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第Ⅸ章
Lakeside Memory
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既に陽は暮れかかっていた。夕焼けの空がやたらと赤かった。ヒデキは潮の香を嗅ぎながら海を見つめていた。
「まぁ、こんなに綺麗なところがあったのね。」
レオナが近くの岩場で、足元を気にしながら、岩に打ち寄せる波と戯れていた。
人里離れた、などとは言えない、すぐ近くの海。ついこの前まではあまりにも近かったのに、既にそこに住む者にとっては遠ざけられてしまった海。人の代わりに利権が海をせしめ、人が親しめる海は護岸壁で覆われた。多くの子供たちは、すぐそこだった砂浜の代わりに、隣町のプールに行くようになった。
ヒデキ自身、この岩場に来たのは何年ぶりの事だろう。十数年ぶりの事だろうか。海は変わっていなかった。引いては返す波のしぶきも、這い出してはすぐに身を隠す蟹の横歩きも、いつか見たままだった。全く変わってしまったはずなのに、何も変わっていないようにも思えた。
「キャー、ヒデキ。」
レオナの嬌声が聞こえた。ヒデキは岩と岩の間の距離を測りながら、大股で近寄った。
「どうした?」
「ねぇ、フナムシ、フナムシ。」
一匹の船虫が岩を伝って隙間へと逃げて行った。
「フナムシが私の靴の上を横切ったの。ウワァー、フナムシに触られちゃった。ウワァー。」
と言いながら、レオナは無邪気に腕に抱きついて来た。レオナの笑顔が眩しかった。
そのまま貝殻を拾っては笑い、蟹を追いかけて転びそうになっては笑い、岩場の先まで行ってみては笑い、そして、波をすくって掛け合うのもいいだろう。それとも、二人岩場に腰掛け、岩の冷たさと微妙な温もりを肌で感じながら、潮の香りのする浜風に吹かれるのもいいだろう。
いや、もっともっとやれることはあるのだろう。
この海と岩と風と夕陽の中で、人は色々なことができるはずだ。他愛もなく、とても美しいことを、バカバカしく、そして充実したことを。
今からすることも、そうしたことの一つなのだろうか。ヒデキには分からなかった。もっと他にやれることがある気がした。しかし、それらはみな、今やるべきことではなかった。
ヒデキはレオナの腰に手を回し、強く引き寄せた。頬に触れるレオナの髪が、潮の香とは別の匂いを運んだ。引き寄せたまま、ヒデキは呟いた。
「ありがとう。」
そうだ、もうじき仲間が来るはずだ。その仲間はヒデキを元居たヒデキの世界に連れ戻すことだろう。そして、レオナはレオナの世界へ戻るのだ。それが今からするべきことなのだ。
先に身体を離したのはレオナの方だった。
「私いるわ。あなたと一緒にいる。」
海の方を向いてレオナが言った。
「駄目だ、もうすぐ仲間が来る。俺はそいつらとこの街を出る。そしてここで起きたことを全て忘れる。」
レオナが振り返った。
「分かっているわ。ちょっと言ってみただけ。
行くわ。とても怖かったけど、とても楽しかった。」
そう言うと、レオナは歩きだした。何も言わずに脇を通り抜けた。その先にはビトルボが待っているはずだ。
ヒデキは、何もせずただ立ち尽くしていることが、何か大きな過ちのように思えた。避けることのできない過ち。それが避けられないものだとしたら、今はそれを後に引かせないことしかできなかった。そのために何ができるかと言えば、だからこそ振り返らずただ立ち尽くすしかないのだ。
背中にレオナの声がした。
「あなたは仲間の元に戻るのね。でも、あなたを待っているのは仲間だけじゃないわ。それよりももっと大切なものが、あなたを持っている。」
海の向こうの夕陽が眩しかった。
「一緒に行けないのが残念だわ。」
ヒデキにはレオナの言葉が、後悔のようにも安堵のようにも聞こえた。
海鳥の鳴き声が、どこか遠くで聞こえた。
仲間より大切なもの、それがヒデキを待っている。
ドアが閉まり、エンジンをふかす音がした。
その通りだ。何よりも大切なものがヒデキを待っている。その大切なもののために、今の時間を過ちに変えてはならない。この出会いを後に引かせてはならない。
ヒデキは振り返ろうとする欲求を押し殺した。マセラッティーのエンジンが低く唸った。
これでいいのだ。
低いエンジンの発進音がしたと思った瞬間、いくつもの急ブレーキの音がそれに重なって響いた。その瞬間、ヒデキは意外な過ちを既に犯していたことを悟った。本当に待っていたのは、仲間などではなかった。
横から飛び出してきた車を避け、レオナはビトルボを激しくバックさせた。眼の端に岩場を迂回するヒデキの姿が横切った。車は五台。総勢十人あるいはそれ以上、確かめている余裕はなかった。バックのまま車をスピンさせる。反対方向から迫る車を山側に避けた。車の男たちは、レオナの運転に驚いたようだった。しかし、その驚きを楽しむ余裕は、今のレオナにはなかった。
ヒデキは岩場を大きく迂回した。五台の車のうち、二台から男たちが飛び出してきた。その男たちに、見覚えはなかった。関の者でも平賀の身内の者でもないようだった。ただ、殺意だけがあった。銃声が妙に乾いた音を立てて岩場に弾けた。
岩場の地の利だけが、ヒデキの味方だった。見た目以上に、岩場は厄介なのだ。その岩に親しんだことのあるものだけが、岩の表情を知っている。
迂回すると、ヒデキはもう逃げなかった。レオナの方を確かめた。
レオナのマセラッティーは、盛んに方向転換しながら、男たちの車を翻弄していた。しかし、その行動範囲は徐々に狭まっているように見えた。
レオナはもう既に三度方向を変え、追いすがる車の脇を自在にすり抜けていた。しかし、男たちは、次第に運転の仕方に気が付き始めていた。威嚇では止めることのできない車の止まらせ方を。
右から来た。レオナは十分に引き付けてから、いきなりブレーキを踏み込んだ。車の男が一瞬、ハンドルを切るタイミングを失った。そのタイミングでアクセルを踏んだ。ハンドルを右へ切った。テールが流れた。舌打ちする男の横顔をやり過ごした。すぐに後ろから次が来た。ヒデキを目で追った。まだ遠かった。三度、ハンドルを切った。フェイント。逆側にスピンさせた。惰性で車が突っ込んできた。海側へ車を避けた。再びレオナはアクセルを踏み込んだ。
いまだに男たちは遠すぎた。ヒデキには男たちがスローモーションのように遅く感じられた。アスファルトで通用するものも、岩場では通用しない。その岩場に誘い出す。それしかヒデキには方法がなかった。
「まだだ。」
いらだちを押さえながら、ヒデキは耐えた。
見え隠れするレオナのマセラッティーにも、時間の余裕は感じられなかった。
「来い、早く来い。」
勝負は一度きりだ。間合い、そして一瞬の判断。なおもヒデキは、激しく岩場を行き来した。しかし、距離は離れない。
「餌はここだ、早く食らいついて来い。さぁ、食わせてやる。お待ちかねのご馳走だ。」
ようやく男たちが迫った。
見えた。男たちとヒデキの間合いが見えた。
ヒデキは飛び出した。飛び出すとすぐに、下の岩場に飛び降りた。一瞬、男たちがヒデキの姿を見失った時には、逆の岩場をよじ登っていた。岩場を抜けると、少しだけ砂浜があった。
今度はヒデキがスローモーションになる番だった。二度転んで、二度とも起きた。銃声が追ってきた。威嚇でしかないことはその銃声の方角で分かった。男たちはまだ岩場だった。慣れるのには時間が掛かる。ただ、逆に言えばその時間の分しか、ヒデキには残されていなかった。あとどれくらい残されているのか、レオナはどうしたのか、確かめる暇はすでになかった。
