上 下
5 / 14
第Ⅳ章

時間よ止まれ

しおりを挟む
レオナは、その青年がビリヤード場を出ていくのを、背中で見送った。何やら思いつめたような表情が、印象的だった。やや腰を落とし、前傾姿勢で扉を出ていく背中の雰囲気が、いかにも張り詰めていた感じがしたのだ。
「あれで、幾つぐらいなんだろう?」
年下であることは確かだった。痩せぎすというほどではないが、ひょろっとした背丈の分だけ、痩せ型に見えた。
ただ、そんな青年が出て行っても、相変わらず辺りの空気は緊張している気がした。後には離れた台に数名の男性客がいるだけなのに、妙に気が許せる感じがしない。
「よそ者だからかしら。」
初めての街の、初めてのビリヤード場。閑散としていると言えば、確かにそうなのだろうが、ビリヤードにはそのぐらいがちょうどいい。人込みでごった返すビリヤード場など、お金を出してまで行くものではないだろう。静寂と適度な緊張、ビリヤードにはそれが必要だ。このビリヤード場も、確かに静かだった。ただ、その緊張は少し度合を超えていた。
レオナはあたりをゆっくりと見渡してから、キューを構えた。
どうやらこの緊張感が、この街のお出迎えと言う事のようだった。

レオナは、静かに球を打った。回転を付けた手玉は、手前の赤い的玉の右側にかなり厚く当たり、そのまま右側の長クッションで跳ね返ると、そのまま向こう側の赤玉に当たった。
「ヒトツ。」
実はレオナが得意なのは同じビリヤードでも、スリークッションだった。四つ玉とは違い、玉は三つだ。玉の大きさもやや小さめで、台もやや広めである。ルールは簡単で、片方の的玉に当ててから、三回以上クッションを経由してもう一つの的玉に当てることが出来れば、得点となる。四つ玉とは違って、もう一つの的玉に当てるまでに三回以上のクッションをさせないといけないので、その分計算が難しい。まるで幾何学の問題を解くように、入射角と反射角、回転と打点そして強度を計算しなければならない。嵌る人にとってはそれが面白いのだが、なかなかこれが当たらない。少なくともまぐれで当たることはないから、初心者がすぐにプレーできる種目ではない。つまり、敷居が高い、という奴だ。
「フタツ。」
誰に言うでもなく、呟く。
そんなスリークッションに、レオナが目覚めたのは、ポールニューマンの「ハスラー」がきっかけだった。ただし、「ハスラー」自体は、ポケットを題材とした映画だ。ポケットとは、ご存じの通り15個ないしは9個ある的玉を、手玉で当ててポケットと呼ばれる穴に落としていくゲームである。的玉は番号によって色分けされており、見た目にも鮮やかで、雰囲気にも華がある。
一方のスリークッションは、玉が三つあるだけだ。台には玉が落ちるポケットもない。つまり、ポケットとスリークッションでは、同じビリヤードでも、かなり味わいが違う種目なのである。よって、プレーヤーも人種は別だ。両方やる人は珍しい。「ハスラー」でスリークッションが出てくるのは、確か中盤ぐらいだ。ポケットが得意のポールニューマンが、いつものように勝負を申し込んだ相手が、実はスリークッションだったというシーンである。映画では、最初はたじろぐのだが、その持ち前のテクニックで、初めてなのにスリークッションを極めて勝ってしまう。そのシーンがキッカケでレオナはスリークッションに目覚めたのだが、今考えるとかなり無理がある気がしないでもない。
「ポケットの人が、いきなりスリークッションを極めるのは、ちょっとないわよね。本当に上手い人だと、可能なのかしら。」
まぁ、基本とするテクニックは同じといえば同じというか、キューで玉を突くだけだから同じにならざるを得ない。打点、強度、入射角、反射角、計算することは同じだ。後は突き出す距離と勢いによって、回転力を付けたいのか推進力を付けたいのかも変わってきたりもするが、それもポケットとスリークッションで変わることはない。スリークッションの方が、玉が小さめで台が広いので、そこら辺は考慮に入れる必要はあるだろう。しかし、いずれにせよ基本的な物理原則は同じである。
「ニュートンの古典力学の範囲よね。」
その通り。ビリヤードは、飽くまで古典物理学の法則に準拠する。ポケットにせよスリークッションにせよ、相対性理論の必要性はない。
「でも何となく、スリークッションなのよね。」
何故かレオナはスリークッションが好みだった。理由は結局良く分からない。敢えて言うなら、
「あの時のポールニューマンの顔がかわいかったからかなぁ。」
あの、スリークッションと知ってたじろいだ瞬間の顔。
いつか誰かをあんな風にたじろがせたい。そのためのスリークッション。
ただ、今日はそのどちらでもない四つ玉だ。四つ玉はビリヤードの基本と言えるので、堅苦しいことは言う必要はない。

レオナが九つ目を数えようとした時、いきなり扉が開いて、一人の若者が入ってきた。その勢いから、かなり急いでいる様子なのが、レオナの台からもわかった。
「ヒデキのアニキ、来てませんか?」
店主が答えているようだ。
「え?10分前?何だ、それならまだ出て行ったばっかりじゃないですか。」
多分、先程出て行った青年の事なのだろうと察しは付いた。
『ヒデキ、という名前なんだ。』
話の続きが聞こえた。
「つーことはマスター、俺とアニキは母親が違うってことっすね。」
不審な顔をするマスター。レオナも思わず手が止まった。言葉の意味を考えた。
「何言ってんだってばよ、マスター。」
若者がカウンターのマスターに向かって、右の人差し指を左右に振る。
「チ、チ、チ、それは、腹違い。
今の俺とアニキは、すれ違い、ってね。」
そんな軽口を叩くと、その若者は軽くマスターに合図して、扉を後ろ手に出て行った。
『プッ。』
レオナは、声を出さずに吹き出した。善意のギャグには乗ってあげるのが礼儀だ。それにその若者は、何となく憎めない感じもした。
その時だけ、緊張感が解けた。バイクの走り去る音が、微かに聞こえた。
走り去るバイクの音が止んだ頃、再び緊張感が舞い戻った。

