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第Ⅷ章

重たいだけが取り柄なの

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夜が明ける。新しい一日の始まり。ただし、一生の多くの夜明けは、新しい期待感は持たせこそすれ、本当の新しい一日をもたらすことは稀だ。
しかし、今日だけはその稀な一日が始まる事だろう。
そう思いながら、ハンタロウは質量増加について思いを巡らしていた。相対性理論によれば、物体はスピードが光速に近づけば近づくほどその質量が増加し、光速となった瞬間、その質量は無限大となる。
この命題は説明しにくい命題だ。ただ、ハンタロウは、
「全く、とぼけた事、言いやがってよ。」
と、何故か忌々しげに呟いた。何が一体、とぼけていると言うのか。

電話は既にひっきりなしに掛かって来ていた。代理店からも、平賀の身内からも、警察からも、果ては関一家の幹部からまで。一々全部に付き合ってはいられなかった。
すでに新しい一日は始まっているのだ。
計算違いと言えば、レオナだった。中央との会合はキャンセルせねばなるまい。それはそれで大きな痛手だった。しかし、人質の安全確保と言う事で、警察の新聞発表が延期になったことを考えれば、一概に悪手というわけでもない。要はその使い方だ。
いずれにせよ、時間をかけてはならないことだけは分かっていた。
再びハンタロウは、質量増加を考えた。何で質量が増加しなければならないのか。質量の増大、これはつまり、加速がしにくくなることを意味する。物体が速くなればなるほど、それ以上の加速は難しくなっていく、ということだ。そして光と同一のスピードになった瞬間、質量は無限大となる。無限大となった質量は、それ以上どんなエネルギーを加えても加速は出来ない。つまり、物体は光のスピードを超えることは出来ないのだ。
「全く上手い具合に出来てやがる。」
そう、何人たりとも、光のスピードは超えることは出来ない。超えてはならない一線なのだ。

ハンタロウは電話を取り上げながら、今日の手筈を確認しなおした。既に平賀の組長にも小夜子にも、十分信頼できる若手をつけておいた。警察との話し合いも付いている。組全体にも通達を出した。手抜かりはない。
そこまで考えて、ハンタロウは東京のダイヤルをプッシュした。広域暴力団宇田川組系玄水会の幹部、緒方のダイヤルインだった。相手はすぐに出た。ハンタロウは言った。
「予定通り進行している。」
「わかった。例の場所には、すでに腕利きを送ってある。今日の夕方には着くだろう。俺は明日の夕方になる。」
「よろしく頼む。」
それだけで会話は終わった。
これでいい。新しい一日が新しい時代を生むのだ。ハンタロウは、再び質量増加について、思いを巡らせていた。
「それにしても、とぼけた理屈だぜ。」
ハンタロウは、再び忌々しげに、呟くのだった。どこがとぼけていると言うのか。

シンイチロウは福井を代理店の人に引き渡すと、そのまま組長の家の警護に回された。組長と小夜子の安全を守るのだ。これは名誉ある仕事だ。
それにしても浮き浮きして舞い上がりそうになる気持ちを抑えきれない。何たってヒデキのアニキはやったんだ。見事に鉄砲玉でヒットマンだ。その上、レオナなんて言うドスケベな身体をした女までさらって逃げてんだ。
『やるなぁ、アニキ。あれ、もしかしたら本当に今頃やってるのかもしれねぇなぁ。これもんの、これもんで、マライヤとブリトニー足して二で割ったっつーか、水沢アキとアグネスラムと風吹ジュンを足して三で割ったつーか、、、』
それを思うと、ついつい身体が自然にくねってくるのだ。
『アニキ、やってるんでしょ。こんな感じかな、それともこんな感じかな。こんちくしょー、、、』

などと全身を下半身のようにくねくねさせていると、何かバカでかい物体が激突してきた。避ける間もなく、その物体は顔を舐めまわしてくる。大型犬だった。その犬は大五郎と言った。
「うーん、大五郎。」
そう言ってシンイチロウは、その大型犬の頭を撫でてやった。
シンイチロウに良く懐いている。それには訳があった。思えばついこの前の事のようにも思える。こんなことになる前の、あの平和だった頃のことだ。

ある日、何かの用事で組長の屋敷に訪れたシンイチロウは、出口の門の付近で何やら往生している小夜子に出会った。横には大五郎を連れている。
以前シンイチロウが、大五郎の名前の由来を聞くと、
「この子ったら、上手く吠えることが出来なくて、どうしてもワンとキャンの間になっちゃうから、チャンかなって思って、大五郎って付けたんです。」
とのことだった。
しかし、当時は小夜子にしか懐いていない大五郎は、シンイチロウにも敵意の唸り声を低く上げていた。どう考えても「チャン」な感じはしない。
「どうしたんですか?」
と、隣の大五郎に怯えながら小夜子に聞いた。すると、自転車がパンクしてしまい、犬の散歩に出かけられないという。散歩と言っても、大五郎は大型のゴールデンレトリーバーの中でもひときわ大柄だったため、小夜子の脚ではとても駆け出したら追いつけない。なので徒歩での散歩は無理だ。でも、大五郎は行く気満々の状態と言うわけである。
「なら、バイクでどうっすか?俺で良ければ付き合いますよ。」
暇だったシンイチロウがそう申し出ると、ならばと言うことで、バイクで犬の散歩という珍道中になったのだ。丁度、ヘルメットもヒデキ用にもう一つある。トロトロ運転にはなるが、二ケツで走れば大五郎が全速で走っても余裕である。と言うわけでなんだかんだあったにはあったが、無事にその日の散歩はバイクで終了した三人、いや二人と一匹だった。
それを機会に、大五郎はシンイチロウに懐くようになった。ただ、副産物はそれだけで終わらなかった。なんと、これ以来小夜子がバイクを好きになってしまったのだ。
「シンイチロウさん、さぁ、行きましょう。」
そういってヘルメットを被る小夜子。脇には大五郎が行く気満々で待ち構えている。十七歳なのでまだ公道を走ることができない小夜子だが、河川敷でゴルフの打ちっぱなしならぬ、バイクの乗車訓練である。教官はシンイチロウだ。元々ゴルフで鍛えた運動神経のためか、すぐにも乗りこなせそうだ。
青空の河川敷。スティードに跨る少女とそれを追いかけるゴールデンレトリーバー。遠くで野球をする声が聞こえる。
「これならアメリカンなスティードより、レーシングタイプの方が良いかもな。」
そんなことを思ったシンイチロウだった。