また、転んだ。目の前にアスファルトが見えた。しがみついた。ガードレールの下から転がり込んだ。身を低くしたまま、すぐに立ち上がった。車の音が聞こえてきた。そのまま走った。息が上がった。それでも走った。車は追って来た。走った。振り返らなかった。抜かされた。タイヤの軋む悲鳴が聞こえたかと思うと、スモークを吹かして車が止まった。ドアが開いた。レオナの太腿が見えた。ピンクのミニだ。パンティーの色を確認する間もなく、ヒデキは助手席に飛び込んだ。
シンイチロウは湖にいた。じっとして、その懐かしい風景を眺めていた。湖というより沼と言ってもいいかもしれないほど、小さな湖だ。
その湖は昔と同じ湖水を湛えていた。いや、正確に言えば、自ら選んで「今」を拒否したかのように、何も言わず歴史を守っていた。その証拠に「今」でもその湖は美しかった。
傍らには埃を被ったスティードが停めてあった。スティードに山道は似合わない。シンイチロウはスティードの土埃を払った。
どうせまた汚れるのだが、それぐらいはやってやってもいいだろう。まだ夜が更けるには時間がある。いずれにしろ、それまでは待たねばならない。
『いずれにしろ。』
この言葉は、二つの選択肢を意味している。その言葉通り、シンイチロウの行動には、二つの選択肢があった。まず一つ目は、ヒデキを探し出すことだった。
まずはヒデキを探してみよう、シンイチロウは行動を決めた。しかし、そう決めたとはいえ、シンイチロウ自身、組から追われる身であった。そうなった以上、探し出している余裕などあろうはずはなかった。ただそれでも望みがないことはなかった。
切羽詰まると、人はおかしなことを思い出すものだ。よりによって、こんな時に思い出すはずもないようなことを、ふと思い出したりする。普通なら一番思いつかなさそうなことを、よりによって思い出す。
初めてヒデキと女を輪姦したのがここだった。性の欲求というより、輪姦すという行為自体に興奮していた頃のことだ。女を車に連れ込んで、無我夢中に山を走ると、何時の間にかここに出ていた。
運転するシンイチロウには、凸凹の山道のどこでどうやってヒデキが服を脱いだのか分からなかった。その上、女も素っ裸だった。
車を停めた途端、女が車から走り出た。ヒデキもすぐに追って、車外に飛び出した。シンイチロウがサイドブレーキを引く頃には、既にヒデキは女にタックルしていた。シンイチロウも慌ててチャックを下ろしながらダッシュした。
タックルしたヒデキは、袈裟固めから、どうにかして逆四方に持って行きたいようだったが、激しい女の抵抗を受け、一先ず肩固めに入ったようだった。寝技、それは立ち技より重要なことが往々にしてある。シンイチロウはすかさず逆の手を取りに行った。肘関節を決めると、そのまま肘に金玉を擦り付けた。ちょっと気持ちが良かった。
ヒデキはというと、何処をどう移動したのか、何時の間にかヒールホールドの体勢に移っていた。ヒデキのヒールホールドは、シンイチロウの肘関節よりも気持ちよさそうにも見えた。少し悔しかった。
二人は目で合図を交わした。フィニッシュのサインだ。
技を解き、女を俯せにすると、それぞれのポジションにすばやく移動した。シンイチロウは女の顎を右腕で固め、ヒデキは女の足を十字に決めた。同時に掛け声をかけた。
「フン。」
「フン。」
その掛け声で二人は一気に片を付けた。シンイチロウのスリーパーホールドと、ヒデキの逆サソリが同時に決まった瞬間だった。女の抵抗はそこまでだった。
そんなこともあった、とシンイチロウは湖に小石を投げた。ポチャンとあの時と同じ音がした。
二度目に来た時は、シンイチロウは一人だった。小石を幾つも幾つも投げたのを、今でも覚えている。怖くて怖くて泣いていたのも、昨日のことのように覚えていた。
しくじって、焼きを入れられそうになったシンイチロウを、ヒデキが逃がしてくれたのだった。
「あそこで隠れていろ。」
それだけ言ってヒデキは背を向けたのだ。やりようのない情けなさを引きずって山道を歩いた。日頃の威勢の良さが、犬の遠吠えだったことを身をもって知らされた。怖かった。悔しさよりも、怖さが先に立ってしまう自分が悔しかった。しかし、そんな時でも悔しさよりも恐ろしさが先を歩かせていた。涙を流すしかなかった。せめても、その涙が枯れていないことだけが慰めだった。
石を投げた。幾つもの石を投げた。これ以上、どこにも逃げない覚悟を決めるために投げた。今更、どんな覚悟も決めようがないのに、そんな覚悟を決めようと思った。
ポチャンと、湖は答えてくれた。いくら投げても、何度投げても、同じようにポチャンと答えた。湖は静かで堂々としていた。シンイチロウの投げる悔しさなど、いくらでも湖は受け止めてくれた。何千年、何万年と生きてきた湖は、厳しくて、そして優しかった。確実に時は流れず、確実に積み上がっていた。
投げる石がなくなろうとした時、勝手に湖がポチャンと答えた。振り返ると、そこにはヒデキが立っていた。
シンイチロウは、相変わらず月明かりの照らす湖面を見つめていた。あれから何度ここへ足を運んだことだろう。それほど多く来ることはなかった。しかし、来るべき時には、二人して湖を眺めた。そうした時には、いつも変わらぬ湖があった。何で変わらないのか、疑問にも思わなかった。変わることがあろうなどとは思いもしなかった。当然のように、この湖はここにあった。思えばこうして変わらぬ湖が不思議にも思えた。
誰が変わったのか?何が変わったのか?
時代だった。時は流されないくせに、澱みもしないのだ。積み重なるくせに、その積み方も重ね方も、人に問いはしないのだ。時代が変わった時、きっとその積み方も重ね方も変わるのだろう。それがどんな風になるのか、シンイチロウには分からなかった。
ハンタロウには分かるのだろうか?
夜も更けた。
ヒデキは来なかった。
シンイチロウは、もう一つの選択肢を選ぶ時が来たことを悟った。その選択肢とは、小夜子だった。
今度はヒデキが石を投げて待つ番になるだろう。もう怖くもなく、悔しくもなかった。シンイチロウは決めることのできる覚悟を決めたのだ。もう二度と怖がりもせず、悔しがることもないだろう。そしてヒデキの背後から、小夜子と一緒に石を投げてやろう。
シンイチロウは最後の石がポチャンと音を立てると、スティードに跨った。跨ると腹に呑んだドスがシャツ越しに冷たく感じられた。湖面を振り返ると、先程音を立てた波紋が、ゆっくりと優し気に輪を描くのが、月明かりに映った。
海沿いの道から外れた枝道に入ると、ようやくレオナは車のスピードを緩めたようだった。流石にその横顔には疲労の色がにじみ出ているのが見て取れた。
「俺が替わろう。停めろよ。」
レオナは素直に頷いた。まだ微笑む余力は残っているようだった。
車を降り、タイヤの轍を小枝で消してから、ヒデキは運転席に着いた。
レオナも疲れていただろうが、ヒデキも疲れていた。ただ助手席に乗っていることがこんなにも疲れるものだとは、信じられなかった。
あれからヒデキとレオナは、なおも追いかけてくる五台の車を、海沿いの道で巻こうとした。何とか一台をガードレールに突っ込ませたものの、他の四台も同じようにさせられるほど自信も運もなかった。四台が落ち着きを取り戻し、連携して動けば、いくらビトルボが走ろうとも、逃がしてはくれないだろう。子供の使いではない、れっきとした大人の使いなのだ。
ヒデキは言った。
「街へ戻ろう。」
レオナが少しだけ驚いた表情を見せた。
仕方がない。これ以上やりあっても大した結果は望めない。いや、やり合えばやり合うほど、喜べるのはヒデキでもなく、ましてやレオナではない。今更ハンタロウを喜ばせたところで、何の得にもなりはしない。それなら警察に捕まった方が、いくらかでも面白い結果が生まれることだろう。そして、何よりレオナの安全が確保される。
レオナはウィンクをすると、いきなりハンドルを切った。海沿いの道から二つ折れれば、街へと続く真っ直ぐな道へと当たるはずだ。ビトルボなら直線では負けることはないだろう。