「街が緊張している。」
レオナの印象だった。
先ほどのヒデキという青年といい、このビリヤード場といい、街全体が気を許せない雰囲気に包まれていた。薄々予想はしていたこととはいえ、やはり目の当たりにすると、その緊迫感は威圧感を感じさせるものだった。
レオナはビリヤード場を出ると、外に止めておいたマセラッティーのドアを開けた。スラリと伸びた形の良い脚をシートに収める。そろそろ待ち合わせの時間だ。

レオナはマセラッティーをゆっくりと発進させた。車内は割と窮屈だ。走りに徹した車。車は見た目じゃない。エンブレムをトヨタに変えれば、どう見たってカローラにしか見えない外観。それが走りのマセラッティー・ビトルボ。ビトルボとは、英語で言う、バイターボ、つまりイタリア語でツインターボのことだ。簡単に言えば、思いっきりチューンしてあるカローラ。それがマセラッティー・ビトルボだった。

レオナは十分に加速してからギアを二速に入れると、明日からの仕事を考えた。断り切れない仕事。勿論、そんな仕事は楽な仕事だ。顧問料だけで相当な金額を提示されていた。
「それにしても高速道路の建設に、相対性理論は関係ないわよね。」
レオナは若手の理論物理学者だった。しかも美人。当然マスコミからの誘いも多い。別に好きで誘いを受けるのではない。要は金だ。研究には金が要る。そして政府はいつもケチだ。そう、科学技術、特に基礎科学に対する国家予算は絶望的に少ない。
レオナは三速に入れると、アクセルを軽く踏んだ。見事な走りだ。前のソアラに並ぶと、あっという間に追い越した。ソアラの男の驚いた顔が一瞬見えた。男は何と速いカローラかと思ったことだろう。女の運転するカローラに抜かれたソアラの男。三日間は悪夢にうなされるはずだ。
更に四速。レオナのビトルボは喜びの声を上げるかのように、排気音を唸らせ始める。見る間に四台を追い抜いた。驚く顔が後方に流れ飛ぶ。三日はうなされるであろう顔達。気分転換には丁度良い。
「お金のための一週間だもの、気分転換よね。深く考えるのは止めにしようっと。」
お金のための気分転換。そのためにこの小さな街にやってきた。そう思えば楽なものだ。一週間すれば、またあの古ぼけた研究室が待っている。このビトルボだって、何時まで乗っていられるのか分からない。物理学者と言っても、お金の法則には無縁の人種なのだ。バブルだ、なんだと言っても、研究室には土地も株もないのだ。あるのは理論だけ。
『あーあ、理論が担保になって融資が受けられるシステムってないのかしら。あるいは理論を投機の対象にして、未公開理論の理論株の譲渡で一山当てるって無理かしら。それもダメなら、架空の理論証書を偽造してカゴ抜け詐欺って出来ないのかしら。』
などと真剣に考える学者はいない。ただ、そうしたことが可能なら、今の百倍は研究に没頭できるのに、と考えない学者もいないのではなかろうか。
更に五速。速い。軽く150キロは振り切れている。
元はと言えば、相対性理論などに出会ってしまった自分が選んだ道なのだ。こんなロマンを一生研究し続けられたらどんなに素晴らしいだろう。確かに素晴らしい。そして現実は厳しい。一生研究するための苦労。拘り続けるための苦労。
どんな職業も楽なものはない。それは分かっている。しかし、その苦労が純粋に研究の本質に関わる事以外の事柄が多すぎるのだ。ロマンを求めるためのロマンチックでない努力。考えても仕方のないこと。それも分かっている。ならば気分転換。せいぜい楽しませてもらうことにしよう。
「気分転換よね。とことん楽しませてもらうわよ。」
レオナはそう呟くと、思い切りアクセルを踏み込んだ。

レオナの道路建設における役割は、簡単に言えば権威の花だった。美人でマスコミにも多少顔の売れている物理学者が設計プランに参加している、それだけである種のお墨付き、そして宣伝効果になると言うわけだ。
そうしたことを代理店の人間はよく考える。地域開発という大義名分に見合った、それ相応の演出。プレス発表に地域社会との交流。仰々しい開通式。つまりはイベント屋だ。如何にこのプロジェクトがその地域の住民、行政、そして地場産業の育成、地域の再開発に貢献しているかをアピールする総合プロデュース。あるいはカモフラージュ。結局、儲けるのは利権を握った奴らだ。住民ではない。
宿泊先のラブラドールに着くと、代理店の福井がレオナを待っていた。福井はレオナ担当のエージェントだった。
「レオナさん、何処にいらしてたんですか。心配しましたよ。」
業界人らしく、いつもアルマーニだ。それなりに着こなしているのだが、レオナのタイプではない。業界がもろに出ているのだ。仕事は出来るのだが、スケベなのだ。
「じゃぁ、明日からのスケジュールのチェックをしておきましょうか。」
と、すぐに意味もないのにレオナの部屋に行こうとする訳である。
「ここでいいでしょ、スケジュールのチェックだけなら。このロビーで。わざわざ部屋まで来てもらっちゃ、悪いじゃない。」
「いや、こんなところじゃ、誰かに聞かれちゃうかもしれないですし、、、」
「誰かに聞かれちゃ都合の悪いことでも話すわけぇ?明日のスケジュール確認するだけでしょ。」
「いや、やっぱりこう言うのは二人っきりにならないと、言いたいことも言えないし、、、」
「何で言いたいことが言えないのよ。明日のスケジュールで言えないことでもあるの?」
「いや、言えないスケジュールなんて、ある訳ないじゃないですか。」
「ならここでいいじゃないのよ。」
「本当にいいんですか?」
「何度言わせるのよ、良いに決まってるじゃない。」
何故か肩をすくませる福井。
「仕方がないなぁ。じゃぁ、今日のところはそう言う事にしときましょうかね。」
何故か恩着せがましい福井。
座ろうとした福井は、何に気が付いたのか、
「あれ、ヒーコー、まだでしたっけ?」
『え?ヒーコー?』
「ズーミー、だけじゃぁねぇ。」
『え?ズーミー?』
と言って、フロントに飲み物を頼みに行ったようだった。
「ヒーコーって何?ズーミーって何?」
業界用語を生で聞くのは初めてだった。
レオナが座っていると、ほどなく、アイスコーヒーを福井自ら運んできた。
「シロップは入れない派でしたよね、レオナさんは。」
そういって、ナプキンを敷き、その上にアイスコーヒーのグラスを置いた。
さりげなく右手で「どうぞ」の仕草をするのが、全然さりげなく見えない。
「ありがとう。」
素直にお礼を言って、レオナはアイスコーヒーにストローを刺した。