気が付くと何時の間にか大五郎の下敷きになっていた。顔中、デレデレになるまで舐められた。
「大五郎、大五郎。」
そう呼びながら、小夜子が出てきた。
「コラ、大五郎。」
小夜子に叱られると、大五郎は素直にシンイチロウから離れたが、それでも嬉しそうに息を切らしていた。
「すみません、シンイチロウさん。」
「いや、いや、何のこれしき、、、」
と言いながら、ズボンの埃を払いながら立ち上がる。
「さぁ、小夜子さん、中へ入っていてください。万が一ってこともありますから。」
「そうですね。
大五郎、今日はお散歩中止なの。わかった?お家でステイだからね。」
大五郎は、やんちゃな割に賢いようで、素直にお座りで聞いていた。
そう言うと小夜子は大五郎を連れて、玄関の中に入っていった。
大五郎は扉の前で振り返ると、シンイチロウに一声吠えた。
「チャン!」

小夜子と大五郎を見送ったシンイチロウは、庭を回って石灯籠の脇の庭石に腰かけた。
『しかし、なぁ、あの小夜ちゃんまでもなぁ、、、』
一人になるとシンイチロウはヒデキのことを考えていた。
『そのうちやっちゃうんだろなぁ、羨ましいもんだよなぁ、、、』
シンイチロウはタバコを胸ポケットから取り出した。銘柄はショッポである。蓋を開け、一本抜き取る。
ライターはと胸をまさぐり、気が付いて立ち上がり、ジーパンの腰のポケットから取り出した。オイル製のジッポだ。北斎の富嶽三十六景の波しぶきがあしらわれた我ながら渋いデザインだ。太腿でこすって火を点ける。
「ボッ!」
煙草に火を付けたら、スナップで蓋を閉める。
「シャキッ!」
『何たって、チャンと啼くから大五郎ってんだから、スゴイ。仲々、並みの頭じゃ考えつかないことを考える。この頭の良さには脱帽だ。ヒデキのアニキも、あれで結構頭は切れるが、こんな切れ方されちゃぁ、ちょっとついていけないかもしれない。』
「プワー。」
シンイチロウは、ショッポを一口喫った。
『チャンで大五郎って来るぐらいだから、連想ゲームの解答者レベルってことだな。檀ふみ級かもしれないぞ。いや、もしかしたら出題者の方まで行っちまうかもしれない。』
携帯用の灰皿を取り出し、灰を丁寧に落とす。別に組長の家だからと言うわけではない。何時もしている日頃の行いだ。
『その上、ゴルフまでプロ級ってんだから、非の打ちどころがねぇってもんだよなぁ。こいつはうかうかしていると尻に敷かれちまう可能性もなきしもあらずだ。』
そう思うとヒデキの顔が浮かんできた。
今頃どこで何をしているのか。
ヒデキが乗り捨てたスティードは、すでにシンイチロウが回収しておいた。スペアキーは持ち合っていたからだ。
『どこに迎えにいきゃぁいいか教えてくれればよ、何時でも迎えに行くのによ。』
まだ連絡はなかった。
そこまで考えて、シンイチロウは表情を変えた。
『いずれにせよ、もう後戻りはできねぇってことだよな。』
その通りだ。既に関は殺され、それを殺したヒデキは追われている。もう後には引けない。その後の組を背負うのは、小夜子になるのだ。
『小夜ちゃんの、「舐めたらいかんぜよ。」か。』
小夜子の夏目雅子。
『聞いてみてぇもんだなぁ。』
そうだ、それを聞くためにもここは一つ踏ん張りどころだ。
『こいつは俺にとっても正念場だ。もう後には引けねぇな。』
シンイチロウは、吸い残しを惜しむように、火傷ぎりぎりまで吸い切って、携帯用の灰皿に吸い殻をしまった。シンイチロウにとっても、もう後には引けなかった。これからどこに向かうのかなど、気にも留めてはいなかった。怖いものなど、何もなかった。