そして負けなかった。街へ入ろうとすると、おあつらえ向きにすぐにパトカーのサイレンが聞こえてきた。非常警戒態勢、それは当然だった。四台の車はなおも追ってきていたが、既に殺気は消えていた。街へと入った時には、何時の間にか四台のベンツは、セルシオのパトカーと入れ替わっていた。
街へ入った。夜も更けた。カーチェイスもこれで終わりだ、とヒデキは思った。バックミラーには、後方にパトカーのランプがちらついて見えた。
ヒデキは自分でも知らないうちに目を凝らしていた。考えてみればおかしなことだ。今見えるパトカーはヒデキたちの車しか追って来ていなかった。奴らのベンツには見向きもせずに素通りだった。明らかにターゲットはヒデキたちだけだった。
「レオナ、逃げろ!」
ヒデキは叫んだ。
ただし、そう言う前からビトルボのスピードは落ちていなかった。むしろ加速していた。訝る様にヒデキが見ると、レオナはペロリと舌を出した。
「私、警察って嫌いなの。」
ヒデキは吹き出した。こいつはえらい女と出会ったもんだ。レオナも笑っていた。ついさっきまでの緊張した損を取り戻すように、二人は笑い合った。久しぶりに笑った気がした。エンジンが吹けた。ビトルボも笑っているようだった。
街から外へ出る道は全て塞がれている。しかし、街の中の全ての道までは塞ぐわけにはいかなかった。何回道を曲がったものか、何度信号を無視したものか、それは覚えていられなかった。ただし、確実に言えることは、追ってきたパトカーよりも、その回数が多かったと言う事だ。
ヒデキはゆっくりと車を転がしていた。そう、まさに転がすようにして、静かに音を立てず、車を動かしていた。この道なら無灯火でも間違うことはなかった。何かあるたびに何度も通った道だった。秘密の抜け道。そう、何時しか新たな道路建設のために、見捨てられてしまった誰も通らない道。
それでもヒデキは、慎重に何度か枝道に入り直しては、車の轍を消し、再び労わる様にビトルボを転がした。見かけは悪いが、良い車だ。
「着いたよ。」
ビトルボを止めた。
湖だった。
ヒデキは降り立つと、確かめるように暫く辺りを見回した。だが誰もいはしなかった。もしかしたら、シンイチロウが待っているかもしれない、あの時のように。そんな錯覚をしただけだ。
レオナは湖水に近づくと、暗い湖面に手を浸した。
「あまり冷たくないわよ。夜の湖なんて、割とお洒落なのね。」
月が朧げに湖面を照らしていた。
言われてみれば、確かにお洒落な夜なのかもしれない。
「ヒデキもいらっしゃいよ、気持ちいいわよ。」
ヒデキは取り合わず、モンテクリストに火を点けて、生返事をした。
小枝を集めて火を点けた。あまり大きくはしなかった。振りむいたレオナの顔を炎が照らした。月夜も湖面も、その横顔も綺麗だった。
「ちょっと冷えるわね。夜だから当たり前だけど。」
そう言って炎に近づいてくるレオナは、言うほど寒そうでもなかった。しかし、ブラウス一枚だけなのも事実だった。ヒデキは着ていた革ジャンを手渡した。
「優しいのね。」
そう言って、レオナは革ジャンを肩から羽織った。少し丈の短い革ジャン。レオナは珍しいのか、羽織った革ジャンを、あちこち手にとっては調べた。
「ねぇ、ヒデキ、この革ジャン、腋に穴が開いているわよ。これじゃぁ、スースーしちゃうんじゃないの?」
炎の横で座るかどうか思案するレオナに、広げたハンカチを渡した。
「ありがとう、気が利くわね。」
そう言って、レオナはハンカチを敷いて、その上に体育座りをした。
「夏のバイク用なんだよ。」
レオナの質問に答えた。レオナは自分の質問を思い出したように、革ジャンのあちこちをもう一度見直し始めた。
丈の短い革ジャン。そう、夏にもバイクには革ジャンが必要なのだ。万が一転んだ時には、革が一番身体を守る。しかし、体にフィットしたレーシングタイプでは蒸れてしまって敵わない。そのための丈の低く、通気性の良い革ジャン。腋も開いていれば胸元も風が抜けるようになっていた。それでも肩と肘にはしっかりとしたパッドが入っている。ヒデキのお気に入りの革ジャンだった。
「成程ね、なかなか理論的だわ。」
妙に感心したように、レオナは納得した。
自然と気持ちが安らいでいた。湖は静かで優しかった。小枝がパチパチと耳心地の良い音を立てて燃えていた。炎は強すぎもせず、弱すぎもせず、程よく眺めやすい程度の煙しか出なかった。それを見つめるレオナの横顔も、程よい程度の明るさで照らされていた。
気が付けば、二人きりだった。
映画ならラブシーンにでもなるだろうな、とヒデキは漠然と考えた。考えてみると、それも当然のことのようにも思われた。ヒデキはレオナの顔から胸へと視線を移した。でかい。多分、Eだ。「Dではこうは行かない。」、ヒデキの経験は、冷静な判断を下していた。ごくりと生唾を、音を立てずに飲み込んだ。視線をさらに下げた。ピンクのミニからは大胆な太腿が顔を覗かせている。細いふくらはぎとのコントラストが、官能という名に相応しいと思った。
レオナも何かを感じ取ったようにヒデキには思えた。喉元と太ももの筋肉が収縮するのが見えた気がした。出会ってから初めて、ヒデキとレオナの間に、男と女の緊張感が走った。大人の緊張感だった。
ヒデキはレオナの眼を見つめた。視線は逸らしているものの、その眼は半分の拒絶と半分の承諾を意味していた。不思議な眼だった。引きずり込まれそうになる眼だった。股間に突き刺さる眼だ。
身体のありとあらゆる血液が、下半身の一点に集中していくのが、手に取るようにわかった。ヒデキは、鼻息が聞こえるほどの大きさで息を吸い込んだ。そしてゆっくりとゆっくりと息を吐いた。
レオナの眼は、相変わらず半分の拒絶と半分の承諾で湖面を見つめていた。その両方が言いようもない蠱惑となって、ヒデキを魅了した。そして、拒絶とは裏腹な、ある種の匂いが、レオナの放漫な胸から、くびれた腰から、そして官能的な太腿から発せられた。オスを狂わせる匂いだ。その匂いは、ヒデキの鼻といい耳といい、毛穴といい、ヒデキの身体のあらゆる穴から浸透し、ヒデキのありとあらゆる神経を狂わせた。
既にヒデキの眼には、レオナの拒絶が、拒絶とは言い難い程の消極的な承諾としか映らなかった。爆発的な欲望をヒデキは確信した。ヒデキの前頭葉にある電光掲示板に、ついにそのサインが灯った。
「GO!」
そうだ、GOだ。発車オーライだ、出発進行だ。マッハ・ゴー・ゴー・ゴーだ。忌野清志郎は発車出来なかったが、ここは爆速でロケットスタートだ。
その瞬間、何かがよぎった。ヒデキの中を何かが駆け抜けた。
小夜子。
信じられなかった。しかし、それは事実だった。
ヒデキは、半立ち以上に硬直した陰茎を、レオナに悟られないように、ジーパンの上から左斜め下の方向へ、手の平の甲で少しずらした。それと同時に火の加減をたしかめるかのように、下半身の体勢を微妙に変え、最終的に睾丸と陰茎の再適なポジションを股間で形成した。
「どうかした?」
無邪気な笑顔でレオナが聞いた。
無言の笑顔で首を振った。
ヒデキは立ち上がると、ガニ股と内股を交互に繰り返しながら、ゆっくりとした踊るような足取りで水辺まで近づいた。湖面の縁に跪き手を突くと、そのまま顔を水に突っ込んだ。レオナの言った通り、水はそれほど冷たくはなかった。顔を上げ、湖面に顔を映した。揺れる湖面に仄かに映るヒデキの顔は、歪んで滑稽だった。その通りだと思った。
苦笑いをした。その時、腹が鳴った。思えば朝から何も食べていないことを思い出した。満たされない欲望の後には、ありきたりで健康的な食欲が舞い戻った。こいつまで満たされないのだとしたら、やりきれないな、とヒデキは再び苦笑いをした。