「ねぇ、福井君、本当にあんなので良いの?。」
レオナは事前の打ち合わせ事項をもう一度確認した。
「え?あの相対性理論道路のことですか?」
「そうよ、その相対性理論道路よ。『世界初、相対性理論効果を完全に応用した夢の超高速ハイウェイ』ってのよ。」
ストローで氷をかき混ぜながら、レオナは続けた。
「本当に良いのかなぁ?」
「今更、良いも悪いもないじゃないですか。プレス発表は明日なんですから。バッチリ行けますよ。なんといっても今回の目玉ですからね。その名もアインシュタイン・ハイウェイなんですから、ネーミングもインパクトもばっちりですよ。」
福井は自信満々に頷いた。
頷くには訳がある。今回の道路建設の総合プロデュースは福井の代理店が全面的に請け負っていた。総合プロデュースとは、つまりはその建設にかかわるすべての業者の割り振りから予算及び工期の見積もり、地域住民、地方自治体、中央官庁などとのすり合わせ、それらすべての何から何までを取りまとめるのが役割と言う事である。そしてその中でも特に重要となるのが宣伝コンセプトの企画と立案だ。
そこでレオナに目を付けたのが福井だったと言うわけである。
「そこら辺のしょんべん臭いアイドルなんて、もう古いですからね。これからは知性と教養を兼ね備えたキャラクターじゃないと、絶対だめですよ。」
確かに世間では、田丸美寿々や小宮悦子といった、報道番組を担当する女性キャスターが脚光を浴びる世の中になっていた。それまではお堅いイメージしかなかった報道番組に、逆にその知性的なイメージを美貌と結びつけて新しい価値を見出す流れだ。十九や二十の女性アイドルとは対照的な彼女たちが、まるでスターかのようにもてはやされ始めていた。報道とバラエティーの垣根がなくなる時代の到来。時代のちょっと先を行く業界。福井の眼もそんなところを見ていたのかもしれなかった。

「でも、福井君、やっぱり道路と相対性理論は関係ないわよ。」
水を差すようにレオナは言った。
「関係があろうとなかろうと、そんなこと関係ないんですよ。今時ただ道路を作りますって言ったって、誰も盛り上がらないじゃないですか。逆に税金泥棒、なんて言われかねないご時世ですよ。」
福井が煙草を勧めてくる。レオナは吸わないので断ると、福井は軽く頭を下げて火を点けた。タバコはダンヒルなのにライターはカルチェだ。
「逆に、アウトバーン、とか言うだけで、なんかドイツの高速道路って良い感じがするじゃないですか。あんなのただの舗装した道路ってだけですからね。それでも何となくBMWとかアウディとかメルセデスとか、バンバン走っている感じがするじゃないですか。アウトがバーンな訳ですよ。」
確かに、ドイツ語の「アウト」は英語の「オウト=AUTO」だから、「アウトバーン」は「自動車道路」という意味で、それ以上でも以下でもない。それに、BMWもアウディもメルセデスも、みんなドイツのメーカーだから、ドイツの道路を走っているだけだ。
それを知ってか知らずか、構うことなく福井は話し続ける。
「だから、イメージが必要なんです。誰もが納得して夢が見れるようなイメージ。道路建設のイメージ、これが大切なんですから。」
道路建設のイメージ、高速道路のイメージ。それに相対性理論をくっつけよう、というのが福井のプロデュースのコンセプトと言うわけだった。
どんなことでもいいから、と言う事でプロジェクトのコンセプト会議のブレストに参加したのが二か月前。その企画が通ったという知らせが届いたのが、ひと月前のことだ。その時に正式に顧問料としてギャラを提示された。こんなことでお金をもらっても良いのかな、というのがレオナの正直な感想だった。そしてその企画が現実となって明日を迎えようとしている訳である。
「ほら、ポスターだってねぇ、もう完璧ですよ。」
持ってきていた円筒のポスターケースの中から、試作品だというポスターを取り出した。丸まってしまうのを手で押さえながらテーブルに広げる。
「ちょっとそっち、押さえて、レオナさん。」
大きいので、二人がかりでないと広げることができない。
広げるとそこには有名なアインシュタインの舌を出した写真が見える。
「これね、こうして角度を変えてみるとですね。」
福井に従ってレオナも角度を変えてみると、
「あれ、高速道路が見えてきたわよ。」
「でしょ。」
両眼の視点の位置の差を利用して平面を立体的に見せる技法だ。3D立体視などとも呼ばれるようだ。
「まぁ、子供だましみたいなものですけどね、イメージには合っているかなってね、まぁまぁ評判良いんですよ。」
「色々考えるものね。」
レオナは素直に感心した。
「それ程でも。」
福井はまんざらでもない様子である。
その時レオナが声を上げた。
「あれ、何でこんなところに私がいるのよ。」
みると、高速道路の傍らに、レースクイーンの恰好をしたレオナが立っている。
「何よこれ!?この前のスチール写真じゃないのよ。」
そうなのだ、つい先日福井に宣伝用の素材だからと言われて、水着やらラウンドガールやらレースクイーンの恰好をさせられて、写真を撮られていたのだ。
「あぁ、そうですよ。なかなかいいでしょ。高速道路のイメージとぴったりじゃないですか。」
「何よそれ、こんなことに使うなんて一言も聞いていないわよ。」
「あれ、そうでしたっけ。この前の宣伝会議で揉んでたら、やっぱりこれで行こうってなりまして。道路とアインシュタインだけじゃ、色気がないんでね。」
「ちょっと待ってよ、ここまでするなんて、私一言も言ってないんですけど。」
「あれ、言ってませんでしたっけ。肖像権含めて、契約書には盛り込んでいたはずなんだけどなぁ。」
こういう所は、抜け目のない福井だ。
「あなた、契約書に書いてあれば、何してもいいって言うの?」
「そ、そりゃぁ、そうじゃないですか。契約なんですから。それがお仕事なんですから。」
「そんなことわかっているわよ。契約でしょ、仕事でしょ、遊びじゃないんでしょ!」
「えぇ、そうですよ。」
「イメージに合ってればそれでいいんでしょ!」
レオナは福井の口から煙草を取り上げ、灰皿にもみ消した。
「もう、何やらされるかわかったもんじゃないわ。」
福井は一度立ち上がると、背広の襟をおもむろに両手で正し、ゆっくりと座りなおした。
「なら、伺いますけど、このレースクイーンの衣装だって、一体何着着替えたと思っているんですか?」
思わぬ反撃に出る福井に、不意を食らうレオナ。
「色が違うだの、素材が合わないだの、露出が多いだの、逆に少な過ぎるだの。挙句の果てには、『今日はそういう気分じゃないの。』、とかおっしゃってたのは、どこのどちら様ですか?」
「いや、まぁ、それはそうだけど、、、」
「休憩の時、パラソルとデッキチェア、それにバカでっかい麦わら帽子にサングラス用意させたのはどこのどなたですか?」
「いや、まぁ、私だけど、、、」
「照明で肌が焼けるとかいって、日焼けクリーム持ってこさせたのは、何時の事ですか?」
「こ、この前の撮影とその前の前。」
「それを、何から何まで、全部揃えたのは何処の誰ですか?」
「ふ、福井君。」
一息入れる福井。
「そーですよ。全部僕ですよ。何でもかんでも僕ですよ。言われた通りの僕ですよ。上から下まで、ピンからキリまで、何時でも何処でもこの福井がやらせていただきましたよ。」
「そ、そうよ、で、それが、どうしたのよ、福井君。」
「そこまでさせていただいた僕に、何のご不満がこれ以上あるって言われるんですか?」
「いや、不満じゃないのよ。不満なんてある訳ないじゃないのよ。福井君がしてくれてるのよ。私に不満なんてある訳ないじゃないの。だって、福井君なのよ。」
「だったら問題ないじゃないですか。」
そう言うと福井はポスターを片付け始めた。
レオナは、福井が意外に正攻法に強いことに気が付いた。しかし、すかさず閃いた。こういう時は、作戦変更だ。正攻法がダメなら、陽動作戦だ。
「問題はないんだけどぉ、ちょっとだけぇ、相対性理論についてぇ、福井君とぉ、、、」
福井の手が止まる。上目遣いで作戦続行だ。
「ちょっとぉ、もうちょっとぉ、つっこんだぁ、お話がぁ、レオナ、したいかなぁ、折角だからぁ、ちょっとしたいかなぁ、、、」
「何だ何だ何だ、そう言うことなんですね。何だよ、もー、そう言うことなら早く言ってくれれば、もうこんな時間だよ。」
ターゲットはロックオン。もう逃がれる術はない。
「あ、本当だ、もうこんな時間だ。あぁ、折角話したかったのになぁ。福井君と話したかったのになぁ、残念だなぁ、、、」
「いやいやいやいや、間違いました。もうじゃなくって、まだでした。まだまだこんな時間でした。でもここじゃ何があれしてこれなんで、ちょっと場所でも変えましょうか。近くにいい店があるんですよ。」
「え、本当ぅ、福井君とぉ、お話がぁ、出来るのぉ、じゃぁ、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、行ってみようかなぁ、、、」
後は仕上げだ。作戦完遂のためにレオナも立ち上がった。