既に陽は、真上にまで昇っていた。鬱蒼とした雑木林の中、ヒデキはモンテクリストを取り出した。火を点けて、ゆっくりと吹かすと、今が嘘のようにも思えた。大仕事をし終えたというよりも、妙なことに巻き込まれた、と言った気がした。勿論、巻き込んだのはヒデキの方であり、巻き込まれた女は、今も車の中で寝息を立てていた。
関一家の二階から宙に舞った後、女はヒデキも知らない道を物凄いスピードで飛ばし続けた。気が付いたらここに来ていた。その間、女は何も言わず、ただ前方とタコメーターを交互に見続けていただけだった。
ヒデキも何も言わなかった。いや、言わなかったと言う前に、その女はヒデキの言うべきことを実行に移していたということだ。
ヒデキはモンテクリストを口にくわえたまま、車に近寄り、女の顔を窓越しに見つめた。
ここに着くなり、女はニッコリと笑ったかと思うと、安心したかのようにすぐに眠ってしまったのだ。
妙だった。大仕事が成功したのも妙であれば、その後、名も知らぬ女とこうしていることも妙だった。こうして自分が生きていることも妙であれば、名も知らぬ女が美しいことも妙だった。
子供のころに観た、『タイム・トンネル』のように、時間のトンネルから抜け出た時から、別の時間に生きているようだった。
女が眩しそうに眼を開けた。その眼はヒデキの視線の延長線上にあった。女は目をこすりながら、ヒデキの視線を見返してきた。そして微笑んだ。
「オハヨウ。」
女はいつもの朝のように、伸びをしながらあくびをし、そしてまた微笑んだ。そして、言った。
「オハヨウ、ヒデキ。」
何で、俺の名前を?
怪訝そうなヒデキの表情になおも微笑みながら、女は車から降りてきた。そして、ヒデキの顔を覗くと、
「当たった?
そんな名前かなって思って言っただけ。本当よ。どっちかって言うとエイキチの方が好きだけど、私、ヒデキ、カンゲキの時代で育ったから、嫌いじゃないわ。
あら、いやね。年が分かっちゃうじゃないの。朝っぱらから何言ってんのかしら、私ったら。」
女はそう言いながらも、何か楽しそうだった。
「でも、ヒデキはヒデキでしょ。ヒデキって言ったら、西城秀樹よりも湯川秀樹だから、いい名前よ。ただ、子供のころ、オデキなんてあだ名付けられたりするのには、ちょっと同情するけど。でも呼びやすくって、とってもいい名前だわ。」
どこかで見た気がした。大抵のいい女はどこかで見た気がするものだが、それでもやはりどこかで見た気がした。
「痛っ!。」
見ると、女は、片方が裸足だった。関のビルから逃げる間に脱げてしまったのだろう。二人とも、そんなことにさえ気が付く余裕がなかったと言うことだ。
ヒデキは車のボンネットに腰を掛けながら、あの瞬間の関の顔を思い出した。憎くはなかった、仕事だったのだ。
女はトランクからゴルフシューズのようなものを取り出してきた。
「これジャンボ仕様なのよ。ピンがないゴルフシューズなの。だから普段でも履けるんですって。」
そう言って、ドアを開けた車のシートに腰を掛けた。足を組み替え、靴を履き替えながら、女は続けた。
「でもゴルフ場によっては、芝が痛むからって禁止にするところもあるみたいなの。ジャンボ仕様なのに一々確認しなきゃいけないなんて、どっちかに統一してもらいたいわよね、全く。」
何でこんな会話なのか、ヒデキは不思議に思った。これで、サンドイッチと暖かいコーヒーでもあれば、ピクニックと大して変わらないだろう。どこにでもあるあのピクニック。このまま陽が傾けばいい。それまでここで、楽しい時間を過ごせばいい。今それ自体は嘘じゃない。
「俺はあんたを何て呼べばいい?」
ヒデキは、モンテクリストを指に挟んで、口を開いた。
「レオナ。」
女は後ろ手にまとめた髪をほどきながら振り返った。頭を振ると、髪の毛がゆっくりと肩に落ちて行った。
「お礼を言わなければならないわ。
助けてくれて、ありがとう。」
そう言うと、女はペコリと頭を下げた。どことなくあどけない仕草が、妙に似合って見えた。
助けた形になった。それだけだった。いや、この女に注意が逸れた分だけ、ヒデキにとっては好都合だった。
これからもその好都合は続くのか。この女をどう扱えばいいのか。ヒデキはまだ判断をしかねていた。
「あんた、何処の女だ?」
「レオナって名前があるって言ったでしょ。」
そう言うと、レオナはヒデキからモンテクリストを取り上げ、一服した。
「あまり美味しくないわね。」
そう言って、返してきた。ヒデキは受け取り、
「で、そのレオナは何処の女なんだ?」
「知りたい?」
振り返ると女は言った。
「文部省先端物理学研究所。」
呆気にとられるヒデキの顔を可笑しそうに見つめながら、レオナは続けた。
「この街で私の事しらないの、きっとあなたぐらいのものよ。
私は物理学者なの。こう見えても相対性理論の専門家なんだから。」
女はそう言うとヒデキの眼を真っ直ぐ見つめて来た。ヒデキも逸らさなかった。やがて自然と二人に笑みが零れた。
ヒデキはつい笑い出した。笑い出すと、可笑しくて可笑しくて堪らなくなった。女も笑い出した。何かがおかしいのだ。そのおかしさが、また可笑しいのだ。おかしさが可笑しさを呼ぶようで、二人の笑いは止まらなくなった。
大仕事の後には、物理学者の女だ。その女とこんな山の中でハバナの葉巻を吸っている。そして極めつけは、またもや相対性理論だ。思えばこいつには踊らされっぱなしだ。世の中一体どこまでイカレちまっているんだ。
笑いが止まらないままヒデキは聞いた。
「なぁ、その頭の良い学者さんは、これからどうするんだ?」
いたって真面目に女は答えた。
「いるわ、あなたと一緒に。」
ヒデキの笑いは自然と消えていった。
「で?俺はどうする?俺は何をするんだ?」
「逃げるのよ。何処までも逃げるの。物凄いスピードで。」
ヒデキは女を見つめた。女は既に大人の女の表情に戻っていた。
言葉が途切れると、森の音が聞こえ始めた。