レオナはダッシュボードを探った。するとクラッカーとチョコレートが出てきた。女性というものは、大抵こうしたものを常備していたりするものだ。クラッカーはカーチェイスで相当飛び跳ねさせられたらしく、殆どが割れていた。割れていても、食べられないことはない。
焚火に戻り、ヒデキの横に座った。差し出すと、ヒデキはクラッカーだけを手に取った。レオナはチョコを口にした。何だか不思議な気分だった。
襲い掛かられると思ったのに、拍子抜けがした。内心、妙に動揺してはいたが、平静を装った。
良い女のジレンマ。そう、良い女にはいつもジレンマが付きまとう。承諾もしないのだが、拒絶もしないのだ。承諾しそうに見せかけて、拒絶はするのだが、交渉の余地は残しておくのだ。ただ、ハードルは高いのだ。下手に手を出すとリスクが大きいことは明白なのだ。しかし、手は出さずにはいられないぐらいの、脇の甘さはちらちらと小出しにするのだ。一体何なんだ、その国際政治の外交手段のような態度は?と、呆れられるくらいでないとダメなのだ。
兎に角、そうした承諾と拒絶の二律背反の狭間に生きるのが、良い女の宿命なのだ。その微妙に切なく、物憂げで気怠そうな、しかしそれでもどこか物欲しげで、諦めきれないのが、桃井かおりであり秋吉久美子なのだ。そしてそのアンビバランツな宿命こそが、男を狂わせ、狂う男の狂気が、この切ない二律背反の宿命の慰めとなるはずなのだ。
しかし、慰めとなる前に狂気が去ってしまってはお話にならない。肩透かしも良いところだ。しかし、良い女はこんな時でもその男の行動を責めないものだ。だって、良い女なのだから。良い女は辛いのだ。だから燃えるのだ。燃えろ、良い女、なのだ。
湖に顔を突っ込んでから、
「腹が減った。」
とヒデキは言った。良い女が食欲に負かされた。少し失礼だと思った。ちょっと拗ねてやろうかとも思ったが、当の自分もお腹が空いていることに気が付いた。時として、良い女は食欲に対しては寛容なのだ。
並んで、クラッカーとチョコを食べた。
しかし、やはり変な気分だった。こうして男子とお菓子を食べることなんて、ずいぶん昔以来だな、と思った。夏のバイク用の革ジャンは、丁度いい風通しと温かさだった。
一しきり食べ終えると、ヒデキはごろりと横になった。星を見上げているようだった。
レオナも見上げた。満天の星空が、まるでプラネタリウムのように美しかった。
「なぁ、宇宙って膨張してるんだってな。」
意外なことをヒデキが言った。
レオナは微笑みながら、
「えぇ、そうよ。よく知っているわね。
詳しくはね、黒体副射の赤方偏移っていって、遠くの星から来る光の波長は長くなって赤く見えるから、離れて行っているってわかるのよ。」
そういって、ヒデキを見降ろした。
ヒデキは一度視線を合わせてから、もう一度星空を見上げ呟いた。
「宇宙が膨張しているなんてことは分かっても、明日の自分がどうなるかなんてことは分からないもんだよな。」
レオナも星を見上げた。そして言った。
「何言っているのよ。宇宙は膨張しているのよ。こうして見上げている星も、どんどん私たちから遠ざかっているの。こうしてみている間にも、どんどんどんどん、私たちから逃げているの。宇宙に終わりがない限り、あの星たちは逃げ続けるわ。」
ヒデキに向き直って、レオナは続けた。
「どうしたのよ、ヒデキ。私たちも逃げ続けられるわ。あんな追っ手になんか摑まりっこないわ。
そうでしょ、ヒデキ。
あんな星たちみたいに、私たちも逃げ続けるのよ。出来るわ。弱音を吐くなんて、みっともないじゃないのよ。あなたらしくもないわ。」
ヒデキがレオナを見上げた。今度の視線は外れなかった。
「それが相対性理論なのか?」
レオナは頷いた。
「そうよ、相対性理論よ。」
ヒデキは続けた。
「それが、あんたの相対性理論なんだな!?」
レオナは、ヒデキの言おうとすることを考えた。
ヒデキは上半身を起こすと、言葉を続けた。
「あんたは、本当にその相対性理論ていうやつに、有り金全部を賭けられるって言うんだな?」
有り金全部を全て賭けることを、ポーカーではオールインという。一度賭けてしまったら、最後のショーダウンまで、もう降りることは出来ない。
レオナは頷いた。
「何故だ?」
ヒデキは言葉を繰り返した。
「何故そんなことが出来るんだ?」
レオナは言葉を選ぶ時間を置いた。そして、
「相対性理論が、ロマンだからよ。」
そうだ、ロマンなのだ。見果てぬロマン。今も遠のこうとするあの星たちのロマン。
レオナは立ち上がると、星を見上げながら言葉を続けた。
「そう、ロマンなのよ。
光の速さに近づけば近づくほど、物体の長さは縮み、質量は増加し、時間の経過は遅れていく。そして、光と同一のスピードになった瞬間、長さはゼロになり、重さは無限大となり、時間は止まるわ。
もう、誰も見ることも、触れることも出来ない。誰も邪魔することは出来ない。」
レオナは振り返って、ヒデキを見降ろした。
「もし私とヒデキが光なら、もう誰も私たちの時間に入り込むことは出来ないわ。」
ヒデキは星を見上げたまま、呟いた。
「永遠に俺たちの時間と言うわけか。」
「そう、その通り。ロマンチックでしょ。
私、一度でいいから光みたいに速くなってみたいの。」
ヒデキは軽く頷いた。レオナを見ていると、やさしい気持ちになれるようだった。太腿は相変わらず美しく、パンティーは相変わらず見えそうで見えなかった。レオナは続けた。
「ヒデキといると、そんなことが出来そうに思えるわ。」
ヒデキは素直に答えた。
「嬉しいよ。本当にそうなれたら、最高だろうな。」
ヒデキは再び、遠い星を見上げながらそう言った。
レオナが言った。
「賭けましょうか?」
ヒデキは思わず、レオナの顔を見上げ、見つめなおした。
「賭けましょうよ。出来るか、出来ないか?光になれるか、なれないか?」
レオナは真顔だった。その冗談ともつかない言葉が、決して冗談ではないことを伝えたがっているかのようだった。
ヒデキは暫くレオナの顔を見続け、やがて頷いた。
レオナがニッコリと笑った。賭けは成立だ。しかし、確認しておかなければならないことがある。ヒデキは言った。
「じゃぁ、レオナが勝ったら何が欲しい?」
そうだ、賭け事には賞品がなくてはならない。レオナが勝ったら、買えるものは何でも買ってやろう、できることは何でもしてやろう。
レオナはちょっと考え、そして言った。
「私が勝ったら、この革ジャンをもらうわ。いいでしょ。」
ヒデキは笑って頷いた。そして続けた。
「なら、俺が勝ったら何をくれる?」
レオナは答えず、ゆっくりと水辺へと歩いて行った。そして革ジャンを置き、服を脱ぐと、裸のまま湖水に首まで浸かった。
ヒデキが上体を起こすのが見えた。湖水が汗を拭ってくれた。気持ちのいい冷たさだった。レオナはそのまま立ち上がり、岸辺に上がった。何も隠さず、ヒデキの方に向き直った。
「これでいいかしら。」
言い終わる前に、ヒデキが突進してきた。その恰好が可笑しかった。身をかわして笑いながら足を掛けた。久しぶりに湖水の大きな飛沫が上がった。
「ダメよ、勝つまでお預け。」
レオナが笑いかけると、湖のヒデキも笑った。すると何を思ったのか、湖を泳ぎ出した。気持ちよさそうに湖面に浮かぶと、空を見上げて漂った。
それを見たレオナは、慌てずに身体を拭くと、服を着た。レオナが着ると、今度はヒデキが脱ぐ番だった。
満天の星が、何も言わず二人を眺めていた。平和な一時が二人を包み込んだ。
服は朝までには乾きそうもなかった。
「まぁ、こんなに綺麗なところがあったのね。」
レオナが近くの岩場で、足元を気にしながら、岩に打ち寄せる波と戯れていた。
人里離れた、などとは言えない、すぐ近くの海。ついこの前まではあまりにも近かったのに、既にそこに住む者にとっては遠ざけられてしまった海。人の代わりに利権が海をせしめ、人が親しめる海は護岸壁で覆われた。多くの子供たちは、すぐそこだった砂浜の代わりに、隣町のプールに行くようになった。