福井に連れられてきたのは、ミカサというバーだった。カウンターと奥にちょっとの席がある、小さな店だが雰囲気はよかった。バーテンと女の子がもう一人。こうしたところに関する福井の趣味は間違いなかった。
「でもね、あのローレンツ変換自動修正装置の全面装備、なんてどう考えても意味ないんだけどなぁ。」
車のレオナは、レモンスクワッシュを飲んでいた。
「意味ないって言いますけどね、言い出したのはレオナさんですからね。」
福井はヘネシーだ。既にボトルを入れているようだった。
「確かに言ったのは私だけど、まさか本当にそんなバカげたことするなんて思わないもの。」
「どこがバカげているんですか。いいですか。」
子供を諭すような口調で福井は言う。
「理論的に光のスピードに近づけば近づくほど、時間は遅れていくんですよね。そしてその時間の遅れを修正するのが、ローレンツ変換なんですよね。」
「そうよ。」
「だったら問題ないじゃないですか。」
そう言って椅子に座りなおし、座り具合を調節する福井。
「確かにそうだけど、たかが高速道路で時間の遅れが生じるほど速く走れるわけないでしょ。」
福井はヘネシーのオンザロックを一気に呷ると、レオナに向き直って言った。
「いいですか、レオナさん。今日び、クソ面白くもない高速道路作って、一体誰が喜ぶって言うんですか?」
人差し指でトントンとカウンターを叩く。
「何処の誰が金を出すと思っているんですか?そんなんじゃぁ、宣伝費もへったくれもなくなっちゃうじゃないですか。何処の会社だって、どうやって宣伝費ひねり出そうかって、無い知恵絞っているんですよ。」
バーテンに無言で二杯目を要求する福井。
「ローレンツ変換自動修正装置っていうだけで、精密機器メーカー十社が入札してきているんですよ。それも全部宣伝費で落としてもいいから一枚かませてくれって、言ってきているんですよ。
要は、企業イメージに繋がる案件なら是が非でもって眼の色変えてくるんですよ。餌が欲しくてたまらないんですよ。だからこっちは餌をぶら下げてあげなくちゃってね、ウィンウィンな訳ですよ。」
バーテンから二杯目を受け取る福井。
「そういうものかしらね。
それに、あの質量増加自動検知ファジー制御っていうのも、まるで嘘なんだけど。」
「嘘って言った。嘘って言った。今、嘘って言いましね。」
オンザロックの氷をクルクル、人差し指で回しながら福井が言う。
「その嘘言ったのだーれだ?ハイ、あなたですね。」
回していた人差し指で、その人差し指で福井がレオナを指さす。
「その嘘言い出したの、レオナさんですからね。責任取ってもらいますからね。嘘から出たまことにしてもらいますからね。きっちりやってもらいますからね。」
「確かに言い出したのは私だけど、まさか本当にそんなバカげたことするなんて思わないもの。」
氷を回した指を舐めながら福井が言う。
「だからどこがバカげているんですか。いいですか。」
再び子供を諭すように、福井は言う。
「理論的に光のスピードに近づけば近づくほど、質量は増大していくんでしょ。そしたらその増加を検知しないことには、道路がぶっ壊れちゃうじゃないですか。ぶっ壊れないように誰かがきちんと制御しないとだめじゃないですか。」
「確かにそうだけど、たかが高速道路で質量が増大するほど速く走れるわけないでしょ。」
バーテンがキスチョコを差し出した。福井が予め頼んでおいたようだ。キスチョコの銀紙を剥きながら福井が聞いて来る。
「お一つ、いかがですか?」
「ありがとう。」
素直に一つ受け取るレオナ。
「いいですか、レオナさん。質量検知ファジー制御っていうだけで、コンピューターメーカーが二十社入札してきているんですよ。それも全部広告費で落としていいから一枚かませてくれって。
要は、CIなんですよ。コーポレート・アイデンティティーなんですよ。」
「そういうものなのかしらね。」
レオナはキスチョコを頬張りながら、
「それに、あの高速ドップラー効果復元ビジョンなんて、理論的に言ってもでたらめなんだけど。」
福井も負けじとキスチョコを頬張りつつ、
「へはらめっへふった。へはらめっへふった。ヒマ、へはらめっへふった。」
キスチョコをかみ砕き、ヘネシーで流し込んで、福井は言った。
「言うに事欠いて、でたらめって言いやがった。」
間髪を入れず、三杯目を要求する。
「いいですか、それ言い出したのはレオナさんなんですからね。」
「確かに言ったのは私だけど、まさかそんなバカげたことするとは思わないもの。」
「だから何度も言いますけど、どこがバカげているんですか。
理論的に光のスピードに近づけば近づくほど、その色だってドップラー効果で、近づく時と遠ざかる時とでは色が違って見えてしまうんでしょ。そしたら白い車が赤くなったり紫になったりしちゃうじゃないですか。折角塗装に出したばっかりだったら、台無しじゃないですか。そんなこと走り屋にでも言ったら、どうなると思っているんですか。殺されちゃいますよ。」
「確かにそうだけど、それってまるでこじつけなのよね。」
福井は何時の間にか頼んでいたフルーツ盛り合わせをレオナにも勧めながら言った。
「いいですか、レオナさん。光速ドップラー効果復元ビジョンっていうだけで、家電メーカーが五十社入札に来ているんですよ。それも、」
「宣伝費でいいから噛ませてくれって、いうんでしょ。」
「そう、その通り。」
福井は磯辺焼きが食べたいと言い出した。何やらバーテンと交渉している。
レオナはそう言えば、夜の渋谷の東急デパートの前で、磯部焼きの屋台が出ていたっけ、などと妙に懐かしく思った。ちょっと寒くなるころだったろうか。何時の間にか気が付くと、決まったようにその場所に屋台が出ているのだ。とてもおいしそうで、柔らかそうで、バター醤油のかおりと海苔のしなびっぷりが絶妙なのだ。一度は食べたいと思いながら、一度も食べたことがなかったのだ。
いやいやいや、そうじゃない、今は磯辺焼きの感傷に浸っている時ではない。磯辺焼きと東急デパートに別れを告げて、レオナは決然とした口調で福井に言った。
「そう言う事なのね。じゃぁいい訳ね本当に。
『遅れちゃうほど速く着く、夢のアインシュタインハイウェイ、君も光になってみないか!?』
こんなキャッチコピーでいいって言う訳ね。」
「もう最高ですよ。その理論イメージキャラクターがレオナさんなんですから。間違いなしですよ。ですから、今日限りで変な質問はもうなしにしてくださいよ。明日にはもう勝負が始まるんですから。」
磯辺焼きが出てきた。福井に勧められたが、断った。海苔が歯に付きそうだからだ。福井はおいしそうに一口噛むと、持つ手で磯辺焼きを引きちぎった。伸びるお餅が、一層美味しそうに見えた。
「理論イメージキャラクターね。」
「えぇ、多分今回が上手く行けば、次は原発用ダムのキャンペーンにも突っ込めると思いますよ。もしかしたら、衛星打ち上げキャンペーンだって狙えるかもしれませんよ。そしたらレオナさん、田丸美寿々や小宮悦子なんてもう目じゃないですよ。何たって東京電力秋の原発ダムキャンって言ったら、もう物凄い宣伝費ですからね。クライアントだって本腰も本腰ですよ。」
「またそんなこと、調子いいことばかり言って。嘘八百もいい加減にしてよ。」
「そりゃぁ、八百ぐらいじゃぁダメですよ。今回の総工費だって百億は行っているんですから。もう嘘なんて八百億ぐらいついてもらわないと、計算合いませんよ。」
そう言うと、美味しそうに磯辺焼きを口に詰め込んだ。摘まんだ指を舐めるのも、何故か美味しそうに見える。そこにウィスキーを流し込む。微笑ましい贅沢だ。そう考えると、そんな福井も何故か微笑ましく見えてくる。
『そうよね、福井君に悪気はないのよね。自分のため、そして私のためにと、必死になってくれているのよね。』
とは思いつつも、
『でも、疲れるわ。』
「わかったわ。その通りね。じゃぁ、今日はもう休むわ。明日は七時よね。」
「いや、まだ始まったばかりじゃないですか。」
「うん、でも、ベッドが変わって寝付けないと嫌だし。」
「や、それなら僕の枕貸しても良いですし、もんじゃ焼きこれから来るんだし、、、」
そう言う福井の背中に両手を置いて、カウンターの中の女の子に眼で合図を送った。彼女もすぐに状況を理解したようだった。胸の名札には「シノブ」と書かれていた。若くて巨乳だ。これなら福井も文句はないだろう。
するとシノブは、カウンターにあった作りかけのカクテルを胸で押し倒した。
「キャッ!胸がぶつかっちゃったぁ。」
零れ落ちる液体は、福井の眼の前からカウンターを流れ落ちる。
「あ、ごめんなさい。」
「うわっ。」
福井は思わず立ち上がろうとするが、ことは既に遅い。カウンターからおしぼりを持ったシノブが飛んできて、福井を強引に座らせ直し、その股間を掴む。
「いやだ、ビショビショにしちゃって、ごめんなさい。」
「お、わ、あ、」
言葉にならない福井はシノブになされるがままだ。
「うわぁ、靴まで濡れちゃった。でも、この靴、お洒落ですね。イタリア製とかですか。」
「う、うん、まあね、フェラガモね。」
「うわぁ、本当だ、フェラガモだ。フェラガモ履いてる男の人って、初めて見ました。凄ーい。」
案の定、軽いおだてにすぐ乗る福井である。アルマーニがビショビショでもお構いなしだ。
シノブはレオナを振り返り、ウィンクを寄こした。心強い援軍だ。これでミッションは、無事コンプリート出来そうだ。
「靴下履いてないから、拭きやすーい。」
「あ、あそう、拭きやすいんだ。そ、それは良かったね。」
福井とシノブの会話を背にして、レオナはミカサを後にした。