ひっきりなしに鳴る電話と、何処までも追いかけてくる関係者を、適当にあしらいながら、ハンタロウは相変わらず質量増加だけを考えようとしていた。
「とぼけた理屈だ。」
平賀の組長から電話が入った。ハンタロウは物憂げにコードレスの通話ボタンを押した。
「どうした、ハンタロウ。そんなところでのんびりしている時じゃねぇだろう。モノには勢いってものがある。どうして動かねぇ。」
苛立ちを隠そうともしない。
「もう手は打ってあります。」
この人には説明するべきか。一瞬悩んだが、すぐに否定した。いずれにせよ、この人の時代は終わったのだ。今さら説明しても仕方がない。
「手は打ってあるだと。手なんて打ってる場合じゃねえだろう。身体張らねぇで、何がヤクザだ。ヒデキにだけ身体張らして、手前は高みの見物か!?」
「今、関と本気で事を構えられるとでも思っているんですか、おやっさん。」
ハンタロウは極力感情を押さえながら喋った。
「大事な道路が通るか通らねぇかって時に、ドンパチやらかすわけにはいかないんです。」
「何だと!?」
平賀は止まりそうにない。
「そのドンパチ仕掛けたのは、ハンタロウ、お前の方だろうが。お前が仕掛けて関のど頭かち割ったんだろうが。かち割られた関のど頭は、こっちとあっちの若いもんの血で洗ってやらねぇことには収まりがつかんだろうが。」
田舎のヤクザがドンパチやって喜ぶのは、一体誰だと思っているのだ。それこそ高みの見物を決め込むのは、中央のバカでかい組織に決まっているというのに。
高みの見物をさせる前に引きずり込む、後戻りすると見せかけて誘い込む。無論ただで帰すわけじゃない。泥をひっかぶっただけのお土産は用意してある。リスクは取ってもらうが、リターンも持って帰ってもらおう。この田舎にも、新しいビジネスという時代がやってくるのだ。
「ハンタロウ、手前まさか、自分のマッチで点けた火を、自分のポンプで消そうって気じゃねぇだろうなぁ。そんなことぁ、俺が許すとでも思っているのか。断じて許さねぇぞ。」
ハンタロウはあくまで冷静に答えた。
「おやっさん、もう手は打ってあるって言ったでしょう。明日の夕方には、久しぶりの顔をおやっさんも見れますから、もうしばらくお待ちください。全てはその方にお話ししてあります。」
それ以上、電話の向こうからは何も聞こえなかった。そしてゆっくりと電話は切れた。
過ぎ去ろうとする時代は、終わらせねばならない。今更、関も平賀もないのだ。関は死に、平賀は引退する。別に悪いことじゃない。
ハンタロウはコードレスを置いた。そして再び考えた。問題は、何で質量が増大するのか、ということだ。
「とぼけるのもいい加減にしろよ、アインシュタインのおっさんよ。」