ヒデキ自身、この岩場に来たのは何年ぶりの事だろう。十数年ぶりの事だろうか。海は変わっていなかった。引いては返す波のしぶきも、這い出してはすぐに身を隠す蟹の横歩きも、いつか見たままだった。全く変わってしまったはずなのに、何も変わっていないようにも思えた。
「キャー、ヒデキ。」
レオナの嬌声が聞こえた。ヒデキは岩と岩の間の距離を測りながら、大股で近寄った。
「どうした?」
「ねぇ、フナムシ、フナムシ。」
一匹の船虫が岩を伝って隙間へと逃げて行った。
「フナムシが私の靴の上を横切ったの。ウワァー、フナムシに触られちゃった。ウワァー。」
と言いながら、レオナは無邪気に腕に抱きついて来た。レオナの笑顔が眩しかった。
そのまま貝殻を拾っては笑い、蟹を追いかけて転びそうになっては笑い、岩場の先まで行ってみては笑い、そして、波をすくって掛け合うのもいいだろう。それとも、二人岩場に腰掛け、岩の冷たさと微妙な温もりを肌で感じながら、潮の香りのする浜風に吹かれるのもいいだろう。
いや、もっともっとやれることはあるのだろう。
この海と岩と風と夕陽の中で、人は色々なことができるはずだ。他愛もなく、とても美しいことを、バカバカしく、そして充実したことを。
今からすることも、そうしたことの一つなのだろうか。ヒデキには分からなかった。もっと他にやれることがある気がした。しかし、それらはみな、今やるべきことではなかった。
ヒデキはレオナの腰に手を回し、強く引き寄せた。頬に触れるレオナの髪が、潮の香とは別の匂いを運んだ。引き寄せたまま、ヒデキは呟いた。
「ありがとう。」
そうだ、もうじき仲間が来るはずだ。その仲間はヒデキを元居たヒデキの世界に連れ戻すことだろう。そして、レオナはレオナの世界へ戻るのだ。それが今からするべきことなのだ。
先に身体を離したのはレオナの方だった。
「私いるわ。あなたと一緒にいる。」
海の方を向いてレオナが言った。
「駄目だ、もうすぐ仲間が来る。俺はそいつらとこの街を出る。そしてここで起きたことを全て忘れる。」
レオナが振り返った。
「分かっているわ。ちょっと言ってみただけ。
行くわ。とても怖かったけど、とても楽しかった。」
そう言うと、レオナは歩きだした。何も言わずに脇を通り抜けた。その先にはビトルボが待っているはずだ。
ヒデキは、何もせずただ立ち尽くしていることが、何か大きな過ちのように思えた。避けることのできない過ち。それが避けられないものだとしたら、今はそれを後に引かせないことしかできなかった。そのために何ができるかと言えば、だからこそ振り返らずただ立ち尽くすしかないのだ。
背中にレオナの声がした。
「あなたは仲間の元に戻るのね。でも、あなたを待っているのは仲間だけじゃないわ。それよりももっと大切なものが、あなたを持っている。」
海の向こうの夕陽が眩しかった。
「一緒に行けないのが残念だわ。」
ヒデキにはレオナの言葉が、後悔のようにも安堵のようにも聞こえた。
海鳥の鳴き声が、どこか遠くで聞こえた。
仲間より大切なもの、それがヒデキを待っている。
ドアが閉まり、エンジンをふかす音がした。
その通りだ。何よりも大切なものがヒデキを待っている。その大切なもののために、今の時間を過ちに変えてはならない。この出会いを後に引かせてはならない。
ヒデキは振り返ろうとする欲求を押し殺した。マセラッティーのエンジンが低く唸った。
これでいいのだ。
低いエンジンの発進音がしたと思った瞬間、いくつもの急ブレーキの音がそれに重なって響いた。その瞬間、ヒデキは意外な過ちを既に犯していたことを悟った。本当に待っていたのは、仲間などではなかった。
横から飛び出してきた車を避け、レオナはビトルボを激しくバックさせた。眼の端に岩場を迂回するヒデキの姿が横切った。車は五台。総勢十人あるいはそれ以上、確かめている余裕はなかった。バックのまま車をスピンさせる。反対方向から迫る車を山側に避けた。車の男たちは、レオナの運転に驚いたようだった。しかし、その驚きを楽しむ余裕は、今のレオナにはなかった。
ヒデキは岩場を大きく迂回した。五台の車のうち、二台から男たちが飛び出してきた。その男たちに、見覚えはなかった。関の者でも平賀の身内の者でもないようだった。ただ、殺意だけがあった。銃声が妙に乾いた音を立てて岩場に弾けた。
岩場の地の利だけが、ヒデキの味方だった。見た目以上に、岩場は厄介なのだ。その岩に親しんだことのあるものだけが、岩の表情を知っている。
迂回すると、ヒデキはもう逃げなかった。レオナの方を確かめた。
レオナのマセラッティーは、盛んに方向転換しながら、男たちの車を翻弄していた。しかし、その行動範囲は徐々に狭まっているように見えた。
レオナはもう既に三度方向を変え、追いすがる車の脇を自在にすり抜けていた。しかし、男たちは、次第に運転の仕方に気が付き始めていた。威嚇では止めることのできない車の止まらせ方を。
右から来た。レオナは十分に引き付けてから、いきなりブレーキを踏み込んだ。車の男が一瞬、ハンドルを切るタイミングを失った。そのタイミングでアクセルを踏んだ。ハンドルを右へ切った。テールが流れた。舌打ちする男の横顔をやり過ごした。すぐに後ろから次が来た。ヒデキを目で追った。まだ遠かった。三度、ハンドルを切った。フェイント。逆側にスピンさせた。惰性で車が突っ込んできた。海側へ車を避けた。再びレオナはアクセルを踏み込んだ。
いまだに男たちは遠すぎた。ヒデキには男たちがスローモーションのように遅く感じられた。アスファルトで通用するものも、岩場では通用しない。その岩場に誘い出す。それしかヒデキには方法がなかった。
「まだだ。」
いらだちを押さえながら、ヒデキは耐えた。
見え隠れするレオナのマセラッティーにも、時間の余裕は感じられなかった。
「来い、早く来い。」
勝負は一度きりだ。間合い、そして一瞬の判断。なおもヒデキは、激しく岩場を行き来した。しかし、距離は離れない。
「餌はここだ、早く食らいついて来い。さぁ、食わせてやる。お待ちかねのご馳走だ。」
ようやく男たちが迫った。
見えた。男たちとヒデキの間合いが見えた。
ヒデキは飛び出した。飛び出すとすぐに、下の岩場に飛び降りた。一瞬、男たちがヒデキの姿を見失った時には、逆の岩場をよじ登っていた。岩場を抜けると、少しだけ砂浜があった。
今度はヒデキがスローモーションになる番だった。二度転んで、二度とも起きた。銃声が追ってきた。威嚇でしかないことはその銃声の方角で分かった。男たちはまだ岩場だった。慣れるのには時間が掛かる。ただ、逆に言えばその時間の分しか、ヒデキには残されていなかった。あとどれくらい残されているのか、レオナはどうしたのか、確かめる暇はすでになかった。
また、転んだ。目の前にアスファルトが見えた。しがみついた。ガードレールの下から転がり込んだ。身を低くしたまま、すぐに立ち上がった。車の音が聞こえてきた。そのまま走った。息が上がった。それでも走った。車は追って来た。走った。振り返らなかった。抜かされた。タイヤの軋む悲鳴が聞こえたかと思うと、スモークを吹かして車が止まった。ドアが開いた。レオナの太腿が見えた。ピンクのミニだ。パンティーの色を確認する間もなく、ヒデキは助手席に飛び込んだ。
シンイチロウは湖にいた。じっとして、その懐かしい風景を眺めていた。湖というより沼と言ってもいいかもしれないほど、小さな湖だ。
その湖は昔と同じ湖水を湛えていた。いや、正確に言えば、自ら選んで「今」を拒否したかのように、何も言わず歴史を守っていた。その証拠に「今」でもその湖は美しかった。
傍らには埃を被ったスティードが停めてあった。スティードに山道は似合わない。シンイチロウはスティードの土埃を払った。