プレス発表の当日は、朝から忙しい。福井は昨夜のことは何もなかったかのように、朝一から仕切りまくっていた。今日のスーツは、ジャンフランコ・フェレのようだった。
「ちょっと衣装さん、こんなドレスじゃぁダメだよ。言ったでしょ、若干イケイケな要素で理論派っていう臭みを取るんだって。もっと挑発するぐらいのに変えないと。」
まずは衣装のチェックだ。
「それとメイクさん、もうちょっとないの、ケバそうなんだけど知性があるっぽい髪型って。考えてよ。」
知性あるっぽい髪形とは何かとレオナも考えてみる。知性に髪型はあるのか。あると言われればそんな風にも思えてくる。
「それから振付師は、呼んでくれているよね。歩き方って重要だからさ。グッと来るキャッチーな歩き方じゃないと足元見られるからね。若干ラップで韻を踏むぐらいだっていいからさ。そういうところはきっちり行こうよ。」
キャッチーな歩き方。振付師とは、そんなことまでするのかと、レオナは初めて知った。
会場となっている県民会館は、既にプレス発表のためのイベンターの仕込みやら機材の搬入やらで、大勢の人たちが忙しそうに行き交っていた。
何やら音楽というか音の断片が、控室にいるレオナたちの耳にも聞こえてくる。
「会場で何やっているの。」
とレオナが聞くと、
「サウンドチェックですよ。」
当然だろ、といった表情で福井が答える。
「バイオリンとか聞こえるんですけど。」
「えぇ、地元のですけど、オーケストラ仕込みましたから。」
「オーケストラ、呼んだの。」
「えぇ、最前列潰して、オケピにしましたんでね。」
「オケピ?」
「逆リハだから、レオナさんはまだ時間ありますからね。」
「逆リハ?」
サウンドチェックに、オケピに、逆リハだ。
「仕込みが押しててケツカッチンだけど、まくってるから、多分オンスケで行けると思いますよ。心配しないでくださいね。」
押したケツがまくるから心配しなくていいのだと、兎に角レオナも安心することにした。
「でもってそうだよな、ファンレターの宛先はうちにしておいて。サインはなしね。警備も勿論つけておいてよ。」
今度はイベンターらしき男に、福井は細かく指示を出していた。音響と照明の係も呼ばれてキッカケの確認をする。
メイクが終わったレオナは、アシスタントと思しき男性から台本を手渡された。
「それと、レオナさん、台本のキッカケは確認しておいてくださいね。」
すかさず福井の指示が飛んできた。
言われるがままに、その台本に書かれているキッカケを必死に暗記する。
「じゃ、行こうか、レオナさん。ランスルーだからキッカケの確認だけ、しっかりやってね。」
連行されるように福井に手を引かれ、レオナは覚えきれていないキッカケの順番を思い起こしながら会場へと入って行った。
「じゃぁ、PAさん頼むね。進行のキッカケでカットインで入ってよ。」
打ち合わせ通り、音が鳴ったら、それをキュー出しと言われるキッカケにして、カミテと呼ばれる舞台向かって右手の、ソデと言われるはじっこから、ピンスポと呼ばれる照明を浴びながら、ステージ中央に出ていくのだ。
「頼むよ、照明さん。ここが今日のクライマックス、イベントのヘソだからね。効果さんもキュー出し見落とさないでね。」
福井が近づいて、レオナにそっと耳打ちする。
「リラックスしてくださいね。本番よりリハが大切なんだから。取り直しなしの本番のつもりでね。」
レオナは次第に高まる臨場感に緊張しながらも、ニッコリと笑って頷いた。
こうなったら俎板の鯉だ、女は度胸だ。こう見えても、結構本番には強いのだ。
台本通り会場が暗転する。同時に一斉に鳴り響くオーケストラ。その瞬間、足が自然に動いた。ピンスポットが袖に立ったレオナを映し出す。指揮者のタクトが見える。
落ち着いている証拠だ。自然と笑みが浮かんだ。
そのタクトのリズムに合わせながら、ゆっくりとレオナは舞台の中央へと歩いて行った。