シンイチロウは思い出していた。あれは何時の頃だったろうか。ヒデキに初めて組につれてこられた時のことだ。それ程昔の事ではない。いや、ついこの前の事のようにも思えた。その人は口を開いた。
「ほう、お前がシンイチロウか?」
「はぁ。」
連れてこられたシンイチロウは、神妙にはしてはいたが、どこか投げやりな気持でもあった。
「お前、地元じゃ、どうしようもない暴れん坊なんだってな。」
「いや、それほどでも。」
隣に座ったヒデキから、いきなり引っ叩っぱたかれた。
「手前、敬語だろうが。」
上目使いに二人に軽く頭を下げた。
「まぁ、まぁ、ヒデキ、いいってことよ。」
その人は、もう一度向き直り、言葉を続けた。
「なぁ、シンイチロウ、お前、物には限度ってものがあることを知ってるか?」
「はぁ。」
ありきたりな説教が始まると思ったので気のない返事をした。
「でも限度っつーのは、なかなか守れねぇもんだよな。」
「はぁ。」
何を今更、そんな思いだった。
「そりゃぁそうだよ、制限時速は破るためにあるようなもんだからなぁ。」
不承不承に頷いた。
「しかし、限度なんだから守らせなきゃならねぇ。決まり事ってのは、守らせるためにあるもんだ。」
飽くまで当たり前なことだ、そうとしか聞こえなかった。
「そこでポリ公は、スピードガンで制限速度を超えてねぇかを調べるわけだ。」
子供だましのたとえ話か、そんな風に思った。しかし、その人が続けた言葉は、不思議なものだった。
「でもよ、心配しなくても越えられない速度ってものがあるんだよ。」
「そりゃぁ、公道でF1が走れるわけはねぇし、、、」
つい口を挟んでしまった。
「手前、敬語だろうが。」
再び、ヒデキにはたかれた。その人は続けた。
「いや、F1だけじゃねぇ、新幹線だろうが、リニアモーターカーだろうが、それこそ鉄砲玉だろうが、何でも構わねぇ。そいつら全部が、逆立ちしても越えられないスピードってのがあるんだ。」
超えられない速度、そんなこと考えるのは初めてだった。
「それが光の速度だ。」
そう言うとその人は、卓上の煙草を手に取り、火を点けた。自分にも勧められたが、手に取る前に一応ヒデキを眼で確認した。ヒデキが頷いたのを見て煙草を手に取った。パーラメントだった。
その人の言葉は続いた。
「昔、アインシュタインっておっさんがいてな、相対性理論って言う理屈を唱えたんだ。」
意図はよくは分からなかったが、何かを伝えたがっていることは分かった。ヒデキは、すでにこの話は何度も聞いたことがあるようで、横でしきりに頷いてみては、小声で合いの手を入れていた。
「よ、待ってました。アインシュタイン、入りました。」
そこで仕方なく話を合わせてみることにした。
「アインシュタインってことは、日本人じゃないみたいっすね。ロスケとかアメ公っすか?」
受け答えが面白かったのか、その人にも笑みが浮かんだ。
「ドイツ系のアメリカ人とでもいえばいいかな。
でな、このおっさん、不思議なことを言い出したんだよ。」
「不思議なこと?」
その人は頷き、こう続けた。
「全てのものは、光より速くなることは出来ない、ってこのおっさんは言うんだよ。」
「へぇ。なんか、白バイのポリ公みたいなこと言うんすね。」
素直に感想を言った。微かに笑ってその人は言葉をつづけた。
「何故だと思う?」
「何故って?」
首を傾げた。
言葉は続いた。
「何故かと言うとよ、重くなるからって言ったんだよ。」
意図はまだ掴めなかった。それに構わずその人の言葉は続いた。
「いいか、こともあろうか、このアインシュタインのおっさんはだよ、速くなればなるほど重くなる、だから光のスピードに近づいたら、とんでもねぇ重さになるって言ったんだよ。」
はっきり言って、何がどうなのか分からなかった。しかし、その人の言葉は加速するように続いた。
「え、今の聞いたか、速くなればなるほど重くなるだってよ、そんなことあるか?」
その人は半分笑っていた。
「へへへ、バカ言うんじゃねぇってんだよ、速くなればなるほど重くなるだと。そんな話はねぇよなぁ。だってよ、そんなの分かりっこねぇじゃねぇか。」
如何にも楽しそうに話すので、つられて愛想笑いが浮かんだ。
「だって、動いてるんだぜ。重さの測りよう何てねぇじゃねぇかよ。」
お構いなしにそう言うと、その人は言葉を切った。
この時やっと、少しだけ引っ掛かりがある感じがした。
声を落としてその人は続けた。
「お前、走ってるマラソン選手の体重を、走ったまま測れるか?」
首を振る。
「お前、泳いでいるカジキマグロの重量を、泳いだまんま測れるか?」
首を振る。
「お前、走ってるトラックの重量、走ったまんま測れるか?」
首を振る。
その人の声のボリュームが次第に上がった。
「測れねぇよなぁ。マラソン選手だったら、一旦止まって体重計に乗ってもらうよなぁ。カジキマグロだったら、釣り上げてから計量台に乗せるよなぁ。トラックだって、止まらせてそれ用のバカでっかい計りで測るしかねぇよなぁ。何故かって言ったら、動いちまったら分からなくなるからだよ。当ったり前ぇじゃねぇか、そんなこと。」
その通りだと思ったので、今度は縦に振った。
その人の説明は続いた。
「じゃぁ、何かぁ?高速道路全部を体重計にしてよ、その上を突っ走らせたら、最初の方より後の方が重くなりました、ってとかやるとでもいうのか?でもそれじゃぁ、飛行機や潜水艦は測れねぇぞ。お前ぇ、それでいいのか?」
ここら辺になると、良く分からなかったが、今度は再び横に振った。
「だろ、そうだろ。だからわかりっこねぇんだよ、動いてるもんが重くなるなんてよぉ。
ところがこのおっさん、そう言ってきかねぇんだよ。」
「アインシュタインっておっさんがですか?」
思わず聞き返した。
「あぉ、とぼけた野郎だと思うだろ!?」
「確かに、とぼけたおっさんっすね。」
その人は続けた。
「何故だと思う?」
そんな事、分かるわけはない、と思った。しかし、その人はまるでシンイチロウが答えを知っているかのように聞いてきた。
少なくとも、その顔は真剣で無防備だった。
思わず真剣に考えた。
『とぼけたおっさんの、とぼける理由。』
シンイチロウは慎重に言葉を選んだ。
「速くなればなるほど、重たくなるって言うんすよね?」
「そうだ。」
「光の速さに近づけば近づくほど、重くなるっつーんすよね?」
「そうだ。」
「だから光の速さは超えられないって言うんすよね?」
「そうだ。」
「てーことは?」
シンイチロウは、もう一度言葉を選んだ。
「そう言うことにすると、、、」
間をおいて、一言言った。
「丸く収まるってことっすか?」
一瞬、沈黙が周囲を包んだ。三人の時間が止まったようだった。スローモーションのように、その人とヒデキが驚いた目を合わせるのが見えた。
次の瞬間、笑い声が弾けた。
「ハッハッハ。そうだ、その通りだ。」
その人は、弾けるように笑った。その笑いの中で、言葉を続けた。
「そうだよ、丸く収まるんだよ。」
シンイチロウは、キツネにつままれたような気分だった。ただ、自分の言った言葉に奇妙な説得力があるということだけは理解できた。
それを見透かしたかのようにハンタロウは続けた。
「いいんだよ、それでいいんだよ。アインシュタインのおっさんも、そんなこたぁ百も承知の上なんだよ。それでいいんだよ。それが相対性理論なんだよ。」
そう自分に言い聞かせるように言いながら、ハンタロウは一升瓶と盃を三つ持ってきた。
「ようし、アインシュタインのおっさんのとぼけた話はこれで終わりだ。まさかこんな若けぇのに、丸く収めてもらうとは思わなかったけどなぁ。」
そう言うとその人は目を見つめて聞いてきた。
「ところで、どうだ、うちの組に来やしねぇか?」
シンイチロウもしっかりとその視線を受け止めた。
「何時までも暴れてるだけじゃ、何にもならねぇぜ。」
そう言うと、シンイチロウとヒデキの前の盃に、何も言わずに酒を注いだ。
シンイチロウは、黙って盃を手に持った。隣のヒデキも手に持った。その横顔は何故か嬉しそうだった。その嬉しそうな横顔が、シンイチロウにも少し嬉しかった。
その日以来、シンイチロウはヒデキの舎弟となり、平賀組の一員となった。その人の名はハンタロウといった。