どうせまた汚れるのだが、それぐらいはやってやってもいいだろう。まだ夜が更けるには時間がある。いずれにしろ、それまでは待たねばならない。
『いずれにしろ。』
この言葉は、二つの選択肢を意味している。その言葉通り、シンイチロウの行動には、二つの選択肢があった。まず一つ目は、ヒデキを探し出すことだった。
まずはヒデキを探してみよう、シンイチロウは行動を決めた。しかし、そう決めたとはいえ、シンイチロウ自身、組から追われる身であった。そうなった以上、探し出している余裕などあろうはずはなかった。ただそれでも望みがないことはなかった。
切羽詰まると、人はおかしなことを思い出すものだ。よりによって、こんな時に思い出すはずもないようなことを、ふと思い出したりする。普通なら一番思いつかなさそうなことを、よりによって思い出す。
初めてヒデキと女を輪姦したのがここだった。性の欲求というより、輪姦すという行為自体に興奮していた頃のことだ。女を車に連れ込んで、無我夢中に山を走ると、何時の間にかここに出ていた。
運転するシンイチロウには、凸凹の山道のどこでどうやってヒデキが服を脱いだのか分からなかった。その上、女も素っ裸だった。
車を停めた途端、女が車から走り出た。ヒデキもすぐに追って、車外に飛び出した。シンイチロウがサイドブレーキを引く頃には、既にヒデキは女にタックルしていた。シンイチロウも慌ててチャックを下ろしながらダッシュした。
タックルしたヒデキは、袈裟固めから、どうにかして逆四方に持って行きたいようだったが、激しい女の抵抗を受け、一先ず肩固めに入ったようだった。寝技、それは立ち技より重要なことが往々にしてある。シンイチロウはすかさず逆の手を取りに行った。肘関節を決めると、そのまま肘に金玉を擦り付けた。ちょっと気持ちが良かった。
ヒデキはというと、何処をどう移動したのか、何時の間にかヒールホールドの体勢に移っていた。ヒデキのヒールホールドは、シンイチロウの肘関節よりも気持ちよさそうにも見えた。少し悔しかった。
二人は目で合図を交わした。フィニッシュのサインだ。
技を解き、女を俯せにすると、それぞれのポジションにすばやく移動した。シンイチロウは女の顎を右腕で固め、ヒデキは女の足を十字に決めた。同時に掛け声をかけた。
「フン。」
「フン。」
その掛け声で二人は一気に片を付けた。シンイチロウのスリーパーホールドと、ヒデキの逆サソリが同時に決まった瞬間だった。女の抵抗はそこまでだった。
そんなこともあった、とシンイチロウは湖に小石を投げた。ポチャンとあの時と同じ音がした。
二度目に来た時は、シンイチロウは一人だった。小石を幾つも幾つも投げたのを、今でも覚えている。怖くて怖くて泣いていたのも、昨日のことのように覚えていた。
しくじって、焼きを入れられそうになったシンイチロウを、ヒデキが逃がしてくれたのだった。
「あそこで隠れていろ。」
それだけ言ってヒデキは背を向けたのだ。やりようのない情けなさを引きずって山道を歩いた。日頃の威勢の良さが、犬の遠吠えだったことを身をもって知らされた。怖かった。悔しさよりも、怖さが先に立ってしまう自分が悔しかった。しかし、そんな時でも悔しさよりも恐ろしさが先を歩かせていた。涙を流すしかなかった。せめても、その涙が枯れていないことだけが慰めだった。
石を投げた。幾つもの石を投げた。これ以上、どこにも逃げない覚悟を決めるために投げた。今更、どんな覚悟も決めようがないのに、そんな覚悟を決めようと思った。
ポチャンと、湖は答えてくれた。いくら投げても、何度投げても、同じようにポチャンと答えた。湖は静かで堂々としていた。シンイチロウの投げる悔しさなど、いくらでも湖は受け止めてくれた。何千年、何万年と生きてきた湖は、厳しくて、そして優しかった。確実に時は流れず、確実に積み上がっていた。
投げる石がなくなろうとした時、勝手に湖がポチャンと答えた。振り返ると、そこにはヒデキが立っていた。
シンイチロウは、相変わらず月明かりの照らす湖面を見つめていた。あれから何度ここへ足を運んだことだろう。それほど多く来ることはなかった。しかし、来るべき時には、二人して湖を眺めた。そうした時には、いつも変わらぬ湖があった。何で変わらないのか、疑問にも思わなかった。変わることがあろうなどとは思いもしなかった。当然のように、この湖はここにあった。思えばこうして変わらぬ湖が不思議にも思えた。
誰が変わったのか?何が変わったのか?
時代だった。時は流されないくせに、澱みもしないのだ。積み重なるくせに、その積み方も重ね方も、人に問いはしないのだ。時代が変わった時、きっとその積み方も重ね方も変わるのだろう。それがどんな風になるのか、シンイチロウには分からなかった。
ハンタロウには分かるのだろうか?
夜も更けた。
ヒデキは来なかった。
シンイチロウは、もう一つの選択肢を選ぶ時が来たことを悟った。その選択肢とは、小夜子だった。
今度はヒデキが石を投げて待つ番になるだろう。もう怖くもなく、悔しくもなかった。シンイチロウは決めることのできる覚悟を決めたのだ。もう二度と怖がりもせず、悔しがることもないだろう。そしてヒデキの背後から、小夜子と一緒に石を投げてやろう。
シンイチロウは最後の石がポチャンと音を立てると、スティードに跨った。跨ると腹に呑んだドスがシャツ越しに冷たく感じられた。湖面を振り返ると、先程音を立てた波紋が、ゆっくりと優し気に輪を描くのが、月明かりに映った。
海沿いの道から外れた枝道に入ると、ようやくレオナは車のスピードを緩めたようだった。流石にその横顔には疲労の色がにじみ出ているのが見て取れた。
「俺が替わろう。停めろよ。」
レオナは素直に頷いた。まだ微笑む余力は残っているようだった。
車を降り、タイヤの轍を小枝で消してから、ヒデキは運転席に着いた。
レオナも疲れていただろうが、ヒデキも疲れていた。ただ助手席に乗っていることがこんなにも疲れるものだとは、信じられなかった。
あれからヒデキとレオナは、なおも追いかけてくる五台の車を、海沿いの道で巻こうとした。何とか一台をガードレールに突っ込ませたものの、他の四台も同じようにさせられるほど自信も運もなかった。四台が落ち着きを取り戻し、連携して動けば、いくらビトルボが走ろうとも、逃がしてはくれないだろう。子供の使いではない、れっきとした大人の使いなのだ。
ヒデキは言った。
「街へ戻ろう。」
レオナが少しだけ驚いた表情を見せた。
仕方がない。これ以上やりあっても大した結果は望めない。いや、やり合えばやり合うほど、喜べるのはヒデキでもなく、ましてやレオナではない。今更ハンタロウを喜ばせたところで、何の得にもなりはしない。それなら警察に捕まった方が、いくらかでも面白い結果が生まれることだろう。そして、何よりレオナの安全が確保される。
レオナはウィンクをすると、いきなりハンドルを切った。海沿いの道から二つ折れれば、街へと続く真っ直ぐな道へと当たるはずだ。ビトルボなら直線では負けることはないだろう。
そして負けなかった。街へ入ろうとすると、おあつらえ向きにすぐにパトカーのサイレンが聞こえてきた。非常警戒態勢、それは当然だった。四台の車はなおも追ってきていたが、既に殺気は消えていた。街へと入った時には、何時の間にか四台のベンツは、セルシオのパトカーと入れ替わっていた。
街へ入った。夜も更けた。カーチェイスもこれで終わりだ、とヒデキは思った。バックミラーには、後方にパトカーのランプがちらついて見えた。
ヒデキは自分でも知らないうちに目を凝らしていた。考えてみればおかしなことだ。今見えるパトカーはヒデキたちの車しか追って来ていなかった。奴らのベンツには見向きもせずに素通りだった。明らかにターゲットはヒデキたちだけだった。