本番は気が付いたら終っていた。いきなりオーケストラが演奏するローリングストーンズのサティスファクションから始まる趣向を凝らしたプレス発表。招待した地元の住民の数、一万人。地方の名士やら県庁や官庁の役人やらマスコミの取材陣やら、関係者も含めると、大変な人数に膨れ上がっていた。
福井が言った通り、全てはイメージだった。まるで夢のような道路を作り上げる幻想のようなイメージ。ローリングストーンズのミックジャガーのベロに、アインシュタインの舌を掛け合わせた演出だと福井は言うが、それがどれだけ伝わったかは定かではない。ただ、意味ではないのだ。イメージなのだ。人々が持って帰るのは、意味ではなくイメージなのだ。嘘のような本当のイメージ。イメージの一人歩きの始まりだ。
無事プレス発表も終わり、多くの関係者に取り囲まれながら、レオナは妙な気分だった。こうしてにこやかに話をしている自分が、自然と演技をしている。権威の花になり切っている。嘘を本当にする魔力。
「福井君に影響されちゃったのかな。」
そんなことを考えていると、気が付かないうちに独り言を言っていた。
「え、何の話ですか?」
たまたま隣にいた取材記者に聞かれたらしい。
「いえ、こっちの話です。お気になさらないで。」
そんな会話をしていると、遠くに福井が見えた。彼もかなりの人数に取り囲まれている。レオナが手を振ると、福井も気が付いて、人混みをかき分けて近づいてきた。
「お疲れさまでした。」
流石に一仕事終えた様子で、福井も一息ついている感じだった。
「どうだった?」
レオナは待ちきれずに、福井に反応を訊ねた。
「もう最高でしたよ、レオナさん。バッチグー。これでダムキャンも決まりですよ。」
「そう、それは良かったわ。」
何かしら褒められたようで、レオナも素直に嬉しかった。何と言ってもほっとした。
「でも、レオナさん、この後どうしてもって、言われちゃっているんですけど。」
福井が申し訳なさそうに口を開いた。
「何?」
「実は地元の業者がレオナさんのこと気に入っちゃって、この後是非って聞かないんですよ。」
「それって悪いことなの。私は素直に嬉しいんだけど。私って子供っぽいのかしら。」
「いや、普通は問題ないんですけど、コレなんですよ。」
福井はそう言いながら、人差し指を頬を斜めに引いた。
「え?ヤクザなの?」
驚いてレオナは聞き返した。福井は、辺りを見回し、ちょっと声を低めて、
「そうなんです。表向きは建設業ですけどね。どこでもその地域を裏で仕切っているのってのがいましてね。こうした大きなプロジェクトだと、そういう輩に働いてもらわないと、上手くことが運ばないんですよ。」
福井は苦り切って、吐き捨てるように言った。
まんざら業界だけの男ではないのかもしれない。それに今日の福井は本当に頼もしかった。少しぐらい残業したって、安くなる仕事でもない。
「行きましょうよ。明日は何もないんだし。」
「そうですか。本当に申し訳ありません。これって言っても危険はありませんし、すぐに抜けられるように上手くやりますから。」
代理店の人間も大変だ。レオナは少しだけ福井に同情した。

