは撃てないはずだ。
そのまま走った。眼と眼が合った。
引き金を引くタイミング。
その時ハンタロウが、輪の中に溶け込んだ。
ヒデキと同じ手だ。
そのまま輪の中に突っ込んだ。男たちも突っ込んできた。ようやく輪が異変に気が付いた。
しかし、まだ撃てないはずだ。ヒデキも男たちも。右の男に銃尻を叩きつけた。後ろからも来た。そのまま振り返り、銃を横に払った。空振りだった。下から顎を食らった。倒れ様に、再び輪の中に紛れる。間に人が入る。反転して走り出す。
ハンタロウへ向かおうとした。また別の男だ。構えようとする銃の間合いに飛び込んだ。銃声が空に鳴った。両脇から悲鳴が上がる。勢いで押し倒し、脳天に銃尻を叩きつけた。
そのまま追った。振り返らなかった。ハンタロウの背中だけを追った。
奥に行くと見せかけて、ハンタロウは左に迂回した。激しく動く標的は狙えない。ハンタロウはそれを知っていた。ヒデキは追った。ヒデキも同じことだ。男たちを気にはしなかった。撃たれることも気にはしなかった。攻撃こそ最大の防御だ。
輪は完全に広がっていた。動いているのはヒデキとハンタロウと、そして男たちだけだった。身を護るものなど、すでになかった。
どちらが速いかだ。やられる前にやるか、やる前にやられるか。速くなりたかった。自分の速さがもどかしかった。銃声がした。足元が弾けた。構わなかった。ハンタロウが車に取り付こうとしていた。そこに辿り着く前に、撃つのだ。走りながら右手を突き出した。狙いは定まらなかった。なおも走った。撃った。車にさえ当たらなかった。ハンタロウが車に飛び込むのが見えた。終わった。後方の男たちが、ようやく狙いを定められるのを背中に感じた。
いきなりブレーキ音が鳴った。横から物凄いタイヤの音がした。
一瞬、ヒデキは何をすればいいのか分からなかった。男たちも同じだった。
その瞬間に、車が突っ込んできた。ビトルボだった。
「バカな。」
そう思った時には走り出していた。
男たちは一瞬だけためらった。その間隙をついて、ビトルボがヒデキの眼の前に突っ込んだ。そう思った時には、ビトルボはスピンしていた。そのままドリフトして、一瞬、止まった。いや、方向を百八十度変えただけだった。
一瞬振り返った。男たちが態勢を取り直しつつあった。その中の一人が銃を構えているのが見えた。
「ヤバい。」
ヒデキは横っ飛びに、車の屋根を横転した。銃声がした。激しくフロントガラスが割れる音がした。一瞬、血飛沫も見えたような気がした。
車の屋根を横転して、逆側に転げると、すぐにドアを開けた。呻き声のレオナを強引に助手席に押しやり、すぐにハンドルを握った。
眼の前に銃口が見えた。その銃口めがけて、ヒデキはアクセルを全開で踏み込んだ。
「ヒデキ。」
蚊の鳴くような声だった。爆走するビトルボの走行音に掻き去れないのが不思議だった。
「何も喋るな!」
レオナの胸からは、恐ろしいくらいの血が流れだしていた。その血がミッションといい、シートといい、ビトルボのいたるところを赤に染めていた。
「ヒデキ。」
レオナは力なくヒデキの顔を見上げていた。溢れ出た血は、レオナの身体を真っ赤に染めていた。胸も、腰も、太腿も、つま先も、全部真っ赤だった。ピンクのミニも真っ赤だった。恐ろしいぐらい美しい赤だ。悔しいぐらい美しい赤だ。
「ヒデキ、あの賭け覚えてる?」
そう言うと、レオナは咳き込んだ。口からも真っ赤な液体が零れ出た。
ビトルボは悲鳴を上げるようにして、突っ走っていた。
車体の揺れが、その赤を微妙に震わせ、それは艶めかしいぐらい美しい赤だった。今すぐ抱きしめて、口づけして、髪を撫でて、肩を抱いて、くびれた腰に手をやって、それから、
それから何をすればいいのか。
「ワタシ」
レオナはさらに何かを言おうとした。
フッと、レオナが速くなったように思えた。
「待て、待つんだ、レオナ。」
ヒデキはなおもアクセルを踏みつけながら叫んだ。
レオナが言うのが、かろうじて聞こえた。
「あの賭け、」
更にレオナが加速した。
「私の負けね。」
レオナが見上げてきた気がした。
首がガクリと崩れた。
その瞬間、レオナが光になった。
「バカヤロウ。」
あらん限りの声を張り上げて、ヒデキは叫んだ。叫んでも叫んでも、レオナは光のままだった。
ビトルボは、すでに停車していた。高速道路建設予定の高架橋。海に突き出したまま、その先端は向こう岸を見つめていた。全ての片が付く頃、その先も繋がることだろう。
ヒデキは優しく語りかけた。助手席で目を瞑ったままのレオナに語り掛けた。
「なぁ、レオナ、何時からお前はそんなに速くなっちまったんだよ。」
真っ赤に染まったレオナに話しかけた。
「レオナ、嘘だろ。そんなに速くなる訳なんて、ねぇじゃねぇか。」
レオナの身体を揺さぶった。
顔も、首も、胸も、太腿も、すぐそこにあるのに、レオナの時間だけが止まっていた。
「なぁ、レオナ、お前は今、光のスピードで突っ走っているだけなんだろ。そうなんだよなぁ。俺はのろすぎちまって、お前の時間が止まっちまったようにしか見えねぇじゃねぇぁ。」
涙が溢れた。もっともっと溢れ出て、レオナの赤を洗い流してしまいたかった。洗い流してもレオナは戻って来そうにないのが、悔しくてまた涙が出た。
「レオナ、お前は言ったじゃねぇかよ、永遠に二人の時間になるんだって。他の人間が立ち入ることのできない時間になるんだって。
なぁ、頼むよ。俺はまだそんなに速くないんだよ。もう一度、ゆっくりしてくれよ。それから一緒に光になっても遅くはないだろう。」
ヒデキはレオナを抱きしめた。思いっきり強く抱きしめた。いくら抱きしめても、レオナは遅くはならなかった。
車の音がした。サイレンの音も混じっていた。
ようやく追いついてきたようだ。
ヒデキはもう一度レオナの身体を両手で抱き直し、崩れかかろうとする姿勢を直した。
「レオナ、賭けはお前の勝ちだよ。」
そう言って、丈の短い革ジャンをレオナに掛けてやった。
レオナが微笑むのが分かった。
レオナの顔を両手で触りながら、顔を見つめた。赤く染まっても、その顔は美しかった。口づけをした。そして言った。
「今度は俺の番だ。すぐにお前に追いついてやるよ。すぐさま追いついて、お前の時間を止めてやる。それまでちょっとの辛抱だ。」
何も言わず、レオナが凭れかかってきた。
そうだ、二人で行くのだ。もう誰も止めることも、見ることも出来ない、そんな時間に二人で飛び込むのだ。
「さぁ、行こうか。どんな世界が待っているのか、二人で見に行こうぜ。」
ヒデキはエンジンを吹かせた。どうやらビトルボも着いて来る気らしい。
ニヤリと笑った。海を見つめて笑った。
アクセルを思い切り踏み込んだ。
一台の車が建設中の高架橋の先端から海へ飛び込んだ。男たちには、その車がゆっくりと弧を描いて海に舞うのが見えた。それは確かにゆっくりと落ちて行った。まるで時間の経過が遅れてでもいるかのようにゆっくりと。そして、ゆっくりと男たちの視界から消えて行った。
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