「レオナ、逃げろ!」
ヒデキは叫んだ。
ただし、そう言う前からビトルボのスピードは落ちていなかった。むしろ加速していた。訝る様にヒデキが見ると、レオナはペロリと舌を出した。
「私、警察って嫌いなの。」
ヒデキは吹き出した。こいつはえらい女と出会ったもんだ。レオナも笑っていた。ついさっきまでの緊張した損を取り戻すように、二人は笑い合った。久しぶりに笑った気がした。エンジンが吹けた。ビトルボも笑っているようだった。
街から外へ出る道は全て塞がれている。しかし、街の中の全ての道までは塞ぐわけにはいかなかった。何回道を曲がったものか、何度信号を無視したものか、それは覚えていられなかった。ただし、確実に言えることは、追ってきたパトカーよりも、その回数が多かったと言う事だ。
ヒデキはゆっくりと車を転がしていた。そう、まさに転がすようにして、静かに音を立てず、車を動かしていた。この道なら無灯火でも間違うことはなかった。何かあるたびに何度も通った道だった。秘密の抜け道。そう、何時しか新たな道路建設のために、見捨てられてしまった誰も通らない道。
それでもヒデキは、慎重に何度か枝道に入り直しては、車の轍を消し、再び労わる様にビトルボを転がした。見かけは悪いが、良い車だ。
「着いたよ。」
ビトルボを止めた。
湖だった。
ヒデキは降り立つと、確かめるように暫く辺りを見回した。だが誰もいはしなかった。もしかしたら、シンイチロウが待っているかもしれない、あの時のように。そんな錯覚をしただけだ。
レオナは湖水に近づくと、暗い湖面に手を浸した。
「あまり冷たくないわよ。夜の湖なんて、割とお洒落なのね。」
月が朧げに湖面を照らしていた。
言われてみれば、確かにお洒落な夜なのかもしれない。
「ヒデキもいらっしゃいよ、気持ちいいわよ。」
ヒデキは取り合わず、モンテクリストに火を点けて、生返事をした。
小枝を集めて火を点けた。あまり大きくはしなかった。振りむいたレオナの顔を炎が照らした。月夜も湖面も、その横顔も綺麗だった。
「ちょっと冷えるわね。夜だから当たり前だけど。」
そう言って炎に近づいてくるレオナは、言うほど寒そうでもなかった。しかし、ブラウス一枚だけなのも事実だった。ヒデキは着ていた革ジャンを手渡した。
「優しいのね。」
そう言って、レオナは革ジャンを肩から羽織った。少し丈の短い革ジャン。レオナは珍しいのか、羽織った革ジャンを、あちこち手にとっては調べた。
「ねぇ、ヒデキ、この革ジャン、腋に穴が開いているわよ。これじゃぁ、スースーしちゃうんじゃないの?」
炎の横で座るかどうか思案するレオナに、広げたハンカチを渡した。
「ありがとう、気が利くわね。」
そう言って、レオナはハンカチを敷いて、その上に体育座りをした。
「夏のバイク用なんだよ。」
レオナの質問に答えた。レオナは自分の質問を思い出したように、革ジャンのあちこちをもう一度見直し始めた。
丈の短い革ジャン。そう、夏にもバイクには革ジャンが必要なのだ。万が一転んだ時には、革が一番身体を守る。しかし、体にフィットしたレーシングタイプでは蒸れてしまって敵わない。そのための丈の低く、通気性の良い革ジャン。腋も開いていれば胸元も風が抜けるようになっていた。それでも肩と肘にはしっかりとしたパッドが入っている。ヒデキのお気に入りの革ジャンだった。
「成程ね、なかなか理論的だわ。」
妙に感心したように、レオナは納得した。
自然と気持ちが安らいでいた。湖は静かで優しかった。小枝がパチパチと耳心地の良い音を立てて燃えていた。炎は強すぎもせず、弱すぎもせず、程よく眺めやすい程度の煙しか出なかった。それを見つめるレオナの横顔も、程よい程度の明るさで照らされていた。
気が付けば、二人きりだった。
映画ならラブシーンにでもなるだろうな、とヒデキは漠然と考えた。考えてみると、それも当然のことのようにも思われた。ヒデキはレオナの顔から胸へと視線を移した。でかい。多分、Eだ。「Dではこうは行かない。」、ヒデキの経験は、冷静な判断を下していた。ごくりと生唾を、音を立てずに飲み込んだ。視線をさらに下げた。ピンクのミニからは大胆な太腿が顔を覗かせている。細いふくらはぎとのコントラストが、官能という名に相応しいと思った。
レオナも何かを感じ取ったようにヒデキには思えた。喉元と太ももの筋肉が収縮するのが見えた気がした。出会ってから初めて、ヒデキとレオナの間に、男と女の緊張感が走った。大人の緊張感だった。
ヒデキはレオナの眼を見つめた。視線は逸らしているものの、その眼は半分の拒絶と半分の承諾を意味していた。不思議な眼だった。引きずり込まれそうになる眼だった。股間に突き刺さる眼だ。
身体のありとあらゆる血液が、下半身の一点に集中していくのが、手に取るようにわかった。ヒデキは、鼻息が聞こえるほどの大きさで息を吸い込んだ。そしてゆっくりとゆっくりと息を吐いた。
レオナの眼は、相変わらず半分の拒絶と半分の承諾で湖面を見つめていた。その両方が言いようもない蠱惑となって、ヒデキを魅了した。そして、拒絶とは裏腹な、ある種の匂いが、レオナの放漫な胸から、くびれた腰から、そして官能的な太腿から発せられた。オスを狂わせる匂いだ。その匂いは、ヒデキの鼻といい耳といい、毛穴といい、ヒデキの身体のあらゆる穴から浸透し、ヒデキのありとあらゆる神経を狂わせた。
既にヒデキの眼には、レオナの拒絶が、拒絶とは言い難い程の消極的な承諾としか映らなかった。爆発的な欲望をヒデキは確信した。ヒデキの前頭葉にある電光掲示板に、ついにそのサインが灯った。
「GO!」
そうだ、GOだ。発車オーライだ、出発進行だ。マッハ・ゴー・ゴー・ゴーだ。忌野清志郎は発車出来なかったが、ここは爆速でロケットスタートだ。
その瞬間、何かがよぎった。ヒデキの中を何かが駆け抜けた。
小夜子。
信じられなかった。しかし、それは事実だった。
ヒデキは、半立ち以上に硬直した陰茎を、レオナに悟られないように、ジーパンの上から左斜め下の方向へ、手の平の甲で少しずらした。それと同時に火の加減をたしかめるかのように、下半身の体勢を微妙に変え、最終的に睾丸と陰茎の再適なポジションを股間で形成した。
「どうかした?」
無邪気な笑顔でレオナが聞いた。
無言の笑顔で首を振った。
ヒデキは立ち上がると、ガニ股と内股を交互に繰り返しながら、ゆっくりとした踊るような足取りで水辺まで近づいた。湖面の縁に跪き手を突くと、そのまま顔を水に突っ込んだ。レオナの言った通り、水はそれほど冷たくはなかった。顔を上げ、湖面に顔を映した。揺れる湖面に仄かに映るヒデキの顔は、歪んで滑稽だった。その通りだと思った。
苦笑いをした。その時、腹が鳴った。思えば朝から何も食べていないことを思い出した。満たされない欲望の後には、ありきたりで健康的な食欲が舞い戻った。こいつまで満たされないのだとしたら、やりきれないな、とヒデキは再び苦笑いをした。
レオナはダッシュボードを探った。するとクラッカーとチョコレートが出てきた。女性というものは、大抵こうしたものを常備していたりするものだ。クラッカーはカーチェイスで相当飛び跳ねさせられたらしく、殆どが割れていた。割れていても、食べられないことはない。
焚火に戻り、ヒデキの横に座った。差し出すと、ヒデキはクラッカーだけを手に取った。レオナはチョコを口にした。何だか不思議な気分だった。
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兎に角、そうした承諾と拒絶の二律背反の狭間に生きるのが、良い女の宿命なのだ。その微妙に切なく、物憂げで気怠そうな、しかしそれでもどこか物欲しげで、諦めきれないのが、桃井かおりであり秋吉久美子なのだ。そしてそのアンビバランツな宿命こそが、男を狂わせ、狂う男の狂気が、この切ない二律背反の宿命の慰めとなるはずなのだ。