「ちょっと、平賀の組長のところまで行ってきますね。夕方までには帰って来ますから。」
そう言うと春江は着物姿で玄関を後にした。
「おぅ。俺からもよろしくな。」
後姿を見送りながらハンタロウは思った。
「春江、そう言えば最近太ったかな。」
姉さん女房の春江も、もう三十代も半ば、四捨五入すれば四十である。元々肉付きが良い体型だけに、油断をすると結構ヤバい。
「俺は太いのダメだから、一度言っとかねぇーといけねぇかな。」

実は春江は一度、かなり太った時期があった。ハンタロウも組の勢力拡大で猛烈に忙しい頃のことだった。若い連中も多くなり、その面倒やら何やらが重なってストレスになったらしい。ストレス太りという奴だ。
しかし当初、ハンタロウはそれほど深刻には考えていなかった。
「まぁ、太目の芸能人もいるにはいるからなぁ。」
そう言われればそうだ。太めでも人気があるタレントも多い。
「マライアなんて、ある意味ボヨンボヨンだしよぉ。」
欧米人にありがちな、度を過ぎたグラマーとでも言えようか。
また、そういう分野に特化した専門家もいるらしいことも知っていた。
「所謂、デブ専という奴だな。」
その通り。肥満体型の女性を好む人々である。
「最悪、俺がデブ専になっちまえば、それはそれでウィンウィンだしな。」
こんな考えをしている人は、世間に珍しくはないかもしれない。しかし、その考えは本当に通用するものなのだろうか?

こんなハンタロウの甘い考えを打ち砕いたのは、シンイチロウだった。
ある日ある時、ふとした拍子に同じセリフを吐いたハンタロウ。
「、、、俺がデブ専になっちまえば、それはそれでウィンウィンだしな。」
「だったらオジキ、一度、デブ専、試してみますか?」
「おぅ、デブ専ねぇ、面白そうじゃないの。」
「でもねぇ、オジキ、言っちゃなんですが、デブ専舐めてると、結構なことになりますよ。」
「何言ってやがんだよ。細かろうと太かろうと、女は女だろ。そう言う細けぇこと言っててヤクザが務まるとでも思ってんのか。」
「わかりました。オジキがそこまで言うんだったら、行きましょうよ、デブ専。」
「おぅ、連れてってもらおうじゃねえか。お前、そんじょそこらのキャバクラに毛の生えたみたいなとこだったら、承知しねぇからな。」
「わっかりました。とびっきりのデブ専、ご紹介させていただきましょう。」
何かの拍子の売り言葉に買い言葉だった。
「しかし、お前こういうのには滅法詳しいな。」
「いや、それ程でもないっす。」
「別に褒めたわけじゃねぇよ。」
少しだけムッとするシンイチロウ。
「そう言うオジキの方こそ、デブ専行って腰抜かさないで下さいよ。」
「おぅ、これでも極道のはしくれだ。デブ専ぐれぇで腰抜かしたとあったんじゃぁ、指詰め物だぜ。」
ふと、ヒデキがいないことにハンタロウは気付いた。
「おい、行くならヒデキの奴も誘ってやろう。でないと、拗ねるといけねぇからな。」
そうだ、舎弟は公平に扱ってやるのが筋だ。
「あ、いや、アニキはいいと思いますよ。」
「いいって何だよ、水くせぇ奴だなぁ。」
「いえ、アニキは以前、ハンタロウのオジキと同じようなこと言ってたんすけど、一度デブ専行ったら、木っ端みじんに吹っ飛んだことがありましてね、それ以来寄り付かなくなったんですよ。」
「ハァ?吹っ飛んだって何だよ?」
「いやもう、大撃沈でして、『もう二度と生意気なことは言いません。どうか許してください。』って大変だったんですから。」
「何?ヒデキの奴がデブ専行って大撃沈されたのか。ハッハッハッ、そういつは良いや。ヒデキの奴も大したことねぇなぁ。日頃は一端みてぇな口叩いているくせによぉ。」
「いえ、だから、ヒデキのアニキが撃沈するくらい凄いってことですよ。」
「何言ってんだよ、俺とヒデキを一緒にするってのか。バカにすんのもいい加減にしろよ。」
「言いましたね、オジキ。吐いた唾、飲まんで下さいよ。」
「おぅよ、何処のどいつが飲もうとなぁ、わしだけは飲むわけあるかい。」
そうしてシンイチロウにデブ専に連れられて行ったハンタロウだったのだが、、、