レオナは五分で来てしまった自分を悔やんでいた。
こういう店を、典型的なキャバレーとでもいうのだろう。先日福井が連れて行ってくれたミカサとは大違いだった。ゴテゴテとした装飾、ネオン街のような照明、時代遅れのBGM、柔らかすぎるソファ、そしてその原色。どれをとっても悪趣味だった。
それに輪を掛けたような存在が、その宴会の主催者だった。考和会の関というそのヤクザは、すぐにオデコに脂汗をかくタイプのでっぷりとしたハゲチャビンの典型的なスケベジジイだった。ギトギトでテカテカの嫌らしい視線を臆面もなくレオナのありとあらゆる身体のパーツに投げかけてくる。その視線を感じるだけで、シャワーで洗い流したくなるほどの粘着感だ。
『あぁ、早くホテルに帰って、垢こすりでゴシゴシこすりたぁーい。』
と思って横を見ると、福井が済まなそうに視線で謝っている。しかし、その右手は横に着いたホステスのお尻をしっかりさすっていた。
レオナは少しでも福井に同情した自分を殺したいと思った。男は全くどうしようもない生き物だ。
「バカ!。」
つい、レオナは口走ってしまった。
「アレ?バカ?レオナちゃんにバカって言われちった。レオナちゃんに言われちったら、仕方ないもんにー。デヘ、デヘ、デヘ。」
関は既に酔っぱらっている。レオナのことをチャン付けで呼ぶ。呼び捨てにされるのも時間の問題のようだ。
「そりゃぁー、レオナちゃんにはにー、なんといってもにー、相対性理論だからにー、オイラみたいなのはバカに見えるかもしれないけどにー。」
「いえ、そんな。相対性理論なんて、誰でもわかりますわ。」
と、ついつい嘘を言ってしまった。
「え?誰でもわかるの?え?わかるんだに。そんな簡単だに?じゃぁ、説明してもらうかだにー。ここへ来て、ね、ね、ね。」
と、関は横のシートを指さした。
あんなところに座ったら、体臭まで絡みついて一か月は臭いが落ちない気がする。それはどうしても避けなくてはならない。
助けを求めるように福井を見ると、福井は両隣りにホステスを侍らせ、人生論を語り始めていた。水商売に人生を語るバカ。こんなことしていたらいけないよ、何て言うのなら、お前が真っ先にこなきゃいいんだよ、このバカたれ。
これだから男はバカだ。バカ、バカ、バカの大バカだ。
天は自らを助くる者を助く。レオナは意を決して説明を始めた。