しかし、慰めとなる前に狂気が去ってしまってはお話にならない。肩透かしも良いところだ。しかし、良い女はこんな時でもその男の行動を責めないものだ。だって、良い女なのだから。良い女は辛いのだ。だから燃えるのだ。燃えろ、良い女、なのだ。
湖に顔を突っ込んでから、
「腹が減った。」
とヒデキは言った。良い女が食欲に負かされた。少し失礼だと思った。ちょっと拗ねてやろうかとも思ったが、当の自分もお腹が空いていることに気が付いた。時として、良い女は食欲に対しては寛容なのだ。
並んで、クラッカーとチョコを食べた。
しかし、やはり変な気分だった。こうして男子とお菓子を食べることなんて、ずいぶん昔以来だな、と思った。夏のバイク用の革ジャンは、丁度いい風通しと温かさだった。
一しきり食べ終えると、ヒデキはごろりと横になった。星を見上げているようだった。
レオナも見上げた。満天の星空が、まるでプラネタリウムのように美しかった。
「なぁ、宇宙って膨張してるんだってな。」
意外なことをヒデキが言った。
レオナは微笑みながら、
「えぇ、そうよ。よく知っているわね。
詳しくはね、黒体副射の赤方偏移っていって、遠くの星から来る光の波長は長くなって赤く見えるから、離れて行っているってわかるのよ。」
そういって、ヒデキを見降ろした。
ヒデキは一度視線を合わせてから、もう一度星空を見上げ呟いた。
「宇宙が膨張しているなんてことは分かっても、明日の自分がどうなるかなんてことは分からないもんだよな。」
レオナも星を見上げた。そして言った。
「何言っているのよ。宇宙は膨張しているのよ。こうして見上げている星も、どんどん私たちから遠ざかっているの。こうしてみている間にも、どんどんどんどん、私たちから逃げているの。宇宙に終わりがない限り、あの星たちは逃げ続けるわ。」
ヒデキに向き直って、レオナは続けた。
「どうしたのよ、ヒデキ。私たちも逃げ続けられるわ。あんな追っ手になんか摑まりっこないわ。
そうでしょ、ヒデキ。
あんな星たちみたいに、私たちも逃げ続けるのよ。出来るわ。弱音を吐くなんて、みっともないじゃないのよ。あなたらしくもないわ。」
ヒデキがレオナを見上げた。今度の視線は外れなかった。
「それが相対性理論なのか?」
レオナは頷いた。
「そうよ、相対性理論よ。」
ヒデキは続けた。
「それが、あんたの相対性理論なんだな!?」
レオナは、ヒデキの言おうとすることを考えた。
ヒデキは上半身を起こすと、言葉を続けた。
「あんたは、本当にその相対性理論ていうやつに、有り金全部を賭けられるって言うんだな?」
有り金全部を全て賭けることを、ポーカーではオールインという。一度賭けてしまったら、最後のショーダウンまで、もう降りることは出来ない。
レオナは頷いた。
「何故だ?」
ヒデキは言葉を繰り返した。
「何故そんなことが出来るんだ?」
レオナは言葉を選ぶ時間を置いた。そして、
「相対性理論が、ロマンだからよ。」
そうだ、ロマンなのだ。見果てぬロマン。今も遠のこうとするあの星たちのロマン。
レオナは立ち上がると、星を見上げながら言葉を続けた。
「そう、ロマンなのよ。
光の速さに近づけば近づくほど、物体の長さは縮み、質量は増加し、時間の経過は遅れていく。そして、光と同一のスピードになった瞬間、長さはゼロになり、重さは無限大となり、時間は止まるわ。
もう、誰も見ることも、触れることも出来ない。誰も邪魔することは出来ない。」
レオナは振り返って、ヒデキを見降ろした。
「もし私とヒデキが光なら、もう誰も私たちの時間に入り込むことは出来ないわ。」
ヒデキは星を見上げたまま、呟いた。
「永遠に俺たちの時間と言うわけか。」
「そう、その通り。ロマンチックでしょ。
私、一度でいいから光みたいに速くなってみたいの。」
ヒデキは軽く頷いた。レオナを見ていると、やさしい気持ちになれるようだった。太腿は相変わらず美しく、パンティーは相変わらず見えそうで見えなかった。レオナは続けた。
「ヒデキといると、そんなことが出来そうに思えるわ。」
ヒデキは素直に答えた。
「嬉しいよ。本当にそうなれたら、最高だろうな。」
ヒデキは再び、遠い星を見上げながらそう言った。
レオナが言った。
「賭けましょうか?」
ヒデキは思わず、レオナの顔を見上げ、見つめなおした。
「賭けましょうよ。出来るか、出来ないか?光になれるか、なれないか?」
レオナは真顔だった。その冗談ともつかない言葉が、決して冗談ではないことを伝えたがっているかのようだった。
ヒデキは暫くレオナの顔を見続け、やがて頷いた。
レオナがニッコリと笑った。賭けは成立だ。しかし、確認しておかなければならないことがある。ヒデキは言った。
「じゃぁ、レオナが勝ったら何が欲しい?」
そうだ、賭け事には賞品がなくてはならない。レオナが勝ったら、買えるものは何でも買ってやろう、できることは何でもしてやろう。
レオナはちょっと考え、そして言った。
「私が勝ったら、この革ジャンをもらうわ。いいでしょ。」
ヒデキは笑って頷いた。そして続けた。
「なら、俺が勝ったら何をくれる?」
レオナは答えず、ゆっくりと水辺へと歩いて行った。そして革ジャンを置き、服を脱ぐと、裸のまま湖水に首まで浸かった。
ヒデキが上体を起こすのが見えた。湖水が汗を拭ってくれた。気持ちのいい冷たさだった。レオナはそのまま立ち上がり、岸辺に上がった。何も隠さず、ヒデキの方に向き直った。
「これでいいかしら。」
言い終わる前に、ヒデキが突進してきた。その恰好が可笑しかった。身をかわして笑いながら足を掛けた。久しぶりに湖水の大きな飛沫が上がった。
「ダメよ、勝つまでお預け。」
レオナが笑いかけると、湖のヒデキも笑った。すると何を思ったのか、湖を泳ぎ出した。気持ちよさそうに湖面に浮かぶと、空を見上げて漂った。
それを見たレオナは、慌てずに身体を拭くと、服を着た。レオナが着ると、今度はヒデキが脱ぐ番だった。
満天の星が、何も言わず二人を眺めていた。平和な一時が二人を包み込んだ。
服は朝までには乾きそうもなかった。
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青春
昔、ヘレニム国とスタラナ国という二つの大国が大陸を占めていた。両国ともに人口や進んだ技術持っており、相手を脅威だと思っていたが、怖くて手を打つことはなかった・・・
しかし、ヘレニムの連盟国とスラタナの連盟国が戦争を始めてしまった。スラタナはヘレニムを刺激しないため、援軍は送らなかったが、ヘレニムはその連盟国に10%もの食糧依頼をしていた。だから、少し援軍を送ったつもりが、スラタナはヘレニムが戦争に踏み切ったと勘違いし、大戦争が始まってしまう。
その戦争にアリを踏み殺しただけでも悲しむ優しいすぎる高校生の女の子が参戦した・・・
※漫画バージョンがあります。ストーリーの更新は常に小説が最新です。(漫画は一時非公開状態です)
坊主頭の絆:学校を変えた一歩【シリーズ】
S.H.L
青春
高校生のあかりとユイは、学校を襲う謎の病に立ち向かうため、伝説に基づく古い儀式に従い、坊主頭になる決断をします。この一見小さな行動は、学校全体に大きな影響を与え、生徒や教職員の間で新しい絆と理解を生み出します。
物語は、あかりとユイが学校の秘密を解き明かし、新しい伝統を築く過程を追いながら、彼女たちの内面の成長と変革の旅を描きます。彼女たちの行動は、生徒たちにインスピレーションを与え、更には教師にも影響を及ぼし、伝統的な教育コミュニティに新たな風を吹き込みます。
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