「だから言ったでしょ、デブ専舐めたらいけないって。」
シンイチロウに右腕を担がれ、よれよれで引き摺られるハンタロウ。
「に、二の腕が、こんなあった。」
ハンタロウは、まだ信じられないという表情だった。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。」
「ふ、太腿が、こんなあった。」
ハンタロウは、夢を見ているような表情だった。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。」
「く、首が、な、なかった。」
ハンタロウは、幽霊を見たかとでもいうような表情だった。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。」
「は、腹で押し返された。」
ハンタロウは、その時の感触を、もう一度身体で確かめているようだった。
気が付くとマンションだった。促されるままに靴を脱ぎ、部屋に上がる。
「そりゃぁそうですよ、デブなんですから。何度言わせりゃ、気が済むんですか。」
「は、腹だぞ。あの腹ぁ、あれじゃぁ切腹なんて出来ねぇぞ。ドスが内臓まで届かねぇからよぉ、切腹出来ねぇぞ、切腹がよぉ。」
ベッドに座らされ、シンイチロウにされるがまま、服を脱ぎ、パジャマに着替える。
「誰が今の時代に切腹するんですか。だからもう、オジキ、しっかりしてくださいよ。分かりましたか、デブ専の凄さが。」
「あの腹だぞ、お前も見たろ。あんなのとセックスしたら、あの腹の上でボディーボードが滑れるぞ。」
「じゃぁ、今度ボディーボード持参で行ってみますか。逆に乗っかられて押し潰されるのがオチでしょうけどね。」
シンイチロウはキッチンに水を取りに行ったようだ。
ハンタロウは、はっきりとわかった。
「あぁ、あいつら人間じゃ無ねぇ。バケモンだ。」
「だから言ったでしょ、何度も、デブ専舐めてるとヤバいって。」
その通りなのだが、ハンタロウの理解の仕方は少しだけ違っていた。
「重たいってだけで、凄いエネルギーなんだ。」
「そうですよ、無茶苦茶重いから、潰されちゃうくらいのエネルギーなんですよ。」
シンイチロウを水のコップを渡してくれた。
「質量とエネルギーは等価なんだな、やっぱり。」
そう、それだ、等価性だ。
そう言って一口水を飲んだ。美味い。
「何、訳の分からないこと言っているんですか。」
「重いってだけで、凄いエネルギーがあるってことだよ。」
「ハイハイ、その通り、凄いんですよ、重いってだけが取り柄なんですよ、デブは。」
シンイチロウがコップをキッチンに下げに行く。
「いいですか、これに懲りたら、もう二度とデブ専なんぞに近づかないこと。いいですね。」
促されるままベッドに入った。
「わ、わかった。」
やっぱり等価だ。
「大丈夫ですか、オジキ?」
シンイチロウはハンタロウの頬を軽く叩くと、ナイトキャップを嵌めてくれた。
「ハイ、良い子で今日は寝るんでちゅよ。」
そう言うと、電気を消してシンイチロウは帰って行った。
その夜、ハンタロウが悪夢にうなされ、何度か目を覚ましたのは言うまでもない。

兎にも角にも、それ以来、デブ専は大の苦手となったハンタロウだったのだ。
「春江には一回ちゃんと言っとかないとな。」
ハンタロウは思った。そうだ、一度ビシッとこう言ってやろう。
「太るな!」
「ハァ?何か言った?」
春江だった。
「あ、え、い、いや、、、」
気が付くと夕方だった。春江が外出から戻ってきたようだった。
「あんたちょっと聞いてよ、平賀の組長のところに挨拶に言ったらさぁ、また小夜子ちゃんがどうのこうのって捕まっちゃってさぁ。長いったらありゃしないのよ。」
帯締めをほどきながら、春江が言う。何時ものぼやきだ。ヤクザの女らしく、外出は和服だ。
「ちょっと、帯持ってよ。」
「あ、あぁ、これか。」
着替えだ。和服の着替えは、一人では大変だ。
「だって、もう十七よ。もう子供じゃないってのにさぁ。全く、眼に入れても痛くはないんだろうけどさぁ。少しは子離れしなさいよ、って言ってやったのよ。」
そう言いながら春江はクルクル回り出した。
「あ~れ~ぇ、お許しください、旦那様ぁ、、、」
帯は長いので、こうして自分から回ると脱ぎやすいようだ。
「ちょっとあんたもなんか言ってよ。」
「何か言ってって、何を?」
「何かって、例えば、
これ、声を立てるでない、悪いようにはせぬでな、フッフッフ、、、
とかあるじゃないのよ。」
「それ言ったらどうなるんだよ?」
「そう言ったら、どうなるって、、、
堪忍しておくんなさいましぃ。」
「ハァ?」
「ハッハッハ、なんとでも申すがよい、おぬしが泣こうが喚こうが、もう誰も来ぬわ。
旦那様、堪忍どすえ、堪忍どすえ。
えぇい、芸者の分際で何を申す。生意気なことを言いおって、こうしてくれるわ、、、」
「・」
「・」
「お前、どうでもいいけど、パンツ丸見えだよ。」
「何やらせるのよ、もう、まったくぅ。
ヒデキ君やシンイチロウなら、調子合せてくれるのに。あんたと言ったら全くなんだからぁ、全部一人でやらなきゃなんないじゃないのよぅ、、、」
帯と襦袢を抱え上げると、春江はぶつぶつ言いながら奥の部屋へ消えていった。
ハンタロウは思った。
『重かろうとなかろうと、女ってのは関係ねぇんだな。』
女性のエネルギーというのは、どうやら質量とは無関係のようだった。

電話が鳴った。いやな予感がした。
「もしもし。」
小夜子だった。一方的な会話だ。
「来てください。待っています。」
仕方がない。この娘だけには説明しなければならないだろう。
ただ、その説明は、質量の増大よりも難しそうだった。

陽が傾こうとしていた。
シンイチロウは解せなかった。静かすぎるのだ。一気に関との決着を付けるはずが、何も起きないのだ。その上、組員にはハンタロウから「動くな」という指令が出ている始末だ。
『ハンタロウのオジキは、一体何を考えているのだろう?』
そして、
『アニキは?』
「ドン!」
いきなりの体当たりだ。そうだ、静かでないのが一人だけいた。いや、一匹だけ。
「こら、大五郎。」
何処から抜け出したのか、家から飛び出してきた大五郎はシンイチロウにまっしぐらだった。そして何時もの涎攻撃である。
「チャン、チャン。」
と、吠えては甘えてくる。
しかし、躾は出来ている。お座りもお手も出来れば、人差し指を口にして、
「シー。」
とやると、おとなしく吠えもしない。
しかし何故か、他の組員には懐かなかった。指笛では寄っては来るものの、睨みつけているだけだった。その時だけは、シンイチロウにも大五郎が獣に見えた。気味悪がって、次第に他の組員は寄り付かなくなっていった。
しかし、シンイチロウにだけは、何時だって体当たりだった。取っ組み合いの相撲が始まる。
それから二度、シンイチロウが寄り切られ、大五郎が三度、猫だましに引っかかり、シンイチロウが大五郎の両手突きを、上手くはたき込めるようになった頃、表に車が止まった。
車からはハンタロウが一人で出てきた。
やっと来た、とシンイチロウは顔を綻ばせた。他の組員も目の色を変えていた。大五郎だけが、獣の眼差しでハンタロウを睨みつけていた。