「じゃぁ、説明しますけど、これは座っては説明できないので、立って説明しますね。」
立ち上がると、レオナのスラリと伸びた脚がいやがうえにも目を引く。それだけで関は身を乗り出して来た。
「相対性理論における論理的な帰結の一つとして、時間の遅れ、というものがあります。これは物体が光のスピードに近づけば近づくほど、その物体の経過する時間は遅れていく、というものです。
今日は組長に、この原理をご説明しましょう。」
そう言うと、レオナは片足を机の端に掛けたかと思うと、ガーターバルトを外し、ストッキングを組長の前で脱ぎ始めた。それまでホステスと人生談議に熱中していた福井も、思わずレオナの露になった太腿に注目する。
ゆっくりと両足のストッキングを脱ぐと、レオナは再び説明を始めた。
「いいですか、組長。今このストッキングが、光の軌跡だとします。」
というと、レオナは関にストッキングの片方の端を掴ませた。
「今、組長の手から出た光が真っ直ぐに上へ向かっていきました。そして上には丁度このストッキングの長さの距離に天井があるとします。」
何故か目線を追って上を見上げる組長と福井、そしてホステスたち。
「すると、その光は天井に当たって跳ね返り、再び組長の手元に戻ってきます。これが光の軌跡ですね。」
といって、レオナは片方のストッキングを天井までの行きの光、そしてもう片方を返りの光として、両方の端を組長に握らせた。
レオナは当然、天井側のストッキングの端を持っているので、組長の目の前にはレオナの生の太腿が圧倒的な存在感で迫っていた。
見ると、福井も含めた客の全員が関の後ろからレオナの太腿を眺めている。
「このストッキングが、組長が止まっている時の光の軌跡です。どうぞ、一度ストッキングを手に取って、確かめて見てください。」
言われるがままに組長は両方のストッキングを手に取り、確かめた。
「匂いはかがなくて構いません。」
レオナは組長からストッキングをひったくった。手からすり抜けるストッキングを恨めし気に見つめる組長。
「ではここで、組長が列車に乗っているとしましょう。列車は物凄いスピードで、あちらに走っているとします。」
と言って、店の奥を指さした。
組長たち全員もそちらを向く。
「列車の中にいる組長にとって、組長の手から発した光は、先ほどの止まっている時と同じように、このストッキングの距離を行き来しますね。」
組長以下、店内の客はみな向き直り、素直に頷いた。
「では、これを列車の外にいる人が見たらどうなるのか、これを実験してみましょう。」
レオナは福井を手招きした。素直に立ち上がる福井。
「では、この福井君が、今列車の外で組長の光を見ているとしましょう。」
と言うと、レオナは改めて片方のストッキングの端を組長に握らせた。
「さて今、組長の手から発せられた光は店の奥に向かってものすごいスピードっで走っているわけですから、それを外から見る人にとっては、光が天井に到達するまでに組長は今いるところよりもずっと前方へ行ってしまっているわけです。つまり、ストッキングで表すと、」
と言いながら、レオナはストッキングを斜め上に引っ張りながら、福井と一緒に店の奥とは反対の出口の方に移動した。
「今、組長の手から発した光が光が天井に到達しました。さて、ここから光は反射して床の方向に進むわけです。しかし、その間にも組長は更に前方に進んでいるわけですから、反射した光は更に組長から遠ざかり、離れた地点に着地することになりますね。」
そう言って、レオナはもう一方のストッキングの端を福井の逆の手に持たせ、福井を更に出口の方に移動させた。レオナを挟んで、奥に組長、出口に福井、といった配置だ。
「このように、列車の外から見た光の軌跡は、この引っ張ったストッキングの分だけ光は走ることになります。随分と引っ張られていますよね。」
レオナはそう言うと、掴んでいたストッキングの両端を離した。元の長さに縮むストッキング。ストッキングは組長と福井の方向へ、それぞれ縮む。ストッキングのそれぞれの端を掴んで、眼を見合わす組長と福井。
レオナは組長に歩み寄り、ストッキングを取り上げ、
「しかし、列車の中にいる組長にとっては、ホラ、やはり元のママのストッキングの長さ。」
目の前に戻ってきたレオナに、気圧されそうになる組長。生足で威圧するレオナ。
「つまり、列車の中にいる人の光よりも、外にいる人が見る光の方が、より長い距離を走らねばならなくなります。よって、このことから、非常に速く走る物体の時間は、それを外から眺める人にとっては、より長い時間が掛かってしまうことになる、と言うわけです。」
手にしたストッキングを怪訝な表情で見つめる組長と福井。
「ですから、光のスピードに近づけば近づくほど、その物体の経過する時間は遅れていく。そしてその物体が光と同一のスピードになった瞬間、、、」
溜めるレオナ。付いていけない組長と福井は、キツネにつままれたかのように動けない。
「その時間は止まってしまうの。」
いきなり歌うレオナ。
「 ♪ 時ぃ間よぉ、止まれぇ~~~ ♪ 」
構わず畳み掛けるレオナ。
「それでは更に実験を進めて、今、組長が光のスピードで走っているとしたらどうなるでしょうか。」
レオナは再び組長にストッキングを握りなおさせた。
「組長は今、光のスピードで走っていますから、組長の手から発せられた光は、なかなか天井にたどり着けません。」
ストッキングの逆の端を持って、ゆっくりとレオナは店の出口の方向へ引っ張っていく。
「まだつけません。」
さらに引っ張る。
「まだまだ着けません。」
更に強く引っ張る。思わず組長のストッキングを握る手にも力が入る。
「でも、着けない。」
もっと引っ張る。徐々に離れる。ストッキングの所々が破けていく。
「でも着けません、だって組長は光のスピードだから。」
ストッキングがさらに破ける。
もう組長も意地になって離さない。
「でも着けない。光は天井には届かない。」
今にもストッキングが千切れそうになったその瞬間、レオナの逆の手が出口に届いた。
「そして時間は止まってしまうのよ。」
歌う。
「 ♪ 時ぃ間よぉ、止まれぇ~~~ ♪ 」
最後の一撃とばかり、もう一度さらに引っ張るレオナ。
ストッキングが裂けて破けた。思わず後ろに倒れる組長の姿が見える。それを確認してレオナは呟いた。
「今日の講義はこれで、お・し・ま・い。」
そう言うと、千切れたストッキングを放り投げ、レオナは一目散にドアの外へ走り出していった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

坊主女子:女子野球短編集【短編集】

S.H.L
青春
野球をやっている女の子が坊主になるストーリーを集めた短編集ですり

俺と公園のベンチと好きな人

藤谷葵
青春
斉藤直哉は早川香澄に片想い中 公園のベンチでぼんやりと黄昏ているとベンチに話しかけられる 直哉はベンチに悩みを語り、ベンチのおかげで香澄との距離を縮めていく

坊主頭の絆:学校を変えた一歩【シリーズ】

S.H.L
青春
高校生のあかりとユイは、学校を襲う謎の病に立ち向かうため、伝説に基づく古い儀式に従い、坊主頭になる決断をします。この一見小さな行動は、学校全体に大きな影響を与え、生徒や教職員の間で新しい絆と理解を生み出します。 物語は、あかりとユイが学校の秘密を解き明かし、新しい伝統を築く過程を追いながら、彼女たちの内面の成長と変革の旅を描きます。彼女たちの行動は、生徒たちにインスピレーションを与え、更には教師にも影響を及ぼし、伝統的な教育コミュニティに新たな風を吹き込みます。

坊主女子:学園青春短編集【短編集】

S.H.L
青春
坊主女子の学園もの青春ストーリーを集めた短編集です。

ムーンダスト

晴菜
青春
「僕が、いや俺がこの子の親だ」 これは、何をやっても上手くいく器用貧乏昼行灯のヒロと人付き合いが得意だけど強情なツキネと、彗星の子供カナメとの偽りの親子の物語

坊主女子:青春恋愛短編集【短編集】

S.H.L
青春
女性が坊主にする恋愛小説を短篇集としてまとめました。

最近の綾瀬さん

青羽 藍色
青春
最近の綾瀬さんは、なんだかおかしい。

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

処理中です...