小夜子は正座をして、ハンタロウの言葉を聞いていた。
「、、、というわけで、組の跡目は、小夜子さんに襲名していただきます。」
多少の疑念はあったものの、まさかハンタロウがそこまでの計画を練っていたとは、小夜子にも意外だった。裏切られた、と正直思った。
ハンタロウは、悪びれる様子もなく語った。
「ですから、小夜子さんには、明日、本家筋にあたる玄水会の方と会っていただきます。襲名披露は一か月以内に執り行う予定です。その旨、親戚筋に当たる組長の皆さんには、すでに通知を出し了承を頂いております。」
何もかも段取り済み、ということだ。
「父は?」
「引退していただきます。組長には何一つ面倒なことはさせませんから、ご安心ください。三日以内にはケリがつきます。」
「違うわ。」
はっきりとした口調で小夜子は言った。
「父はそれで納得したかどうかを聞いているんです。」
「納得も何もありません。それが時代というやつなんです。」
父が朝から別室に引きこもり、小夜子に会おうともしない理由がやっとわかった。会わす顔がないのだ。
そんな父が哀れだった。
「レオナさんは?」
「すでに代理店を通して別の人間を用意してあります。道路建設にまつわるセレモニーは滞りなく処理できる予定です。」
「レオナさんよ。レオナさんは一体どうなるの?」
「そのことでしたらご心配なく。悪いようにはしません、私が一切の面倒を取らしてもらう予定です。」
「それって、どういう意味?」
「どうもこうも、言葉通りの意味ですよ。」
小夜子はハンタロウの顔を見つめた。
何時からこんな冷たい顔になってしまったのだろう?何時からこんな人になってしまったのだろう?小夜子が知っていたはずの人は、一体いつどこに消えてしまったのだろう?
しかし、それよりも何よりも、どうしても聞かなければならないことが残っていた。小夜子は暫く沈黙した。やはりそのことは覚悟を決めなくては聞けないことだった。
静かだった。人のざわめきも、海の潮騒も、生まれ育ったこの街の音も、今は聞こえなかった。ただ、耳を澄ますと、遠い山の音が聞こえてくるように思えた。
小夜子は口を開いた。
「ヒデキさんは?」
ハンタロウは、小夜子の眼を真っ直ぐに見つめた。その眼は既に何かを諦めているようだった。
「ヒデキのことも、私が一切面倒を見ることになっています。御心配には及びません。」
「心配ないって、どういうこと?」
小夜子もハンタロウを真っ直ぐ見つめて、そう聞いた。
「ヒデキは仕事を終えたんです。それも大仕事をね。だからもう何も心配することなんて、ないんですよ。」
説明しきれない説明を諦めたかのように、人の絶望をないがしろにするかのように、そして自らの矛盾を自らの手で握りつぶすように、ハンタロウはそう言い終えると小夜子から視線を外した。
小夜子は視線が外れるのを見ながら、背中に手を回した。背中にさしてある短刀の柄を握り、それほど長くない鞘を引き抜く。
今がそれを使う時なのか。ただじっと耐える時なのか。柄を握る手が、これほど早く汗ばむことを初めて知った。
その時、ハンタロウが叫んだ。
「誰だ?」
そう言うと、素早くハンタロウは障子をあけ放った。
そこには、立ち尽くすシンイチロウの姿があった。
「オジキ!そんな訳ねーだろ。ヒデキのアニキを、このまんまにして良い訳ねぇーだろ。俺は絶対ぇ、そんなこと許さねぇーからなぁ。」
そう叫ぶと、シンイチロウは背を向けて走り出した。
「シンイチロウ!」
ハンタロウがそう叫んでも、シンイチロウが立ち止まることはなかった。
ハンタロウが他の組員に怒鳴った。呆気にとられた組員も、すぐに走り出した。ハンタロウはなおも、怒鳴り続けていた。
一瞬の裡に、静かだった音が聞こえだした。その音に入れ替わるように、森の音は聞こえなくなった。
小夜子は握りしめた短刀を鞘に収めた。どうやらもう暫くは耐える時間のようだ。もう少しだけ。それはきっとそれほど長い時間ではないだろう。
小夜子は怒鳴り続けるハンタロウの背中に向かって言った。
「オジサマ、何が貴方をそうさせるの?」
気が付いたハンタロウが振り返った。
「何が貴方をそうさせるの?」
小夜子は聞きなおした。ハンタロウは少しだけ向き直り、口を開いた。
「時代ですよ。新しいビジネスの時代って奴ですよ。」
小夜子も口を開いた。
「時代が変わったって、言いたいのね。」
「えぇ、もう元には戻れないんですよ。」
「でも、どんな時代でも変わらないものもあるわ。」
ハンタロウは顔を少しだけ振り返った。
「そういうのを、
時代に取り残された、って言うんですよ。」
それだけ言うと、ハンタロウは身を翻して、他の組員たちを追っていった。
一人残った小夜子は、じっとして考えた。変わらないものなのか、それとも取り残されただけのものなのか。その思いの先にあるのは、ただ一つ、ヒデキだけだった。
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